<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed version="0.3" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xml:lang="en">
<title>土井敏邦　コラム</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/" />
<modified>2005-11-23T10:32:11Z</modified>
<tagline>ビデオ・ジャーナリスト土井敏邦のコラムです。パレスチナ・イラクなどを取材し、その成果を広くお伝えします。</tagline>
<id>tag:www.doi-toshikuni.net,2005:/blog/1</id>
<generator url="http://www.movabletype.org/" version="3.01D-ja">Movable Type</generator>
<copyright>Copyright (c) 2005, doitoshikuni</copyright>
<entry>
<title>土井敏邦作品履歴</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/000026.html" />
<modified>2005-11-23T10:32:11Z</modified>
<issued>2005-11-23T10:26:15Z</issued>
<id>tag:www.doi-toshikuni.net,2005:/blog/1.26</id>
<created>2005-11-23T10:26:15Z</created>
<summary type="text/plain">土井敏邦（どい・としくに）　経歴
 
１９５３年、佐賀県生まれ。広島大学総合科学部卒

中東専門雑誌記者を経て、現在フリージャーナリスト。
１９９１年より１年間、週刊誌『朝日ジャーナル』の嘱託記者。

１９８５年以来、断続的に延べ５年以上、イスラエルとその占領地（パレスチナ）の難民キャンプや村に滞在して取材を続けている。

また８６年からのべ１２カ月間、アメリカ各地でユダヤ人、パレスチナ人を取材し『占領と民衆──パレスチナ』『アメリカのユダヤ人』『アメリカのパレスチナ人』の３部作を完成。

１９９０年の湾岸危機ではアメリカのユダヤ人社会とアラブ人社会の反応を、また翌年１月の湾岸戦争ではイスラエルで占領地のパレスチナ人とイスラエル国民の反応を取材し『朝日ジャーナル』に連載。
３月から２カ月間、NHKスペシャル「アメリカのパレスチナ人」制作をコーディネイト。

１９９３年の「中東和平合意」を機に再びパレスチナ・ガザ地区の難民キャンプやイスラエル国内に長期滞在し取材、ＥＴＶ特集「失業と解放の１年──パレスチナ難民エルアグラ家の場合」（９４年）「パレスチナ和平の陰で──ある家族の６年」（９９年...</summary>
<author>
<name>doitoshikuni</name>


</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.doi-toshikuni.net/blog/">
<![CDATA[<p><strong>土井敏邦（どい・としくに）　経歴</strong><br />
 <br />
１９５３年、佐賀県生まれ。広島大学総合科学部卒</p>

<p>中東専門雑誌記者を経て、現在フリージャーナリスト。<br />
１９９１年より１年間、週刊誌『朝日ジャーナル』の嘱託記者。</p>

<p>１９８５年以来、断続的に延べ５年以上、イスラエルとその占領地（パレスチナ）の難民キャンプや村に滞在して取材を続けている。</p>

<p>また８６年からのべ１２カ月間、アメリカ各地でユダヤ人、パレスチナ人を取材し『占領と民衆──パレスチナ』『アメリカのユダヤ人』『アメリカのパレスチナ人』の３部作を完成。</p>

<p>１９９０年の湾岸危機ではアメリカのユダヤ人社会とアラブ人社会の反応を、また翌年１月の湾岸戦争ではイスラエルで占領地のパレスチナ人とイスラエル国民の反応を取材し『朝日ジャーナル』に連載。<br />
３月から２カ月間、NHKスペシャル「アメリカのパレスチナ人」制作をコーディネイト。</p>

<p>１９９３年の「中東和平合意」を機に再びパレスチナ・ガザ地区の難民キャンプやイスラエル国内に長期滞在し取材、ＥＴＶ特集「失業と解放の１年──パレスチナ難民エルアグラ家の場合」（９４年）「パレスチナ和平の陰で──ある家族の６年」（９９年）、また「ニュースステーション」の特集で６回にわたって現地報告。</p>

<p><u>アジア・日本国内</u><br />
アジアでは、１９８２年の「教科書問題」を機に在韓被爆者を取材、９１年には韓国民主化運動の元学生指導者たちのその後を、さらに９４年から９８年まで韓国の元従軍慰安婦たちの現状を追い、NHKのＥＴＶ特集「『分かち合い（ナヌム）の家』のハルモニたち」、NHK・ＢＳ特集「戦争・心の傷の記憶」で元従軍慰安婦、姜徳景の半生を描いたドキュメンタリーを制作。</p>

<p>１９９６年、タイ北部の農村でエイズ孤児を取材しＥＴＶ特集「タイのエイズ孤児たち」を放映、翌年、ベトナムで性的暴行を受けるストリートチルドレンの少女たちを追い、ＥＴＶ特集「傷つけられる少女たち──ベトナム・ストリートチルドレン物語」を制作。</p>

<p>１９９８年からはタイ・ビルマ国境の密林地帯や日本国内で民主化活動を続けるビルマ人青年たちを取材し、ＥＴＶ特集「密林キャンプからの報告──タイ・ミャンマー国境地帯」を、今年７月には「在日ビルマ人の民主化活動家・ティンチー」（日本テレビ「きょうの出来事」）を放映。</p>

<p>さらに、<br />
日本政府の難民政策を追及した「『難民』が直面するニッポンの壁」「傷つけられる難民申請者たち」（いずれもＴＢＳ「報道特集」）「強制送還された難民申請者」（日本テレビ「きょうの出来事」）を制作。</p>

<p><u>最近のパレスチナ</u><br />
２０００年秋、パレスチナで第２の「インティファーダ（民衆蜂起）」が始まって２ヵ月後の昨年１２月から２ヵ月間、イスラエル、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸、ガザ地区に滞在し、イスラエル、パレスチナ両面から取材、ＮＨＫ・ＥＴＶ特集で「イスラエル・パレスチナからの報告」（２夜連続）を放映、第１部はエルサレム問題をテーマにした「憎悪の震源地・エルサレム」、第２部はテロで娘をパレスチナ人に殺戮されながらも和平を求めるイスラエル人夫婦が、イスラエル兵士に息子を殺されたパレスチナ人との対話を描いた「平和への詩（うた）」。</p>

