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2004年12月24日
ムスタファ君を支援してくださったみなさまへ
ムスタファ君を支援してくださった方々へ
ムスタファ君への支援を呼びかけたジャーナリストの土井敏邦です。
長い間、その後のムスタファ君への状況をお伝えできず、たいへん申し訳ありませんでした。その後、私自身の引越しと新生活のスタート、パレスチナ、イラク取材、パレスチナに関する拙著の執筆などに追われ、皆様へのご報告が遅れてしまいました。
ムスタファ君は2003年8月末にヨルダンへ渡り、首都アンマンの病院で手術を受けました。その経緯は私のホームページ(www.doi-toshikuni.net/) で報告しています。
アンマンでの1ヵ月間の治療の後イラクに帰国しました。私はムスタファ君の最初の手術直後、帰国しましたが、現地でムスタファの世話や日本との連絡係を引き受けてくださったNGO関係の日本人ボランティアの方々から、その後、ムスタファ君の様子は断続的に伝えられていました。それによると、私がアンマンを離れた後、もう一度、アキレス腱の手術が行なわれ、その傷が癒えた1ヵ月後の10月中旬に、イラクへ帰国しました。
しかしその後、骨の一部(主骨を支える細い骨)に炎症が発見され、バクダッドの病院でさらに2度手術を受け、炎症した部分の骨を切除しました。
そんな情報を現地から得ていた私は、2月3日、およそ半年ぶりにやっとイラクに戻ることができました。さっそくムスタファ君と家族を訪ねました。幸いその後、炎症は起こらず、傷口はほとんど治癒していました。左足も血色を取り戻していましたが、少し腫れていました。医者の説明によれば、怪我で静脈が一部破損しているために、動脈によって足先まで送られた血液を適切に心臓へ送り返すことができないためだということでした。また左足首を動かす筋肉がなく、足首より先にはまったく神経がないために足首から先はまったく上下させることはできませでした。
帰国後、ムスタファ君は、脚を手術した医者の個人病院に定期的に通って診察を受けていました。医者は足の腫れはあまり心配する必要はなく、これからはむしろ歩くためのリハビリが必要だと助言しました。さっそく歩く練習が始まりました。1歳違いの妹ススが手を引き、ムスタファ君の歩行練習をサポートしました。松葉杖を使って歩く練習も始めました。その進歩は驚くばかりでした。
なんと、1週間ほどで、びっこを引きながらも自分の足で歩き始めたのです。
やがて靴を履いて歩く稽古も始めました。すると、短い距離ながら、ほとんどびっこが目立たない格好で、まるで健康な子が歩くように歩けるまでになったのです。2003年5月、左脚が壊疽しはじめ、このままでは左脚を切除するしかないだろうと医者もさじを投げていたあのムスタファ君が、自分の足で歩いたのです。ムスタファ君のために心を痛め、温かい支援の手を差し伸べてくださった皆さんが、この姿を見てくださったら、どんなに喜んでくださるだろうかと思うと、涙がこみあげてきました。
2月11日、学校が始まり、ムスタファ君も登校することになりました。学校は家から500メートルほど離れています。ムスタファ君は自分で歩いていくと言い出しました。しかし少し遠いので松葉杖を使うことにしました。彼が朝、松葉杖で家の外に出ると、登校する近所の子供たちがいっせいにムスタファ君の周りに集まってきました。そして皆に囲まれ見守られながら、ムスタファ君は自分の脚で学校まで歩きとおしました。
しかし、ムスタファ君の治療はこれで終わったわけではありません。ヨルダンでムスタファ君の脚を手術した主治医は、「傷口が回復した後、次は足の神経の回復手術が必要だから、3ヵ月ほどしたら、もう一度ヨルダンへ戻ってくるように」と2003年8月末に私たちに告げていました。
その3ヵ月が経った2004年2月、私がイラクを出るときに、もう一度、ムスタファ君をヨルダンへ連れていくも考えました。しかし2つの理由で延期することにしました。
1つは、脚の状態です。傷は癒え始めたとはいえ、怪我と手術によって大半の筋肉が切除され、さらに10ヵ月近く歩くことができず、残った筋肉を使う機会もなかった左脚は棒のように細く、とても手術が出来る状態ではないこと、そしてもう1つはムスタファ君の心理状態のためです。
それまで10ヵ月に11回の手術を受けた9歳の少年の心は、手術の痛みと恐怖にほとんどトラウマ状態でした。個人病院で医者が筋肉増強のための注射を打とうとしたときです。医者の手に注射を見たとたん、ムスタファ君は半狂乱のように泣き叫び、注射を拒み暴れ出しました。日ごろはおとなしく温和なこの少年が注射を見て、人が変わったように泣き叫ぶのです。
