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2004年11月17日
イラク国民にとっての主権委譲2004.Nov.
イラク国民は「主権委譲」をどうみているのか 土井敏邦
6月28日、イラク暫定政府に「主権」が移譲された。しかしその「主権」がどれ程度の権限なのか、CPA(連合国暫定当局)に代わるアメリカの拠点「在イラク・アメリカ大使館」の意向からどれほど自由でありえるのか、不透明である。
では、イラク国民は、この暫定政府をどう見ているのか。「主権委譲」に対するバクダッド市民、大学生たちに期待と不安を訊いた。
まず学生たちの中から出てきたのは、「占領から生まれたこの新政府は信用できない」といった暫定政府の“正当性”を疑問視する声である。
「新大統領も首相も、イラク国民が選んだ人物ではなく、統治評議会が選んだものです。その統治評議会のメンバーを選んだのはアメリカ占領当局です。つまりこの暫定政府はイラク人の願いと意思を反映したものではありません」(メイタム・ラザック/バクダッド大学英文科3年/26歳)
しかし圧倒的に多いのは、イラク人による新政府に対する願いにも似た期待だった。
「もちろんこの新政府の指導者たちを国民が直接選んだ者たちではないにしても、多くの国民はこの政府を受け入れていると思います。とくにヤウエル新大統領は、すべての国民が知る大きな部族の長です。イラク人には自分たちの政府が必要です。この新政府が力をもてば、国民は『今、私たちには自分たちの政府がある』と胸を張ることができます」
(エマド・ユーセフ/農業省公務員/34歳)
「私は新政府を信頼します。フセイン政権時代からの35年間に人生を奪われ、ひどい状況に置かれてきたイラク国民を新政府は救って欲しい。1年半のアメリカの占領によっては私たちの生活は何一つ改善されませんでした。今、イラク国民は将来への希望を求めています。そんな国民に『この新政府はイラク人を救うためにできたのだ』ということを示してほしい。単なるスローガンではなく、実際、私たちに実感させてほしいのです。もうスローガンにはうんざりです」
(バラセム・サーレ/バクダッド大学英文科3年生/50歳)
「新政府は国民の失業問題を解決してくれることを願っています。そしてなりよりも治安です。いつ、どこで爆弾事件があるかわらない。人々が自由に安心して街を歩けるようにしてほしいのです」
(ハイダル・ハッサン/バス運転手/21歳)
一方、イラク暫定政府は来年1月の直接選挙によって国民が真のイラク政府を選ぶまでの一時的な政府に過ぎないという冷めた見方もある。
「今は、私たちが選択しようにも、どんな指導者たちがいるのかわかりません。これから1月までにいろいろな指導者たちが現れるはずです。もしこの新政府がアメリカの言うとおりに動くような政府だったら、国民によってこの政府は追い出されるでしょう」
(エマド・ユーセフ/農業省公務員/34歳)
多くのイラク国民が自分たち自身で選んだ政府でなくても期待を寄せる背景には、この1年半のアメリカの占領に対し、「ただ約束だけでイラクのために何もしなかった」という失望と、「住民に暴行を加え、何の了承も得ずに民家に侵入してやりたい放題のことをやってきた」という怒りがある。主権委譲後も米軍がイラクに駐留し続けることへの是非を尋ねると、ほとんどの回答者から「アメリカはイラクから出ていくべきだ」という答えが返ってきた。
「たとえ主権を新政府に委譲しても、米軍がこれまでのように街の中を闊歩し続けるならば、国民の誰も新政府がイラクを統治しているとは実感できないでしょう。アメリカが何と言おうと、イラク国民が望んでいるのは、アメリカによる占領の終結です。主権を委譲するといいながら、米軍が留まり続けるならば、新政府も成功しないでしょう」
(エマド・ユーセフ/農業省公務員/34歳)。
