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2004年12月24日
イスラエル軍5月大侵攻の爪あと04.夏取材
いまパレスチナはどうなっているのか
――イスラエル軍5月大侵攻の爪痕が癒えないラファからの報告――
土井敏邦
(なぜ今、ラファか)
パレスチナ情勢が混沌としている。メディアでも、戦後なお混乱が続くイラクの報道の影に隠れて“パレスチナ”は断片的にしか伝えられないため、いっそう状況がつかみにくい。だが、イラクの行方を含む中東
情勢は、“パレスチナ”抜きに語れない。
挫折した“オスロ合意”に代わる新たな中東和平へ指標として、昨年春、アメリカのブッシュ大統領が打ち上げた「ロードマップ」構想も、イスラエル政府による“分離壁”の建設や、ヨルダン川西岸地域でのユダヤ人入植地拡張へのアメリカ政府の承認などによって、いまや死に体にある。一方、イスラエルのシャロン首相は、昨年暮、ガザ地区からの入植地撤退案を打ち上げたが、極右勢力だけではく、与党リクード内部の右派勢力からも猛反対を受け、来年の実現は危ぶまれている。だが、このガザ地区撤退の見返りとしてヨルダン川西岸地区の大半のユダヤ人入植地が維持され、パレスチナ国家建設の夢はいっそう遠ざかることになることはほとんど語られていない。
他方、パレスチナ人内部でも、アラファトの権力維持への執着、自治政府の腐敗は相変わらず続き、ガザ地区では、「改革」の名の元に、アラファトの対抗勢力による治安当局幹部の拉致など「反乱」も動きもみられるが、その背後にいる人物はアメリカから潤沢な資金受け、「金で忠誠を買う」という“アラファトの政治手法”を踏襲している。
このような八方塞がりのパレスチナ・イスラエル情勢のなかで、もっとも深刻な混乱のツケを払わされているのが、パレスチナ人民衆である。とりわけガザ地区では、多くの住民がインティファーダ以後強化されたイスラエルの封鎖政策によって仕事を失い、経済的にもどん底状態にある。さらにエジプトとの国境に面する街ラファでは、ガザ地区をエジプトから切り離そうとするイスラエルの政策遂行のために国境沿いの住民の家屋破壊と住民の強制移動が続いている。
それを象徴する事件が、5月中旬のイスラエル軍によるラファ大侵攻であった。およそ2週間で60人近い住民が殺害され約530軒の家が破壊されたこの侵攻で、何が起こったのか。事件から2ヵ月半後、被害が集中した地区の現場を訪れ、被害の実態を検証した。
(今も家屋破壊が続くラファ)
取材の拠点として選んだのは、ラファの中心街に位置する3階建のビルの最上階の部屋だった。ラファの街は昼夜を問わず、断続的に銃撃音が響き渡る。大半が国境沿いのイスラエル軍監視塔から撃つ威嚇のための無差別銃撃である。私の部屋の南側数百メートル先は軍監視塔のある国境で、その間に遮断物がないため、銃弾が国境側から直接、部屋に撃ち込まれる可能性もある。銃撃音があまりに近いときは、反射的に身をかがめてしまう。見晴らしのいいバルコニーはとりわけ危険だ。
夜中になると、銃撃はいっそう激しくなる。機銃掃射の耳をつんざくような銃声に、「ドーン!」という戦車の砲撃音や武装ヘリコプターからのロケット弾による爆破音が混じることがある。そんな夜の翌朝には決まって、現地で雇ったアシスタントが「イスラエル軍が侵攻し、国境沿いの民家数軒を破壊した」というニュースを伝える。
8月2日の夜中も激しい砲撃音の街中に轟き、何度も目を覚ました。果たして、イスラエル軍は国境沿いの難民キャンプの一角に侵攻し、8軒の民家を破壊していた。「武器密輸に使われるエジプト側とのトンネルを破壊するため」というのがイスラエル軍側のいう侵攻の理由だという。
イスラエル軍が撤退して3日後、現場に入った。3日前まであったコンクリートとブロック造りの家々は瓦礫の山と化し、その中で住居を失った家族が瓦礫を手でかきわけ、埋もれた衣類や家財道具を探しまわっていた。イスラエル軍の戦車とブルドーザーは夜中に突然やってきて、家財道具を外に持ち出す時間も与えず家々を破壊したという。
「ここへ来て見てください。これが私の家です」。
2階建ての家を完全に破壊されたというヤセル・ジュウダ(33歳)は、カメラを抱えた私を破壊され崩れた家の中へ導いた。土砂の一部が音を立てて崩れ落ちている。
「イスラエル軍はここにトンネルがあるという。しかしこれがトンネルですか」。
ヤセルはコンクリートの床を指差しながら訴えた。「私たちはすべてを失いました。冷蔵庫も携帯電話も、家具も、すべてです。この瓦礫の中から何も取り出せません」
さらに家族が避難している隣人の家へと私を案内したヤセルは、ベッドに寝入っている2歳の息子を指差して言った。
