2004年06月05日
日本人ジャーナリストの銃撃死は何を投げかけているのか
事件の第一報は、現地時間の5月28日午前0時40分ごろだった。前日のファルージャ取材とその整理に疲れきって眠っていた私は、携帯電話の音に起こされた。相手は、いつも日本へ映像を送る映像送信会社のイラク人スタッフだった。「日本人ジャーナリスト2人が襲撃されたというニュースが飛び込んできたが、あなたには心当たりはないか」という問いだった。眠気から覚めない私はそのニュースを半信半疑で聞いた。「単なる噂かもしれないし、彼は他の外国人ジャーナリストの事件を、仕事上付き合いも多く、知人もいる『日本人ジャーナリスト』と決め付けているのかもしれない」と思ったのだ。しかしこんな夜中に、それほど親しくもない彼から突然、電話がかかってくるのだから尋常ではないと不安もあった。たぶんその「日本人ジャーナリスト」が私ではないかと心配し、その確認のために電話してきたのかもしれない。しかし私は眠気に負けてそのまま寝入った。
それから30分ほどたった頃、また携帯電話が鳴った。今度は横浜の連れ合いからだった。ほぼ毎日メールの交換はするものの、この3週間一度も電話を掛け合うこともしなかった彼女からの突然の電話に、「先ほどの電話の話はほんとうなのだ」と直感した。私の友人の共同通信のデスクから電話が入り、事件を知らされたという。「土井さんは他の日本人と行動されることはないでよすね」と尋ねられ、不安で居ても立ってもいられず電話したと連れ合いは言った。私の声を聞いて安心したのか、最後は泣き声になっていた。
その共同通信のデスクから電話が入ったのは、その直後だった。彼は事件のあらましを私に語り、「サマワに行くと言って共同通信のバグダッド支局に立ち寄ったフリージャーナリストの橋田信介さんと助手の小川功太郎さんが襲われた可能性がある。2人は同じホテルに泊まっていたと聞いているので、レセプションで彼らがホテルに戻っているかどうか、確認してほしい」という要請だった。
前日の朝7時前、2人が朝食を終え通訳、運転手と共にホテルを出ていく姿を私は朝食を取りながら見ていた。それが2人を見た最後だった。
私が1階のロビーに下りると、すでに共同通信の記者がホテルのスタッフに事情を聞いていた。深夜担当のそのスタッフは、「まだ2人は戻っていない。サマワで行って明日戻ると言っていたんです」と答えた。共同通信の記者によれば、2人はサマワを昼ごろ出たという情報が入っているという。ということはバグダッドへの帰路、彼らが襲撃された可能性がある。いったん引き上げたその記者からまもなく電話が入り、通訳として同乗していたイラク人の家族の電話番号をホテルのスタッフに訊いてほしいという要請があった。電話番号を記者に知らせると、まもなく彼から再び電話が入った。その通訳の奥さんによれば、「夫は事故に会い病院に入院しているらしい。同じ車に乗っていた日本人らしい人たちが亡くなったようです」との返事だったという。襲撃されたのが橋田さんと小川さんであることは、ほぼ確定的となった。その後、もたらされた情報は「橋田さんは死亡、小川さんは負傷。しかし小川さんも危ない状態」という絶望的なものだった。
私が5月9日にバグダッド入りし、イラク取材の定宿にしている「アル・サフィール・ホテル」に着いたとき、他に1人だけ日本人の先客がいた。それが小川功太郎さんだった。
このホテルの2階にある「インターネット・カフェ」で小川さんとよく隣同士で並んでパソコンに向かっていた。持参のパソコンで通信できる机は2つしかなく、もう1ヵ月近くこのホテルに滞在する小川さんの“指定席”の隣の席が、私の“指定席”となったからだ。まもなくお互い話を交わすようになった。彼はビデオカメラで取材し、その映像を日本のあるテレビ局の報道番組に送信したり、雑誌に記事と写真を送る仕事をしているという。つまり私の同業者だった。日本中がイラクでの日本人人質問題で大騒ぎし、政界や右翼メディアでフリージャーナリストNGO関係者者の「自己責任」が声高に叫ばれていたその真っ最中の4月半ばに、彼は空路アンマンからバグダッド入りしたという。