<p>２００２年以後もパレスチナ・イスラエル取材を継続し、ガザ地区最南端の街ラファでの家屋破壊、ナブルス市郊外のバラータ難民キャンプのイスラエル軍の包囲、ジェニン難民キャンプでの虐殺、分離壁、イスラエル軍のラファ侵攻、ガザのユダヤ人入植地撤退などについてＮＨＫ、ＴＢＳ、日本テレビなどで放映、また複数の著書、雑誌記事などで発表した。</p>

<p><u>イラク関連</u><br />
イラク戦争直後から４度にわたりイラクを取材し、とりわけ２００４年５月には「ファルージャ侵攻」直後の現場を取材した。その結果はＴＢＳのテレビニュースや岩波ブックレットなどで報告した。　２００５年４月にはドキュメンタリー映像「ファルージャ　２００４年４月」を完成、２００５年９月にはイタリアのミラノ映画祭で上映されるなど、アメリカやヨーロッパ各地で上映されている。<br />
現在、１９９３年以来のパレスチナ・イスラエル取材結果を数本のドキュメンタリー映画にまとめる作業を続けている。</p>

<p></p>

<p>（著書）<br />
『占領と民衆──パレスチナ』（晩声社）（１９８８年）<br />
『アメリカのユダヤ人』（岩波新書）（１９９１年）<br />
『アメリカのパレスチナ人』（すずさわ書店）（１９９１年）<br />
『反戦歌──新谷のり子』（ぴーぷる社）（１９９２年）<br />
『炎となりて──新・韓国を拓いた若者たち』（三一書房）（１９９３年）<br />
『「和平合意」とパレスチナ』（朝日選書）（１９９５年）<br />
『パレスチナ　ジェニンの人々は語る』（岩波ブックレット）（２００３年）<br />
『現地ルポ・パレスチナの声　イスラエルの声』（岩波書店）（２００４年）<br />
『米軍はイラクで何をしたのか』（岩波ブックレット）（２００４年）<br />
『フォトジャーナリスト１３人の眼』（共著）（集英社新書）（２００５年）</p>

<p></p>

<p>（テレビドキュメンタリー番組）<br />
「和平合意後のパレスチナ・ガザ地区の経済」（ニュースステーション・９３年）<br />
「和平合意後のパレスチナ難民キャンプの実態」（ニュースステーション・９４年）<br />
「アラブ諸国から来たユダヤ人  」（ニュースステーション・９４年）<br />
「テロ爆破からの生還・ペレス首相はなぜ敗れたのか」（ニュースステーション・９６年）<br />
「封鎖によって崩壊するガザ経済」（ニュースステーション・９６年）<br />
「ユダヤ化されるエルサレム」（ニュースステーション・９７年）　<br />
「失業と解放の１年・パレスチナ難民エルアグラ家の場合」（NHK・ＥＴＶ特集・９４年）<br />
「分かち合いの家のハルモニたち──韓国元従軍慰安婦たちは今」（ＮＨＫ・ＥＴＶ特集・９５年）「アジアの元日本留学生たちは今」（ベトナム編・タイ編）（ＮＨＫ・ＥＴＶ特集・９６年）<br />
「タイのエイズ孤児たち」（ＥＴＶ特集・９６年）<br />
「傷つけられる少女たち──ベトナム・ストリートチルドレン物語」（ＮＨＫ・ＥＴＶ特集・９７年）<br />
「戦争・心の傷の記憶（元従軍慰安婦・姜徳景の生涯）」（NHK・ＢＳ特集・９８年）<br />
「密林キャンプからの報告──タイ・ミャンマー国境地帯」（ＮＨＫ・ＥＴＶ特集・９８年）<br />
「『難民』が直面するニッポンの壁」（ＴＢＳ報道特集・９９年）<br />
「パレスチナ和平の陰で──ある家族の６年」（ＮＨＫ・ＥＴＶ特集・９９年）<br />
「傷つけられる難民申請者たち」（ＴＢＳ報道特集・２０００年）<br />
「強制送還された難民申請者」（日本テレビ「きょうの出来事」・２０００年）<br />
「在日ビルマ人の民主化活動家・ティンチー」（日本テレビ「きょうの出来事」・２０００）<br />
「イスラエル・パレスチナ報告」（２夜連続）（ＮＨＫ・ＥＴＶ特集・２００１年）<br />
「憎しみの壁――パレスチナ・続く自爆テロ」（ＮＨＫ・ＥＴＶ２００２）<br />
「虐殺？　ジェニン潜入・カメラが見た事実」（ＴＢＳ「報道特集」・２００２年）<br />
「ジェニンで何が起きたか」（ＮＨＫ・ＥＴＶ２００２）<br />
「わがパレスチナ――長老シャフィ氏が語る民主化への道」（ＮＨＫ・ＥＴＶ２００２）<br />
「アジア人間街道・子供たちが教えてくれた――タイ・ＨＩＶ感染児と日本人」（ＮＨＫ・２００３年）<br />
「アメリカ女子学生の無残・パレスチナで何が？」（ＴＢＳ「報道特集」・２００３年）<br />
「マフィアの闘うタイのジャーナリスト」（ＴＢＳ「報道特集」・２００３年）<br />
「イラク戦争で傷ついた子供たち」（テレビ朝日「ニュースステーション」・２００３年）<br />
「イラク・元軍人たちは今」（日本テレビ「きょうの出来事・２００４年」<br />
「イラク・ファルージャの悲劇」（ＴＢＳ「Ｎｅｗｓ　２３」・２００４年）<br />
「イラク虐待問題とその真実」（ＴＢＳ「Ｎｅｗｓ　２３」・２００４年）<br />
「イラク・囚人虐待とファルージャ虐殺」（ＴＢＳ「報道特集」・２００４年）<br />
「パレスチナの分離壁」（日本テレビ「きょうの出来事」・２００４年）<br />
「イラク占領と女性」（ＴＢＳ「Ｎｅｗｓ　２３」・２００４年）<br />
「家屋破壊と無差別銃撃にさらされる国境沿いの街ラファ」（ＴＢＳ「Ｎｅｗｓ　２３」・２００４年）<br />
「壁が分断した農地――ヨルダン川西岸の現実」（ＴＢＳ「Ｎｅｗｓ　２３」・２００５年）<br />
「入植地撤退劇の裏側」（ＴＢＳ「Ｎｅｗｓ　２３」・２００５年）</p>