「この幼児がテロリストでしょうか。いったいどちらがテロリストですか、この子ですか、それとも戦車を操る者たちですか。なぜこの子が今眠っているのか、わかりますか。銃撃音に怯えて2日間、眠っていなかったんです」
(5月大侵攻で生活を奪われた人々)
このような家屋破壊は、ラファでは5月の大侵攻以後も連日のように起こっているが、世界のメディアはもうほとんど伝えない。当時メディアがトップニュースとして伝えた5月の侵攻に比べると破壊された家屋や犠牲者の数が小さく、また「新鮮味」に欠け、「ニュース価値」がないからだろう。一方、5月の大侵攻も、民衆デモへのイスラエル軍の砲撃など一部のセンセーショナルな事件が断片的に伝えられただけで、その全貌は見えてこない。いったいあの時、ラファで何が起こったのか。住処を失った3000人を超える住民たちはその後、どうなったのか。
5月12日、国境の家屋を爆破するために大量の爆発物を運搬していたイスラエル軍の装甲車がパレスチナ人武装グループのロケット弾攻撃をうけて大爆発を起こし、6人の兵士全員が死亡した。イスラエル軍は直ちに周囲の難民キャンプに侵攻し、15日までの4日間に100軒の民家を破壊し、2人子供を含む14人を殺害した。この家屋破壊で221家族、1308人がホームレスとなった(「パレスチナ人権センター」の調査より)。侵攻はそれだけには終わらなかった。
5月18日、イスラエル軍は武装ヘリコプターや戦車、ブルドーザーで再びラファに侵攻した。このとき、難民たちが再移住した新住宅区のタルスルタン地区が完全に封鎖され、また東部、国境沿いの難民キャンプ、ブラジル地区で大量の家屋が破壊された。封鎖されたタルスルタン地区の住民の救援のためにデモが武装ヘリコプターと戦車で攻撃され、多数の犠牲者を出したのも、この時である。24日まで1週間続いた第2次侵攻によって破壊された家や犠牲者はさらに増え、結局、5月12日から24日までのおよそ2週間で、死者58人(12人が子供)、負傷者およそ200人(ほぼ半数が子供)、全壊と部分破壊を含め、531軒の民家が破壊され、561家族、3352人がホームレスとなった(同じく「パレスチナ人権センター」の調査より)。
イスラエル軍のスポークスマン、エリック・スーデル大尉はこの侵攻の理由を次のように説明した。
「2つの作戦を行うことが目的でした。1つは兵士の遺体の捜索です。遺体の部分が周囲に広く散乱していたために、その収容のために2日間を要しました。もう1つの目的は、パレスチナ人がエジプト側から武器を密輸するために使っているトンネルを破壊することです。この作戦のなかでパレスチナ人の家屋も破壊されましたが、その中にはすでに捨てられ住民が住んでいない家も多くありました」
だが破壊された家々は「空家」ではなかった。その住民たちは住処を失い、中には3ヵ月近く経ってもテントやバラック小屋で暮らしている住民もいた。
最も家屋破壊の被害が大きかったブラジル地区の中心部の一角、瓦礫も取り除かれ、広い更地になっているかつての家の跡地小さなバラック小屋2つとテント2つが建てられていた。8月は日中40度近くなる猛暑のなか、そのテントとやバラック小屋に、かつてここにあった家の住民たちの“住居”だった。バラック小屋の中は4畳半ほどの広さで、テレビとベッド、それにガスコンロなど簡単な台所用品、寝具が所狭しと詰まっていた。主の白い髭の老人、アブドゥルハリーム・アブハミード(65歳)が他のテントと小屋を案内した。かつてのテントの中にシャワールームや簡単な台所を作って、20代の娘たちも暮らしていたが、あまりに危険なため、テントを出ていかざるをえなくなった。
「イスラエル軍の銃撃があるためです。息子でさえ怖がるのだから、娘たちはなおさらのことです」
とアブハミード老人は薄汚れたテントの中で説明した。
「それで娘たちのために家を借りました。その費用は支援してくれる人に頼っています。だから今、家族はばらばらになって暮らしています。このテントに寝泊りしている息子たちはヘリコプターや戦車の音を聞くと、すぐにここから逃げます。こんなテント小屋さえイスラエル軍の銃撃の標的になるんです。誰もこんなテントに暮らすことはできませんよ」
借家も借りられず、市営のサッカー・スタジアムの建物の中で暮らす家族もいる。今年1月に家を破壊されたケシュタ家には一時避難できる兄弟や親戚や隣人の家もなかった。彼らの家もまたすでに破壊されていたからだ。途方に暮れる一家に市役所が提供したのが、スタジアムの階下の10畳ほどの倉庫だった。窓が1つあるだけ、3方は壁に囲まれた密室、ここに12歳の息子を頭とする6人の子と両親の8人のあらゆる家財道具が押し込められている。部屋の1方の隅にはマットレスや毛布など寝具と子供たちの衣類が山のように積まれ、もう片方にはガスコンロ、鍋、食器などが場所を占め、真ん中のわずかな空間に家族8人が重なりあうように寝る。小さな窓を開けても、真夏の猛暑で部屋の中は蒸すように暑い。しかし窓やドアを開けっ放しにもできない。サッカー場に出入りする人々たちに、部屋が丸見えになってしまうからだ。
