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2004年06月05日
日本人ジャーナリストの銃撃死は何を投げかけているのか
事件の第一報は、現地時間の5月28日午前0時40分ごろだった。前日のファルージャ取材とその整理に疲れきって眠っていた私は、携帯電話の音に起こされた。相手は、いつも日本へ映像を送る映像送信会社のイラク人スタッフだった。「日本人ジャーナリスト2人が襲撃されたというニュースが飛び込んできたが、あなたには心当たりはないか」という問いだった。眠気から覚めない私はそのニュースを半信半疑で聞いた。「単なる噂かもしれないし、彼は他の外国人ジャーナリストの事件を、仕事上付き合いも多く、知人もいる『日本人ジャーナリスト』と決め付けているのかもしれない」と思ったのだ。しかしこんな夜中に、それほど親しくもない彼から突然、電話がかかってくるのだから尋常ではないと不安もあった。たぶんその「日本人ジャーナリスト」が私ではないかと心配し、その確認のために電話してきたのかもしれない。しかし私は眠気に負けてそのまま寝入った。
それから30分ほどたった頃、また携帯電話が鳴った。今度は横浜の連れ合いからだった。ほぼ毎日メールの交換はするものの、この3週間一度も電話を掛け合うこともしなかった彼女からの突然の電話に、「先ほどの電話の話はほんとうなのだ」と直感した。私の友人の共同通信のデスクから電話が入り、事件を知らされたという。「土井さんは他の日本人と行動されることはないでよすね」と尋ねられ、不安で居ても立ってもいられず電話したと連れ合いは言った。私の声を聞いて安心したのか、最後は泣き声になっていた。
その共同通信のデスクから電話が入ったのは、その直後だった。彼は事件のあらましを私に語り、「サマワに行くと言って共同通信のバグダッド支局に立ち寄ったフリージャーナリストの橋田信介さんと助手の小川功太郎さんが襲われた可能性がある。2人は同じホテルに泊まっていたと聞いているので、レセプションで彼らがホテルに戻っているかどうか、確認してほしい」という要請だった。
前日の朝7時前、2人が朝食を終え通訳、運転手と共にホテルを出ていく姿を私は朝食を取りながら見ていた。それが2人を見た最後だった。
私が1階のロビーに下りると、すでに共同通信の記者がホテルのスタッフに事情を聞いていた。深夜担当のそのスタッフは、「まだ2人は戻っていない。サマワで行って明日戻ると言っていたんです」と答えた。共同通信の記者によれば、2人はサマワを昼ごろ出たという情報が入っているという。ということはバグダッドへの帰路、彼らが襲撃された可能性がある。いったん引き上げたその記者からまもなく電話が入り、通訳として同乗していたイラク人の家族の電話番号をホテルのスタッフに訊いてほしいという要請があった。電話番号を記者に知らせると、まもなく彼から再び電話が入った。その通訳の奥さんによれば、「夫は事故に会い病院に入院しているらしい。同じ車に乗っていた日本人らしい人たちが亡くなったようです」との返事だったという。襲撃されたのが橋田さんと小川さんであることは、ほぼ確定的となった。その後、もたらされた情報は「橋田さんは死亡、小川さんは負傷。しかし小川さんも危ない状態」という絶望的なものだった。
私が5月9日にバグダッド入りし、イラク取材の定宿にしている「アル・サフィール・ホテル」に着いたとき、他に1人だけ日本人の先客がいた。それが小川功太郎さんだった。
このホテルの2階にある「インターネット・カフェ」で小川さんとよく隣同士で並んでパソコンに向かっていた。持参のパソコンで通信できる机は2つしかなく、もう1ヵ月近くこのホテルに滞在する小川さんの“指定席”の隣の席が、私の“指定席”となったからだ。まもなくお互い話を交わすようになった。彼はビデオカメラで取材し、その映像を日本のあるテレビ局の報道番組に送信したり、雑誌に記事と写真を送る仕事をしているという。つまり私の同業者だった。日本中がイラクでの日本人人質問題で大騒ぎし、政界や右翼メディアでフリージャーナリストNGO関係者者の「自己責任」が声高に叫ばれていたその真っ最中の4月半ばに、彼は空路アンマンからバグダッド入りしたという。