私は4度目になる今回のイラク取材の主眼を、米軍によるファルージャ包囲攻撃の実態、イラク人囚人虐待問題に絞っていた。しかしこの30代前半の若いジャーナリストは、私が目指す同じテーマをずっと先行して取材し、報道していた。
停戦協定によって米軍による包囲網が解かれたファルージャへ日本メディアとして最初に入って取材し、いち早くその実態を報道したのは朝日新聞の川上記者だった。しかし実は同じ日に、小川さんもファルージャに入り、現場を取材し撮影していたのだ。映像メディアとしては彼が最初の取材者だった。その日にすぐに報道番組に映像を送ったが、残念ながら、何かの緊急ニュースのために放映が延期され、結局、「朝日」の記事が「日本メディアとして初めて現地に入り、取材した」報道となった。「もしあの時、緊急ニュースがなく、予定通り5月5日に放映されていたら、『朝日』もああいうふうに書けなかったのに」と、無口であまり感情を表に出さない小川さんが、珍しく感情を露にし残念がった。
イラク人囚人虐待問題も、彼はすでにずっと先を行っていた。囚人虐待の中でも最も深刻で、イラク人に限らずアラブ世界を激怒させ反米感情を決定づけたのが、「米兵による女性囚人レイプ容疑」である。レイプされ妊娠した元女性囚人が、「家族の尊厳を傷つけた」として父親や兄弟に殺害される事件まで起こっているというこの問題は、取材が最も難しいテーマの1つだ。聖職者たちでさえ、直接会って当人たちに事情を聞くことができないほど微妙な問題であり、ましては外国のジャーナリストが当事者を直接取材することは不可能に近い。そんな困難な問題を、根気強く追い続けてきた小川さんは、私に「被害者の親族まではたどりついたんです」と語って私を驚かせた。
小川さんのそんな取材の進み具合をときどき耳にしながら、若い彼の鋭いニュース感覚と、フットワークの軽さに舌を巻いた。アブグレイブ刑務所で囚人が解放される現場に立会い撮影、統治評議会議長の襲撃事件の現場にもいち早くかけつけ映像を日本に送った。フットワークも重くニュース感覚にも乏しい私は、30代前半のこの若いジャーナリストにライバル意識と、畏怖の念さえ抱きはじめていた。
小川さんから経歴を聞いたとき、この若い青年の“ジャーナリスト”としてのその能力を「なるほど」と私は納得した。彼は10年間、NHKでディレクターとして鍛え上げられ、ニュース感覚、取材や表現手法の基礎をきちんと身につけていたのである。
「10年間もいたNHKをどうして辞めてしまったんですか。もったいない」と訊くと、小川さんは「みんなにそう言われます。しかし自分がほんとうにやりたいことと違う気がしたんです。それに僕は、海外で暮らしたかったんです。NHKに残っていたら、その機会はありませんから」と答えた。
昨年夏、NHKを退社し、その後、カンボジアの旅行会社に勤務したという。しかしその仕事にもあまり情熱が持てず、バンコク在住のフリージャーナリストで叔父の橋田信介さんの助手として働くようになる。3月、小川さんはイラク入りする橋田さんに同行して初めて現地入りした。
「この仕事をやってみて、面白さがわかってきました。たぶんこれからもこの仕事を続けていくと思います」とフリーのジャーナリストとして生きる決心を固めつつあることを、夕食を共にしながら小川さんは私に語った。
その小川さんの死がほぼ確実だという情報が共同通信の記者から私に連絡が入ったのは、28日の正午近くだった。
