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2004年12月24日

パレスチナ この1年(04.12月に思う)

パレスチナのこの1年
土井敏邦

 分離壁、シャロン首相の「ガザ地区撤退案」、ガザ地区・ラファでの大量家屋破壊、そして北部ジャバリア侵攻による100人以上の犠牲者・・・、世界のメディアはパレスチナでの「旬な事件」をトップ・ニュースで伝え、まもなく問題が解決したかのように忘れ去る。

 しかし今、パレスチナ人に最も深刻な問題は、目に見えにくいがパレスチナ社会を蝕み続けている。
 イスラエルの“封鎖”政策によるパレスチナ社会・経済の侵食と、民衆の精神的な腐食だ。

 長年、占領政策によって、自立する経済の芽潰されてきたパレスチナは、封鎖によって“窒息状態”におかれている。これまで民衆の最大の収入源であったイスラエルへの出稼ぎの機会はほとんど奪われ、農産物や製品の輸出の道は閉ざされた。また原材料の輸入も困難となり、イスラエルの下請け産業も壊滅、零細工業も崩壊寸前だ。
 失業率は60%を超え、2年前でも1日2ドル以下の貧困ライン以下は全体で60%以上、ガザ地区では80%にも達し、5歳以下の子供の23%近くが栄養失調状態にあった。さらに深刻なのが高校や大学を卒業しても仕事もなく、海外で活路を見出すことも許されない青年たちの将来への絶望感と閉塞感だ。

 一方、腐敗し、民衆の状況改善に何一つ手を打てない自治政府の不能が民衆の絶望と怒りに拍車をかけている。このやり場のない民衆の感情が激しい反イスラエル感情を醸成し、ハマスの自爆テロやミサイル攻撃に溜飲を下げさせる。

 イスラエル側の何百倍もの報復がさらに憎悪を増幅する・・・。

 今、パレスチナで起こっていることは「暴力の応酬」ではない。物心ともに“窒息死”寸前にある民衆の断末魔の“叫び”と、それをさらに圧倒的な力で封殺しようとするイスラエルとの衝突だ。

投稿者 doitoshikuni : 13:09 | コメント (0)

ムスタファ君を支援してくださったみなさまへ

ムスタファ君を支援してくださった方々へ

 ムスタファ君への支援を呼びかけたジャーナリストの土井敏邦です。

 長い間、その後のムスタファ君への状況をお伝えできず、たいへん申し訳ありませんでした。その後、私自身の引越しと新生活のスタート、パレスチナ、イラク取材、パレスチナに関する拙著の執筆などに追われ、皆様へのご報告が遅れてしまいました。

 ムスタファ君は2003年8月末にヨルダンへ渡り、首都アンマンの病院で手術を受けました。その経緯は私のホームページ(www.doi-toshikuni.net/) で報告しています。

 アンマンでの1ヵ月間の治療の後イラクに帰国しました。私はムスタファ君の最初の手術直後、帰国しましたが、現地でムスタファの世話や日本との連絡係を引き受けてくださったNGO関係の日本人ボランティアの方々から、その後、ムスタファ君の様子は断続的に伝えられていました。それによると、私がアンマンを離れた後、もう一度、アキレス腱の手術が行なわれ、その傷が癒えた1ヵ月後の10月中旬に、イラクへ帰国しました。
 しかしその後、骨の一部(主骨を支える細い骨)に炎症が発見され、バクダッドの病院でさらに2度手術を受け、炎症した部分の骨を切除しました。

 そんな情報を現地から得ていた私は、2月3日、およそ半年ぶりにやっとイラクに戻ることができました。さっそくムスタファ君と家族を訪ねました。幸いその後、炎症は起こらず、傷口はほとんど治癒していました。左足も血色を取り戻していましたが、少し腫れていました。医者の説明によれば、怪我で静脈が一部破損しているために、動脈によって足先まで送られた血液を適切に心臓へ送り返すことができないためだということでした。また左足首を動かす筋肉がなく、足首より先にはまったく神経がないために足首から先はまったく上下させることはできませでした。

 帰国後、ムスタファ君は、脚を手術した医者の個人病院に定期的に通って診察を受けていました。医者は足の腫れはあまり心配する必要はなく、これからはむしろ歩くためのリハビリが必要だと助言しました。さっそく歩く練習が始まりました。1歳違いの妹ススが手を引き、ムスタファ君の歩行練習をサポートしました。松葉杖を使って歩く練習も始めました。その進歩は驚くばかりでした。

なんと、1週間ほどで、びっこを引きながらも自分の足で歩き始めたのです。

 やがて靴を履いて歩く稽古も始めました。すると、短い距離ながら、ほとんどびっこが目立たない格好で、まるで健康な子が歩くように歩けるまでになったのです。2003年5月、左脚が壊疽しはじめ、このままでは左脚を切除するしかないだろうと医者もさじを投げていたあのムスタファ君が、自分の足で歩いたのです。ムスタファ君のために心を痛め、温かい支援の手を差し伸べてくださった皆さんが、この姿を見てくださったら、どんなに喜んでくださるだろうかと思うと、涙がこみあげてきました。

 2月11日、学校が始まり、ムスタファ君も登校することになりました。学校は家から500メートルほど離れています。ムスタファ君は自分で歩いていくと言い出しました。しかし少し遠いので松葉杖を使うことにしました。彼が朝、松葉杖で家の外に出ると、登校する近所の子供たちがいっせいにムスタファ君の周りに集まってきました。そして皆に囲まれ見守られながら、ムスタファ君は自分の脚で学校まで歩きとおしました。

 しかし、ムスタファ君の治療はこれで終わったわけではありません。ヨルダンでムスタファ君の脚を手術した主治医は、「傷口が回復した後、次は足の神経の回復手術が必要だから、3ヵ月ほどしたら、もう一度ヨルダンへ戻ってくるように」と2003年8月末に私たちに告げていました。

 その3ヵ月が経った2004年2月、私がイラクを出るときに、もう一度、ムスタファ君をヨルダンへ連れていくも考えました。しかし2つの理由で延期することにしました。

 1つは、脚の状態です。傷は癒え始めたとはいえ、怪我と手術によって大半の筋肉が切除され、さらに10ヵ月近く歩くことができず、残った筋肉を使う機会もなかった左脚は棒のように細く、とても手術が出来る状態ではないこと、そしてもう1つはムスタファ君の心理状態のためです。
 それまで10ヵ月に11回の手術を受けた9歳の少年の心は、手術の痛みと恐怖にほとんどトラウマ状態でした。個人病院で医者が筋肉増強のための注射を打とうとしたときです。医者の手に注射を見たとたん、ムスタファ君は半狂乱のように泣き叫び、注射を拒み暴れ出しました。日ごろはおとなしく温和なこの少年が注射を見て、人が変わったように泣き叫ぶのです。

 彼にとって注射は「麻酔注射」を意味し、それはその後に続くはずの「手術」と直結しているのです。それから1週間後、今後の治療の方法を検討するために、脚の神経と筋肉の状態を調べる検査を受けることになりました。しかしその検査のために針を刺そうとしたとたん、ムスタファ君はまた泣き叫び暴れ出し、診察室から飛び出してしまいました。
 父親の言葉を借りれば、「前回、病院での注射のときの10倍も大きな声で泣き叫び、手がつけられない状態だった」そうです。結局、検査はできませんでした。爆撃による負傷と、その後の度重なる辛い手術と治療が、この9歳の少年の心にどれほど深い傷を残しているかを改めて思い知らされました。そのような理由で、2月にヨルダンへ神経の手術を受けに出ることは延期しました。

 2004年5月、4たびイラクを訪ねたとき、ムスタファ君は怪我の後遺症をほとんど感じさせないほど、ほぼ普通に歩けるようになっていました。しかし神経回復手術の準備ための検査はまだできていませんでした。その後もムスタファ君が検査に必要な注射に対するトラウマはまだ癒えず、どうしても検査ができなかったのです。父親のエマドさんも、ムスタファ君の今のような精神状態のまま、検査をし、手術をすることはあまりにも不憫だと考え、しばらく治療を中断する決断をしました。家族と話し合った結果、手術はムスタファ君の精神状態がそれを受け入れられる状態になるまで待つことにしました。

 残念ながら、それ以後、イラク国内の治安悪化のために私自身、イラクへ行くことができなくなっています。将来、治安が回復ししだい、ムスタファ君とその家族を訪ね、今後の治療について再び話し合うつもりです。

 これがムスタファ君の現状の報告です。

 私が前回、イラクを離れる直前、ムスタファ君とそのご両親が、支援してくださった日本の皆さんにぜひ伝えてほしいと、私のビデオに向かってメッセージを語ってくれました。以下はその翻訳です。

(ムスタファ君)
「僕を助けてくれた日本の皆さん、僕のことを心配してくれてほんとうにありがとう。僕は自分の足で立てるようになりました。僕のお父さん、お母さんもとても喜んでいます。僕は日本の皆さんに直接会ってお礼をいいたいです。僕を助けてくれた、とてもすきな人たちだから。それに日本へ行って大好きなナカタに会いたいな」

(父親・エマドさん)
「日本のみなさん、ムスタファのためにボランティア活動をしてくださった方々、ムスタファの側に立ってくださり、ずっと治療を支えてくださってほんとうにありがとうございました。私たちが回復に希望を失いかけたとき、神のおかげで息子は歩けるようになりました。ほんとうはカメラを通してではなく、日本へ行って、直接お会してお礼を申し上げたいところですが。心からお礼を申し上げます」

(母親・ナガムさん)
「ムスタファは日本のみなさんの援助なしには歩けるようにはならなかったでしょう。お金だけではなく、心の支援を通して、日本の人たちは、私が自分の血をもっても返しきれない恩を私たち家族に与えてくださいました。ムスタファが立てるようになり、歩けるようになったことはささいなことかもしれませんが、アメリカ軍の占領とアメリカに対する一撃です。日本の人たちがイラク人の側に立ってくださっていることに心から感謝いたします。日本の人たちに幸運がありますように」


 2003年9月に基金の残金を1万6736ドルと報告いたしました。その後、ムスタファ君が帰国した10月以降から2月20日までにムスタファ君の治療費などで1400ドルほどがかかりましたが、1月にムスタファ支援の基金にさらに12万8千円の支援金が入り、現在、およそ1万6600ドルほどの支援金が残っています。将来のムスタファ君の治療と支援のために、ヨルダン・アンマンの英国系銀行の口座に保管しています。
 
 これまでムスタファ君の状況について電子メールのアドレスをお持ちの支援者の方々には何度かご報告をしてまいりましたが、それ以外の方々への郵便による報告と領収書の送付がたいへん遅れてしまいました。深くお詫び申し上げます。

 最後に、ムスタファ君のためにご支援いただいた皆様に、私からも深くお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

12月11日
                           土井敏邦
(追記)
 支援者のみなさまには封書でこの手紙をお送りしました。
同封しました写真は、2004年2月に撮影したムスタファ君と両親、それに妹と弟です。

投稿者 doitoshikuni : 13:03 | コメント (0)

愛知大学祭講演録(イラク)04.11月

04/11/3 第58回愛大祭本部・国際問題講演会

土井敏邦氏講演

米軍はイラクで何をしたのか

 こんにちは。私はこれまで大学で話をすることはなるべく避けてきました。学生たちの反応が鈍く、失望していましたから。しかし今回は、愛知大学の方から熱心に“ぜひ”ということだったので、昨日まで九州にいたのですが、今日は朝一番の列車で横浜からきました。

 私は“パレスチナ問題”を20年ぐらい追いかけてきましたが、イラクに行き始めたのは、去年の戦争終結から一ヵ月後の5月です。それから8月、今年の2月、それからファルージャの後の5月とこれまで四回現地で取材してきました。今日は、今年の五月、五週間かけて取材したものを中心にみなさんにお話ししたいと思います。

 まず最初は、5月にテレビで放映した囚人虐待の問題です。そのビデオをまず見ていただきます。私が現地から送った映像を、筑紫哲也のニュース23で放映されたものです。7分ぐらいですの
で、これを見ていただいた後に補足するかたちでお話ししようと思います。

◆ニュース23で放映されたビデオより 

 「こんばんは、筑紫哲也です。イラク戦争に正義はあったのか、この問題をアメリカ人が考える際、今最も重要な判断材料、基準となりつつあるのがバクダットの刑務所でおこった虐待事件です。アメリカのメディアが競うようにその実態を暴いているのを、虐待が歴史的にも見過ごせない事実だと考えたからではないでしょうか。そして私たちも今夜、実体解明のためのスクープ合戦にささやかながら加わりたいと思います。」