「アメリカはイラクに自由と民主主義をもたらすために、また支援ために来たと世界に喧伝しています。しかしイラクに長く留まるならば、イラクの解放のためではなく、占領しイラクの豊富な資源を奪うために来たことになる。アメリカはイラクの石油資源をコントロールしようとしているのです」
(バラセム・サーレ/バクダッド大学英文科3年/50歳)
「アメリカは巨額の金を使ってイラクへ侵攻し占領しました。そんなアメリカがイラクから何も得ずに出て行くはずがありません。米軍は占領し続け、自分たちが目的を遂げ撤退したいときに、撤退を決断するでしょう」
(メイタム・ラザック/バクダッド大学英文科3年生/26歳)
連日のように爆弾テロが続く不安定なイラク情勢のなかでは、治安維持のために米軍の駐留はやむをえないのではないか、という私の問いに、
「今、米軍がイラクを去ると、イラク人同士の大きな内戦が起こるでしょう。私たちが十分な軍隊をもち治安を自分たちで守れるまで米軍はイラクに留まったほうがいい」
(アブドゥル・フセイン/鍛冶屋/56歳)
といった声は、インタビューした25人のうち2人だけだった。大半は、「新政府の方がイラクの治安を護れる」という意見である。
「アメリカは自分たちがイラクの治安を護っていると言います。しかしそれはイラクに留まるための言い訳に過ぎません。私はいつも自分が発行する新聞で『イラク人に治安維持の権限を与えよ。イラク人で護れる』と主張してきました。イラクの大きな部族やファミリーの力、またイスラム教の聖職者たちの力でイラクの治安維持はできるのです。
アメリカはこの1年半、イラクにとって有益なことは何一つやってこなかった。そうしようとまったく考えていなかったのです。アメリカはイラク人の信頼を完全に失ってしまいました」
(アルゾバイ/イラク・ジャーナリスト協会幹部)
「主権委譲後に米軍がイラクに留まり続けることには反対です。そうなればイラク国内で米軍を狙った爆弾事件が続き、いっそうイラクの治安が脅かされます。しかも爆弾事件の犠牲になるのは、米軍ではなく、大半がイラクの一般市民なのです。アメリカが去れば、イラクは今までよりずっと状況がよくなります」(ハイダル・ハッサン/バス運転手/21歳)
「イラク人のことはイラク人自身が一番よくわかっています。イラク人同士ならお互い理解しあえます。しかし外国人はイラク人のことを理解できません。だから外国人はイラクの街でセキュリティーを維持することはできません」
(モハマド・イサ/医療器具の技術者/34歳)
「イラク警察や新イラク軍は十分な武器も装備も与えられていません。彼らの現在の装備は米軍の装備とは比較にもなりません。国のセキュリティーを護るためには必要なすべての装備が与えられるべきです。そうすればイラク軍や警察はもっと強力な組織になり、それを見る一般市民も彼らが力を備えていることを実感し、信頼するようになるはずです」
(アラー・アブドゥラ/文房具店店員/40歳)
多くのイラク国民が暫定政府に大きな期待を寄せている根底には、1年半のアメリカの占領によって何一つ事態が好転しなかったことへの失望と怒りの反動と共に、「少なくともアメリカの占領からは抜け出せる」という藁をも掴む思い、そして「たとえ今はアメリカに押し付けられた政府や指導者であっても、来年1月には今度こそ自分たちで政府や指導者を選べる」という将来への期待があるようだ。
しかしたとえ国民が自らの意思で選んだ指導者や政府であっても、アメリカの意思から決して自由にはなれないという現実に直面したとき、イラク国民はその自国の政府や指導者とどう向かいあおうとするのか。6月28日の「主権委譲」の結果が見えてくるのは、まだ遠い先である。
投稿者 doitoshikuni : 23:26 | コメント (0)
「テロとの戦争」というけれど2004.Nov.