私はそのニュースを日本各新聞社のインターネットで確認するために、急いでホテル2階のインターネット・カフェへ駆け下りた。一昨日まで、私の隣の“指定席”には決まって、タバコをふかしながらパソコンの画面を見つめ、黙々とキーボートを叩く小川さんの姿があった。その席に近づくと、いつも彼は仕事の手を休めて振り返り、「ああ、こんにちは」と短くあいさつをし、またパソコンに向かった。しかしもうそこには彼の姿はなく、がらんとした空席のままだった。いつも見ていた小川さんの姿がないその空席の机を見つめながら、私は初めて、彼はほんとうに死んでしまい、もう2度とその姿を見ることがないことを実感した。急に熱いものがこみ上げてきた。
どのような組織が、なぜ彼らを銃撃したのか。「読売新聞」(5月29日班)社説は、「事件は、犯行グループがまだ特定できず、日本人を狙ったのかどうか分からない。だが、自衛隊のイラク派遣と関係づける問題ではない」と言い切っている。何を根拠に、そう断言するのか。私の現場での取材体験からは、むしろ逆に、イラクへの自衛隊派遣によってアメリカの占領支援の姿勢をイラク国民に公然と示した日本政府の政策が、4月の人質事件と同様、今回の事件にも大きな影を落としていると言わざるをえない。
米軍の包囲攻撃によって700人を超える住民が殺害され1500人近くが負傷したファルージャを5月初旬に取材したときのことだ。急遽、サッカー場に設けられた集団墓地で、私が日本人ジャーナリストだと知った男たちが周囲に集まってきた。その1人が激しい口調で私にこう訴えた。
「私たちイラク人はどんな国からの人も受け入れます。しかし軍隊だけは絶対送らないでほしい。あなたたちが軍隊を送るなら、私たちはその軍隊と闘う。軍隊を送るどんな国でも、私たちたちの敵なのです。イラクに軍隊を送る国はアメリカと同様、犯罪者なのです。アメリカという犯罪者のパートナーなんですよ」
今回の襲撃現場で、この言葉をほうふつとさせる運転手の証言を共同通信が伝えている。
「犯人らは現場を立ち去る際、イラク人運転手を『米国の手先』と呼び、殺害する機会がありながら逃走を許した。イラク人記者は『駐留米軍と連合国軍に反発する勢力の犯行だ。外国人に対しては容赦なく攻撃する一方、イラク人には警告でとどめている』と分析した」(共同通信5月29日版)
もし日本が自衛隊派遣でアメリカの占領支援の態度をこれほど明確にしなければ、日本人ジャーナリストが襲撃されることはなかったかもしれない。ある意味では今回のジャーナリスト襲撃事件は、日本政府の自衛隊派遣の一結果だった可能性は十分ある。
一方、今回の事件によって「危険地域でのフリージャーナリストの無謀な活動を規制すべきだ」という声も高まるだろう。しかし危険地域だからこそ、ジャーナリストは現場に入り、その現状を伝えなければならない。それを止めろというのなら、「ジャーナリストは仕事を止めろ」ということになる。たとえ少々の危険は伴っても、現場を踏み、その状況を記録し、現場で生きる人々の生の声を拾い伝えることがジャーナリストの仕事だと私は考えている。その仕事のために、時には今回のように、不幸な事故もありうるだろう。だからと言って、「ジャーナリストは現場へ行くな」というなら、「交通事故が増えているから、国民は車の利用を止めろ」という陳腐な議論と同じだ。
橋田さんや小川さんは、もし自分たちの殉職がそのような議論作りに利用されるとしたら、一番無念にちがいない。むしろ「自分たちの屍を乗り越えて、ジャーナリストとしての本来の仕事を続けてくれ」と我われ、生き残っているフリージャーナリストたちに叫んでいると私は思う。
イラクの現場で事実を伝えようとした2人の“ジャーナリストとしての志”と、その途上で命を絶たれた“無念さ”を、我われ、生き残った者たちが引き継いでいかなければならない。それが同志としての、2人への精一杯の供養だと思う。