さらに深刻な問題なのが、トイレとシャワーだ。サッカー場には公衆トイレしかない。とりわけアラブの成人女性にとって、人通りの激しく男女の区別もない公衆のトイレで用をたしたりシャワーを浴びなければならないことはるのはなによりも辛い。34歳の母親ナビラは、部屋の中で身体を洗っている。
家を破壊されるということは単に住処を失うということに終わらない。ナビラに大きな精神的打撃を与えているのは、生まれた時から何十年も住み慣れた地区の親や隣人たちのコミュニティーから切り離されてしまったことである。生活が苦しくても、強い絆で結ばれた大家族やコミュニティーの中で支えあって生きてきた難民キャンプの住民たちにとって、その生活空間を失うことは深刻な事態である。「私はここに来てもまったく隣人がいません。家から通りに放り出されたも同然です」とナビラはいう。しかしすでに住み慣れたコミュニティーはイスラエル軍に破壊されてもう跡形もない。かといって、家を再建する資金もない。ケシュタ家がこのスタジアム暮らしから抜け出せる見通しは当分ない。
(突然の破壊)
国境から415メートルも離れたムスタファ・ハファジャ(42歳)の家の近所にイスラエル軍のブルドーザーと戦車がやってきたのは5月20日の午前4時ごろだった。6人の子供と老母たちはまだ眠っていた。ブルドーザーは周囲の家々を破壊したのち、突然、ムスタファの家の背後から破壊し始めた。家族を起こし、ムスタファは白旗を揚げて外に出ようとしたが、ムスタファたちに向かって銃撃してきたため、戸口から出られなかった。一家は反対側の2メートルほどの壁を乗り越えて、隣の叔父の家に逃れるしかなかった。子供たちや老母を先に越えさせ、妻(36歳)が最後に越えようとしたとき、狙撃兵に脚を銃撃された。倒れる妻をかかえ避難しようとしたとき、ブルドーザーに押された壁が崩れ、瓦礫がムスタファの右肩と頭を直撃し、反対側の家の壁に右肩を激しく打ち付けられた。動けなくなったムスタファと妻を叔父の家族が引っ張り出し避難させた。
突然の破壊だったために、ムスタファの家族は、衣類など生活用品や、配管工の仕事のために道具や資材だけでなく、金やゴールド、身分証明書など貴重品も瓦礫の下敷きとなった。携帯電話さえ持ち出す余裕がなかった。一家は全てを失った。
3ヵ月が経った今、一家は倉庫の1階を借りて暮らしている。妻は今も複雑骨折した大腿骨を金具で固定し、ベッドでの生活を続けている。一方、ムスタファは肩の痛みが続き、リハビリに通い続けている。配管工の仕事も長時間続けることができない。一方、家事や子供の世話も動けない妻に代わってムスタファがこなさなえればならない。生活費を稼ぐための仕事もできない。家賃の120ドルの4か月分は、大半をUNRWA(国連パレスチナ難民救済救済事業機関)が支払うことになっているが、まだ受け取っていない。ムスタファは家族の生活を支えるためにも一日も早く働きたいと願っている。しかし肩の治療のリハビリに今なお通い続けるムスタファには、それがいつ実現するのかわからない。
イスラエル軍スポークスマンは家屋破壊の理由を「パレスチナ人がエジプトから武器を密輸しているトンネルを探すため」だとしている。
しかし5月の大侵攻で家屋破壊の最も大きな被害を受けたブラジル地区の住民の中には国境から遠く地区に住んでいた者も少なくない。
「あれが国境です。あそこから私の家まで500メートルも離れています」
と、アラー・バナット(32歳)は大通りの南側、砂山の向こう側を指差した。さらにその通りから西に10メートルほど入った場所まで歩き、破壊された自宅跡の更地に立った。
「これが私の家です。500メートルも離れたこの地区にトンネルがあったのかどうか考えてみてください。まったく不可能です」
アラーは父親が残してくれた家を改造し、大金をはたいて寝室の家具、冷蔵庫、洗濯機もソファなどの家具一切をほんの1年前に買った。改築が終わったのは、去年12月だった。しかしその家をイスラエル軍は5ヵ月後にブルドーザーで完全に破壊してしまった。家具どころから衣類、妻の貴金属さえ持ち出す時間もなかった。
ブラジル地区よりさらに北側、国境から1.2キロもあるガザ唯一の動物園も戦車とブルドーザーによって破壊された。動物の檻はほとんど破壊され、ジャガーやニシキヘビなど危険な動物が街に逃亡し、逃げ遅れた動物は瓦礫の下敷きとなった。その被害額は20万ドルにも及んだと経営者のモハマド・ジュマ(40歳)はいう。