<p></p>

<p>（ドキュメンタリー映像）<br />
「ファルージャ　２００４年４月」（VHS/DVD　日本語版／英語版）（２００５年）　</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>「ファルージャ２００４年４月」チラシダウンロード</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/000025.html" />
<modified>2005-05-15T09:52:28Z</modified>
<issued>2005-05-15T09:46:33Z</issued>
<id>tag:www.doi-toshikuni.net,2005:/blog/1.25</id>
<created>2005-05-15T09:46:33Z</created>
<summary type="text/plain">


下記をクリックすると「ファルージャ２００４年４月」のチラシ（ＰＤＦ）がダウンロードできます。
Download file
...</summary>
<author>
<name>doitoshikuni</name>


</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.doi-toshikuni.net/blog/">
<![CDATA[<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/Falluja.jpg"><img alt="Falluja.jpg" src="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/Falluja-thumb.jpg" width="841" height="594" /></a></p>

<p><br />
下記をクリックすると「ファルージャ２００４年４月」のチラシ（ＰＤＦ）がダウンロードできます。<br />
<a href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/fallujaA4.pdf">Download file</a><br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>自主制作映像試写会『ファルージャ　２００４年４月』</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/000023.html" />
<modified>2005-06-10T13:25:15Z</modified>
<issued>2005-04-24T01:58:20Z</issued>
<id>tag:www.doi-toshikuni.net,2005:/blog/1.23</id>
<created>2005-04-24T01:58:20Z</created>
<summary type="text/plain">ドキュメンタリー映像「ファルージャ　2004年4月」
 
試写会のご案内
 
土井敏邦

　２００４年４月３０日、25日間にわたる米軍による第1次ファルージャ侵攻の終結から１年になります。

　ファルージャが解放された直後の５月初旬、私は延べ１週間にわたってその現地を取材しました。バクダッドから送った私の映像や記事は、TBS「報道特集」や「News２３」、また「週刊朝日」などで発表しました。しかしそれらはほんの一部に過ぎず、そこで伝えきれなかった部分を加えて、昨年夏、拙著『米軍はイラクで何をしたのか』（岩波ブックレット）にまとめました。

　一方、十数時間におよぶビデオ映像は３０分ほどの長さにまとめ、昨年秋以来、東京、名古屋、大阪、岡山、福岡、沖縄など各地での講演会で上映してまいりました。これは私自身が映像を簡単な器材で粗編集し、自作のナレーションを会場で読み上げるという簡素な手法でした。しかしそれでも各地の講演会の会場で、多くの方々から「学校や集会などで上映し、平和運動に活用したい。このビデオ・テープが手に入らないか」という声が上がりました。皆さんからのその熱い声に背中を押され、また...</summary>
<author>
<name>doitoshikuni</name>


</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.doi-toshikuni.net/blog/">
<![CDATA[<p><u><strong>ドキュメンタリー映像「ファルージャ　2004年4月」</strong></u><br />
 <br />
<strong>試写会のご案内</strong><br />
 <br />
土井敏邦</p>

<p>　２００４年４月３０日、25日間にわたる米軍による第1次ファルージャ侵攻の終結から１年になります。</p>

<p>　ファルージャが解放された直後の５月初旬、私は延べ１週間にわたってその現地を取材しました。バクダッドから送った私の映像や記事は、TBS「報道特集」や「News２３」、また「週刊朝日」などで発表しました。しかしそれらはほんの一部に過ぎず、そこで伝えきれなかった部分を加えて、昨年夏、拙著『米軍はイラクで何をしたのか』（岩波ブックレット）にまとめました。</p>

<p>　一方、十数時間におよぶビデオ映像は３０分ほどの長さにまとめ、昨年秋以来、東京、名古屋、大阪、岡山、福岡、沖縄など各地での講演会で上映してまいりました。これは私自身が映像を簡単な器材で粗編集し、自作のナレーションを会場で読み上げるという簡素な手法でした。しかしそれでも各地の講演会の会場で、多くの方々から「学校や集会などで上映し、平和運動に活用したい。このビデオ・テープが手に入らないか」という声が上がりました。皆さんからのその熱い声に背中を押され、また取材した現地の人々の「自分たちの声を日本人に伝えてほしい」という切実な声に応えなければという思いから、ファルージャ記録ビデオの制作に踏み切る決意をいたしました。<br />
 </p>

<p>　せっかくドキュメンタリー・ビデオを制作するなら、歴史の証言として長く耐えられる質の記録映像にしたいと思いました。また単に４月侵攻の被害状況だけではなく、ファルージャ住民の反米感情の原点となった米軍のデモ住民銃撃事件など、私がその前年にファルージャで取材した素材や報道写真などを加え、米軍侵攻にいたるまでの過程をも加えた複眼的な記録ビデオにしたい考えました。</p>

<p><br />
　3月初旬に編集作業を開始し、ほぼ1ヵ月半をかけ、4月22日、やっと55分ほどの映像にまとめあげました。私自身が試行錯誤しながら編集したものですが、テレビ局の経験豊かなディレクターの友人たちに貴重なアドバイスをいただきながら、何度も修正を繰り返し創り上げたものです。<br />
 </p>

<p>　この小品は、5月初旬からDVDとVHSの両方で市販を開始します。頒布価格は３５００円です。<br />
　（なお制作のために2万円以上の支援金をお送りいただいた方々には、無料でお送りします）<br />
 </p>

<p>　また日本語版に続いて、現在、英語版を制作中です。このドキュメンタリー映像を、むしろアメリカ人をはじめ、欧米の人々にぜひ見ていただきたいと願うからです。英語版が完成し次第、渡米し、このドキュメンタリー映像の普及につとめるつもりです。</p>

<p>　そこで皆さんの率直なご批評をいただきたく、以下のように試写会をひらきます。ご出席いただければ幸いです。 <br />
                                      <br />
ドキュメンタリー映像</p>