 このビデオについて補足をします。アメリカ軍のやり方の一つは、まず拘束しようとする人物の家を急襲したとき、本人がいない場合にはその家族を身代わりに拘束します。彼の場合はお父さんがいなかったので、兄弟4人が拘束されました。拘束された後、証言者のアルカンさん含めてこの4人は、ものすごい拷問を受けました。殴る、蹴るはもちろんのこと、背中に水を流して電流を流されました。そのためにその兄弟は嘔吐にし続け虚脱状態に長く悩まされました。それから荷物を入れるコンテナの中に閉じこめられました。その中でテープレコーダーを最大のボリュームにして音楽を鳴らしました。さらに外から金属の棒でガンガンたたきます。その音がコンテナの中に響き渡ります。なぜそんなことをするかっていうと、中の囚人たちを眠らせないようにするためです。


(最も深刻な性的虐待)
 今回の囚人虐待で最も深刻だったのは性的虐待です。男性への性的虐待の例として、私の拙著の中に次のような例を紹介しています。
 一人の女性兵士が男の囚人を一列に並べ、金属の棒を尻の穴に突っ込んだという証言があります。また女性兵士が男性の性器ペニスのかたちをしたプラスティックを前方につけて、25歳の男性を裸にして後ろ向きに立たせました。そしてその男性の肛門にそのプラスティックのペニスを突っ込んだのです。まさに女性による男性のレイプです。さらにこの行為を写真に撮って、「もしお前が将来アメリカ軍に楯突くことがあれば、この写真をお前の住んでいる地域や家族にばらまくぞ」と脅したのです。これらはファルージャの聖職者の証言です。

 囚人虐待の中でも最も深刻なのが、女性へのレイプです。しかしこれはなかなか証拠が掴めません。私が取材した5月にはバクダット市内で「アブグレイブ刑務所に収容されている女性の大半は、アメリカ兵にレイプされて妊娠している」という噂が広がっていました。それはもう、「公然の秘密」のように語られていました。しかしそれを証明するものはありません。

 深刻なのは、先ほど、ビデオの最後で少し触れていましたが、アラブの世界で未婚の女性が性的な関係を持てば、死に繋がりかねません。例えば、未婚の女性がある男性と結婚前に性的な関係を持つと、兄弟あるいは親に殺されてしまう実例がたくさんあるのです。最近、書店には、未婚のまま男性と性的関係をもったために家族から顔を焼かれてしまったヨルダン人女性のドキュメントの本が出ています。現在でもアラブの社会では起きています。例えば夫が留守で拘束できず、妻や姉妹、母親が連行されるなど、女性側に何も罪がないのに身代わりとして収容され、その女性がレイプされたり、そのために妊娠したりすると、その女性が男性の家族に殺されてしまうことは珍しいことではないのです。

 実際、私がいろんな聖職者にインタビューした中で、こういう例がありました。彼女の名前は「ノール」という名前でした。彼女は2月にアブグレーブ旧刑務所から複数の聖職者にメッセージを送りました。その中で「私はアメリカ兵にレイプされ妊娠してしまった。どうしたらいいでしょうか」と訴えていました。それを受けて聖職者たちがどうするべきかを話し合いをしているときに、彼女は釈放されました。そして家に帰った直後、彼女は家族に殺されてしまったとある聖職者が私に証言してくれました。ただこれは裏をとるのがとても難しいのです。私のような外国人の男性はもちろんのこと、こういう被害を調査する現地の女性NGOのスタッフたちでさえほぼ不可能です。聖職者もできません。というのは、接触することで家族がそのことを知ってしまい、殺されかねないからです。女性だけじゃなくて、先ほど話しをした、女性による男性に対するのレイプも、もし公になったら夫としての尊厳を失ってしまい、そのコミュニティーの中で生活をしていけなくなります。


(なぜ反米感情がつのってしまったのか)
 イラク人のアメリカ人に対する感情というのはどういうものか。みなさんもテレビで、4月9日のサダム・フセイン像が倒れたときに歓喜する市民の姿を見たと思います。あれはほんの一部でしょうが、確かにあのように解放されたと思ったイラク人は少なくなかったはずです。だから当時アメリカ軍を歓迎した人はいたと私は思います。ところが私が現地に入った一ヵ月後の5月には、そのような熱気はすーっと引いていました。
なぜか。

 一つはインフラの破壊です。アメリカ軍は自分たちの生活を改善すると言っていたのに、全然よくならない。まず電気。イラクは5月ぐらいから猛烈に暑くなります。6月ぐらいになると50度を超えてしまう。みなさん、想像してみてください。気温50度を超えるなかで電気がないという状況がどういうものか。クーラーはもちろん扇風機もない。冷蔵庫もない。とても部屋のなかにいられたものではありません。私たちジャーナリスト、外国人が何とか生活できるのは、ホテルには自家発電があって、クーラーが効いている部屋で過ごせるからです。またガソリンが不足し、猛暑の中、ガソリンスタンドの前に長い車の列が延々と続き、何時間も待たなければならない。

 イラク人にとってさらに深刻だったのは、仕事がないことでした。アメリカ軍によって旧政権が倒れ、60万ともいわれたイラク軍の兵士が仕事を失いました。多くの公務員も解雇された。60%以上の人が失業状態になったといわれています。

 そして最も深刻な問題が、治安の悪化です。 サダム政権時代は、女性が夜間、街を歩くのはそれほど危険なことではなかった。バクダット大学の女性の学生に聞いても、夜、授業があっても自分たちだけで独り、帰宅することができたということでした。しかし私が取材していた5月ごろには、女性が昼間でも独り大学に行くことも危険すぎてできない状態になっていました。だから大学に行くにも、家族が付き添わないと危なくて行けない状態だったのです。結婚式を終えたばかりの花嫁が誘拐されクウェートに売られた、学校行く途中に少女が誘拐されたといった話は日常茶飯事のことになっていました。
そういう状況の中でイラク人たちは、“いったいこの「解放」は何だったんだ!」と気づいたのです。そして国民のそのような不満が、反米感情になっていきました。

 反米活動が活発になると、今度はそれを抑えようとしてアメリカ軍の兵士達が夜中に被疑者の民家を急襲するようになりました。ドアを蹴り破って侵入し、寝間着姿の女性の部屋に平気に入っていって、怪しいと思った男性を連行していく。私はパレスチナで長く取材してわかるのですが、寝間着姿のアラブ人女性の前に見知らぬ男性、とりわけ外国人男性が近づくということはちょっと常識では考えられないことです。それほど侮辱的なことをアメリカ軍は平気でやったのです。アラブの文化も風習もまったく尊重もせずに突っ走ってしまった。その反発が、どんどん強まり、反米感情が増幅されていった。それをさらに決定的にしたのが、収容所での囚人に対する性的な虐待でした。女性の囚人がレイプされたという噂が広まり、イラクだけじゃなくてアラブ諸国全体に、アメリカ軍のイメージが、衛星放送「アルジャジーラ」とか「アルアラビーヤ」などを通じてアラブ諸国全体にバーッと拡がりました。つまり、これはもうイラクだけの問題だけではなく、アラブ全体に反米感情がさらに大きくなっています。それに決定的な火をつけたのが次に話をする「ファルージャ」でした。


(ファルージャで一体なにがおこったのか)
 ファルージャでいったいなにがおこったのか。今日、国際問題研究会の人たちがつくった資料の中に、朝日新聞の川上記者が書いたファルージャの記事があります。日本の新聞記者としてファルージャに入り取材をしたのは、彼が最初で最後でした。しかし同じ日に実は小川巧太郎さんという、フリージャーナリストが入って取材をしています。橋田さんと共に殺害されたジャーナリストです。川上記者と同じ日に入って撮影した映像を「報道ステーション」に送ったのですが、何かの事件のために放映が遅れたために、朝日新聞のスクープとなったのですが、小川さんは生前そのことをとても残念がっていました。という番組のために映像を撮っていたんですが、なんかの事件のために放送が遅れたんですね。それで、結局、川上さんがうっといたということになったんですけど、彼はとても残念がっていました。

 私はその川上記者から6日ほど遅れて、5月11日に最初にファルージャに入りました。それから1週間ぐらい通いましたが、その後、当時、ファルージャを支配していた武装勢力が、一切のジャーナリストはファルージャに入ってはならないという通達を出しました。それ以後、おそらく外国のジャーナリストはほとんど入れなかったと思います。だから私も一週間で取材を中断せざるをえませんでした。そのとき取材したものを、これから見ていただきます。これは5月の13日だったでしょうか、現地からTBSに映像を送り、「ニュース23」とさらに5月下旬に「報道特集」でも放映されました。しかし今日見ていただくのは、私が編集したもので、まだ未公開の映像もあります。


<ビデオ上映>
・ファルージャはバグダッドの西およそ60キロの町です。
・今年4月、米軍が1ヵ月にわたってファルージャを包囲・攻撃しました。
・私がファルージャに入ったのは、その包囲が解かれて10日ほど経った5月11日でした。
・米軍側とファルージャ住民側との休戦協定で、当時、ファルージャへ続く道路での検問はファルージャ出身のイラク兵と米軍の共同で行なわれていました。
・しかし米軍はイラク兵を信用せず、最終検問は米兵が行なっていました。
・自爆攻撃を警戒し、武装勢力の通行をチェックするために、道路には土嚢が置かれ、ジグザク運転し、徐行しなければ通れない状態でした。
・一旦、街中に入ると、10日ほど前まで米軍との激しい戦闘があった街とは思えない平穏な様子でした。

・しかし市内に深く入ると、米軍の攻撃の爪あとがいたるところに残っていました。
・とりわけ攻撃の激しかった街の北西部ジュラン地区では、米軍の戦闘機による爆撃によって、多くの家が破壊されていました。

「これがブッシュのいう民主主義なんだよ。サダムは悪いとブッシュは言うが、サダムは彼らよりずっとましだよ。サダム時代は今よりずっといい」

・9月以降、激しくなったファルージャの爆撃でも、このような光景がさらに広がっていると思われます。
・米軍の爆撃で直径十数メートルの大穴が開いていました。幸い、奇跡的に犠牲者は出ませんでしたが、ここにあった民家は完全に破壊されてしまいました。
・これはばらばらになった冷蔵庫です。
・米軍はイスラム教徒にとって最も神聖なモスクをも爆撃で破壊してしまいました。
・これはイラクだけではなく、世界のイスラム教徒にとって衝撃と怒りを増幅させる結果となりました。

・この爆撃によって多くのファルージャの一般市民が犠牲になりました。
・この家は、米軍の攻撃が始まって数日後の4月8日の夜中、午前3時ごろに突然、戦闘機からミサイルを撃ち込まれ、母親と2人の幼い娘が亡くなりました。
・父親のジュマ・ハッサン(34)さんです。
・この写真の左端の少女が6歳のワファちゃん、右端がその妹ザハラちゃん、4歳です。ミサイルの落下地点の近くで眠っていた2人は、頭と胸に重傷を負い、救急車で運ばれるときに息を引き取りました。
・2人の姉妹が大切にしていた人形が残されていました。
・母親のメアドさん、25歳です。メアドさんは2人の娘に添い寝をしていました。ミサイルの破片でメアドさんの身体はずたずたにされていました。

「妻は両脚が切断され、左腕はなくなっていました。顔も口から左側が裂けていました。また頭の中に爆弾の破片が入っていました。2日後に亡くなりました」

・突然の爆撃で、ハッサンさんは、妻と2人の娘、つまり家族全員を失いました。

・ファルージャへの入り口アスカリ地区に住むザヒーハ・オベッドさん(45)は、米軍の狙撃兵に2人の子供を殺害されました。
・オベッドさん一家は、米軍に包囲された地区から避難するために、家族全員、白旗を立てた車に乗って脱出しようとしました。
・しかし家を出た直後、数十メートル離れた家の屋上にいた狙撃兵から銃撃されました。
・後部座席に乗っていた15歳の少女と8歳の少年が頭を撃ち砕かれました。