「テロとの戦争」名目の蛮行
土井敏邦
今年春に起こった米軍によるイラクのファルージャ侵攻と、イスラエル軍によるラファ侵攻の双方の現場に驚くほど共通する点がある。1つは侵攻した軍の狙撃兵が「動くものは何でも撃つ」ことだ。銃の照準眼鏡で相手が子供や女性であることを判別できていても、まるで猟を楽しむかのように撃ち殺している。そしてもう1つは、救急車の救助活動の妨害だ。ファルージャでは救急車の運転手が射殺され、私が確認しただけでも2台の救急車が砲撃で丸焼けにされていた。
2週間で58人の住民が殺害され、561軒の家屋破壊によって3352人がホームレスになった(「パレスチナ人権センター」統計)5月のラファ大侵攻でも、イスラエル軍によって救急車が攻撃され、遺体の運搬や負傷者の救助が妨害されたという証言が医療関係者から複数出てきた。
その象徴的な事件が救急車の生き埋め事件だ。 戦車の銃撃によって負傷した3人の家族を救出するために1台の救急車が現場に急行した。しかし目的の家の手前で戦車が救急車の前に立ちはだかり、銃撃しはじめた。運転手は救急車を後退させようとしたが、後方でブルドーザーが土砂を積み、退路を塞いだ。前方にも他のブルドーザーが土砂を積み上げ、さらに両側から土砂を押し付けてきた。運転手は救急車を生き埋めしようとしていると悟り、携帯電話で必死に病院や赤十字国際委員会に救援を求めた。「呼吸は問題なかったのですが、抑えがたい恐怖に襲われました。銃弾や砲弾によってではなく、土砂で埋められることによって、ゆっくり死に向かっているような気持ちでしたから」と運転手が当時を振り返る。赤十字などの介入などによって4時間後、やっと土砂が取り除かれ、運転手と2人の救急隊員は九死に一生を得た。しかしその救急車は破損が激しく二度と使えなくなった。
この運転手は2日前にもイスラエル軍に救急車の移動を阻止された。殺害された住民の遺体を収容するため、イスラエル軍に封鎖された地区へ他の2台の救急車と共に出動したときだ。突然、戦車が道路を塞ぎ、上空の武装ヘリコプターが救急車に向かって銃撃を始めた。3台の救急車は国連の診療所に避難したが、まもなくここも戦車に包囲され銃撃された。14時間後、赤十字国際委員会らの介入で運転手ら12人はやっと救出されることになったが、イスラエル軍は3台の救急車で出ることを認めず、病院が手配した別の救急車で脱出せざるをえなかった。3台の救急車は軍がその地区から撤退するまで使えず、医療活動に大きな支障が出た。
「テロとの戦争」「テロリストの駆逐」の大義名分があれば、侵攻した軍隊が現地の住民に対してどんな非人道的な蛮行、殺戮を行っても、それが免罪されてしまう空気がいま世界を覆っている。
投稿者 doitoshikuni : 23:24 | コメント (0)
パレスチナ・国境の最前線で2004.Nov
国境の最前線で生きるパレスチナ人たち
土井敏邦
(5月大侵攻後も続く小規模の家破壊)
「私には兄弟も父も息子もいません。助けてくれる身内はだれもいないのです。どこへ行けばいいのですか」と、瓦礫の山となった自分の家の前で老婆が訴えた。「生まれてからずっと暮らしてきたこの家を見てください。ほら、ここへ来て。私たちの家財道具のすべてがどうなったか、見てください!」
エジプトとの国境沿いラファ難民キャンプの一角にあったこの家で、未婚で頼れる家族もないこの老婆は、未亡人となった他の姉妹2人と肩を寄せ合うように暮らしてきた。しかし8月8日、イスラエル軍の侵攻で周辺の数軒の家と共に完全に破壊されてしまった。理由はわからない。老婆たちは行き場を失い、ホームレスとなった。
国境近くで装甲車が爆破され6人の兵士が死亡した事件を契機に、今年5月、イスラエル軍は大量の戦車、武装ヘリコプター、ブルドーザーを動員してラファの難民キャンプに侵攻した。2週間近くに及ぶ侵攻の結果、58人の住民が死亡、261軒の民家が完全に破壊され、561家族、およそ3400人が住処を失った(「パレスチナ人権センター」統計)。
5月の侵攻時に比べ規模が小さいために、世界のメディアはほとんど伝えないが、その後も、イスラエル軍のラファ難民キャンプへの侵攻と家屋の破壊は断続的に続いている。イスラエル側は、武器密輸に使われているエジプト側へのトンネルを破壊するためと主張している。しかし破壊された家の中には国境から遠く離れた民家も少なくない。