<p>「ファルージャ　２００４年４月」</p>

<p>　イラクにおける米軍占領への抵抗のシンボルとなったファルージャ。</p>

<p>２００４年４月、米軍は数千の兵力でファルージャに侵攻した。</p>

<p>１ヵ月近い米軍の包囲と攻撃によって住民側の死者はおよそ７３０人、</p>

<p>負傷者２８００人に達した。</p>

<p>　 なぜファルージャが占領への抵抗の拠点となったのか。</p>

<p>　 米軍はどのように攻撃したのか。</p>

<p>　だれが米軍と戦ったのか。</p>

<p>　そして住民はどのような被害を被ったのか。<br />
 </p>

<p>米軍の包囲解除から１０日後、</p>

<p>ジャーナリスト・土井敏邦がファルージャ市内に入り、現地を取材した。</p>

<p>このドキュメンタリーは、イラク終結後から４ヵ月後の２００３年８月と、</p>

<p>２００４年５月、ファルージャで撮影した住民の証言を元に、</p>

<p>ファルージャ侵攻に至るまでの経緯、攻撃と抵抗の実態、</p>

<p>侵攻の被害を追った記録映像である。</p>

<p><br />
　取材・撮影・編集　　　　　土井敏邦<br />
 </p>

<p>　通訳　　　　　　　　　　　　モハマド・サイード</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　アハマド・アルジュレミ                                  </p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　ハルドゥーン・セルハド</p>

<p> </p>

<p>　コーディネーター　　　　　モンゼル・アベッド</p>

<p> </p>

<p>　翻訳 　　　　　　　　　　　　アハマド・サイード</p>

<p> </p>

<p>　制作       　　　　　　　　　土井敏邦</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　ファルージャ侵攻の記録を残す会</p>

<p> </p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（時間：５５分）</p>

<p> </p>

<p> </p>

<p>〔試写会〕</p>

<p> </p>

<p>日時　　：　　4月27日（水）　　午後7時より</p>

<p> </p>

<p>場所　　：　　アジア文化会館　　</p>

<p> </p>

<p>　　　　　　　　　東京都文京区本駒込２−１２−１３</p>

<p> </p>

<p>　　　　　　　　　（都営三田線）千石駅（三百人劇場方向）から徒歩5分</p>

<p> </p>

<p>　　　　　　　　　（JR山手線）　巣鴨駅から徒歩15分</p>

<p> </p>

<p>　　　　　　　　（電話）　　０３−３９４６−４１２１　（担当・近藤昇）</p>

<p> </p>

<p>なお参加費は無料です。　</p>

<p>※下記をクリックするとチラシがダウンロードできます。<br />
<a href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/fallujaA4.pdf">Download file</a></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>パレスチナ　この１年（０４．１２月に思う）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/000022.html" />
<modified>2004-12-24T04:12:42Z</modified>
<issued>2004-12-24T04:09:39Z</issued>
<id>tag:www.doi-toshikuni.net,2004:/blog/1.22</id>
<created>2004-12-24T04:09:39Z</created>
<summary type="text/plain">パレスチナのこの１年
土井敏邦

　分離壁、シャロン首相の「ガザ地区撤退案」、ガザ地区・ラファでの大量家屋破壊、そして北部ジャバリア侵攻による１００人以上の犠牲者・・・、世界のメディアはパレスチナでの「旬な事件」をトップ・ニュースで伝え、まもなく問題が解決したかのように忘れ去る。

　しかし今、パレスチナ人に最も深刻な問題は、目に見えにくいがパレスチナ社会を蝕み続けている。
　イスラエルの“封鎖”政策によるパレスチナ社会・経済の侵食と、民衆の精神的な腐食だ。

　長年、占領政策によって、自立する経済の芽潰されてきたパレスチナは、封鎖によって“窒息状態”におかれている。これまで民衆の最大の収入源であったイスラエルへの出稼ぎの機会はほとんど奪われ、農産物や製品の輸出の道は閉ざされた。また原材料の輸入も困難となり、イスラエルの下請け産業も壊滅、零細工業も崩壊寸前だ。
　失業率は６０％を超え、２年前でも１日２ドル以下の貧困ライン以下は全体で６０％以上、ガザ地区では８０％にも達し、５歳以下の子供の２３％近くが栄養失調状態にあった。さらに深刻なのが高校や大学を卒業しても仕事もなく、海外で活路を見出...</summary>
<author>
<name>doitoshikuni</name>


</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.doi-toshikuni.net/blog/">
<![CDATA[<p><u><strong>パレスチナのこの１年</strong></u><br />
土井敏邦</p>

<p>　分離壁、シャロン首相の「ガザ地区撤退案」、ガザ地区・ラファでの大量家屋破壊、そして北部ジャバリア侵攻による１００人以上の犠牲者・・・、世界のメディアはパレスチナでの「旬な事件」をトップ・ニュースで伝え、まもなく問題が解決したかのように忘れ去る。</p>

<p>　しかし今、パレスチナ人に最も深刻な問題は、目に見えにくいがパレスチナ社会を蝕み続けている。<br />
　イスラエルの“封鎖”政策によるパレスチナ社会・経済の侵食と、民衆の精神的な腐食だ。</p>

<p>　長年、占領政策によって、自立する経済の芽潰されてきたパレスチナは、封鎖によって“窒息状態”におかれている。これまで民衆の最大の収入源であったイスラエルへの出稼ぎの機会はほとんど奪われ、農産物や製品の輸出の道は閉ざされた。また原材料の輸入も困難となり、イスラエルの下請け産業も壊滅、零細工業も崩壊寸前だ。<br />
　失業率は６０％を超え、２年前でも１日２ドル以下の貧困ライン以下は全体で６０％以上、ガザ地区では８０％にも達し、５歳以下の子供の２３％近くが栄養失調状態にあった。さらに深刻なのが高校や大学を卒業しても仕事もなく、海外で活路を見出すことも許されない青年たちの将来への絶望感と閉塞感だ。</p>