投稿者 doitoshikuni : 01:17 | コメント (0)
イラク便り 04年5月
土井敏邦
アンマンからバグダッドまでおよそ900キロ。車で行けば12時間ほどかかるが、150ドルから200ドルで済む。だが飛行機を使えば1時間ほどで行けるが、600ドル近くかかってしまう。しかしその道中で外国人の人質事件が頻繁する最近の状況では選択の余地はなかった。
現在、アンマンからバグダッドまでロイヤル・ヨルダン航空の小型機が毎日、午前と午後の2便が飛んでいる。現在、世界で最も危険な都市バグダッドへ向かう飛行機にどうして日に2便も飛行機を飛ばすほど客がいるのか。いったい彼らは何をしに戦闘や爆発事件の絶えないイラクへ敢えて向かうのか。
出発カウンター前に集まってきたのは、大半が屈強な欧米系の男たちだった。アメリカ訛りの英語が聞こえてくる。男たちが手にするパスポートもアメリカのものだ。しかし軍人には見えない。お腹がつき出た中年男性も多い。小型飛行機の2人のスチュワデスもアメリカ人女性。今日に限らず大半の乗客はアメリカ人ということなのだろう。100ほどの席はほぼ埋まった。私のほかに2人の東洋人がいた。隣に座った30代に見えるカップルはフィリピン人だった。バグダッドへ行く目的を訊くと、「アメリカ系の会社に雇われ、軍のキャンプで働くため」という答えが返ってきた。男性はキャンプの総務の仕事を、奥さんは会計を担当するのだという。「治安の悪いイラクで働くのは怖くはないですか」と問うと、男性は「いいえ。以前、東チモールが暴動で一番荒れていたころ、4年間ほど現地で働いていましたから、慣れています」と言った。「どこに滞在するのですか?」「バグダッド・ホテルです。一番安全なところですから」。「バグダッド・ホテル」といえば、アメリカの要人たちが宿泊するホテルで、しばしば迫撃砲や爆弾で攻撃され、今ではそれに隣接する道路がすべて封鎖され、高いコンクリートの壁で囲まれ、要塞のようになったホテルである。「一番安全なところ」というこのフィリピン人男性はもうすっかりアメリカ人の立場に身を置いているのだ。
バグダッド空港からバグダッド市内への道路は、武装勢力に攻撃されやすい危険地帯だと聞いていた。空港からどうやって市内へ向かおうかと不安でならない私は、同じ東洋人である彼らと動けば安全かもしれないと思った。同行を誘うつもりで、「空港から市内まではどうやって行かれるのですか」と訊いた。すると男性は「大丈夫です。会社からバスで向かえにくるんです。この座席の周辺の20人ぐらいが私と同じ会社で働く同僚たちなんですよ」と私を突き放した。そうだったのか。あの屈強な男たちはアメリカ軍の下で働くアメリカ企業の従業員たちだったのだ。
空港のパスポート・コントロールを通ると、ロビーに軍服のズボンをはき自動小銃を構えた東洋人の男たちが警備についていた。これもフィリピン人だった。バグダッドに到着した乗客たちは、数キロ離れた検問所までバスで運ばれる。そのバスの最前列の席に銃を持って座り警備するのもフィリピン人ガードマンである。おそらくアメリカの警備会社に雇われた人たちだろう。
これまで3度のイラク取材の拠点にしていたホテルにやっと落ち着いたとき、これまで見かけたこともない客の集団を目にした。アラブ人でもない。欧米人でもない。彼らの顔の表情に都会のビジネスマンとは異質の、どこなく農民や労働者のような素朴さがある。見覚えのある表情だった。90年なかば、イスラエルで「テロの危険がある」として職場を追われたパレスチナ人に代わって、建設労働者として導入されたルーマニア人の男たちだった。しかしこのホテルにいる男たちはルーマニア人ではなく、トルコ人だった。なぜトルコ人の集団がこの危険な時期にバグダッドにいるのか。ホテルの従業員によれば、彼らはアメリカ軍当局と提携したトルコの建設会社の労働者たちで、激しい戦闘が続いていたファルージャ近くの町でアメリカ軍施設の1つ、米兵たちの衣類の洗濯工場建設のために派遣されているという。このホテルは数ヶ月前から、イラク入りし現場へ向かうまでの数日を過ごすトルコ人労働者たちの逗留先になっていた。これまで毎回30人ほどを3回受け入れてきたという。