彼にとって注射は「麻酔注射」を意味し、それはその後に続くはずの「手術」と直結しているのです。それから1週間後、今後の治療の方法を検討するために、脚の神経と筋肉の状態を調べる検査を受けることになりました。しかしその検査のために針を刺そうとしたとたん、ムスタファ君はまた泣き叫び暴れ出し、診察室から飛び出してしまいました。
父親の言葉を借りれば、「前回、病院での注射のときの10倍も大きな声で泣き叫び、手がつけられない状態だった」そうです。結局、検査はできませんでした。爆撃による負傷と、その後の度重なる辛い手術と治療が、この9歳の少年の心にどれほど深い傷を残しているかを改めて思い知らされました。そのような理由で、2月にヨルダンへ神経の手術を受けに出ることは延期しました。
2004年5月、4たびイラクを訪ねたとき、ムスタファ君は怪我の後遺症をほとんど感じさせないほど、ほぼ普通に歩けるようになっていました。しかし神経回復手術の準備ための検査はまだできていませんでした。その後もムスタファ君が検査に必要な注射に対するトラウマはまだ癒えず、どうしても検査ができなかったのです。父親のエマドさんも、ムスタファ君の今のような精神状態のまま、検査をし、手術をすることはあまりにも不憫だと考え、しばらく治療を中断する決断をしました。家族と話し合った結果、手術はムスタファ君の精神状態がそれを受け入れられる状態になるまで待つことにしました。
残念ながら、それ以後、イラク国内の治安悪化のために私自身、イラクへ行くことができなくなっています。将来、治安が回復ししだい、ムスタファ君とその家族を訪ね、今後の治療について再び話し合うつもりです。
これがムスタファ君の現状の報告です。
私が前回、イラクを離れる直前、ムスタファ君とそのご両親が、支援してくださった日本の皆さんにぜひ伝えてほしいと、私のビデオに向かってメッセージを語ってくれました。以下はその翻訳です。
(ムスタファ君)
「僕を助けてくれた日本の皆さん、僕のことを心配してくれてほんとうにありがとう。僕は自分の足で立てるようになりました。僕のお父さん、お母さんもとても喜んでいます。僕は日本の皆さんに直接会ってお礼をいいたいです。僕を助けてくれた、とてもすきな人たちだから。それに日本へ行って大好きなナカタに会いたいな」
(父親・エマドさん)
「日本のみなさん、ムスタファのためにボランティア活動をしてくださった方々、ムスタファの側に立ってくださり、ずっと治療を支えてくださってほんとうにありがとうございました。私たちが回復に希望を失いかけたとき、神のおかげで息子は歩けるようになりました。ほんとうはカメラを通してではなく、日本へ行って、直接お会してお礼を申し上げたいところですが。心からお礼を申し上げます」
(母親・ナガムさん)
「ムスタファは日本のみなさんの援助なしには歩けるようにはならなかったでしょう。お金だけではなく、心の支援を通して、日本の人たちは、私が自分の血をもっても返しきれない恩を私たち家族に与えてくださいました。ムスタファが立てるようになり、歩けるようになったことはささいなことかもしれませんが、アメリカ軍の占領とアメリカに対する一撃です。日本の人たちがイラク人の側に立ってくださっていることに心から感謝いたします。日本の人たちに幸運がありますように」
2003年9月に基金の残金を1万6736ドルと報告いたしました。その後、ムスタファ君が帰国した10月以降から2月20日までにムスタファ君の治療費などで1400ドルほどがかかりましたが、1月にムスタファ支援の基金にさらに12万8千円の支援金が入り、現在、およそ1万6600ドルほどの支援金が残っています。将来のムスタファ君の治療と支援のために、ヨルダン・アンマンの英国系銀行の口座に保管しています。
これまでムスタファ君の状況について電子メールのアドレスをお持ちの支援者の方々には何度かご報告をしてまいりましたが、それ以外の方々への郵便による報告と領収書の送付がたいへん遅れてしまいました。深くお詫び申し上げます。
最後に、ムスタファ君のためにご支援いただいた皆様に、私からも深くお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
12月11日
土井敏邦
(追記)
支援者のみなさまには封書でこの手紙をお送りしました。
同封しました写真は、2004年2月に撮影したムスタファ君と両親、それに妹と弟です。
投稿者 doitoshikuni : 2004年12月24日 13:03