<p>　一方、腐敗し、民衆の状況改善に何一つ手を打てない自治政府の不能が民衆の絶望と怒りに拍車をかけている。このやり場のない民衆の感情が激しい反イスラエル感情を醸成し、ハマスの自爆テロやミサイル攻撃に溜飲を下げさせる。</p>

<p>　イスラエル側の何百倍もの報復がさらに憎悪を増幅する・・・。</p>

<p>　今、パレスチナで起こっていることは「暴力の応酬」ではない。物心ともに“窒息死”寸前にある民衆の断末魔の“叫び”と、それをさらに圧倒的な力で封殺しようとするイスラエルとの衝突だ。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>ムスタファ君を支援してくださったみなさまへ</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/000021.html" />
<modified>2004-12-24T04:19:40Z</modified>
<issued>2004-12-24T04:03:53Z</issued>
<id>tag:www.doi-toshikuni.net,2004:/blog/1.21</id>
<created>2004-12-24T04:03:53Z</created>
<summary type="text/plain">ムスタファ君を支援してくださった方々へ

　ムスタファ君への支援を呼びかけたジャーナリストの土井敏邦です。

　長い間、その後のムスタファ君への状況をお伝えできず、たいへん申し訳ありませんでした。その後、私自身の引越しと新生活のスタート、パレスチナ、イラク取材、パレスチナに関する拙著の執筆などに追われ、皆様へのご報告が遅れてしまいました。

　ムスタファ君は２００３年８月末にヨルダンへ渡り、首都アンマンの病院で手術を受けました。その経緯は私のホームページ（www.doi-toshikuni.net/）　で報告しています。

　アンマンでの１ヵ月間の治療の後イラクに帰国しました。私はムスタファ君の最初の手術直後、帰国しましたが、現地でムスタファの世話や日本との連絡係を引き受けてくださったＮＧＯ関係の日本人ボランティアの方々から、その後、ムスタファ君の様子は断続的に伝えられていました。それによると、私がアンマンを離れた後、もう一度、アキレス腱の手術が行なわれ、その傷が癒えた１ヵ月後の１０月中旬に、イラクへ帰国しました。
　しかしその後、骨の一部（主骨を支える細い骨）に炎症が発見され、バクダ...</summary>
<author>
<name>doitoshikuni</name>


</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.doi-toshikuni.net/blog/">
<![CDATA[<p><u><strong>ムスタファ君を支援してくださった方々へ</strong></u></p>

<p>　ムスタファ君への支援を呼びかけたジャーナリストの土井敏邦です。</p>

<p>　長い間、その後のムスタファ君への状況をお伝えできず、たいへん申し訳ありませんでした。その後、私自身の引越しと新生活のスタート、パレスチナ、イラク取材、パレスチナに関する拙著の執筆などに追われ、皆様へのご報告が遅れてしまいました。</p>

<p>　ムスタファ君は２００３年８月末にヨルダンへ渡り、首都アンマンの病院で手術を受けました。その経緯は私のホームページ（www.doi-toshikuni.net/）　で報告しています。</p>

<p>　アンマンでの１ヵ月間の治療の後イラクに帰国しました。私はムスタファ君の最初の手術直後、帰国しましたが、現地でムスタファの世話や日本との連絡係を引き受けてくださったＮＧＯ関係の日本人ボランティアの方々から、その後、ムスタファ君の様子は断続的に伝えられていました。それによると、私がアンマンを離れた後、もう一度、アキレス腱の手術が行なわれ、その傷が癒えた１ヵ月後の１０月中旬に、イラクへ帰国しました。<br />
　しかしその後、骨の一部（主骨を支える細い骨）に炎症が発見され、バクダッドの病院でさらに２度手術を受け、炎症した部分の骨を切除しました。</p>

<p>　そんな情報を現地から得ていた私は、２月３日、およそ半年ぶりにやっとイラクに戻ることができました。さっそくムスタファ君と家族を訪ねました。幸いその後、炎症は起こらず、傷口はほとんど治癒していました。左足も血色を取り戻していましたが、少し腫れていました。医者の説明によれば、怪我で静脈が一部破損しているために、動脈によって足先まで送られた血液を適切に心臓へ送り返すことができないためだということでした。また左足首を動かす筋肉がなく、足首より先にはまったく神経がないために足首から先はまったく上下させることはできませでした。</p>

<p>　帰国後、ムスタファ君は、脚を手術した医者の個人病院に定期的に通って診察を受けていました。医者は足の腫れはあまり心配する必要はなく、これからはむしろ歩くためのリハビリが必要だと助言しました。さっそく歩く練習が始まりました。１歳違いの妹ススが手を引き、ムスタファ君の歩行練習をサポートしました。松葉杖を使って歩く練習も始めました。その進歩は驚くばかりでした。</p>

<p>なんと、１週間ほどで、びっこを引きながらも自分の足で歩き始めたのです。</p>

<p>　やがて靴を履いて歩く稽古も始めました。すると、短い距離ながら、ほとんどびっこが目立たない格好で、まるで健康な子が歩くように歩けるまでになったのです。２００３年５月、左脚が壊疽しはじめ、このままでは左脚を切除するしかないだろうと医者もさじを投げていたあのムスタファ君が、自分の足で歩いたのです。ムスタファ君のために心を痛め、温かい支援の手を差し伸べてくださった皆さんが、この姿を見てくださったら、どんなに喜んでくださるだろうかと思うと、涙がこみあげてきました。</p>

<p>　２月１１日、学校が始まり、ムスタファ君も登校することになりました。学校は家から５００メートルほど離れています。ムスタファ君は自分で歩いていくと言い出しました。しかし少し遠いので松葉杖を使うことにしました。彼が朝、松葉杖で家の外に出ると、登校する近所の子供たちがいっせいにムスタファ君の周りに集まってきました。そして皆に囲まれ見守られながら、ムスタファ君は自分の脚で学校まで歩きとおしました。</p>

<p>　しかし、ムスタファ君の治療はこれで終わったわけではありません。ヨルダンでムスタファ君の脚を手術した主治医は、「傷口が回復した後、次は足の神経の回復手術が必要だから、３ヵ月ほどしたら、もう一度ヨルダンへ戻ってくるように」と２００３年８月末に私たちに告げていました。</p>