「なぜ国境から遠く離れた動物園が破壊されたと思うか」という問いに、モハマドは、
「ここには人がいつもで出入りし、パレスチナ人の武装勢力が活動できるような場所でもない。なのに、なぜ破壊されたかって?その質問に答えられるのはイスラエルの国防省で、私ではない」
と憮然として答えた。
国境近くならともかく、数百メートル、1キロを超える距離にある家や施設を破壊したのも「武器密輸のためのトンネルがあったから」といえるのか、私はその疑問をイスラエル軍スポークスマンにぶつけてみた。
スーデル大尉はこう答えた。
「インティファーダが始まって以来、この4年間の間にパレスチナ人のテロリストたちの武器製造やトンネル造りの技術は進歩しています。テロリストたちは以前より深く、またより長いトンネルを掘れるようになっているのです。だから国境から800メートルも離れたところからトンネルが掘られていても少しも驚くことではありません。
一方、民家の中からテロリストたちが対戦車砲、ロケット弾、手榴弾などでイスラエル軍に激しい攻撃を行います。国際法によれば攻撃に利用される民家は他方の反撃から保護される権利を失います。我われは敵の攻撃に応戦します。これはもう戦闘なのです。テロリストがその民家を攻撃の拠点に使うことで戦闘に巻き込んだのです。
さらに道路にテロリストたちが仕掛け爆弾を敷設している可能性があるため、我われは道路を掘ってその導火線を切断するか、沿道の建物を壊し道路を迂回することもあります。我われの兵士が安全に作戦を遂行するためにそうせざるをえないのです。
動物園の場合も、その周囲の道路に仕掛け爆弾があるのを警戒して、兵士たちが安全に通過できるようにするために、道路を迂回して動物園の中を通過したのです」
しかし、常識的に見ても、破壊された家よりずっと国境に近い家々が数百件もあるのに、何倍、何十倍もの労力、費用、時間がかかる遠い場所からトンネルを掘るとは考えにくい。またパレスチナ人の住民が車や徒歩で日常的に往来する道路に武装勢力が仕掛け爆弾を敷設しているという説明も説得力がない。さらに住民のいる民家から武装勢力がイスラエル軍に攻撃をするというのも、考えにくい。そうすれば報復としてその民家が破壊されることをこれまでの経験から熟知している住民たちが武装グループにそれを許すわけもなく、また武装グループ自身も住民を巻き込むことを前提とした攻撃を敢行すれば住民の反発を買い支持を失うことは熟知してはずだからである。
家を破壊された住民たちの証言からも、破壊直前に周辺で銃撃戦が行われていたという証言はまったくなかった。インタビューした数十人の被害家族のほとんどすべてが、「夜中、家族が眠りについていたとき、突然、戦車とブルドーザーがやってきて家を破壊し始めた」と証言している。
むしろ被害者の1人、先のアラーの「たくさんの家々が密集するこの地区を破壊したかったから」という主張がより説得力がある。
「私たちの地区には12軒ほどの家がありました。イスラエル軍がそのうち数軒を壊したら、他の家族は恐れて逃れます。実際、たくさんの住民が難民キャンプから逃れました。それは1948年のデールヤシン村の虐殺事件と似ています。パレスチナからアラブ人の村人を追い出すためにイスラエル軍はデールヤシン村の住民を200以上虐殺した。そのニュースがパレスチナ中に広がると、ほかの村人たちも恐怖心でパニックになり村を離れていった。それと同じようなことが今、ラファで起こっているのです。これは一種の住民の強制移動です」
(狙撃兵に頭を撃ち砕かれた姉弟)
5月12日から15日までラファを侵攻し家屋を破壊したイスラエル軍は、18日未明から再び大規模な侵攻を開始した。今度は東部のブラジル地区と共に、これまでイスラエル軍の侵攻を受けることのほとんどなかった西部の新興住宅街タルスルタン地区が標的となった。なぜか。イスラエル軍スポークスマンは「密輸トンネル掘削の黒幕たちがタルスルタン地区にいます。我われはその連中たちを拘束するためにこの地区に入ったのです」と説明する。一方、住民の中には「国境付近でイスラエル軍に抵抗した武装グループが、比較的安全だと見られていたタルスルタン地区に逃れているという噂が流れたためだろう」と言う声がある。
午前3時、グシュカティーフ入植地からタルスルタン地区に侵攻したイスラエル軍は、4箇所の入り口全部を戦車で封鎖し、全域を制圧した。高い建物に狙撃兵を配備し、ブルドーザーによって家屋や道路、水道管、下水管、電話線、生花や野菜が栽培されている温室などが次々と破壊されていった。午前4時ごろには、早朝、モスクへ向かう住民に武装ヘリコプターがロケット弾を発射し、2兄弟、父子を含む5人が殺害された。