5月18日に突然、イスラエルのブルドーザーに隣の2軒の家と共に自宅を完全に破壊されたアラ・バナット(31歳)は、家の近くから見える国境側を指差して訴えた。
「私の家からあの国境まで500メートル離れています。もし誰かがトンネルを掘るとすれば、(エジプト側に到達する)700メートルも離れたところから掘るだろうか。目的地まで到達するためだけでも1年ほどもかかってしまう。この地区にトンネルがあったのかどうか考えてみてください。まったく不可能です」
(癒えない5月大侵攻の傷跡)
5月に家を失った家族の中には、4ヵ月近く経った今も、元の家の敷地内に建てたテントで暮ら
者もいる。気温が30度を超す真夏のテント生活は過酷だ。「外から入ってくる害虫に悩まされています。パンに蟻がたかっているときもあります。冷蔵庫もありません」と老婆マリアム・マカウィ(64歳)は言う。しかし警察官の息子の少ない収入では生活費にも事欠き、借家の家賃を払う余裕もない。「UNRWA(パレスチナ国連難民救済事業)が借家の金を払ってくれるのを待っています。もしそうしてくれないのなら、このテントにとどまるしかありません。他に選択の余地がないのですから」
借家で暮らせても、家を失った家族は深い傷痕を引きずっている。
10人家族、アルガッサース家の主ハリール(50歳)がイスラエル軍に殺害されたのは、昨年12月の侵攻の時だった。ハリールは他の家族を避難させ、独り家に残ったが、やがて職場の市役所に向かうために家を出た。その直後、イスラエル兵士に狙撃された。背中から入った銃弾は、心臓を突き抜けていた。半年後の5月、大黒柱を失ったこの家族にさらに災難が襲った。再び侵攻してきたイスラエル軍が、この家族の家を完全に破壊したのである。
妻のナジャハ(43歳)は、夫と家を失い、義母(85歳)と7人子供をかかえ、市役所からのわずかな年金で生活を切り盛りしなければならない。そんな彼女の一番の心配事は、相次ぐ不幸が幼い子供たちに与えた心理的な影響だ。子供たちの中には今なお、夜、悪夢にうなされる子がいる。7歳になる末っ子は夜中に起きだし、夢遊病のように眠りながら歩き始め、外に出ようとする。朝、その理由を訊いても、何も覚えていないと言う。9歳になる子は夜、おねしょをするようになった。
「ある子が『いつ、お父さんは墓から戻ってくるの』と訊きます。他の子はときどき、お父さんの血を見るために、殺された場所へ連れていってくれとせがみます。また他の子は『僕は戦車のところへ行き、お父さんを撃ったようにイスラエル兵を撃つんだ』といいます」
「僕は毎夜、イスラエル人がやってくる夢を見ます」と答えたのは11歳の少年、サミーハだった。
「だから、いつも枕の下にナイフを置いているんです。もし奴らをみつけたら、腹を刺すんだ」
そのサミーハに「将来、何になりたい?」と訊いた。すると少年は「大きくなったら、ナイフや武器を買って、イスラエル人をやっつけるんだ」と答える。「そうじゃなくて、どんな仕事につきたい?」と問い直しても、少年の答えは同じだった。「警官になりたい。いや抵抗の戦士になりたい。そしてイスラエル人を撃つんだ。復讐をするんだ」。
止むことなく続くイスラエル軍の家屋破壊と住民殺害は、パレスチナの次世代を担う子供たちの心に、イスラエルへの修復しがない憎しみを植え続けている。
(銃撃の恐怖に晒される国境最前線の住民たち)
国境沿いの住民たちにとって、恐怖は家の破壊だけではない。イスラエル軍の監視塔からの無差別銃撃によって生命の危険にさらされている。
バルフム家は国境から数十メートル、その間にあった家々はすべて破壊され、その3階建ての家は国境の最前線となっている。そのため国境の壁に近いイスラエル軍の監視塔と向き合う位置にある。8月12日朝、ハルフム家の次男、サーフエルディーン(13歳)は、朝食を済ませると、屋上で飼っている鳩に餌をやるため、階段を上がった。その直後、家族は激しい銃撃音と叫び声を聞いた。駆け上がった次女のアスマ(14歳)は、屋上近くの階段で頭から血を流して倒れている弟の姿を目撃した。アスマは手で傷口を塞いで出血を止めようとしたが、激しい出血だったの止血できなかった。銃弾は頭の左側から右側に突きぬけ、壁をえぐっていた。少年は病院へ運ばれたが、3日後に死亡した。
「ここへ来て見てください。あれが銃撃した軍の監視塔です」と、現場を案内したアスマが屋上の入り口から南側を指差した。真正面、数十メートル先に不気味な鋼鉄の固まりが視界に飛び込んできた。この家族は日常的に塔からイスラエル兵に監視され、銃撃に怯えて暮らさなければならない。