なぜトルコ人なのか。ホテルの従業員は2つの理由をあげた。1つはイラクに隣接し、サダム時代からトルコ企業が数多くイラクで活動していたこと。2つめは、イラク戦争では米軍に加担しなかったために、イラク国民の反発が少ないことである。そのトルコ人が、米軍占領当局とその関係者たちの保護区となっているバグダッド中心部の「グリーン・エリア」でも運転手などさまざまな職種では働いているという。
6月下旬の主権移譲の青写真も見えず、治安悪化で混沌とするばかりのイラク情勢。しかしその中で米軍当局は着々と、「復興事業」という名の「金儲け」にアメリカ企業を吸い寄せている。そしてその“おこぼれ”にあずかろうと、高収入を求めてアジアの人々がイラクへ向かう。「自衛隊派遣」でアメリカに「貢献」した日本の企業も、「ご褒美」として自分たちに声がかかり出番が来る日を、手ぐすね引いて待ち構えているのだろうか。
投稿者 doitoshikuni : 01:03 | コメント (0)
ファルージャ 静かな農村を襲った真夜中の「無差別」攻撃
『週刊朝日』2004年6月4日増大号より
米軍が1カ月近く包囲攻撃を続け、700人以上の市民が犠牲になったとされるイラクの都市ファルージャ。この街でいったい何が起きたのか。現地入りしたジャーナリストの土井敏邦さんが、すさまじい破壊の実態を報告する。
居間を通り抜けると、天空が広がり、壁に囲まれた空間は瓦礫の山となっていた。
一瞬中庭かと思ったが、この家の主人は、爆撃で天井が崩れ落ちたと説明した。
瓦礫の角に哺乳ビンが残っている。その近くに頭皮のついた髪の束、さらにミイラ化した足の一部。その指の大きさから、子供のものと判別できる。瓦礫の下から出てきたものだったという。
戦闘機や武装ヘリコプターの攻撃で、ファルージャでもっとも激しい被害を受けたとされる市内北西部のジュラン地区。ザーヒ家のアハマドさん(28)は、4月6日に突然起こった、その事件をこう語った。
「当時、叔父や従兄弟などを含む4家族がこの家にいました。攻撃の激しい地区を逃れて安全だと思いわれたこの家に親戚が避難していたのです。午後10時ごろ、突然、まず家の門の近くに米軍の戦闘機から爆撃が落とされました。その爆弾で家の入り口付近にいた男たちが殺されました。その直後、30人を超える女性と子供たちが避難していた部屋にミサイルが撃ち込まれ、天井は崩れ落ちました。部屋にいた31人が下敷きになって殺されました。そのうち子供は16人でした。瓦礫の下に埋まった遺体を片付けるのに2日間もかかりました」
どう見ても、「無差別」にしか見えない攻撃だ。なぜファルージャが、無差別的な包囲攻撃にさらされたのか。
バグダッドの西方約60キロにあるファルージャは人口およそ30万人、イスラム教スンニー派住民の街である。
米軍の占領が始まった直後の昨年4月、市内の小学校に陣地を構えた米軍に対し、市民が撤退を要求するデモを行なった。その市民に向かって米軍が銃撃し、十数人が殺害された。この事件をきっかけに反米意識が一気に広がった。以後、ファルージャは米軍に対する武装闘争の拠点の1つとなっていた。
ファルージャへの度重なる米軍の弾圧に、反米感情が一層高まっていた3月31日、市内に侵入した4人のアメリカ人(「民間人」と報じられているが、米軍や情報機関の出身者または関係者だといわれている)が市民によって殺害される事件があった。