5月18日の早朝、イスラエル軍はタルスルタン地区の住民にマイクで外出禁止令を告げた。エルモガイアル家の3女、高校生のアスマ(16歳)はこの日、試験が予定されていたが、学校へ行けなくなった。銃声もなくなった午前11時過ぎ、母親のシリア(43歳)は、アスマに屋上の洗濯物を取るように、また3男のアハマド(13歳)には、屋上で飼っている鳩に餌をやるように指示した。2人は屋上へ上がっていった。その直後、屋上で激しい銃声が聞こえた。シリアは「アハマド、アスマ、すぐに降りておいで!」と叫んだが、まったく返事がなかった。
部屋で休んでいた長男のアリ(26歳)は、アハマドが「アリ!」と叫ぶ声と激しい銃撃音を聞いた。アリはすぐに階段を駆け上がった。母親シリアが後を追った。屋上入り口、階段の最上段でアハマドが倒れていた。床にはアハマドの脳が飛び散り、頭蓋骨は粉々になっていた。アハマドに近づこうとするアリと母親に向かって激しい銃撃が加えられた。やっとアハマドの側まで接近すると、大きな息をし、その2、3秒後に絶命した。アリはさらにアスマの様子を見るために、屋上へ上がった。イスラエル軍の銃撃が激しかったので、アリは這って進んだ。アスマが倒れている場所までは7、8メートルの距離だったが、15分以上もかかった。やっとアスマの側にたどり着いたアリは、妹の姿に愕然とした。アハマドと同様、砕けた頭蓋骨と脳が周囲に飛び散っていたのだ。それを集まるために干してある洗濯物の衣服を取ろうと手を伸ばすと、その手を狙って銃弾を浴びせられた。アリは洗濯ひもを引きちぎり、やっとTシャツを取り出すと、脳と頭蓋骨を集めた。さらにアスマの遺体を階段まで引きずっていった。
「アハマドは鳩にやる水を用意していました」
と母親は、息子アハマドが射殺される経緯を語った。
「その時、姉が銃撃で撃たれるのを目撃したのでしょう。そのことを急いで私たちに知らせようと階段を降りようとしたとき、狙撃兵が彼の頭部を1発の銃弾を撃ち砕いたのです」
屋上から数十メートル離れた建物の壁に穴が見えた。イスラエル軍の狙撃兵は、あの穴から2人を狙い撃ちしたのだと母親は言う。
この事件についてイスラエル軍側は当初、
「この姉弟は屋上で爆弾を作ろうとしていて誤って爆死した」
と説明した。
しかし頭部が銃弾で砕かれている遺体を目撃した医者やジャーナリストたちの「爆死ではありえない」という証言が公になると、その主張を変えた。事件から4ヵ月ほど経た9月初旬、イスラエル軍スポークスマンは、私にこう説明した。
「当時、あの地域で激しい銃撃戦が行われていました。だからイスラエル軍の狙撃兵に撃たれたという結論を出す証拠はないのです。そこではパレスチナ人の狙撃兵も撃っていたのです。パレスチナ人の狙撃兵はだれに向かって撃っているのかまったく考慮しませんから。あの連中の中には腕のいい狙撃兵もいます。2年半前にヨルダン川西岸でパレスチナ人狙撃兵が7人のイスラエル兵を殺害した例もあるほどです」
私はスーデル大尉に訊いた。「ということは、腕のいいパレスチナ人の狙撃兵が、1発で頭部を撃ち抜けるほどの高性能なテレスコープで、相手が洗濯物を取り入れているパレスチナ人少女であることを識別できたにもかかわらず、撃ち殺したというのですか」
するとスーデル大尉は動揺した様子であわてて否定した。
「そう確信しているといっているのではありません。そうじゃないんです。ただ今の段階での情報では、すぐに結論を出すのは難しいのです。調査が必要です」
だが事件後、4ヵ月の間にイスラエル軍側によって調査が行われた形跡はない。
アスマとアハマドの遺体を居間に運んだ直後、病院に運ぶために家族は救急車を電話で呼ぼうとした。しかし家に近づこうとする救急車をイスラエル軍が銃撃したため、遺体は家の居間に安置されたままになった。およそ5時間後にやっと救急車がやってきて、2人の遺体を運んだ。
同行を嘆願する母親たちに、救急隊員は
「イスラエル軍の戦車が途中にいて検問し、遺体のだけしか運べない」
と言った。
遺族との最後の面会を待って2人の遺体は4日間病院に安置された。しかし封鎖されたタルスルタン地区から遺族は病院へたどり着くことができなかった。犠牲者の数がどんどん増え、病院の遺体安置所の冷蔵庫も満杯となり、これ以上2人を安置し続けることができなくなった。埋葬に家族が参加できるようにイスラエル軍に交渉したが受け入れられず、「埋葬される前に、もう一度子供たちの姿を見たい」という母親シリアの願いはかなえられなかった。
(攻撃された平和的なデモ)
5月19日、世界に衝撃的な映像が伝えられた。ラファのタルスルタン地区の封鎖に抗議しデモ行進する住民たちをイスラエル軍がミサイルで攻撃し、血だらけになった犠牲者たちが運び出される映像である。武装もしない一般住民のデモにイスラエル軍がミサイルを撃ち込むことなどありえるのだろうか。