「息子は2発の銃弾を受けていました。1発はここで、もう1発はその下でした。飛び出した脳が私の手と脚に流れでてきました」

・フワイダはとても賢くて、高校3年生の最終試験を受けるために写真を撮って送ったばかりで、試験を楽しみにしていました。
・ラスールは小学校1年生で、車で避難する直前、「サラダが食べたい」と言い出しました。母親のザヒーハさんは、「道路が開放されたら、マーケットで野菜を買ってサラダを作ってあげるから」と答えました。
「今は寝ていても、座っていても、何をしていても、子供が私の膝の上で血まみれになって横たわっている光景を思い出します」

(Q・米軍にどんな感情をもっていますか)
「米兵を捕まえたとしても、私に何ができるでしょうか。切り裂き、引き裂きさいてやりたい・・・・でも私に何ができるでしょうか」

・米軍の空爆により、一族31人が殺害される事件も起こっていました。
・攻撃が始まって3日目の4月6日、この家には米軍の攻撃を逃れて、親族41人が避難していました。
・幼い乳児も含むたくさんの子供たちや女性たちが米軍の戦闘機によるミサイル攻撃で爆撃され、殺されました。
・これは瓦礫の下から出てきた血まみれの毛布、頭の皮がついたままの女性の髪、そしてこれはミイラ化した子供の足の一部です。

「2発のミサイルが天井に撃ち込まれ、避難していた女性や子供たちの上にその天井が崩れ落ち、ほぼ全員が死んでしまいました。赤ん坊ともう1人の子供だけが生き残りましたが、その子は片目を失ってしまいました」

「弟は片脚を切断されました。助かった赤ん坊は生後6ヵ月の女の子です。ここにいた20人が殺されました。女性と子供たちだけでした」

・他にも投下されたクラスター爆弾で、10人近い男たちが殺されました。生き残った者たちも重傷を負いました。
・瓦礫の中から全員の遺体を取り出すのに2日間もかかりました。遺体の多くはばらばらになっていたため、身元確認が困難をきわめました。髪や服の色を頼りに確認するしかありませんでした。


・ファルージャ市の郊外です。こののどかな農村部で米軍の攻撃によって13人が殺害されたという情報は、当初、信じられませんでした。
・ここが、事件が起きた農家です。一見のどかなこの農家の敷地の中に入ったとき、私の疑いは吹き飛びました。
・数軒の家の大半が、爆撃と戦車の砲撃によって破壊されていました。

「戦闘機からのミサイル攻撃で、この部屋は破壊されました。ここには武装勢力などまったくいなかった。ただ家族だけでした」

・この部屋では眠っていた13歳の少女が殺されました。
「これがその娘の血です」
「娘の母親は手の甲の肉をえぐりとられ、顔や首にも大やけどを負いました」

・この農家の主人、ハイテムさんによれば、4月24日の未明、米軍に包囲され、突然、空と陸から激しい砲撃が始まったというのです。
・翌朝、爆撃と砲撃が収まってから、米兵がここへ捜索にやってきました。

「これは殺された兄の財布です。米兵がこの部屋にやってきて、この財布の中から兄の身分証明書とおよそ350ドル相当の金を奪ったのです」
「これは私の兄ユーセフの血の痕です」

・これは血の固まったものです。
・この農家の住民が殺されたのは建物の中だけではありませんでした。
・弟の一家が爆撃を避けてこの川の中へ逃げこました。しかし破片が飛び散る爆弾(クラスター爆弾?)がすぐ近くに落とされ、川の中で26歳になる弟アリとその娘、6歳のザハラ、4歳のグフランが殺害されました。妻も重傷を負いました。
「ここは田園地帯で、武器を持って戦う者はだれもいなかったのです」とハイテムさんは言います。
・通常、攻撃をして反撃がなければ、攻撃は止めるものです。しかしまったく反撃がなかったのに、攻撃は午前1時過ぎから午前5時まで続きました。

・この中庭には、32歳の母親と5人の幼い子供たちがマットレスを敷いて寝ていました。
・この家族は攻撃の激しいファルージャから避難していたのです。
・これは血の痕です。
・母親と生後6ヵ月になる乳児以外の4人の子供は即死でした。母親はとっさにその乳児を洗面所に運び、他の子供を助けようと再び外に出てきたとき、次の攻撃で殺されました。
・子供たちの遺体はほとんどその姿をとどめず、中庭一面に頭や手足、肉片が散乱していたといいます。
・この中庭にミサイルが命中しました。
・これは壁にたたきつけられた肉片と血の痕です。
・これは2歳のイブラヒムの手の皮膚です。
・イブラヒムの遺体はばらばらで頭は庭の隅に転がっていました。まるでナイフで切ったように首が切断されていました。後頭部は切れてなくなっていました。
・脚は3日後にやっと中庭の隅でみつかりました。

・翌朝やってきた米軍の将校は、ここには武装勢力がいなかったことを知り、「アイアム・ソーリー」(済まなかった)と言って立ち去りました。

・事件から20日ほど過ぎたこの時も、負傷した家族がテントの中で横たわっていた。
・このテントはファルージャのイスラム党から支援されたものだ。
・弟のバラカット(25)さんは爆撃で右腕の肉をえぐり取られた。負傷した翌朝、米軍の病院で応急手当を受けましたが、その後、ファルージャの病院に引き渡されました。
・もう1人の兄弟、ユーセフ(31)はほおの肉をえぐり取られ、。あごのつなぎ目の骨も砕かれていました。

・ファルージャの街は25日間、米軍に包囲されたために、ユーフラテス川の対岸にある総合病院まで負傷者を運ぶことができませんでした。
・そのために、このような会議場も臨時の“病院”になりました。
・このように簡易ベッドが並べられ、負傷者たちの応急手当がここでなされました。
・包囲が解除されて10日ほど経っても、まだ当時使われた医療品などが残っていました。

・病院の統計によれば、25日間の米軍の包囲と攻撃で、住民の死者は731人、負傷者は2847人となっています。その死者のおよそ25%が子供、他の25%が女性でした。
・家が爆撃などで破壊されて犠牲になった一般市民が圧倒的に多かったからです。

・包囲された街で医療活動の中心となったのは、街の中心部にある小さな診療所でした。
・米軍によって電気も水道も切断されていました。この診療所は治療に不可欠な電気を確保するために、発電機はフルタイムで稼動し続けていました。
・遺体は入り口付近に置かれて、5体か10対になると、ボランティアたちが、車で墓地へ運んでいきました。
・遺体の数が15体、20体になると、横に並び積み重ねておかれました。遺体は白い布でくるまれました。

・ここは手術室となった部屋です。
・診療所の廊下にも6つのベッドが並べられました。
・ここには4台のベッドが置かれ、この部屋にも4台のベッドが
詰め込まれました。
・患者や医療関係者の食事を用意するために、中庭が調理場になりました。
・歯の治療をするこの部屋は、食料の倉庫になりました。

「ここにはシャワールームも十分なトイレもありませんでした。設備の整った病院とは違い、ここはただの診療所だったからです。水道もありませんでした」

・米軍は救急車にも攻撃を加えていました。救急車が銃撃を受け、運転手が射殺される事件も起きました。
・これは戦車からの攻撃を受け、破壊された救急車です。このような医療活動の妨害も、犠牲者を増やしました。

・ファルージャで最も設備の整った総合病因はユーフラテス川の対岸にあり、米軍の包囲下ではだれも近づくことができませんでした。
・包囲が解除されてから10日ほど経ったこの頃には、米軍攻撃による負傷者たちがこの病院に収容されていました。

・この12歳の少年は休戦後の5月4日、米軍の狙撃兵に銃撃されました。
・銃弾によって股関節を砕かれ、ペニスと睾丸を失っています。
「この骨が骨折し、神経も切断されている。ペニスも睾丸も奪われています。

・付き添っている叔父の話によれば、1週間前、米軍が休戦を宣言したとき、この少年は銃撃が収まったかどうか確かめるために外に出たところを狙撃兵に撃たれました。
・この少年は、男性の機能を完全に失ってしまいました。

・この15歳の少年は脳に爆弾の破片を受け、目以外、全身がまったく動かない状態になっていました。
・レントゲン写真には、脳の中に破片が点在しているのが見えます。
・母親によれば、1ヵ月ほど前、この少年は空になった調理用のガスボンベを交換するために、肩にかかえて外に出ていったといいます。その途中で米軍の爆撃の破片を頭に受けてしまったのです。
・食べ物を食べることもできず、鼻から入れられたチュウブで流動食を流しこんでいます。
・もう治療のほどこしようがないと医者はいいます。

・母親は私に、日本で治療ができないかと訴えました。

・ファルージャ市の中心部にあるサッカー場は集団墓地になっています。
・米軍に街を包囲されて街はずれの墓地に埋葬できなかったために急遽、このサッカー場に集団墓地が作られたのです。
・その数を数えた新聞記者によれば、その数は500に達しているというのです。
・この墓地だけでおよそ500体ですから、ファルージャの犠牲者が700人を超えているという報道は決して誇張ではなかったのです。

・これは9歳の少年の墓で、手だけが発見され埋葬されていました。

・これは5歳と7歳の姉妹が埋葬されている墓です。

・これは戦闘機の爆撃で、3歳の子を抱いたまま死んでいた母親の墓です。母親の墓に抱かれるように、側に小さな子供の墓が並べられていました。

・爆撃で身体がばらばらになった3人の子供の肉片をまとめて埋めた墓です。小さなその墓の墓石には3人の子の名が記されています。

・この老人は、2人の息子を爆撃で失っていました。

・大学生と高校生だった2人の息子は親戚の3人の青年たちと自宅でお茶を飲んでいるとき、戦闘機の爆撃を受け、5人の青年たちは即死したということでした。

・私が日本人だと知った住民の1人が、激しい口調で訴えました。
「イラクに軍隊を送る国はアメリカと同様、犯罪者です。私たちはどんな国の人も受け入れるが、軍隊だけは絶対送らないでほしいのです。軍隊を送る国はどこでも、私たちたちの敵です。日本の軍隊は私たちの敵なのです。彼らは犯罪者アメリカのパートナーなんですよ。イラクに必要なのは再建であり、軍隊ではありません。

「アメリカは我われに自由や民主主義をもたらすと約束しました。いったいそれがどこにあるというのですか。多くのイラク人が家族を失い、家を失っている。サダム時代と変わらないではないですか。
「日本の軍隊もアメリカ軍と同じです。なぜ日本の政府はいつもアメリカに追随するんですか。どうしてスペインのように軍隊を撤退しないのですか」

・9月以降アメリカ軍によるファルージャ攻撃は一層激しくなりました。しかしその報道は、その犠牲者の数が断片的に報じられ、『アルカイーダのザルカウィ派の拠点を攻撃した』というアメリカ側の発表がそのまま伝えられるだけです。

・しかし私は、4月のファルージャ攻撃の時と同様に、あの爆撃によってたくさんの一般市民が犠牲になっているに違いないと思わざるをえません。
  END

◆マスメディアの問題-“犠牲者の顔”が見えない

 皆さんは、最近、新聞の片隅でよくごらんになると思います。「ファルージャ攻撃8人死亡」。「アルカイーダの拠点爆撃」。しかしその爆撃の下でやはり映像で見ていただいたようなことが続いているとおもいます。4月のアメリカ軍の攻撃のときも、新聞の見出しのようないわれかたをずっとされていました。しかし実際、中に入ってみるとこういう状態だったのです。
 問題なのは犠牲者の顔が見えないことです。私たちは人の死を数で数えてしまう。そしてその一人一人の遺族の痛みをわれわれは何も感じることがない。

(日本の人質事件をめぐる違和感)
 私は、日本の人質問題を考えるときにどうしても違和感を感じてしまいます。今年の4月、3人の日本人人質事件が起こったとき、日本のマスメディアはトップニュースで伝えました。連日、新聞もテレビも3人がどうなったのか、生きているのかどうか、些細な情報も克明に伝え、日本全国の人々も3人の生命を案じました。もちろん、その反動として「自己責任」論の話もありましたが、多くの日本人は何とか生きてほしいと、3人の生命を心底心配したとおもいます。
 しかし、同じ時期にファルージャではこういうことがおこっていたのです。そのことに対して報道はあまり克明には伝えませんでした。日本の中で700人の住民の死に対する大きな抗議運動が起こったでしょうか。3人の命をあれほど大切にする私たちが、700人という、何百倍という人の命の重さを想像したでしょうか。私は今回の香田さんの事件に対しても、どうしても違和感を感じてしまいます。もちろん一人の青年が殺されたことに、私も一人の人間として痛みを感じます。しかし同時に、今、何百倍という人が、あすこで殺されていることに、私たちは同じような痛みを感じきれるでしょうか。僕は自衛隊の問題も、イラクの戦争の問題も、日本人の人質事件でしか語れないことに、もどかしさを感じてしまうのです。
 なぜ私たちはイラク住民の700人、いやこれまでの戦争とそれ以後の犠牲者は10万人にもなるといわれています。しかし、なぜ私たちは数でしか人の死を感覚できないのでしょうか。なぜ一人一人の命の重さを想像することができないのでしょうか。それは私たちメディア、ジャーナリストの責任であると思います。やはりあのひとたちの等身大の痛みを伝えきれていない。