遺体は焼かれて鉄橋に吊るされた。この事件をきっかけにして、米軍は4月5日からファルージャを包囲攻撃し始めたのだ。
4月末、米軍とファルージャ出身の旧イラク軍将軍との停戦協定によって米軍は撤退を開始した。私がバグダッドからファルージャに入ったのは、包囲が解かれて数日が経った5月11日だった。
幹線道路の検問場所には米軍とファルージャ出身のイラク軍が共同で警戒に当たっていた。だが、検問所のイラク兵の1人が「米軍は我われを全く信用せず、車などの最終チェックは米兵がやるんです」と私たちに不満をこぼした。
今のファルージャは一見、平穏が戻ったように見えるが、外国人が単独で動き回るのはまだ危険だ。私はイスラム党の支部を訪れ、取材への協力を要請した。
米軍の攻撃で負傷した患者たちが入院するファルージャ総合病院。停戦協定から2週間たった5月中旬でも、米軍の攻撃の犠牲者たちがまだ残っていた。
12歳の少年アブドゥル・ワドゥットの右脚は腰までギブスに支えられていた。レントゲン写真を見ると、大腿骨の付け根あたりが骨折している。神経も切断されているという。さらにペニスと睾丸を失っていた。
叔父の説明によれば、停戦協定が成立した直後、久しぶりに友達と遊べると、家の外へ飛び出して、突然米軍の狙撃兵に銃撃されたという。
眼以外にまったく全身の機能を失った15歳の少年モハマド・イスマールは、もう1ヵ月もこの病院に入院していた。脳のレントゲン写真には、小さな爆弾の破片が数個写っている。
ほぼ1ヵ月前の4月上旬、モハマドは、空になった調理用のガス・シリンダーを交換するために、肩に抱えて家を出ていった。その後、どこで、どのように爆弾の破片を受けたのか、家族にもまったくわからないという。
「高校生ですけど、もう学校へ行くこともできません。この子のために何ができるでしょうか。眼以外はまったく身体が動かないのですから。鼻からの管で食べ物をとるだけです。こちらが話しかけても何の反応もありません。死んだ人間のようです」
母親は、途方に暮れたように言った。
「米軍のファルージャ攻撃は民間人への“無差別攻撃”だった」という確信を一層強めたのは、街から10キロほども離れた郊外の農村地帯・ナイミヤ地区で目撃した米軍のすさまじい攻撃の爪跡を目の当たりにした時だった。
たっぷりと水をたたえた川、緑が広がる畑、椰子の林、ナイミヤ地区はのどかな田園光景が広がる静かな一帯だ。ここで住民13人が殺害され、27人が重傷を負ったという。そんな悲惨な事件がほんとうにこんなのんびりとした場所で起こったのだろうか。私を案内するイスラム党関係者の情報が、にわかには信じられなかった。
目的地の農家は、そんな田園のなかにあった。周辺にはほとんど他の民家は見えない。
出迎えたこの農家の主人ハイテム・アブジャーセム(32)に案内されて、数軒の建物が並ぶ敷地内に入ったとき、それまでの疑念は、一気に吹っ飛ばされた。
4棟の建物の内部が1棟を除いてほとんど破壊されている。天井に大きな穴が開き、壁は大きく崩れ落ちている。中は瓦礫の山だった。
戦闘とはまったく無縁の場所のように見えるこの農家で、いったいなぜこんなことが起きたのか。
ハイテムの説明によれば、4月24日の真夜中午前1時ごろ突然、米軍の戦車による砲撃と戦闘機による爆撃が始まったという。
「ここにはまったく戦闘員も、米軍のいう『テロリスト』もいませんでした。この家には、銃さえもなかったんです。だからもちろん誰も銃で反撃などしていせん」
そう言ってハイタムは私を1棟の建物の中へ案内した。瓦礫が広がった床に、布団と枕が残っていた。
「戦闘機からのミサイル爆撃でこの部屋が破壊されました。ここには私の弟夫婦と3人の子供が眠っていました。子供の一番上は5歳でした。爆撃されたとき、弟は子供を抱えて避難させようとしました。しかしその5歳の娘は瓦礫の下敷きとなって死にました。弟自身も右腕の肉をえぐりとられました」。