<p>　その３ヵ月が経った２００４年２月、私がイラクを出るときに、もう一度、ムスタファ君をヨルダンへ連れていくも考えました。しかし２つの理由で延期することにしました。</p>

<p>　１つは、脚の状態です。傷は癒え始めたとはいえ、怪我と手術によって大半の筋肉が切除され、さらに１０ヵ月近く歩くことができず、残った筋肉を使う機会もなかった左脚は棒のように細く、とても手術が出来る状態ではないこと、そしてもう１つはムスタファ君の心理状態のためです。<br />
　それまで１０ヵ月に１１回の手術を受けた９歳の少年の心は、手術の痛みと恐怖にほとんどトラウマ状態でした。個人病院で医者が筋肉増強のための注射を打とうとしたときです。医者の手に注射を見たとたん、ムスタファ君は半狂乱のように泣き叫び、注射を拒み暴れ出しました。日ごろはおとなしく温和なこの少年が注射を見て、人が変わったように泣き叫ぶのです。</p>

<p>　彼にとって注射は「麻酔注射」を意味し、それはその後に続くはずの「手術」と直結しているのです。それから１週間後、今後の治療の方法を検討するために、脚の神経と筋肉の状態を調べる検査を受けることになりました。しかしその検査のために針を刺そうとしたとたん、ムスタファ君はまた泣き叫び暴れ出し、診察室から飛び出してしまいました。<br />
　父親の言葉を借りれば、「前回、病院での注射のときの１０倍も大きな声で泣き叫び、手がつけられない状態だった」そうです。結局、検査はできませんでした。爆撃による負傷と、その後の度重なる辛い手術と治療が、この９歳の少年の心にどれほど深い傷を残しているかを改めて思い知らされました。そのような理由で、２月にヨルダンへ神経の手術を受けに出ることは延期しました。</p>

<p>　２００４年５月、４たびイラクを訪ねたとき、ムスタファ君は怪我の後遺症をほとんど感じさせないほど、ほぼ普通に歩けるようになっていました。しかし神経回復手術の準備ための検査はまだできていませんでした。その後もムスタファ君が検査に必要な注射に対するトラウマはまだ癒えず、どうしても検査ができなかったのです。父親のエマドさんも、ムスタファ君の今のような精神状態のまま、検査をし、手術をすることはあまりにも不憫だと考え、しばらく治療を中断する決断をしました。家族と話し合った結果、手術はムスタファ君の精神状態がそれを受け入れられる状態になるまで待つことにしました。</p>

<p>　残念ながら、それ以後、イラク国内の治安悪化のために私自身、イラクへ行くことができなくなっています。将来、治安が回復ししだい、ムスタファ君とその家族を訪ね、今後の治療について再び話し合うつもりです。</p>

<p>　これがムスタファ君の現状の報告です。</p>

<p>　私が前回、イラクを離れる直前、ムスタファ君とそのご両親が、支援してくださった日本の皆さんにぜひ伝えてほしいと、私のビデオに向かってメッセージを語ってくれました。以下はその翻訳です。</p>

<p>（ムスタファ君）<br />
「僕を助けてくれた日本の皆さん、僕のことを心配してくれてほんとうにありがとう。僕は自分の足で立てるようになりました。僕のお父さん、お母さんもとても喜んでいます。僕は日本の皆さんに直接会ってお礼をいいたいです。僕を助けてくれた、とてもすきな人たちだから。それに日本へ行って大好きなナカタに会いたいな」</p>

<p>（父親・エマドさん）<br />
「日本のみなさん、ムスタファのためにボランティア活動をしてくださった方々、ムスタファの側に立ってくださり、ずっと治療を支えてくださってほんとうにありがとうございました。私たちが回復に希望を失いかけたとき、神のおかげで息子は歩けるようになりました。ほんとうはカメラを通してではなく、日本へ行って、直接お会してお礼を申し上げたいところですが。心からお礼を申し上げます」</p>

<p>（母親・ナガムさん）<br />
「ムスタファは日本のみなさんの援助なしには歩けるようにはならなかったでしょう。お金だけではなく、心の支援を通して、日本の人たちは、私が自分の血をもっても返しきれない恩を私たち家族に与えてくださいました。ムスタファが立てるようになり、歩けるようになったことはささいなことかもしれませんが、アメリカ軍の占領とアメリカに対する一撃です。日本の人たちがイラク人の側に立ってくださっていることに心から感謝いたします。日本の人たちに幸運がありますように」</p>

<p><br />
　２００３年９月に基金の残金を１万６７３６ドルと報告いたしました。その後、ムスタファ君が帰国した１０月以降から２月２０日までにムスタファ君の治療費などで１４００ドルほどがかかりましたが、１月にムスタファ支援の基金にさらに１２万８千円の支援金が入り、現在、およそ１万６６００ドルほどの支援金が残っています。将来のムスタファ君の治療と支援のために、ヨルダン・アンマンの英国系銀行の口座に保管しています。<br />
　<br />
　これまでムスタファ君の状況について電子メールのアドレスをお持ちの支援者の方々には何度かご報告をしてまいりましたが、それ以外の方々への郵便による報告と領収書の送付がたいへん遅れてしまいました。深くお詫び申し上げます。</p>

<p>　最後に、ムスタファ君のためにご支援いただいた皆様に、私からも深くお礼を申し上げます。<br />
ありがとうございました。</p>

<p>１２月１１日<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　土井敏邦<br />
（追記）<br />
　支援者のみなさまには封書でこの手紙をお送りしました。<br />
同封しました写真は、２００４年２月に撮影したムスタファ君と両親、それに妹と弟です。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>愛知大学祭講演録（イラク）０４．１１月</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/000020.html" />
<modified>2004-12-24T04:02:43Z</modified>
<issued>2004-12-24T03:54:46Z</issued>
<id>tag:www.doi-toshikuni.net,2004:/blog/1.20</id>
<created>2004-12-24T03:54:46Z</created>
<summary type="text/plain">０４／１１／３　第５８回愛大祭本部・国際問題講演会