(本多勝一氏の「戦場の村」)
 私は40年前に、ベトナム戦争時代に一つのルポルタージュのことを思い出します。みなさんがまだ生まれていなかった頃です。朝日新聞に本多勝一という記者がいました。彼が、今単行本の「戦場の村」という本になりましたけれども、彼は朝日新聞で1967年か8年だったかと思いますけども、ベトナム戦争と民衆の状況を90何回にわたって連載をしました。彼はその連載の前半でサイゴンの市民、山岳民族の人々、それから漁民、そういう人たちの生活を本当に淡々と、まるで文化人類学のレポートを読むような錯覚を起こすほど、その人たちの生活を克明に描きました。浮気が原因で夫婦喧嘩で悩む夫婦、子どものことで喧嘩する親、そういう何でもない日常生活を彼は淡々と描いたわけですね。そうするとあのベトナム戦争の最中ですから、いろんな批判が出ました。『戦争によってこんな大変なことがおこっているときに、何でこんなに地味な、生活だけを淡々と描くんだ、何でこんなものを何回にもわたって連載するんだ』という声がおこりました。しかし、それは本多記者が計算していたことなんですね。4章まで淡々とさまざまな民衆の生活を描いた後で、第5章の『戦場の村』という章で彼はその人たちが戦場でどうなっているかを、具体的に書いていきました。 アメリカ軍の爆撃で全身に破片が突き刺さり、血だらけになった少年、為す術もなく、ただ涙を流しながらじっとみつめる母親・・・・
私たちジャーナリストは、今、そういう作業がイラクにしてもパレスチナに対しても必要ではないかとおもいます。私は以前、早稲田大学の国際問題研究会で講演したとき、『国際問題は勉強しなくてもいいんじゃないですか』と言いました。勉強することよりも感じてほしい。何年の何月何日に何が起こったじゃなくて、モハマドさんがこういう被害を受けた、イマードさん娘が首を切られて死んでしまった、私の娘だったらどうしよう、こういうことを想像することが必要ではないかと思うのです。そのための素材を私たちジャーナリストが提供していかなくてはいけない。しかし、なかなかそれはできていない。それはやはり私たちジャーナリストの責任もある。しかし、皆さん方にも責任はあると思うのです。私たちは数で知って何か分かったような気になっている。私は『イラク問題』とか『パレスチナ問題』とか『問題』をお勉強して済ましてほしくないのです。人です。同じ人間ですよ。今回、新潟の地震であれだけの人がホームレスになっている。一方、パレスチナで起きていることも私たちはテレビで見ます。新聞で見ます。しかし、私たちはパレスチナのガザ地区にあるラファで毎日のようにイスラエル軍に家を破壊されて家を失って行き場もなくなっている人たちのことを想像することができるでしょうか? 5月に起こったイスラエル軍の大侵攻の時ときに70数人が殺され500件を超える家が壊され、3000人以上の人がホームレスになりました。まだ新潟の被災者たちには、助けてくれる政府がいる。みなさんからの救援が届く。マスコミは報じてくれる。しかしパレスチナのラファの人たちは誰も助けてくれません。援助してくれる政府もありません。世界のメディアも大きな事件以外、ほとんど報じてくれません。そして怒りを抑えきれずパレスチナ人が牙を剥くと、世界は彼らを「テロリスト」と呼びます。
私はここで『イラク問題こうなっています』とか『パレスチナ問題こうなっています』という話を皆さんたちにお伝えたいしたいとも思わないし、それが私の役割ではないとおもっています。それよりも『モハマドはどうなっているのか』『ファトマはどうなったのか』というふうに、現地の人々のことを等身大で皆さんに伝えることです。それによって今日、皆さんが何かを掴んで帰ってくださればと思います。ありがとうございました。

Q1 僕もイラク攻撃始まって以来、こういうことが行われていたんだなぁということで、本当にイラク攻撃は許せないなぁと思っていたました。しかし僕が愛知大学のクラスとかで「イラク攻撃について反対していこう」とか呼びかけてみたりしますと、クラスの人は「フセインを倒すためには必要なんじゃないか」といった意見がでます。僕はさっきの映像とか見てると本当にそんなのは言えないなぁと思うんですけれども、こういう意見について土井さんはどのように思われるでしょうか?

A1 私はサダム・フセインがよかったなんて言うつもりは全くありません。ただ、多くの国民を抑圧し、殺害してきた、それに対して私は彼を弁護する気もないです。ただ、ああいう形でアメリカが他国を軍隊で蹂躙したこと、「あの連中はアメリカにとって危ないから」という理由で、ああいう風に大量の人々を殺してサダム・フセインを追放する。自分の国ではない、他国でそんなことをする権利があるんでしょうか。自国の国民が、クーデターなどによってサダム・フセインを倒したというなら、それは理解できます。でも他国の軍隊が『大量破壊兵器があるから』とか『アルカイダとの関係があるから』とかいう、今では全く根拠のなかったことを口実に挙げてイラクを侵略したのです。イラク攻撃は9・11直後からもう戦争の計画が始まっていたのです。『イラクは危ない』という。しかし誰にとって危ないのか、本当に危機だったのか? 今から見てみれば、アメリカにとってそれほど危機じゃなかったわけです。それを今では「イラクを民主化するため」という口実をあげている。そんなものはよけいなお世話です。どうしてそんなことを他国の軍隊があれほどの住民を殺してやる権利があるのでしょうか。私はそれに対して非常に怒りをもっています。私はサダム・フセインを弁護するつもりはない。しかし、ああいうやり方は私は絶対に認められません。

Q2 今日は名古屋大学から伺いました。今日は講演ありがとうございました。肉片がこびりついた扉の映像を見て、二日間かけて肉片を集めたという住民の話をビデオで耳にしまして、どういう思いだったかを僕も想像しないといけないなと、非常にこの日本にいてわからないことを想像しないといけないということを土井さんの話を聞いて思いました。質問ですが、私は名古屋大学で社会科学研究会おいうサークルをやっていまして、そこで1年生の疑問から「アメリカの民主主義っていうのは何なのか?」というのを考え始めています。そもそもアメリカ国内では貧富の格差とか差別とかが起こっている、これは一体何なのかということを考えています。今とりわけ自由とか、平等とか言われるけれども、果たしてこれがアメリカの人々、労働者にとって何なのかということを考え始めています。土井さんのブックレットを僕たちも検討しているんですけれども、あとがきの中で土井さんが「ブッシュ大統領の自由、民主主義というのは何と虚ろに響くことか」というふうに言われていまして、ここで土井さんが言われていること、現地で感じられたことがあると思うんですけれども、土井さんはアメリカのブッシュが言う「民主主義」というのをどう感じられるかというのを聞きたいと思います。よろしくお願いします。

A2 みなさん、この中にマイケル・ムーアの「華氏911」ご覧になった方いらっしゃいますか。いらっしゃいますね。それから「ボウリング・フォー・コロンバイン」、あの映画もご覧になった方はいますね。私はあの映画を見れば、私がとやかく説明するよりも、アメリカの社会構造とはどういうものか、アメリカのいう民主主義というのはどういうものなのかがよく見えてきます。誰がイラクに兵士として送られているのか。何であれほどの社会格差が生まれているのか。兵士を送り出す決定をする政治家たちの一体どれくらいの息子がイラクに送られているのか。このアメリカのもっている矛盾した社会・政治構造というものをものの見事に描いてます。あれをご覧になって下さい。本当にあれは強烈です。やはり日本のジャーナリストの中にああいう日本の社会の矛盾構造を描ききる人がまだいないというのが、日本のジャーナリズムのレベルの低さかなという気がします。あれほどのドキュメンタリーを作る人がまだいない。日本の自衛隊のイラク派遣に反対というのはいいけれども、あの自衛隊の人たちがどういう人たちなのか、日本の持てる層と持たない層との格差によって何が生まれているのか。私たちは『日本は自由で民主的な国だ』という前にやっぱりそういう日本社会・政治の矛盾構造を描いてみる必要があるような気がします。
私は、アメリカの『自由』とか『民主主義』というのを本当に信じられません。先ほどの質問の答えになってないかもしれませんが。
まもなくアメリカの大統領選挙の結果がでます。アメリカのブッシュを支えているのは誰か。キリスト教原理主義者、いわゆる福音主義者これが今アメリカのブッシュを支えている大きな基盤の一つです。僕は本当に信じられない。彼らはブッシュと、彼がやる戦争を支持しているわけでしょ。私はキリスト教というのは「人を殺すな」っていうのが原点だと信じ込んでいました。しかし、彼らはイラクでのこういう殺人を支持しているのです。いったいキリスト教とは何なんでしょうか。そういうアメリカ社会がもっている矛盾。経済的な構造、そういうところからアメリカ社会を見ていかないといけないと思います。まさにあのマイケル・ムーアが描いたような社会構造の矛盾、あのあたりから『アメリカの民主主義というのは何なのか』という問いかけをしていかないといけない。大統領選挙が公正に行われていますとか、アメリカのメディアはすごいって言ったって。アメリカ中西部の人たちの中には、中国がどこにあるかも知らない人も少ないないという。いったいアメリカのメディアや教育は何を教え伝えているのかと思いますよね。
私は岩波ブックレット『米軍はイラクで何をしたのか』の「まとめ」に書いていますが、アメリカは自由を世界に広める使命があるといいます。自由は神から送られた贈り物であり、それを広めるのはわれわれ最強国アメリカであり、それはわれわれの義務であると。いらぬおせっかいです、そんなものは。あなたたちの言う『自由』というのは、あなたたちの思うままになるっていう意味の『自由』でしょう。それがイラク人にとっての『自由』なのですか。石油を自分たちが自由に搾取できるっていう『自由』なのでしょう。自分たちの命令を従順に聞く政府ができることが、アメリカのいう『自由』なのでしょう。でもそれはイラク人にとって『自由』なのですか。われわれが『自由』とか『民主主義』とか言うとき、それを強い立場にある人間が弱い立場の人間に強制するとき、それらがどういう意味なのかをちゃんと私たちは必ず見ていかないといけない。イスラエルは『民主主義の国』だという。しかしパレスチナのあの占領地でイスラエルがやっていることをみれば、何が『民主主義の国』なのか。だから私たちは、誰がどちらの立場からものを見ているのかを見定める必要がある。私はやはり、一番底辺の人々の視点からものを見ていかなくてはいけないと考えています。

Q3 講演ありがとうございました。イラクへの自衛隊派兵についてですけど、日米関係を損なわないために重要なことであり、簡単には撤兵はできない。という人が一部いますが、土井さんはそのことに関してはどのようにお考えでしょうか。