サーフエルディーンは7月にエジプトに住む親戚を訪ねるために、旅行の準備を済ませていた。パスポートも取得し、旅行バッグに衣類も詰め終わっていた。しかしイスラエル当局が国境を1ヵ月近く封鎖したために予定通り出発できずにいた。その直後に起きた事件で、少年はエジプトへ永遠に旅立てなくなった。
昨年9月、同じ地区で、部屋の中で頭を銃撃され、身体障害者となった男性もいた。9日の夕方、大工のラムジ・アタフ(30)は2階の寝室で妻と、家の改築のために来る労働者たちの明日の食事について相談しあっていた。そのとき突然、銃撃が始まり、木製のドアを突き抜けた銃弾がラムジの頭に命中した。すぐに病院に運ばれたが、一時呼吸が止まり、3ヵ月間意識不明が続く重症だった。その後、数回の手術と長いリハビリによって、1年近くが経つ現在、やっと杖をついて歩けるまでに回復したが、右手は麻痺したままだ。銃撃は前例と同じく、軍監視塔からだった。その塔とラムジの家まで400メートル近くも離れている。
現在、軍監視塔に面するラムジ家の窓は、ブロックで塞がれている。昼夜を問わず、監視塔から無差別の銃撃がその後も続いているからだ。父親フセイン(55)は、家の前の通りで遊ぶ子供たちを示しながら言った。「ごらんの通り、通りの人々は一般住民であり、子供たちです。まったく警察署や軍事基地もありません。なのに、どうしてイスラエル軍は銃撃してくるのか。私たちがパレスチナ人だからでしょうか。それでも私たちはこの土地から離れません。他に行く場所がないからです。私たちはこの土地で生まれ、この土地で死んでいきます」
国境の最前線で暮らしていたパレスチナ人たちの多くは、いつ家を破壊されるかという不安と、銃撃の恐怖のために家を去り、国境から離れた安全な街の中心部や郊外の借家へ逃れた。そして人が住まなくなった家々は、「空家だから」という理由でイスラエル軍の破壊の対象となる。
イスラエル軍報道官室の海外メディア担当代表、シャロン・フェインゴールド少佐(2003年3月当時)は、ラファでの家屋破壊の第1の理由は、武器密輸に使われる国境のトンネルを破壊するためと答えた後、次のように言葉を継いだ。
「第2の理由は、それらの家が空家だからです。かつてパレスチナ人が住んでいましたが、今はすでに住民が去った家です。この周辺で激しい戦闘が行われるため、住民たちが家から出ていったのです。その空家がパレスチナ人武装グループによってイスラエル軍への銃撃の拠点に使われています」。
しかし住民たちが家を離れるのは、「周辺で激しい戦闘が行われるため」ではなく、いつ家が破壊されるかもしれないという恐怖と、イスラエル軍からの無差別銃撃の恐怖のためである。また最前線の空家となった家も、常に銃撃される危険があるために、だれも近づけない。
「イスラエルのセキュリティー(安全保障)を護るため」という大義名分を掲げ、イスラエル軍は国境の街ラファで、住民の生活を破壊し続けている。イラク情勢に注目が移り世界のメディアが見向きもしないなか、国境の街ラファでは、今日もパレスチナ人住民たちが銃撃され棲家を失っている。
(出口の見えないパレスチナ情勢)
現在、パレスチナ・イスラエル報道のなかでもっとも注目されているのが、シャロン首相による「ガザ撤退計画」である。「強硬派のシャロン首相が“和平”に向けて動き出した。これに猛反発する右派勢力と闘いながらシャロンはガザからの入植地撤退を実現し、和平への道を切り開こうとしている」といったイメージが広がっている。しかしこの一見「和平への動き」のように見える計画は、実はヨルダン川西岸における大半のユダヤ人入植地を維持するための“引き換え”であることに世界のメディアはあまり注目しない。この「和平への動き」はガザ地区とヨルダン川西岸にパレスチナ国家を建設するというパレスチナ人の目標の芽を完全に摘んでしまうことになりかねないのに、である。