現場の目撃者、デモの参加者、およびデモに同行していた救急車の運転手などが当時の様子を語った。
ラファの中心地を出発したデモ隊が、3キロほど西に進んだゾーロブ交差点に到着したのは午後2時半ごろだった。その現場を目撃したバッサム・ヘジャージ(35歳)は、攻撃のあった場所を案内しながら、こう説明した。
「デモはここまで歩いてきました。すべての参加者たちはまったく武器は携えていませんでした。1発の銃弾も、です。ここに到着したとき、戦車は200メートルほど前方のあの砂山のところで、ヘリコプターは北西の方向の上空を飛んでいました。デモの列がここに着いた時でした。突然、ヘリコプターがロケット弾を撃ち込んだのです。それによって右前方の道路沿いあの建物のシャッタードアが破壊されました」
その建物の金属製のシャッターには、直径が1メートルほどもある大きな穴が開いていた。ロケット弾が撃ち込まれた痕である。その隣のブロック壁の直径数十センチの穴は、戦車からの砲撃によるものだとバッサムは説明した。シャッターを貫通したロケット弾は道路側にあるドアを破壊したため、戦車からの砲撃による破片は、道路にいたデモ参加者たちを直撃したというのだ。
「デモの先頭にいた少年たちは白旗を振り、手に持っていた水や食料を掲げて戦車のイスラエル兵たちに見せていました。自分たちが封鎖状態にあるタルスルタン地区の住民に水と食料を届けようとしていることを示すためです。しかしイスラエル軍はそれにはまったく反応せず、デモ隊が後退する時間も与えなかったのです。攻撃の前にまったく警告もありませんでした」
攻撃直後、バッサムは被弾した人々が倒れ血の海と化した現場を目の当たりにした。
「8歳ぐらいの子は首を切られていました。6歳ぐらいの子は腕がなくなっていました」
デモに参加し腹部に重症を負った少年イブラヒム・ナジャール(14歳)も現場の様子を次のように証言した。
「僕たちは普通の市民で、白旗を掲げて、タルスルタン地区の人々を支援するため行進しました。しかしイスラエル占領軍は白旗がどういう意味か理解しなかったのです。突然、ヘリコプターがミサイルを撃ち込みました。それに参加者たちは怯えました。しかし中には勇敢な人がいて、封鎖されているタルスルタン地区の人々を支援するために行進を続けようと主張しました。私たちは行進を続けました。するとヘリコプターが再びミサイルを撃ち込み、デモ参加者たちを銃撃しました。僕はそのミサイル砲撃で負傷したんです」
「僕は地面に倒れました。たくさんの負傷者を見ました。その1人、15歳の少年アブガマールで、その腕がちぎれ、僕の腹の上に落ちてきました。僕はとても怖かったです。僕は信じられませんでした。イスラエル軍はどうして平和的なデモを攻撃するのかと」
緊急時に備えてデモの随行していた救急車の運転手アドナン・アルナワジハ(30歳)も、それが一般住民の平和的なデモであったと証言する。
「タルスルタンに向けて平和的なデモが行われるという連絡を受けたので、参加者たちが倒れたりする緊急時に備えて、私はデモ隊から50メートル離れたところから救急車で付いていきました。参加者たちは1000人を超えていました。デモはハマスやファタハなどの組織の人たちでない民間人で、まったく横断幕もなく、武装した者もいませんでした。
デモの先頭がゾーロブ交差点に到着したとき、イスラエル軍は遠く離れたところにいました。しかし突然、ロケット弾が北西の方向から飛んできました。ロケットは電柱に命中し、人々は怖がりました。そして30秒後、2発目のミサイル弾がデモ参加者に向けて落とされたのです。私は参加者が疲労などで倒れたりする緊急時に備えてデモに救急車で付いていましたが、こんななことが起こるなど予想もしていませんでした。負傷者たちを救出しようとしたのですが、しあまりに数が多かったために、他の救急車に救援を求めるために連絡しました。そしてできる限り負傷者を収容し、病院へ運びました。消防隊員も、また車を持っている民間人も負傷者を運びました。私たちだけで収容できなかったからです」
デモ参加者への砲爆撃で、子供3人を含む8人が死亡、24人の子供を含むおよそ50人が負傷した。
一方、イスラエル軍側の言い分はこうだ。