土井敏邦氏講演

米軍はイラクで何をしたのか

　こんにちは。私はこれまで大学で話をすることはなるべく避けてきました。学生たちの反応が鈍く、失望していましたから。しかし今回は、愛知大学の方から熱心に“ぜひ”ということだったので、昨日まで九州にいたのですが、今日は朝一番の列車で横浜からきました。

　私は“パレスチナ問題”を２０年ぐらい追いかけてきましたが、イラクに行き始めたのは、去年の戦争終結から一ヵ月後の５月です。それから８月、今年の２月、それからファルージャの後の５月とこれまで四回現地で取材してきました。今日は、今年の五月、五週間かけて取材したものを中心にみなさんにお話ししたいと思います。

　まず最初は、５月にテレビで放映した囚人虐待の問題です。そのビデオをまず見ていただきます。私が現地から送った映像を、筑紫哲也のニュース２３で放映されたものです。７分ぐらいですの
で、これを見ていただいた後に補足するかたちでお話ししようと思います。

◆ニュース２３で放映されたビデオより　

　「こんばんは、筑紫哲也です。イラク戦争に正義はあ...</summary>
<author>
<name>doitoshikuni</name>


</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.doi-toshikuni.net/blog/">
<![CDATA[<p>０４／１１／３　第５８回愛大祭本部・国際問題講演会</p>

<p><u><strong>土井敏邦氏講演</p>

<p>米軍はイラクで何をしたのか</strong></u></p>

<p>　こんにちは。私はこれまで大学で話をすることはなるべく避けてきました。学生たちの反応が鈍く、失望していましたから。しかし今回は、愛知大学の方から熱心に“ぜひ”ということだったので、昨日まで九州にいたのですが、今日は朝一番の列車で横浜からきました。</p>

<p>　私は“パレスチナ問題”を２０年ぐらい追いかけてきましたが、イラクに行き始めたのは、去年の戦争終結から一ヵ月後の５月です。それから８月、今年の２月、それからファルージャの後の５月とこれまで四回現地で取材してきました。今日は、今年の五月、五週間かけて取材したものを中心にみなさんにお話ししたいと思います。</p>

<p>　まず最初は、５月にテレビで放映した囚人虐待の問題です。そのビデオをまず見ていただきます。私が現地から送った映像を、筑紫哲也のニュース２３で放映されたものです。７分ぐらいですの<br />
で、これを見ていただいた後に補足するかたちでお話ししようと思います。</p>

<p>◆ニュース２３で放映されたビデオより　</p>

<p>　「こんばんは、筑紫哲也です。イラク戦争に正義はあったのか、この問題をアメリカ人が考える際、今最も重要な判断材料、基準となりつつあるのがバクダットの刑務所でおこった虐待事件です。アメリカのメディアが競うようにその実態を暴いているのを、虐待が歴史的にも見過ごせない事実だと考えたからではないでしょうか。そして私たちも今夜、実体解明のためのスクープ合戦にささやかながら加わりたいと思います。」</p>

<p>　このビデオについて補足をします。アメリカ軍のやり方の一つは、まず拘束しようとする人物の家を急襲したとき、本人がいない場合にはその家族を身代わりに拘束します。彼の場合はお父さんがいなかったので、兄弟４人が拘束されました。拘束された後、証言者のアルカンさん含めてこの４人は、ものすごい拷問を受けました。殴る、蹴るはもちろんのこと、背中に水を流して電流を流されました。そのためにその兄弟は嘔吐にし続け虚脱状態に長く悩まされました。それから荷物を入れるコンテナの中に閉じこめられました。その中でテープレコーダーを最大のボリュームにして音楽を鳴らしました。さらに外から金属の棒でガンガンたたきます。その音がコンテナの中に響き渡ります。なぜそんなことをするかっていうと、中の囚人たちを眠らせないようにするためです。</p>

<p><br />
（最も深刻な性的虐待）<br />
　今回の囚人虐待で最も深刻だったのは性的虐待です。男性への性的虐待の例として、私の拙著の中に次のような例を紹介しています。<br />
　一人の女性兵士が男の囚人を一列に並べ、金属の棒を尻の穴に突っ込んだという証言があります。また女性兵士が男性の性器ペニスのかたちをしたプラスティックを前方につけて、２５歳の男性を裸にして後ろ向きに立たせました。そしてその男性の肛門にそのプラスティックのペニスを突っ込んだのです。まさに女性による男性のレイプです。さらにこの行為を写真に撮って、「もしお前が将来アメリカ軍に楯突くことがあれば、この写真をお前の住んでいる地域や家族にばらまくぞ」と脅したのです。これらはファルージャの聖職者の証言です。</p>

<p>　囚人虐待の中でも最も深刻なのが、女性へのレイプです。しかしこれはなかなか証拠が掴めません。私が取材した５月にはバクダット市内で「アブグレイブ刑務所に収容されている女性の大半は、アメリカ兵にレイプされて妊娠している」という噂が広がっていました。それはもう、「公然の秘密」のように語られていました。しかしそれを証明するものはありません。</p>

<p>　深刻なのは、先ほど、ビデオの最後で少し触れていましたが、アラブの世界で未婚の女性が性的な関係を持てば、死に繋がりかねません。例えば、未婚の女性がある男性と結婚前に性的な関係を持つと、兄弟あるいは親に殺されてしまう実例がたくさんあるのです。最近、書店には、未婚のまま男性と性的関係をもったために家族から顔を焼かれてしまったヨルダン人女性のドキュメントの本が出ています。現在でもアラブの社会では起きています。例えば夫が留守で拘束できず、妻や姉妹、母親が連行されるなど、女性側に何も罪がないのに身代わりとして収容され、その女性がレイプされたり、そのために妊娠したりすると、その女性が男性の家族に殺されてしまうことは珍しいことではないのです。</p>