A3 だからこそ、私たちはストップできるときに必死になって止めなければいけなかった。走り出すとこういうふうに既成事実をもとにしてどんどん前に進んでしまいます。今、日本の軍国化がどんどん進んでいます。今止めておかないと、もうここまできてしまったんだから後戻りできないんだという論議で突っ走られる可能性が非常に強いと思います。私たちは、そういう状況をきちんとやっぱり見張っておかないといけない。皆さん、あなたたちはまだ大丈夫かもしれないけれど、あなたたちの子供たちの時代には徴兵制になっているかもしれませんよ。イラクの自衛隊派遣だって、今からでもできないことはない。スペインだってすぐ撤退したではないですか。やろうと思えばできますよ。ここまで来たのだから、もう引き返せないという論理は、為政者の論理です。そんなこと絶対にありえないと私は思います。今、引き返さないと、とんでもない方向に行く気がします。
さっき私は自衛隊派遣に対するファルージャの市民の声を紹介しましたけど、みなさんがよく聞かれるサマワの話とは違いますよね。サマワでどういうことが報道されたかと言いますと、とくに読売系の新聞やテレビでは、『一般市民が、ほらこんなに水を得られるようになりました』とか、『道路がこんなになりました、学校が始まりました、本当によかったです』という市民の声が強調して伝えられる。すると、視聴者や読者は『ああ、やっぱりこういう支援をしているんだ。イラクでは歓迎されているんだ』というイメージをたたき込まれていきます。しかし、考えてみて下さい。サマワというのは、私の故郷、佐賀県、その県庁所在地の佐賀市は十数万人の人口です。おそらくサマワってその程度だと思いますよ。その佐賀の人間がたまたま自衛隊などの恩恵をえたから、「自衛隊はイラクに来てよかった」と言ったとしますよ。しかし、それは日本全体の声としてわれわれは受け入れることができるでしょうか。それをイラク全体の声として普遍化できるのでしょうか。
ファルージャのようにアメリカ軍の攻撃を直接受けた住民からは、私の映像の中のような声が出てる。人質事件などもアルカイダがやっているとかいう議論がなされますけど、根底にあるのはこういう民衆の怒りの声があるのだということは私たちは覚えておかなくてはいけない。あれほど親日的だったイラクの人たちを反日に変えつつあるのです。
先ほど誰かがおっしゃっていましたけれども人質事件で真っ先に小泉首相は「自衛隊は撤退しない」と宣言した。私は、当たり前だと思いますよ。彼の目は国民に向かっていないです。ブッシュに向いているのですから。アメリカに「私はあなたに従順です」と言わないと小泉首相は自分の役を果たせないわけでしょ。そりゃあ、あいう言葉は当然でてくるだろうと思いますし、別に私は驚きもしませんでした。小泉首相は、人質事件が起きたとき、真っ先にアメリカのブッシュ大統領に対して『自分はあなたに忠実ですよ』ということを知らせなければならなかった。
もう一つ私は『復興』という言葉の欺瞞に、非常に怒りを感じます。自分で壊しておいて復興というのはどういうつもりなんでしょうか。あれは弁償です、補償ですよ。どうして『復興』などという言葉を使うのでしょうか。それは破壊したアメリカが当然イラクの国民に対してやるべきことです。それをどうして他国に押しつけるのでしょうか。日本は、アメリカの攻撃に加担したのですから、『復興支援』しているのではないですよ。『弁償』すべきです。そのことを私たちは頭に置いておく必要があると思うのです。

Q4 ぜひ教えてもらいたいのがありました。パレスチナや今のイラクでもそうだと思うのですが、アメリカ軍とかイスラエル軍の軍事力と闘う人々がテロリストだと言われていることは、私はおかしいと思うんです。闘っている相手は、数百倍というアメリカの軍事力やイスラエルの占領で、それに対して体張って立ち向かう勇気は私はすごいなぁと思うのです。しかしそれを『テロだ、テロリストだ』と言われているのを聞くと、『ではみんなが悪い人だとみなすと、殺しても構わない』みたいな論調があります。私は反論しないといけないと思っているのですが、頭だけで考えることが先行してしまって、なかなか実感込めて、『そんな議論はおかしい』と言えないところがあります。土井さんはよくパレスチナに行かれているというのを聞きました。パレスチナでは、『ハマス』は、僕が知る限りでは、慈善活動を行い、本当に民衆の側に立って活動をしているということでした。私はそれを聞いて、すごいとことだなあと思ったのです。テロリストだと言われているハマスの真実の姿、どういう思いで体張って闘おうとしているのか、その彼らの思いなどについて土井さんが現地で取材して実感したことを教えていただきたいと思います。お願いします。

A4 質問された方がっかりされるかもしれませんけど、私には『テロ』という言葉について、自分なりの定義をもっています。『テロというのは、政治的な目的のために一般市民を標的にし攻撃すること』という定義です。これに従えば、パレスチナ人が自爆攻撃でバスを爆破することもテロです。これは否定できない。ただ、占領された人間がイスラエル軍に対して武力で抵抗することはテロではない。占領されたイラク人がアメリカ軍に向かって抵抗している。これもテロではなく、武力による抵抗活動(レジスタンス)です。これは国際法でも認められた抵抗権です。その違いをきちんと識別しなければいけない。私はパレスチナ人が自爆攻撃でバスを爆破することは『自爆テロ』だとはっきりと書きます。それはテロだからです。
一方、一般のマスメディアはどういう報道の仕方をするかというと、『パレスチナ人が自爆テロをする。それに対しイスラエル軍が報復する。つまり暴力の連鎖だ』という。しかし、その中で、足を踏まれている、つまり占領されているという“構造的なテロ”に対しては一言も言及しない。私はその構造をきちんと見て伝えなければいけないと思います。
一方、先ほどファルージャで怒った民間人への無差別攻撃は、テロではないのでしょうか。バスへの自爆攻撃を『自爆テロ』と呼ぶのなら、なぜ『国家によるテロ』をテロとはっきりと表現しないのでしょうか。あれは間違いなく、“国家テロ”ですよ。この言葉をマスメディアの中に広げていかないければいけない。「ファルージャで米軍の爆撃によって8人死亡」と書くのではなく、「爆撃の国家テロによって8人死亡」と明確に表現すべきです。

Q5 ありがとうございました。今の話と関係するのですが、運動の中で『戦争もテロも反対』というスローガンがあります。それ『テロ』という言葉の定義がはっきりしないという問題がある一方、戦争をやっている側と踏みつけられている側の抵抗を同じく『テロ』として見ている傾向があると思います。そのような『戦争もテロも反対』というスローガンについて土井さんはどうに思われるか。

A5 例えばイラクの武装勢力が、警察官や兵士になる募集に応募して列を作っているところに爆弾を仕掛けて殺害するようなやり方は、私はテロだと思います。応募して列を作っている青年たちに、そうするなと言うのなら、彼らはいったいどうやって生活していけばいいのですか。仕事を求める一般市民ですよ、彼らは。それに対して、爆弾を仕掛けてやるというのはこれはテロ以外のなにものでもない。私は絶対、このような行為を擁護できません。しかしザルカウィ一派がアメリカ軍に向かってそういう攻撃をするときは、私はそれをテロだと思わない。ただ私には一つ分からないことがあります。ザルカウィ一派、アルカイダは『テロ組織』と呼ばれている。私の連れ合いが、『アルカイダの人たちの仕事って何でしょうね』って私に聞くわけですよ。『人を殺すことが彼らの本来の仕事なんでしょうかね』と。どうなんだろうね、と二人で考え込んでしまいました。私はまじめにアルカイダの人に訊きたいですね。『あなたがたは、最終的に何がしたいんですか。何が目的なんですか』と。
 私はアメリカ軍との闘いをテロだと思いません。そういう抵抗活動を行っている人たちを『テロリスト 』と断定できるのだろうか。アメリカ軍の侵略や占領と闘っているのなら、『テロ組織』ではないのではないか。『テロ』とは何かということを真剣に見直す必要があると思います、どういう場合が『テロ』で、どういうものが『テロ』ではないのかを。『テロリストとの闘い』『反テロ』といえば、なんでも許されてしまう。その『テロ』という言葉の曖昧さをブッシュたちは利用してしまっている。自分が気に食わないもの、自分たちの利益に反するものを『テロリスト』と呼べばいいわけですから。『反テロ』と宣言してやってつければ、それは『テロ』ではなく、『俺はテロリストをやっつけてるから、いいことしているのだ』というふうに世界に説明してしまうわけです。だからアルカイダとは一体どういう組織なのか、何を目的に闘っているのかを、本当にジャーナリストは取材すべきだと思いますよ。できることなら、私は、本当にビン・ラディンに会ってその点についてちゃんと話を聞きたいと思います。

Q6 僕も名古屋大学から来ました。あのブックレットを読んで、とくに先ほどのファルージャの映像も見せていただいて、日本人も軍隊を送ったら敵なんだと現地の人が言っている。それを僕らが許してしまっているということが非常に悔しいのですが、ファルージャの人たちはすごいと思いました。土井さんが取材で入ったのは米軍の攻撃の後ですよね。ファルージャの人々は土井さんのブックレットに書かれているように、米軍の攻撃を跳ね返し、米軍を叩き出すという闘いをやった人たちなんですね。それを非常にすごいなと思って土井さんのブックレットを読みました。あのように住民が武器をもって闘ったのだということを初めて知りました。土井さんが現地で取材して感じたこととかあったら、教えていただきたいのですが。もう一つ、僕たち日本が軍隊を送ったら敵だと言ってるようなイラクの人たちに信頼してもらうために僕らは何をすればよいのかについてお願いします。

A6 それはやはりとても大事な問題ですね。私のブックレットの中に高校の教師が私のインタビューに答えて、「アメリカ軍と闘ったのは、われわれ一般市民なんです。病院の関係者だったり、教師だったり、生徒だったり、われわれの町を守るために闘ったんです。アメリカはアルカイダだとか言うけれどもわれわれはアルカイダなんて見たこともない。アルカイダがいたとしてもスーパーマンではないのです。一人か二人、アルカイダがいたからといって戦況が変わるものではありません。私たちファルージャの住民が闘ったのです」と答えています。私はこの言葉はとても重いと思います。しかしメディアは今イラクで起こっていることを、『アメリカはアルカイダの拠点をたたいた』、『ザルカウィ一派に対する闘いなのだ』というふうに報道しています。でも皆さん、不思議だと思いませんか。ザルカウィがいたと言っているけれどもザルカウィの顔も見たことがないでしょう。ザルカウィの手下を拘束したという報道がある。それなら、その人物をちゃんと出して、アルカイダやザルカウィが実際、ファルージャにいるという証拠を出すべきなのに、なぜかそれが出てこないのか。酒井啓子さんだったでしょうか、テレビで発言していましたが、『ザルカウィという人物の存在は、大量破壊兵器と同じではないでしょうかね。いるいるって言って本当はいないのではないか』と。その可能性はじゅうぶんあるわけです。私自身、ザルカウィ、ザルカウィとしきりにアメリカが強調するけれど、本当にいるのかなと疑っています。その点は私たちはもう少し慎重にならなくてはいけないのではないでしょうか。『ザルカウィの拠点を叩いた』といわれて、簡単に『ああそうですか』と納得してはいけないのではないか、そういう気がするのです。
一方、現在、ファルージャで実権を握っているムジャヒディン(イスラム聖戦士)たちも、「アルカイダやザルカウィはファルージャにいない」と言うのだったら、ちゃんとジャーナリストを入れて、そのことを見せればいいのに、逆に「ジャーナリストはまかりならん」と言っている。そのようなやり方は非常にまずいとおもいます。私がファルージャを取材して一週間後に『一切のジャーナリストはファルージャに入っていけない』という通達が出た。私たちは、『やはり、ザルカウィが実際、ファルージャにいるために、見せたくないのかな』と疑ってしまう。なぜそれほど見せたくないのか。たしかには、ジャーナリストを名乗ってアメリカのスパイが入るのが怖いということもあるでしょう。実際、そういうこともあるのです。私がファルージャを取材していたころ、あるレストランで食事をとっていたイタリア人がムジャヒディンたちに囲まれて連行されました。幸い、本当にジャーナリストだということが分かって解放されましたけど、それほどジャーナリストと名乗って入ってくるスパイに彼らは神経質になっています。
でもいちばん重要なことは、は誰が一体あの爆撃の下で殺されているのかということです。アメリカが主張するように、爆撃で殺されているのは本当にアルカイダの連中なのか、そのことを私は今、一番知りたいです。現在、イラクに入れたら入りたいのですが、今入国ビザがなかなか取れません。香田さんの事件が起きて一番驚いたのは、彼はどうやって入ったんだろうということでした。今私たちの仲間の森住卓というカメラマンも、9月初旬にビザを申請したのですが、まだ取れません。今ジャーナリストがイラクに入るのがとても難しい状況です。現在、バグダッドにいるNHKと共同通信の人たちも外を取材するのが危険なために、ほとんど部屋を出られない状況です。そういう中では、自分たちで取材もできないため、現地のスタッフを現場に送って情報をもらって書いている。そうせざるをえない状況なのです。本当は実際に私たちが現場へ行って、自分たちの目で実際、確かめてみたいのですが。

投稿者 doitoshikuni : 12:54 | コメント (0)

5月大侵攻の爪あと(2)と情勢

国境の最前線で生きるパレスチナ人たち
                                                  土井敏邦

(5月大侵攻後も続く小規模の家破壊)