「デモの参加者たちはパレスチナ人のテロリストとイスラエル軍と間で激しい戦闘が続いていたタルスルタン地区へ向かっていました。当時、そこはとても危険な地域で、たくさんの人々が行進していくことはパレスチナ人にとってもイスラエル兵にとっても危険なことでした。イスラエル軍は最悪の事態を避けるために、パレスチナ人側との調整をする事務局を通して、住民がタルスルタン地区に近づかないように警告しました。しかし行進は続きました。そこで我われは「この先へ行くと危険だ」という警告のためにヘリコプターから空き地に向かってロケット弾を発射したのです。それでも行進が止まらなかったので、今度は戦車から警告のために砲弾4発を近くの空家に向かって撃ちました。しかしその1発が行進する住民の近くで爆発したため、負傷者が出てしまいました。しかしそれは相手を傷つけることを意図したものではなく、デモの参加者たちを後退させるための警告の砲撃だったのです。このような警告のための銃・砲撃は、直接の話し合いや電話でコミュニケーションが取れない戦闘地域では合法的な行為です。ただ不幸にも死傷者が出たことはとても残念なことで、イスラエル軍も謝罪しました」
しかし、タルスルタン地区でインタビューした複数の住民たちからは、イスラエル軍に包囲封鎖されたこの地区でパレスチナ人側との戦闘が行われたという証言はまったく出てこなかった。
(ブルドーザーで土砂に埋められた救急車)
「イスラエル軍が救急車の活動を妨害したというパレスチナ人側の主張は、まったく同意できません。むしろイスラエル軍は戦闘地域での救急車の活動にいつも便宜を図っています」
パレスチナ側の医療機関や人権擁護組織が訴える、医療活動に対するイスラエル軍の妨害について質問を向けると、イスラエル軍スポークスマン、スーデル大尉はそう言い切った。
「ただ戦闘が起こっている最中は、その現場に入ることは許されていません。遺体の収容も、敵の狙撃の危険があるとき、また激しい戦闘が行われているとき、それが収拾するまで救急車を待たせることはあります。しかしイスラエル軍は原則として戦闘中でも救急車の活動を制限したりはしません」
しかし5月のラファ侵攻時に、救急車がイスラエル軍に銃撃されたり活動を妨害されたという証言は複数の医療関係者や住民から出ている。前述したように、狙撃されたアスマ、アハマドの姉弟の遺体収容のために現場に向かおうとした救急車がイスラエル軍に阻止され、到着が数時間も遅れたケースはその1例である。
5月20日には、救急車の活動妨害の象徴的な事件がブラジル地区で起った。
戦車からの銃撃によって負傷した3人の子供と妻の救助のために、ブラジル地区中部に住む家族が救急車の出動を求めてきた。救急車の運転手アドナン・アルナワジハ(30歳)は2人の若い救急隊員と共に現場へ急行した。しかしその地域を占拠しているイスラエル軍の銃撃が激しく、救急車は負傷者のいる家へ容易に近づけなかった。赤十字国際委員会の仲裁でイスラエル軍側からやっと通行の許可が下り、救急車は現場に近づいた。しかしそのとき1台の戦車が目的の家へ向かう道路を塞ぎ、救急車に向かって威嚇射撃をし始めた。後退すると、今度は後方の道路をブルドーザーが土砂で塞いだ。前方からも別のブルドーザーが迫ってきて、土砂を道に積み上げた。前後を塞がれ立ち往生してしまった救急車に、さらにブルドーザーが左右両側から土砂を押し付け始めた。運転手のアドナンは、イスラエル軍が救急車を土砂に埋めようとしていることを察知した。その直後、ブルドーザーが押し倒した電柱が救急車の上に倒れ掛かってきた。土砂と電柱に押しつぶされるのではと恐れた運転手と救急隊員は車の床に伏せた。
「呼吸は問題なかったのですが、恐怖に襲われました。銃弾や砲弾によってではなく、救急車を土砂で埋められることによって、ゆっくり死に向かっているような気持ちでしたから」と運転手のアドナンが当時の心境を振り返った。それでもアドナンは、恐怖でパニック状態になっていた若い2人の救急隊員を「こんなことはいつものことだから心配いらない」となだめ、落ち着かせようとした。
この間、アドナンは無線や携帯電話で外部に状況を説明し、必死に救助を訴え続けた。2時間半後、赤十字国際委員会などからの訴えと抗議によって、イスラエル軍はやっと救急車の周囲の土砂を取り除きはじめた。やっと救急車は脱出できたが、負傷した住民を救出することはできなかった。大破した救急車は2度と使用できなくなった。
アドナンが運転する救急車がイスラエル軍の攻撃を受けたのはこれが初めてではなかった。その2日前の18日、イスラエル軍に封鎖されたタルスルタン地区で、殺害された住民の遺体と負傷者を収容するために現地に入ったときのことだ。1人の遺体と負傷者を乗せて現場を離れようとしたとき、戦車が道路を塞ぎ、上空の武装ヘリコプターが救急車に向かって銃撃を始めた。他の道へ逃れようとすると、戦車や軍の監視塔からも銃撃を加えられた。タルスルタン地区で救助活動を続けていたアドナンの救急車をはじめ3台の救急車は、国連が運営する診療所に避難した。しかし戦車はその診療所も包囲し銃撃してきたため、診療所のすべての窓ガラスが破壊された。すでに診療所に避難していた他の救急隊員らを含め12人は、病院側や赤十字国際委員会などに救助を訴えた。