私は4度目になる今回のイラク取材の主眼を、米軍によるファルージャ包囲攻撃の実態、イラク人囚人虐待問題に絞っていた。しかしこの30代前半の若いジャーナリストは、私が目指す同じテーマをずっと先行して取材し、報道していた。
停戦協定によって米軍による包囲網が解かれたファルージャへ日本メディアとして最初に入って取材し、いち早くその実態を報道したのは朝日新聞の川上記者だった。しかし実は同じ日に、小川さんもファルージャに入り、現場を取材し撮影していたのだ。映像メディアとしては彼が最初の取材者だった。その日にすぐに報道番組に映像を送ったが、残念ながら、何かの緊急ニュースのために放映が延期され、結局、「朝日」の記事が「日本メディアとして初めて現地に入り、取材した」報道となった。「もしあの時、緊急ニュースがなく、予定通り5月5日に放映されていたら、『朝日』もああいうふうに書けなかったのに」と、無口であまり感情を表に出さない小川さんが、珍しく感情を露にし残念がった。
イラク人囚人虐待問題も、彼はすでにずっと先を行っていた。囚人虐待の中でも最も深刻で、イラク人に限らずアラブ世界を激怒させ反米感情を決定づけたのが、「米兵による女性囚人レイプ容疑」である。レイプされ妊娠した元女性囚人が、「家族の尊厳を傷つけた」として父親や兄弟に殺害される事件まで起こっているというこの問題は、取材が最も難しいテーマの1つだ。聖職者たちでさえ、直接会って当人たちに事情を聞くことができないほど微妙な問題であり、ましては外国のジャーナリストが当事者を直接取材することは不可能に近い。そんな困難な問題を、根気強く追い続けてきた小川さんは、私に「被害者の親族まではたどりついたんです」と語って私を驚かせた。
小川さんのそんな取材の進み具合をときどき耳にしながら、若い彼の鋭いニュース感覚と、フットワークの軽さに舌を巻いた。アブグレイブ刑務所で囚人が解放される現場に立会い撮影、統治評議会議長の襲撃事件の現場にもいち早くかけつけ映像を日本に送った。フットワークも重くニュース感覚にも乏しい私は、30代前半のこの若いジャーナリストにライバル意識と、畏怖の念さえ抱きはじめていた。
小川さんから経歴を聞いたとき、この若い青年の“ジャーナリスト”としてのその能力を「なるほど」と私は納得した。彼は10年間、NHKでディレクターとして鍛え上げられ、ニュース感覚、取材や表現手法の基礎をきちんと身につけていたのである。
「10年間もいたNHKをどうして辞めてしまったんですか。もったいない」と訊くと、小川さんは「みんなにそう言われます。しかし自分がほんとうにやりたいことと違う気がしたんです。それに僕は、海外で暮らしたかったんです。NHKに残っていたら、その機会はありませんから」と答えた。
昨年夏、NHKを退社し、その後、カンボジアの旅行会社に勤務したという。しかしその仕事にもあまり情熱が持てず、バンコク在住のフリージャーナリストで叔父の橋田信介さんの助手として働くようになる。3月、小川さんはイラク入りする橋田さんに同行して初めて現地入りした。
「この仕事をやってみて、面白さがわかってきました。たぶんこれからもこの仕事を続けていくと思います」とフリーのジャーナリストとして生きる決心を固めつつあることを、夕食を共にしながら小川さんは私に語った。
その小川さんの死がほぼ確実だという情報が共同通信の記者から私に連絡が入ったのは、28日の正午近くだった。