 「私には兄弟も父も息子もいません。助けてくれる身内はだれもいないのです。どこへ行けばいいのですか」と、瓦礫の山となった自分の家の前で老婆が訴えた。「生まれてからずっと暮らしてきたこの家を見てください。ほら、ここへ来て。私たちの家財道具のすべてがどうなったか、見てください!」

 エジプトとの国境沿いラファ難民キャンプの一角にあったこの家で、未婚で頼れる家族もないこの老婆は、未亡人となった他の姉妹2人と肩を寄せ合うように暮らしてきた。しかし8月8日、イスラエル軍の侵攻で周辺の数軒の家と共に完全に破壊されてしまった。理由はわからない。老婆たちは行き場を失い、ホームレスとなった。

 国境近くで装甲車が爆破され6人の兵士が死亡した事件を契機に、今年5月、イスラエル軍は大量の戦車、武装ヘリコプター、ブルドーザーを動員してラファの難民キャンプに侵攻した。2週間近くに及ぶ侵攻の結果、58人の住民が死亡、261軒の民家が完全に破壊され、561家族、およそ3400人が住処を失った(「パレスチナ人権センター」統計)。

 5月の侵攻時に比べ規模が小さいために、世界のメディアはほとんど伝えないが、その後も、イスラエル軍のラファ難民キャンプへの侵攻と家屋の破壊は断続的に続いている。イスラエル側は、武器密輸に使われているエジプト側へのトンネルを破壊するためと主張している。しかし破壊された家の中には国境から遠く離れた民家も少なくない。

 5月18日に突然、イスラエルのブルドーザーに隣の2軒の家と共に自宅を完全に破壊されたアラ・バナット(31歳)は、家の近くから見える国境側を指差して訴えた。

 「私の家からあの国境まで500メートル離れています。もし誰かがトンネルを掘るとすれば、(エジプト側に到達する)700メートルも離れたところから掘るだろうか。目的地まで到達するためだけでも1年ほどもかかってしまう。この地区にトンネルがあったのかどうか考えてみてください。まったく不可能です」


(癒えない5月大侵攻の傷跡)
 5月に家を失った家族の中には、4ヵ月近く経った今も、元の家の敷地内に建てたテントで暮らす者もいる。気温が30度を超す真夏のテント生活は過酷だ。

「外から入ってくる害虫に悩まされています。パンに蟻がたかっているときもあります。冷蔵庫もありません」
と老婆マリアム・マカウィ(64歳)は言う。しかし警察官の息子の少ない収入では生活費にも事欠き、借家の家賃を払う余裕もない。
「UNRWA(パレスチナ国連難民救済事業)が借家の金を払ってくれるのを待っています。もしそうしてくれないのなら、このテントにとどまるしかありません。他に選択の余地がないのですから」
 
 借家で暮らせても、家を失った家族は深い傷痕を引きずっている。
 10人家族、アルガッサース家の主ハリール(50歳)がイスラエル軍に殺害されたのは、昨年12月の侵攻の時だった。ハリールは他の家族を避難させ、独り家に残ったが、やがて職場の市役所に向かうために家を出た。その直後、イスラエル兵士に狙撃された。背中から入った銃弾は、心臓を突き抜けていた。半年後の5月、大黒柱を失ったこの家族にさらに災難が襲った。再び侵攻してきたイスラエル軍が、この家族の家を完全に破壊したのである。

 妻のナジャハ(43歳)は、夫と家を失い、義母(85歳)と7人子供をかかえ、市役所からのわずかな年金で生活を切り盛りしなければならない。そんな彼女の一番の心配事は、相次ぐ不幸が幼い子供たちに与えた心理的な影響だ。子供たちの中には今なお、夜、悪夢にうなされる子がいる。7歳になる末っ子は夜中に起きだし、夢遊病のように眠りながら歩き始め、外に出ようとする。朝、その理由を訊いても、何も覚えていないと言う。9歳になる子は夜、おねしょをするようになった。

「ある子が『いつ、お父さんは墓から戻ってくるの』と訊きます。他の子はときどき、お父さんの血を見るために、殺された場所へ連れていってくれとせがみます。また他の子は『僕は戦車のところへ行き、お父さんを撃ったようにイスラエル兵を撃つんだ』といいます」

「僕は毎夜、イスラエル人がやってくる夢を見ます」と答えたのは11歳の少年、サミーハだった。「だからいつも枕の下にナイフを置いているんです。もし奴らをみつけたら、腹を刺すんだ」

 そのサミーハに「将来、何になりたい?」と訊いた。すると少年は「大きくなったら、ナイフや武器を買って、イスラエル人をやっつけるんだ」と答える。「そうじゃなくて、どんな仕事につきたい?」と問い直しても、少年の答えは同じだった。「警官になりたい。いや抵抗の戦士になりたい。そしてイスラエル人を撃つんだ。復讐をするんだ」。

 止むことなく続くイスラエル軍の家屋破壊と住民殺害は、パレスチナの次世代を担う子供たちの心に、イスラエルへの修復しがない憎しみを植え続けている。


(銃撃の恐怖に晒される国境最前線の住民たち)

 国境沿いの住民たちにとって、恐怖は家の破壊だけではない。イスラエル軍の監視塔からの無差別銃撃によって生命の危険にさらされている。
 バルフム家は国境から数十メートル、その間にあった家々はすべて破壊され、その3階建ての家は国境の最前線となっている。そのため国境の壁に近いイスラエル軍の監視塔と向き合う位置にある。8月12日朝、ハルフム家の次男、サーフエルディーン(13歳)は、朝食を済ませると、屋上で飼っている鳩に餌をやるため、階段を上がった。その直後、家族は激しい銃撃音と叫び声を聞いた。駆け上がった次女のアスマ(14歳)は、屋上近くの階段で頭から血を流して倒れている弟の姿を目撃した。アスマは手で傷口を塞いで出血を止めようとしたが、激しい出血だったの止血できなかった。銃弾は頭の左側から右側に突きぬけ、壁をえぐっていた。少年は病院へ運ばれたが、3日後に死亡した。

 「ここへ来て見てください。あれが銃撃した軍の監視塔です」と、現場を案内したアスマが屋上の入り口から南側を指差した。真正面、数十メートル先に不気味な鋼鉄の固まりが視界に飛び込んできた。この家族は日常的に塔からイスラエル兵に監視され、銃撃に怯えて暮らさなければならない。

 サーフエルディーンは7月にエジプトに住む親戚を訪ねるために、旅行の準備を済ませていた。パスポートも取得し、旅行バッグに衣類も詰め終わっていた。しかしイスラエル当局が国境を1ヵ月近く封鎖したために予定通り出発できずにいた。その直後に起きた事件で、少年はエジプトへ永遠に旅立てなくなった。

 昨年9月、同じ地区で、部屋の中で頭を銃撃され、身体障害者となった男性もいた。9日の夕方、大工のラムジ・アタフ(30)は2階の寝室で妻と、家の改築のために来る労働者たちの明日の食事について相談しあっていた。そのとき突然、銃撃が始まり、木製のドアを突き抜けた銃弾がラムジの頭に命中した。すぐに病院に運ばれたが、一時呼吸が止まり、3ヵ月間意識不明が続く重症だった。その後、数回の手術と長いリハビリによって、1年近くが経つ現在、やっと杖をついて歩けるまでに回復したが、右手は麻痺したままだ。銃撃は前例と同じく、軍監視塔からだった。その塔とラムジの家まで400メートル近くも離れている。

 現在、軍監視塔に面するラムジ家の窓は、ブロックで塞がれている。昼夜を問わず、監視塔から無差別の銃撃がその後も続いているからだ。父親フセイン(55)は、家の前の通りで遊ぶ子供たちを示しながら言った。
「ごらんの通り、通りの人々は一般住民であり、子供たちです。まったく警察署や軍事基地もありません。なのに、どうしてイスラエル軍は銃撃してくるのか。私たちがパレスチナ人だからでしょうか。それでも私たちはこの土地から離れません。他に行く場所がないからです。私たちはこの土地で生まれ、この土地で死んでいきます」

 国境の最前線で暮らしていたパレスチナ人たちの多くは、いつ家を破壊されるかという不安と、銃撃の恐怖のために家を去り、国境から離れた安全な街の中心部や郊外の借家へ逃れた。そして人が住まなくなった家々は、「空家だから」という理由でイスラエル軍の破壊の対象となる。

 イスラエル軍報道官室の海外メディア担当代表、シャロン・フェインゴールド少佐(2003年3月当時)は、ラファでの家屋破壊の第1の理由は、武器密輸に使われる国境のトンネルを破壊するためと答えた後、次のように言葉を継いだ。
 「第2の理由は、それらの家が空家だからです。かつてパレスチナ人が住んでいましたが、今はすでに住民が去った家です。この周辺で激しい戦闘が行われるため、住民たちが家から出ていったのです。その空家がパレスチナ人武装グループによってイスラエル軍への銃撃の拠点に使われています」。

 しかし住民たちが家を離れるのは、「周辺で激しい戦闘が行われるため」ではなく、いつ家が破壊されるかもしれないという恐怖と、イスラエル軍からの無差別銃撃の恐怖のためである。また最前線の空家となった家も、常に銃撃される危険があるために、だれも近づけない。

「イスラエルのセキュリティー(安全保障)を護るため」という大義名分を掲げ、イスラエル軍は国境の街ラファで、住民の生活を破壊し続けている。イラク情勢に注目が移り世界のメディアが見向きもしないなか、国境の街ラファでは、今日もパレスチナ人住民たちが銃撃され棲家を失っている。


(出口の見えないパレスチナ情勢)

 現在、パレスチナ・イスラエル報道のなかでもっとも注目されているのが、シャロン首相による「ガザ撤退計画」である。「強硬派のシャロン首相が“和平”に向けて動き出した。これに猛反発する右派勢力と闘いながらシャロンはガザからの入植地撤退を実現し、和平への道を切り開こうとしている」といったイメージが広がっている。しかしこの一見「和平への動き」のように見える計画は、実はヨルダン川西岸における大半のユダヤ人入植地を維持するための“引き換え”であることに世界のメディアはあまり注目しない。この「和平への動き」はガザ地区とヨルダン川西岸にパレスチナ国家を建設するというパレスチナ人の目標の芽を完全に摘んでしまうことになりかねないのに、である。

 一方、パレスチナ人自身も内部に大きな問題をはらんでいる。アラファトを中心とする自治政府の腐敗と指導力不能という深刻な問題だ。ガザ地区では、そのような自治政府への住民の不満と怒りを利用して、「改革」の名の元にモハマド・ダハランが治安当局の幹部拉致などの手段で反旗を翻しつつある。欧米やアラブのメディア中には、このようなダハランを「アラファトの腐敗した旧体制に挑戦する“アラファト後の新たな指導者”」として持ち上げる傾向がある。

 しかし現地の見識あるパレスチナ人たちは、ダハランがアメリカCIAからの莫大な資金援助を用いて、特にガザ地区の治安当局関係者たちの“忠誠”を金で買い集めていることを見抜いている。つまりダハランは、アメリカからの潤沢な支援をバックに、アラファトの腐敗政治の「改革」を叫びながら、アラファトとまったく同じ「金で忠誠を買う」という政治手法でアラファト後の権力の座を狙っているというのだ。このようなパレスチナの内部情勢に失望したパレスチナ住民たちは、ハマスやイスラム聖戦などイスラム勢力の支持へといっそう傾きつつある。パレスチナのあるNGOによる世論調査によれば、イスラム勢力の支持率は今年3月の29%から6月には35%に急増している。一方、かつて過半数を超えていたアラファト率いる「ファタハ」の支持率は28%にとどまったままだ。しかしそのイスラム勢力の支持急増は、住民がパレスチナの将来をイスラム勢力に託そうとしている証左と短絡すべきではなく、腐敗した自治政府などに対する反発の象徴とみるべきだろう。

 そのようなパレスチナの絶望的な状況のなかで、パレスチナ人住民から“将来の指導者”として支持を高めつつあるのが、イスラエルの獄中にある“インティファーダの指導者”マルワン・バルグーティだ。次回の選挙で副大統領として誰がふさわしいかという先のNGOの世論調査では、現首相のアハマド・クレイが6%、先のダハランが4%に比べ、バルグーティは25%と群を抜いている。しかも出身のヨルダン川西岸(24%)より、ガザ地区(27%)での支持が高いことは注目すべき点である。調査対象の住民の67%は、「イスラエルの裁判が彼をパレスチナの指導者として資格をいっそう高めている」と答えている。 
 