次の建物は壁一面が崩れ落ち、支えきれなくなった天井は今にも落ちそうな様子だ。「最初の砲撃はこの壁からでした。私のもう1人の弟とその家族6人がこの部屋で眠っていました。13歳の娘がここで殺されました。名前はブラシュラーです。これがその娘の血の痕です」
床にころがるブロックの塊に染み付いた血痕があった。
「彼女の母親は手の甲の肉をえぐりとられ、顔も首も焼かれていました」
ハイテムは崩れ落ちた壁から身を乗り出し、外の中庭を指差して言った。
「21歳の弟はあの中庭で寝ていました。爆撃が始まったとき、弟は叔父の子供を抱えてコンクリートの建物に避難させようとした。しかしその途中で米兵に撃たれて死にました。あそこに血の痕が残っています。叔父の息子は今も負傷したままです。叔父のもう独りの息子は他の家に寝ていましたが、自分の子供を外に連れ出そうとしたとき、戦闘機から爆撃で殺されました。弟はモアイヤット・アブード・ジャーセンで、叔父の息子はアリ・アブジャーセン22歳です」
ハイテムは、爆撃から逃れようと別の家族が向かった20メートルほど離れた灌漑用水にも私を案内した。
「私の弟アリは2人の娘を抱えて爆撃から避難しようとして、この水路まで逃げ、川の中に身を隠しました。しかしそこにクラスター爆弾が落とされ、アリと6つになる長女のザハラは即死し、4歳の次女のグルランは重傷を負って、翌日病院で亡くなりました。この周辺にはたくさんのクラスター爆弾が落ちていたました」
別の建物の鉄の扉は砲撃で穴だらけだった。中にはいると中庭が広がっていた。 ここではファルージャ市内から避難していた親子、32歳の母親と4人の子供が犠牲となった。中庭の隅の床がにじんでいた。ハイテムはその母親の血の痕だと説明した。
母親と5人の幼子たちは、この中庭でマットレスを並べて眠っていた。そのとき突然、ミサイルがその中庭に命中した。全員が即死だった。ほとんど遺体の姿をとどめず、中庭一面に頭部や肢体、肉片が散乱していたという。壁の一面にはセメントを叩きつけたような無数の小さな塊が点在しこびりついていた。近くによって見ると、黒ずんだ泥のように見える。
「これは壁に飛び散った肉片と血の跡です」とハイテムが言った。さらに床に落ちている木の皮のような物体を手に取ると、彼は付け加えた。
「これはイブラヒム(2歳)の手の肉片です。イブラヒムの遺体はばらばらになっていて、頭はこの角にころがっていました。まるで首をナイフで切ったようでした。後頭部は切れてなくなっていました。脚は何日もたってから、あの角でみつかったのです」
中庭で寝ていた母親と5人の幼児たちのうち生き残ったのは生後6ヵ月になる赤ん坊だけだった。母親はなくなる直前、とっさに赤ん坊を洗面所に運んだ。他の子供を助けようと中庭に戻って来たときに被爆し即死したという。
この攻撃でアブジャーセム家の家族13人が死亡、うち10人が2歳から14歳までの子供たちだった。
深夜から始まった砲撃が止んだ朝、米兵たちが爆撃跡の家に捜索にやってきた。
亡くなった弟の部屋に入ると、戸棚のドアをたたき壊して中を調べた。中から弟の身分証明書の入った財布と50万ディナール(およそ330ドル)の現金が出てきた。
「米兵はその身分証明書と現金をポケットに入れて出ていきました」(ハイテム) その部屋が終わると、米兵たちは他の部屋に行き、同じように家具を破壊して捜索した。さらに野外にあった車の窓ガラスを銃尻で車のガラスをたたき割り、中を調べた。しかしもちろん武器は何も出てこなかった。
「誤爆」だったとわかったのか、米軍の将校がハイテムに「アイム・ソーリー(申し訳なかった)」とだけ言った。