私はそのニュースを日本各新聞社のインターネットで確認するために、急いでホテル2階のインターネット・カフェへ駆け下りた。一昨日まで、私の隣の“指定席”には決まって、タバコをふかしながらパソコンの画面を見つめ、黙々とキーボートを叩く小川さんの姿があった。その席に近づくと、いつも彼は仕事の手を休めて振り返り、「ああ、こんにちは」と短くあいさつをし、またパソコンに向かった。しかしもうそこには彼の姿はなく、がらんとした空席のままだった。いつも見ていた小川さんの姿がないその空席の机を見つめながら、私は初めて、彼はほんとうに死んでしまい、もう2度とその姿を見ることがないことを実感した。急に熱いものがこみ上げてきた。
どのような組織が、なぜ彼らを銃撃したのか。「読売新聞」(5月29日班)社説は、「事件は、犯行グループがまだ特定できず、日本人を狙ったのかどうか分からない。だが、自衛隊のイラク派遣と関係づける問題ではない」と言い切っている。何を根拠に、そう断言するのか。私の現場での取材体験からは、むしろ逆に、イラクへの自衛隊派遣によってアメリカの占領支援の姿勢をイラク国民に公然と示した日本政府の政策が、4月の人質事件と同様、今回の事件にも大きな影を落としていると言わざるをえない。
米軍の包囲攻撃によって700人を超える住民が殺害され1500人近くが負傷したファルージャを5月初旬に取材したときのことだ。急遽、サッカー場に設けられた集団墓地で、私が日本人ジャーナリストだと知った男たちが周囲に集まってきた。その1人が激しい口調で私にこう訴えた。
「私たちイラク人はどんな国からの人も受け入れます。しかし軍隊だけは絶対送らないでほしい。あなたたちが軍隊を送るなら、私たちはその軍隊と闘う。軍隊を送るどんな国でも、私たちたちの敵なのです。イラクに軍隊を送る国はアメリカと同様、犯罪者なのです。アメリカという犯罪者のパートナーなんですよ」
今回の襲撃現場で、この言葉をほうふつとさせる運転手の証言を共同通信が伝えている。
「犯人らは現場を立ち去る際、イラク人運転手を『米国の手先』と呼び、殺害する機会がありながら逃走を許した。イラク人記者は『駐留米軍と連合国軍に反発する勢力の犯行だ。外国人に対しては容赦なく攻撃する一方、イラク人には警告でとどめている』と分析した」(共同通信5月29日版)
もし日本が自衛隊派遣でアメリカの占領支援の態度をこれほど明確にしなければ、日本人ジャーナリストが襲撃されることはなかったかもしれない。ある意味では今回のジャーナリスト襲撃事件は、日本政府の自衛隊派遣の一結果だった可能性は十分ある。
一方、今回の事件によって「危険地域でのフリージャーナリストの無謀な活動を規制すべきだ」という声も高まるだろう。しかし危険地域だからこそ、ジャーナリストは現場に入り、その現状を伝えなければならない。それを止めろというのなら、「ジャーナリストは仕事を止めろ」ということになる。たとえ少々の危険は伴っても、現場を踏み、その状況を記録し、現場で生きる人々の生の声を拾い伝えることがジャーナリストの仕事だと私は考えている。その仕事のために、時には今回のように、不幸な事故もありうるだろう。だからと言って、「ジャーナリストは現場へ行くな」というなら、「交通事故が増えているから、国民は車の利用を止めろ」という陳腐な議論と同じだ。
橋田さんや小川さんは、もし自分たちの殉職がそのような議論作りに利用されるとしたら、一番無念にちがいない。むしろ「自分たちの屍を乗り越えて、ジャーナリストとしての本来の仕事を続けてくれ」と我われ、生き残っているフリージャーナリストたちに叫んでいると私は思う。
イラクの現場で事実を伝えようとした2人の“ジャーナリストとしての志”と、その途上で命を絶たれた“無念さ”を、我われ、生き残った者たちが引き継いでいかなければならない。それが同志としての、2人への精一杯の供養だと思う。
投稿者 doitoshikuni : 2004年06月05日 01:17