投稿者 doitoshikuni : 12:48 | コメント (0)

イスラエル軍5月大侵攻の爪あと04.夏取材

いまパレスチナはどうなっているのか
――イスラエル軍5月大侵攻の爪痕が癒えないラファからの報告――

                                                     土井敏邦

(なぜ今、ラファか)

 パレスチナ情勢が混沌としている。メディアでも、戦後なお混乱が続くイラクの報道の影に隠れて“パレスチナ”は断片的にしか伝えられないため、いっそう状況がつかみにくい。だが、イラクの行方を含む中東

 情勢は、“パレスチナ”抜きに語れない。

 挫折した“オスロ合意”に代わる新たな中東和平へ指標として、昨年春、アメリカのブッシュ大統領が打ち上げた「ロードマップ」構想も、イスラエル政府による“分離壁”の建設や、ヨルダン川西岸地域でのユダヤ人入植地拡張へのアメリカ政府の承認などによって、いまや死に体にある。一方、イスラエルのシャロン首相は、昨年暮、ガザ地区からの入植地撤退案を打ち上げたが、極右勢力だけではく、与党リクード内部の右派勢力からも猛反対を受け、来年の実現は危ぶまれている。だが、このガザ地区撤退の見返りとしてヨルダン川西岸地区の大半のユダヤ人入植地が維持され、パレスチナ国家建設の夢はいっそう遠ざかることになることはほとんど語られていない。

 他方、パレスチナ人内部でも、アラファトの権力維持への執着、自治政府の腐敗は相変わらず続き、ガザ地区では、「改革」の名の元に、アラファトの対抗勢力による治安当局幹部の拉致など「反乱」も動きもみられるが、その背後にいる人物はアメリカから潤沢な資金受け、「金で忠誠を買う」という“アラファトの政治手法”を踏襲している。 

 このような八方塞がりのパレスチナ・イスラエル情勢のなかで、もっとも深刻な混乱のツケを払わされているのが、パレスチナ人民衆である。とりわけガザ地区では、多くの住民がインティファーダ以後強化されたイスラエルの封鎖政策によって仕事を失い、経済的にもどん底状態にある。さらにエジプトとの国境に面する街ラファでは、ガザ地区をエジプトから切り離そうとするイスラエルの政策遂行のために国境沿いの住民の家屋破壊と住民の強制移動が続いている。

 それを象徴する事件が、5月中旬のイスラエル軍によるラファ大侵攻であった。およそ2週間で60人近い住民が殺害され約530軒の家が破壊されたこの侵攻で、何が起こったのか。事件から2ヵ月半後、被害が集中した地区の現場を訪れ、被害の実態を検証した。


(今も家屋破壊が続くラファ)
 取材の拠点として選んだのは、ラファの中心街に位置する3階建のビルの最上階の部屋だった。ラファの街は昼夜を問わず、断続的に銃撃音が響き渡る。大半が国境沿いのイスラエル軍監視塔から撃つ威嚇のための無差別銃撃である。私の部屋の南側数百メートル先は軍監視塔のある国境で、その間に遮断物がないため、銃弾が国境側から直接、部屋に撃ち込まれる可能性もある。銃撃音があまりに近いときは、反射的に身をかがめてしまう。見晴らしのいいバルコニーはとりわけ危険だ。

 夜中になると、銃撃はいっそう激しくなる。機銃掃射の耳をつんざくような銃声に、「ドーン!」という戦車の砲撃音や武装ヘリコプターからのロケット弾による爆破音が混じることがある。そんな夜の翌朝には決まって、現地で雇ったアシスタントが「イスラエル軍が侵攻し、国境沿いの民家数軒を破壊した」というニュースを伝える。

 8月2日の夜中も激しい砲撃音の街中に轟き、何度も目を覚ました。果たして、イスラエル軍は国境沿いの難民キャンプの一角に侵攻し、8軒の民家を破壊していた。「武器密輸に使われるエジプト側とのトンネルを破壊するため」というのがイスラエル軍側のいう侵攻の理由だという。

 イスラエル軍が撤退して3日後、現場に入った。3日前まであったコンクリートとブロック造りの家々は瓦礫の山と化し、その中で住居を失った家族が瓦礫を手でかきわけ、埋もれた衣類や家財道具を探しまわっていた。イスラエル軍の戦車とブルドーザーは夜中に突然やってきて、家財道具を外に持ち出す時間も与えず家々を破壊したという。

「ここへ来て見てください。これが私の家です」。
2階建ての家を完全に破壊されたというヤセル・ジュウダ(33歳)は、カメラを抱えた私を破壊され崩れた家の中へ導いた。土砂の一部が音を立てて崩れ落ちている。

「イスラエル軍はここにトンネルがあるという。しかしこれがトンネルですか」。
ヤセルはコンクリートの床を指差しながら訴えた。「私たちはすべてを失いました。冷蔵庫も携帯電話も、家具も、すべてです。この瓦礫の中から何も取り出せません」

 さらに家族が避難している隣人の家へと私を案内したヤセルは、ベッドに寝入っている2歳の息子を指差して言った。
「この幼児がテロリストでしょうか。いったいどちらがテロリストですか、この子ですか、それとも戦車を操る者たちですか。なぜこの子が今眠っているのか、わかりますか。銃撃音に怯えて2日間、眠っていなかったんです」


(5月大侵攻で生活を奪われた人々)
 このような家屋破壊は、ラファでは5月の大侵攻以後も連日のように起こっているが、世界のメディアはもうほとんど伝えない。当時メディアがトップニュースとして伝えた5月の侵攻に比べると破壊された家屋や犠牲者の数が小さく、また「新鮮味」に欠け、「ニュース価値」がないからだろう。一方、5月の大侵攻も、民衆デモへのイスラエル軍の砲撃など一部のセンセーショナルな事件が断片的に伝えられただけで、その全貌は見えてこない。いったいあの時、ラファで何が起こったのか。住処を失った3000人を超える住民たちはその後、どうなったのか。
 
 5月12日、国境の家屋を爆破するために大量の爆発物を運搬していたイスラエル軍の装甲車がパレスチナ人武装グループのロケット弾攻撃をうけて大爆発を起こし、6人の兵士全員が死亡した。イスラエル軍は直ちに周囲の難民キャンプに侵攻し、15日までの4日間に100軒の民家を破壊し、2人子供を含む14人を殺害した。この家屋破壊で221家族、1308人がホームレスとなった(「パレスチナ人権センター」の調査より)。侵攻はそれだけには終わらなかった。

 5月18日、イスラエル軍は武装ヘリコプターや戦車、ブルドーザーで再びラファに侵攻した。このとき、難民たちが再移住した新住宅区のタルスルタン地区が完全に封鎖され、また東部、国境沿いの難民キャンプ、ブラジル地区で大量の家屋が破壊された。封鎖されたタルスルタン地区の住民の救援のためにデモが武装ヘリコプターと戦車で攻撃され、多数の犠牲者を出したのも、この時である。24日まで1週間続いた第2次侵攻によって破壊された家や犠牲者はさらに増え、結局、5月12日から24日までのおよそ2週間で、死者58人(12人が子供)、負傷者およそ200人(ほぼ半数が子供)、全壊と部分破壊を含め、531軒の民家が破壊され、561家族、3352人がホームレスとなった(同じく「パレスチナ人権センター」の調査より)。
 
 イスラエル軍のスポークスマン、エリック・スーデル大尉はこの侵攻の理由を次のように説明した。
 「2つの作戦を行うことが目的でした。1つは兵士の遺体の捜索です。遺体の部分が周囲に広く散乱していたために、その収容のために2日間を要しました。もう1つの目的は、パレスチナ人がエジプト側から武器を密輸するために使っているトンネルを破壊することです。この作戦のなかでパレスチナ人の家屋も破壊されましたが、その中にはすでに捨てられ住民が住んでいない家も多くありました」

 だが破壊された家々は「空家」ではなかった。その住民たちは住処を失い、中には3ヵ月近く経ってもテントやバラック小屋で暮らしている住民もいた。 
最も家屋破壊の被害が大きかったブラジル地区の中心部の一角、瓦礫も取り除かれ、広い更地になっているかつての家の跡地小さなバラック小屋2つとテント2つが建てられていた。8月は日中40度近くなる猛暑のなか、そのテントとやバラック小屋に、かつてここにあった家の住民たちの“住居”だった。バラック小屋の中は4畳半ほどの広さで、テレビとベッド、それにガスコンロなど簡単な台所用品、寝具が所狭しと詰まっていた。主の白い髭の老人、アブドゥルハリーム・アブハミード(65歳)が他のテントと小屋を案内した。かつてのテントの中にシャワールームや簡単な台所を作って、20代の娘たちも暮らしていたが、あまりに危険なため、テントを出ていかざるをえなくなった。

「イスラエル軍の銃撃があるためです。息子でさえ怖がるのだから、娘たちはなおさらのことです」
とアブハミード老人は薄汚れたテントの中で説明した。
「それで娘たちのために家を借りました。その費用は支援してくれる人に頼っています。だから今、家族はばらばらになって暮らしています。このテントに寝泊りしている息子たちはヘリコプターや戦車の音を聞くと、すぐにここから逃げます。こんなテント小屋さえイスラエル軍の銃撃の標的になるんです。誰もこんなテントに暮らすことはできませんよ」

 借家も借りられず、市営のサッカー・スタジアムの建物の中で暮らす家族もいる。今年1月に家を破壊されたケシュタ家には一時避難できる兄弟や親戚や隣人の家もなかった。彼らの家もまたすでに破壊されていたからだ。途方に暮れる一家に市役所が提供したのが、スタジアムの階下の10畳ほどの倉庫だった。窓が1つあるだけ、3方は壁に囲まれた密室、ここに12歳の息子を頭とする6人の子と両親の8人のあらゆる家財道具が押し込められている。部屋の1方の隅にはマットレスや毛布など寝具と子供たちの衣類が山のように積まれ、もう片方にはガスコンロ、鍋、食器などが場所を占め、真ん中のわずかな空間に家族8人が重なりあうように寝る。小さな窓を開けても、真夏の猛暑で部屋の中は蒸すように暑い。しかし窓やドアを開けっ放しにもできない。サッカー場に出入りする人々たちに、部屋が丸見えになってしまうからだ。
 さらに深刻な問題なのが、トイレとシャワーだ。サッカー場には公衆トイレしかない。とりわけアラブの成人女性にとって、人通りの激しく男女の区別もない公衆のトイレで用をたしたりシャワーを浴びなければならないことはるのはなによりも辛い。34歳の母親ナビラは、部屋の中で身体を洗っている。
家を破壊されるということは単に住処を失うということに終わらない。ナビラに大きな精神的打撃を与えているのは、生まれた時から何十年も住み慣れた地区の親や隣人たちのコミュニティーから切り離されてしまったことである。生活が苦しくても、強い絆で結ばれた大家族やコミュニティーの中で支えあって生きてきた難民キャンプの住民たちにとって、その生活空間を失うことは深刻な事態である。「私はここに来てもまったく隣人がいません。家から通りに放り出されたも同然です」とナビラはいう。しかしすでに住み慣れたコミュニティーはイスラエル軍に破壊されてもう跡形もない。かといって、家を再建する資金もない。ケシュタ家がこのスタジアム暮らしから抜け出せる見通しは当分ない。


(突然の破壊)
 国境から415メートルも離れたムスタファ・ハファジャ(42歳)の家の近所にイスラエル軍のブルドーザーと戦車がやってきたのは5月20日の午前4時ごろだった。6人の子供と老母たちはまだ眠っていた。ブルドーザーは周囲の家々を破壊したのち、突然、ムスタファの家の背後から破壊し始めた。家族を起こし、ムスタファは白旗を揚げて外に出ようとしたが、ムスタファたちに向かって銃撃してきたため、戸口から出られなかった。一家は反対側の2メートルほどの壁を乗り越えて、隣の叔父の家に逃れるしかなかった。子供たちや老母を先に越えさせ、妻(36歳)が最後に越えようとしたとき、狙撃兵に脚を銃撃された。倒れる妻をかかえ避難しようとしたとき、ブルドーザーに押された壁が崩れ、瓦礫がムスタファの右肩と頭を直撃し、反対側の家の壁に右肩を激しく打ち付けられた。動けなくなったムスタファと妻を叔父の家族が引っ張り出し避難させた。