その後、イスラエル軍は「徒歩で診療所を出て行くように」と要求してきた。しかしそれはあまりにも危険なためにアドナンたちはその要求を拒否した。パレスチナ側とイスラエル軍側の長い交渉の末、別の救急車で移送するという条件で14時間後、12人はやっと解放されることになった。イスラエル軍側は、アドナンたちが3台の救急車で脱出することを拒絶したのである。診療所に封鎖されて丸一日以上経ってやっと12人は救出された。アドナンは言う。
「イスラエル軍は、他の救急車を呼び寄せ、私たちの3台の救急車が外に出ることを禁じたのです。この例からも、イスラエル軍は、救急車が救助活動することを妨害しようとしたことがわかります」
(増幅されるイスラエルへの憎悪)
ラファでの家屋破壊がもたらすのは物理的な被害だけではない。自分の家がイスラエル軍の戦車やブルドーザーによって破壊される現場を目の当たりにし、その後、劣悪な環境と生活苦のなかで暮らすことを強いられた子供たちの心に深い傷を残している。
家を破壊された後、サッカー・スタジアムで暮らすケシュタ家の母親ナベラは、生活環境の急激な変化のなかで、子供たちの言動が大きく変わったと訴える。
「以前の家では、子供たちを躾けることができました。しかしここではまったくできません。私の言うことも聞かなくなり、外で自分たちの好き勝手に行動します。いつも怯え、神経質になっています」
「心を病み、戦車やブルドーザーの音を聞くたびに強い衝撃を覚える子もいます」と語るのはブラジル地区で家を完全に破壊されたアラー・バナット(31)である。6歳と4歳の男の子の父親であるアラーは、家屋破壊が子供たちにもたらした心理的な影響を懸念している。
「銃撃の音を聞くと、私に『イスラエル兵は借りているこの家も壊すの?いつまでイスラエル兵は僕たち追いかけてくるの?」と訊きます。戦車が近づいてくる音を聞くと、泣き出し、『また僕たちの家を壊しに来るよ。前の家を破壊して、この家も壊すんだよ」と訴えるのです。またときどき私に『なぜここで暮らすの?』と私を問いつめます」
一方、6歳の子はアラーに「銃を買って」とせがむ。
「『僕たちの家を破壊したイスラエル人の家を破壊したい。僕たちも同じように、イスラエル人の家を破壊するんだ。大きくなったら、武装グループに参加するんだ』というのです。この子たちが通りでどんな遊びをしていると思いますか。プラスチック製の銃を買う金もないこの子たちは木材と釘で“銃”を作り、肩にかけて『僕たちは抵抗武装戦士だ!』と叫んでいる。またビンを爆弾のように土の中に埋め、家の影にそれをじっと見つめている子供たちもいます。それがここの子供たちの遊びです。一方で、『勉強なんかする必要ない』というのです。いつかイスラエル軍に家を壊され、殺されてしまうかもしれないのに、どうして勉強なんかする必要があるのかというわけです」
昨年12月のイスラエル軍侵攻のときに夫(50歳)を射殺され、5月には家を破壊された主婦ナジャハ・アルガッサース(43)は、義母(85歳)と7人子供をかかえ、夫が生前勤めていた市役所からのわずかな年金で、借家暮らしをしている。ナジャハもまた、幼い子供たちの心に刻まれた深い傷が心配でならない。悪夢にうなされる子、夜中に起きだし夢遊病者のように歩き回るようになった7歳の子、夜、失禁するように9歳の子もいる。11歳の息子はいつも枕の下にナイフを忍ばせて寝るようになった。
「イスラエル人がやってきたら、刺すんだ」
という。この少年に将来の夢を訊いたら、迷うこともなく、こう言い切った。
「警官になりたい。いや抵抗の戦士になりたいです。そしてイスラエル人を撃つんだ。復讐をするんだ」。
家を破壊され、肉親や親族を奪われてイスラエルへの憎悪を増幅させているのは子供たちだけではない。30代半ばの主婦ファトマ(仮名)は、瓦礫となった家を目の当たりにしたとき、
「私の父もすべての兄弟も叔父たちや隣人たちも家を破壊されて、いったいどこに避難すればいいの?」と声を上げて泣き叫んだ。
ファトマにとってその地区は自分が生まれ育ち、家族や親族が寄り添うように暮らす“故郷”だった。家を失い、その地区を追われたファトマは、知人1人いない世界に放り出された。ファトマは今の心情をこう吐露した。
「イスラエルは私の家と隣人とあの地区での私の生活、そしてすべての記憶を私から奪ってしまいました。そんなイスラエルに私は激しい憎しみを抱いています。もしチャンスがあれば、私自身、自爆攻撃したいと思うほどの激しい憎悪です」
・・・イスラエル大侵攻(2)に続く
投稿者 doitoshikuni : 2004年12月24日 12:34