「事件を知った周囲の村人が私たちを助けようとここへ来ようとしたとき、米軍は村人たちを拘束しました。地面に座らせ、両手を頭の上に組ませたまま2時間ほども放置しました。生き残った私たちは27人の負傷者をなんとか救助しようとしました。しかし薬もなく、ただ包帯があるだけです。負傷者を救助するときも狙撃される危険があったために立ち上がることができず、這って移動しました。私たちは簡単な治療で止血を試みました」(ハイテム)
米軍は負傷した家族をヘリコプターで米軍の病院へ運び応急手当をした後、イラク人側の病院に移送した。その後、米軍から何の補償も公式の謝罪もないという。
中庭の一角にテントが建てられていた。ファルージャ市内のイスラム党から寄贈されたテントだという。中には病院から戻った重傷の2人の家族が横たわっていた。
ハイテムの弟のバラカット(25歳)は、右腕の肉をえぐりとられ、両脚と腰にも重傷を負っていた。もう1人の弟ユーセフ(31歳)は、右頬の肉を失い、顎(あご)の間接を砕かれている。100ドルほどを支援したイスラム政党以外に支援する団体もない。病院に長く入院することもできず、2人は傷口に蝿が群がるこのテントなかで療養するしかないのだ。
単純な「誤爆」なのか。なぜ米軍は街から遠く離れ、孤立した農家を狙って、何の反撃もしない相手に数時間にわたって攻撃を続けたのか。イスラム党の幹部は「米軍は、殺された4人のアメリカ人の1人当たり、100人のファルージャ住民を復讐のために殺害するつもりだったようだ」と語った。私はベトナム戦争当時の米軍による「ソンミ村虐殺事件」を思い出していた。
「700人の超える犠牲者」という住民側の統計が誇張ではなかったことを実感したのは、街の中心地のサッカー場に設けられた「集団墓地」の前に立ったときだった。ここだけでもおよそ500人が埋葬されて、新しい土盛りの列が何十も並んでいる。
私は2年前に、似たような光景を目撃していた。2002年4月、パレスチナのジェニン難民キャンプ。イスラエル軍に2週間近く包囲され、空と陸から猛攻撃を受け亡くなった数十人のパレスチナ人住民の集団墓地だ。そこでは急ごしらえの「墓石」は、名前を書いたダンボール紙だった。
一方、ここファルージャでは「墓石」は歩道の石版だ。中には3つの名前が並んでいる「墓石」もあった。遺体の一部しか見つからなかった幼児3人の墓だという。
小さな墓もあった。手しか発見できなかった少年の墓だった。1つの土盛りの横に、もう1つ、小さな土盛りが寄り添う墓もある。3歳になる幼児を抱いたまま亡くなった母親の墓だった。命を絶たれても抱きしめて離さなかった子供を、その母親の墓が今でも抱いているように見えた。
ジェニンとの共通点が他にもあった。米軍が陣地に使った住民の家で、米兵たちが食物やコラーンの上に脱糞していたとある住民は証言した。そういえば、ジェニンでもイスラエル軍に占拠された民家で、ベッドや家族の写真の上に兵士が脱糞していたと住民が証言し、私にその痕を示した。侵略軍が「征服の証」として行なう共通の行動パターンなのだろうか。
墓地で白い髭の老人が号泣しながら、私を導いた。大学生と高校生だった2人の息子が他の3人の親戚たちと自宅でお茶を飲んでいる最中、戦闘機によって爆撃され、5人は即死した。
この他にも市内のあちこちに小さな墓地が作られ、自宅の庭に埋葬せざるをえなかった例もあったという。
集団墓地を取材する私に、男たちが群がってきた。
私が日本人だとわかると、1人の男が怒気を含んだ声で私に向かって訴えた。
「私たちイラク人はどんな国からも人も受け入れます。しかし軍隊だけは絶対送らないでほしい。あなたたちが軍隊を送るなら、私たちはその軍隊と闘う。軍隊を送るどんな国でも、私たちたちの敵なのです。イラクに軍隊を送る国はアメリカと同様、犯罪者なのです。アメリカという犯罪者のパートナーなんですよ。イラクに必要なのは再建であり、軍隊ではありません」
土井敏邦