 突然の破壊だったために、ムスタファの家族は、衣類など生活用品や、配管工の仕事のために道具や資材だけでなく、金やゴールド、身分証明書など貴重品も瓦礫の下敷きとなった。携帯電話さえ持ち出す余裕がなかった。一家は全てを失った。


 3ヵ月が経った今、一家は倉庫の1階を借りて暮らしている。妻は今も複雑骨折した大腿骨を金具で固定し、ベッドでの生活を続けている。一方、ムスタファは肩の痛みが続き、リハビリに通い続けている。配管工の仕事も長時間続けることができない。一方、家事や子供の世話も動けない妻に代わってムスタファがこなさなえればならない。生活費を稼ぐための仕事もできない。家賃の120ドルの4か月分は、大半をUNRWA(国連パレスチナ難民救済救済事業機関)が支払うことになっているが、まだ受け取っていない。ムスタファは家族の生活を支えるためにも一日も早く働きたいと願っている。しかし肩の治療のリハビリに今なお通い続けるムスタファには、それがいつ実現するのかわからない。
 
 イスラエル軍スポークスマンは家屋破壊の理由を「パレスチナ人がエジプトから武器を密輸しているトンネルを探すため」だとしている。

 しかし5月の大侵攻で家屋破壊の最も大きな被害を受けたブラジル地区の住民の中には国境から遠く地区に住んでいた者も少なくない。

「あれが国境です。あそこから私の家まで500メートルも離れています」
と、アラー・バナット(32歳)は大通りの南側、砂山の向こう側を指差した。さらにその通りから西に10メートルほど入った場所まで歩き、破壊された自宅跡の更地に立った。

「これが私の家です。500メートルも離れたこの地区にトンネルがあったのかどうか考えてみてください。まったく不可能です」
アラーは父親が残してくれた家を改造し、大金をはたいて寝室の家具、冷蔵庫、洗濯機もソファなどの家具一切をほんの1年前に買った。改築が終わったのは、去年12月だった。しかしその家をイスラエル軍は5ヵ月後にブルドーザーで完全に破壊してしまった。家具どころから衣類、妻の貴金属さえ持ち出す時間もなかった。

 ブラジル地区よりさらに北側、国境から1.2キロもあるガザ唯一の動物園も戦車とブルドーザーによって破壊された。動物の檻はほとんど破壊され、ジャガーやニシキヘビなど危険な動物が街に逃亡し、逃げ遅れた動物は瓦礫の下敷きとなった。その被害額は20万ドルにも及んだと経営者のモハマド・ジュマ(40歳)はいう。

「なぜ国境から遠く離れた動物園が破壊されたと思うか」という問いに、モハマドは、
「ここには人がいつもで出入りし、パレスチナ人の武装勢力が活動できるような場所でもない。なのに、なぜ破壊されたかって?その質問に答えられるのはイスラエルの国防省で、私ではない」
と憮然として答えた。

 国境近くならともかく、数百メートル、1キロを超える距離にある家や施設を破壊したのも「武器密輸のためのトンネルがあったから」といえるのか、私はその疑問をイスラエル軍スポークスマンにぶつけてみた。

 スーデル大尉はこう答えた。
「インティファーダが始まって以来、この4年間の間にパレスチナ人のテロリストたちの武器製造やトンネル造りの技術は進歩しています。テロリストたちは以前より深く、またより長いトンネルを掘れるようになっているのです。だから国境から800メートルも離れたところからトンネルが掘られていても少しも驚くことではありません。

 一方、民家の中からテロリストたちが対戦車砲、ロケット弾、手榴弾などでイスラエル軍に激しい攻撃を行います。国際法によれば攻撃に利用される民家は他方の反撃から保護される権利を失います。我われは敵の攻撃に応戦します。これはもう戦闘なのです。テロリストがその民家を攻撃の拠点に使うことで戦闘に巻き込んだのです。

 さらに道路にテロリストたちが仕掛け爆弾を敷設している可能性があるため、我われは道路を掘ってその導火線を切断するか、沿道の建物を壊し道路を迂回することもあります。我われの兵士が安全に作戦を遂行するためにそうせざるをえないのです。

 動物園の場合も、その周囲の道路に仕掛け爆弾があるのを警戒して、兵士たちが安全に通過できるようにするために、道路を迂回して動物園の中を通過したのです」

 しかし、常識的に見ても、破壊された家よりずっと国境に近い家々が数百件もあるのに、何倍、何十倍もの労力、費用、時間がかかる遠い場所からトンネルを掘るとは考えにくい。またパレスチナ人の住民が車や徒歩で日常的に往来する道路に武装勢力が仕掛け爆弾を敷設しているという説明も説得力がない。さらに住民のいる民家から武装勢力がイスラエル軍に攻撃をするというのも、考えにくい。そうすれば報復としてその民家が破壊されることをこれまでの経験から熟知している住民たちが武装グループにそれを許すわけもなく、また武装グループ自身も住民を巻き込むことを前提とした攻撃を敢行すれば住民の反発を買い支持を失うことは熟知してはずだからである。

 家を破壊された住民たちの証言からも、破壊直前に周辺で銃撃戦が行われていたという証言はまったくなかった。インタビューした数十人の被害家族のほとんどすべてが、「夜中、家族が眠りについていたとき、突然、戦車とブルドーザーがやってきて家を破壊し始めた」と証言している。

 むしろ被害者の1人、先のアラーの「たくさんの家々が密集するこの地区を破壊したかったから」という主張がより説得力がある。

 「私たちの地区には12軒ほどの家がありました。イスラエル軍がそのうち数軒を壊したら、他の家族は恐れて逃れます。実際、たくさんの住民が難民キャンプから逃れました。それは1948年のデールヤシン村の虐殺事件と似ています。パレスチナからアラブ人の村人を追い出すためにイスラエル軍はデールヤシン村の住民を200以上虐殺した。そのニュースがパレスチナ中に広がると、ほかの村人たちも恐怖心でパニックになり村を離れていった。それと同じようなことが今、ラファで起こっているのです。これは一種の住民の強制移動です」


(狙撃兵に頭を撃ち砕かれた姉弟)
 5月12日から15日までラファを侵攻し家屋を破壊したイスラエル軍は、18日未明から再び大規模な侵攻を開始した。今度は東部のブラジル地区と共に、これまでイスラエル軍の侵攻を受けることのほとんどなかった西部の新興住宅街タルスルタン地区が標的となった。なぜか。イスラエル軍スポークスマンは「密輸トンネル掘削の黒幕たちがタルスルタン地区にいます。我われはその連中たちを拘束するためにこの地区に入ったのです」と説明する。一方、住民の中には「国境付近でイスラエル軍に抵抗した武装グループが、比較的安全だと見られていたタルスルタン地区に逃れているという噂が流れたためだろう」と言う声がある。

 午前3時、グシュカティーフ入植地からタルスルタン地区に侵攻したイスラエル軍は、4箇所の入り口全部を戦車で封鎖し、全域を制圧した。高い建物に狙撃兵を配備し、ブルドーザーによって家屋や道路、水道管、下水管、電話線、生花や野菜が栽培されている温室などが次々と破壊されていった。午前4時ごろには、早朝、モスクへ向かう住民に武装ヘリコプターがロケット弾を発射し、2兄弟、父子を含む5人が殺害された。

 5月18日の早朝、イスラエル軍はタルスルタン地区の住民にマイクで外出禁止令を告げた。エルモガイアル家の3女、高校生のアスマ(16歳)はこの日、試験が予定されていたが、学校へ行けなくなった。銃声もなくなった午前11時過ぎ、母親のシリア(43歳)は、アスマに屋上の洗濯物を取るように、また3男のアハマド(13歳)には、屋上で飼っている鳩に餌をやるように指示した。2人は屋上へ上がっていった。その直後、屋上で激しい銃声が聞こえた。シリアは「アハマド、アスマ、すぐに降りておいで!」と叫んだが、まったく返事がなかった。

 部屋で休んでいた長男のアリ(26歳)は、アハマドが「アリ!」と叫ぶ声と激しい銃撃音を聞いた。アリはすぐに階段を駆け上がった。母親シリアが後を追った。屋上入り口、階段の最上段でアハマドが倒れていた。床にはアハマドの脳が飛び散り、頭蓋骨は粉々になっていた。アハマドに近づこうとするアリと母親に向かって激しい銃撃が加えられた。やっとアハマドの側まで接近すると、大きな息をし、その2、3秒後に絶命した。アリはさらにアスマの様子を見るために、屋上へ上がった。イスラエル軍の銃撃が激しかったので、アリは這って進んだ。アスマが倒れている場所までは7、8メートルの距離だったが、15分以上もかかった。やっとアスマの側にたどり着いたアリは、妹の姿に愕然とした。アハマドと同様、砕けた頭蓋骨と脳が周囲に飛び散っていたのだ。それを集まるために干してある洗濯物の衣服を取ろうと手を伸ばすと、その手を狙って銃弾を浴びせられた。アリは洗濯ひもを引きちぎり、やっとTシャツを取り出すと、脳と頭蓋骨を集めた。さらにアスマの遺体を階段まで引きずっていった。

 「アハマドは鳩にやる水を用意していました」
と母親は、息子アハマドが射殺される経緯を語った。

 「その時、姉が銃撃で撃たれるのを目撃したのでしょう。そのことを急いで私たちに知らせようと階段を降りようとしたとき、狙撃兵が彼の頭部を1発の銃弾を撃ち砕いたのです」
屋上から数十メートル離れた建物の壁に穴が見えた。イスラエル軍の狙撃兵は、あの穴から2人を狙い撃ちしたのだと母親は言う。

 この事件についてイスラエル軍側は当初、
「この姉弟は屋上で爆弾を作ろうとしていて誤って爆死した」
と説明した。
 しかし頭部が銃弾で砕かれている遺体を目撃した医者やジャーナリストたちの「爆死ではありえない」という証言が公になると、その主張を変えた。事件から4ヵ月ほど経た9月初旬、イスラエル軍スポークスマンは、私にこう説明した。

 「当時、あの地域で激しい銃撃戦が行われていました。だからイスラエル軍の狙撃兵に撃たれたという結論を出す証拠はないのです。そこではパレスチナ人の狙撃兵も撃っていたのです。パレスチナ人の狙撃兵はだれに向かって撃っているのかまったく考慮しませんから。あの連中の中には腕のいい狙撃兵もいます。2年半前にヨルダン川西岸でパレスチナ人狙撃兵が7人のイスラエル兵を殺害した例もあるほどです」

 私はスーデル大尉に訊いた。「ということは、腕のいいパレスチナ人の狙撃兵が、1発で頭部を撃ち抜けるほどの高性能なテレスコープで、相手が洗濯物を取り入れているパレスチナ人少女であることを識別できたにもかかわらず、撃ち殺したというのですか」

 するとスーデル大尉は動揺した様子であわてて否定した。
 「そう確信しているといっているのではありません。そうじゃないんです。ただ今の段階での情報では、すぐに結論を出すのは難しいのです。調査が必要です」

 だが事件後、4ヵ月の間にイスラエル軍側によって調査が行われた形跡はない。

 アスマとアハマドの遺体を居間に運んだ直後、病院に運ぶために家族は救急車を電話で呼ぼうとした。しかし家に近づこうとする救急車をイスラエル軍が銃撃したため、遺体は家の居間に安置されたままになった。およそ5時間後にやっと救急車がやってきて、2人の遺体を運んだ。

 同行を嘆願する母親たちに、救急隊員は
「イスラエル軍の戦車が途中にいて検問し、遺体のだけしか運べない」
と言った。
 遺族との最後の面会を待って2人の遺体は4日間病院に安置された。しかし封鎖されたタルスルタン地区から遺族は病院へたどり着くことができなかった。犠牲者の数がどんどん増え、病院の遺体安置所の冷蔵庫も満杯となり、これ以上2人を安置し続けることができなくなった。埋葬に家族が参加できるようにイスラエル軍に交渉したが受け入れられず、「埋葬される前に、もう一度子供たちの姿を見たい」という母親シリアの願いはかなえられなかった。


(攻撃された平和的なデモ)
 5月19日、世界に衝撃的な映像が伝えられた。ラファのタルスルタン