一方、パレスチナ人自身も内部に大きな問題をはらんでいる。アラファトを中心とする自治政府の腐敗と指導力不能という深刻な問題だ。ガザ地区では、そのような自治政府への住民の不満と怒りを利用して、「改革」の名の元にモハマド・ダハランが治安当局の幹部拉致などの手段で反旗を翻しつつある。欧米やアラブのメディア中には、このようなダハランを「アラファトの腐敗した旧体制に挑戦する“アラファト後の新たな指導者”」として持ち上げる傾向がある。しかし現地の見識あるパレスチナ人たちは、ダハランがアメリカCIAからの莫大な資金援助を用いて、特にガザ地区の治安当局関係者たちの“忠誠”を金で買い集めていることを見抜いている。つまりダハランは、アメリカからの潤沢な支援をバックに、アラファトの腐敗政治の「改革」を叫びながら、アラファトとまったく同じ「金で忠誠を買う」という政治手法でアラファト後の権力の座を狙っているというのだ。このようなパレスチナの内部情勢に失望したパレスチナ住民たちは、ハマスやイスラム聖戦などイスラム勢力の支持へといっそう傾きつつある。パレスチナのあるNGOによる世論調査によれば、イスラム勢力の支持率は今年3月の29%から6月には35%に急増している。一方、かつて過半数を超えていたアラファト率いる「ファタハ」の支持率は28%にとどまったままだ。しかしそのイスラム勢力の支持急増は、住民がパレスチナの将来をイスラム勢力に託そうとしている証左と短絡すべきではなく、腐敗した自治政府などに対する反発の象徴とみるべきだろう。
そのようなパレスチナの絶望的な状況のなかで、パレスチナ人住民から“将来の指導者”として支持を高めつつあるのが、イスラエルの獄中にある“インティファーダの指導者”マルワン・バルグーティだ。次回の選挙で副大統領として誰がふさわしいかという先のNGOの世論調査では、現首相のアハマド・クレイが6%、先のダハランが4%に比べ、バルグーティは25%と群を抜いている。しかも出身のヨルダン川西岸(24%)より、ガザ地区(27%)での支持が高いことは注目すべき点である。調査対象の住民の67%は、「イスラエルの裁判が彼をパレスチナの指導者として資格をいっそう高めている」と答えている。
投稿者 doitoshikuni : 23:20 | コメント (0)
現場とジャーナリスト2004.Nov.
現場とジャーナリスト
土井敏邦
今年4月、イラクのファルージャは1ヵ月近く米軍に包囲・攻撃され、700人を超える死者と2500人近い負傷者を出した。
私がその現場に入ったのは、包囲が解かれて1週間が過ぎた5月11日だった。それでも市内の至る所に攻撃の生々しい爪痕が残っていた。ミサイル攻撃で家族31人が屋根の瓦礫の下敷きになった現場には頭皮のついた髪、千切れミイラ化した子供の足が残っていた。爆撃で13人の殺害された農家の壁には、バラバラになった2歳の子供の肉片がこびりついていた。頭部に爆弾の破片を受けた15歳の少年は、眼の瞳以外まったく全身が動かない植物人間となっていた。12歳の少年は米兵に狙撃され、睾丸とペニスを失っていた。私がバグダッドから送ったその映像と活字は「スクープ」としてテレビや雑誌で伝えられた。私はジャーナリストとしての本分をいくらか果たせたような気がした。
しかし帰国後、「ファルージャ 2004年4月」というルポを読んで愕然とした。それは、まさに米軍の猛攻撃の中、ファルージャの現場の真っ只中に身を置いて凄まじい現場を目撃し、激しく銃弾が飛び交う中、負傷者の救援と遺体の回収のために奔走した米国人平和活動家たちの記録だった。首を撃ち抜かれ手の施しようもない少女の首からどくどくと流れる血、射抜かた心臓が飛び出し、胸が空洞となったまま路上に放置された老人の遺体、診療所の中庭に積み上げられた死体の列から漂う死臭、激しい銃撃の中、救いを求め哀願する老婆の恐怖に引きつった顔・・・・。
自分が「スクープ」だと思って伝えてきた内容は、現場に立ち会った者たちの記録に比べれば、“蛇の抜け殻”のようなものだった。“抜け殻”の様子を詳細に伝えることで、私はあたかも“蛇”つまり「民間人虐殺」そのものの姿を伝えたような気になっていたのだ。ジャーナリストの自分がなぜ、米国人平和活動家が入れたその現場にいなかったのか。その現場はまさに、イラク戦争の本質、米国のイラク占領の体質を凝縮し露呈した場所だったはずなのに。命懸けでその現場に立会い、貴重な記録を残した平和活動家に畏敬の念と嫉妬を抱くと同時に、ジャーナリストでありながら、「攻撃下のファルージャは危険で入れない」と思い込み、しり込みしていた自分を恥じた。
苛酷な状況のなかで呻吟する弱者たちの、声にならない“叫び声”に耳を澄まし、伝えていくこと――それこそがジャーナリストとしての自分の役割だと思っている。その弱者たちのうめき声を聞き取れる距離に自分の身を置ききれないなら、ジャーナリストとして私は失格である。