<p>　実際、私がいろんな聖職者にインタビューした中で、こういう例がありました。彼女の名前は「ノール」という名前でした。彼女は２月にアブグレーブ旧刑務所から複数の聖職者にメッセージを送りました。その中で「私はアメリカ兵にレイプされ妊娠してしまった。どうしたらいいでしょうか」と訴えていました。それを受けて聖職者たちがどうするべきかを話し合いをしているときに、彼女は釈放されました。そして家に帰った直後、彼女は家族に殺されてしまったとある聖職者が私に証言してくれました。ただこれは裏をとるのがとても難しいのです。私のような外国人の男性はもちろんのこと、こういう被害を調査する現地の女性ＮＧＯのスタッフたちでさえほぼ不可能です。聖職者もできません。というのは、接触することで家族がそのことを知ってしまい、殺されかねないからです。女性だけじゃなくて、先ほど話しをした、女性による男性に対するのレイプも、もし公になったら夫としての尊厳を失ってしまい、そのコミュニティーの中で生活をしていけなくなります。</p>

<p><br />
（なぜ反米感情がつのってしまったのか）<br />
　イラク人のアメリカ人に対する感情というのはどういうものか。みなさんもテレビで、４月９日のサダム・フセイン像が倒れたときに歓喜する市民の姿を見たと思います。あれはほんの一部でしょうが、確かにあのように解放されたと思ったイラク人は少なくなかったはずです。だから当時アメリカ軍を歓迎した人はいたと私は思います。ところが私が現地に入った一ヵ月後の５月には、そのような熱気はすーっと引いていました。<br />
なぜか。</p>

<p>　一つはインフラの破壊です。アメリカ軍は自分たちの生活を改善すると言っていたのに、全然よくならない。まず電気。イラクは５月ぐらいから猛烈に暑くなります。６月ぐらいになると５０度を超えてしまう。みなさん、想像してみてください。気温５０度を超えるなかで電気がないという状況がどういうものか。クーラーはもちろん扇風機もない。冷蔵庫もない。とても部屋のなかにいられたものではありません。私たちジャーナリスト、外国人が何とか生活できるのは、ホテルには自家発電があって、クーラーが効いている部屋で過ごせるからです。またガソリンが不足し、猛暑の中、ガソリンスタンドの前に長い車の列が延々と続き、何時間も待たなければならない。</p>

<p>　イラク人にとってさらに深刻だったのは、仕事がないことでした。アメリカ軍によって旧政権が倒れ、６０万ともいわれたイラク軍の兵士が仕事を失いました。多くの公務員も解雇された。６０％以上の人が失業状態になったといわれています。</p>

<p>　そして最も深刻な問題が、治安の悪化です。 サダム政権時代は、女性が夜間、街を歩くのはそれほど危険なことではなかった。バクダット大学の女性の学生に聞いても、夜、授業があっても自分たちだけで独り、帰宅することができたということでした。しかし私が取材していた５月ごろには、女性が昼間でも独り大学に行くことも危険すぎてできない状態になっていました。だから大学に行くにも、家族が付き添わないと危なくて行けない状態だったのです。結婚式を終えたばかりの花嫁が誘拐されクウェートに売られた、学校行く途中に少女が誘拐されたといった話は日常茶飯事のことになっていました。<br />
そういう状況の中でイラク人たちは、“いったいこの「解放」は何だったんだ！」と気づいたのです。そして国民のそのような不満が、反米感情になっていきました。</p>

<p>　反米活動が活発になると、今度はそれを抑えようとしてアメリカ軍の兵士達が夜中に被疑者の民家を急襲するようになりました。ドアを蹴り破って侵入し、寝間着姿の女性の部屋に平気に入っていって、怪しいと思った男性を連行していく。私はパレスチナで長く取材してわかるのですが、寝間着姿のアラブ人女性の前に見知らぬ男性、とりわけ外国人男性が近づくということはちょっと常識では考えられないことです。それほど侮辱的なことをアメリカ軍は平気でやったのです。アラブの文化も風習もまったく尊重もせずに突っ走ってしまった。その反発が、どんどん強まり、反米感情が増幅されていった。それをさらに決定的にしたのが、収容所での囚人に対する性的な虐待でした。女性の囚人がレイプされたという噂が広まり、イラクだけじゃなくてアラブ諸国全体に、アメリカ軍のイメージが、衛星放送「アルジャジーラ」とか「アルアラビーヤ」などを通じてアラブ諸国全体にバーッと拡がりました。つまり、これはもうイラクだけの問題だけではなく、アラブ全体に反米感情がさらに大きくなっています。それに決定的な火をつけたのが次に話をする「ファルージャ」でした。</p>

<p><br />
（ファルージャで一体なにがおこったのか）<br />
　ファルージャでいったいなにがおこったのか。今日、国際問題研究会の人たちがつくった資料の中に、朝日新聞の川上記者が書いたファルージャの記事があります。日本の新聞記者としてファルージャに入り取材をしたのは、彼が最初で最後でした。しかし同じ日に実は小川巧太郎さんという、フリージャーナリストが入って取材をしています。橋田さんと共に殺害されたジャーナリストです。川上記者と同じ日に入って撮影した映像を「報道ステーション」に送ったのですが、何かの事件のために放映が遅れたために、朝日新聞のスクープとなったのですが、小川さんは生前そのことをとても残念がっていました。という番組のために映像を撮っていたんですが、なんかの事件のために放送が遅れたんですね。それで、結局、川上さんがうっといたということになったんですけど、彼はとても残念がっていました。</p>

<p>　私はその川上記者から６日ほど遅れて、５月１１日に最初にファルージャに入りました。それから１週間ぐらい通いましたが、その後、当時、ファルージャを支配していた武装勢力が、一切のジャーナリストはファルージャに入ってはならないという通達を出しました。それ以後、おそらく外国のジャーナリストはほとんど入れなかったと思います。だから私も一週間で取材を中断せざるをえませんでした。そのとき取材したものを、これから見ていただきます。これは５月の１３日だったでしょうか、現地からTBSに映像を送り、「ニュース２３」とさらに５月下旬に「報道特集」でも放映されました。しかし今日見ていただくのは、私が編集したもので、まだ未公開の映像もあります。</p>

<p><br />
＜ビデオ上映＞<br />
・ファルージャはバグダッドの西およそ６０キロの町です。<br />
・今年４月、米軍が１ヵ月にわたってファルージャを包囲・攻撃しました。<br />
・私がファルージャに入ったのは、その包囲が解かれて１０日ほど経った５月１１日でした。<br />
・米軍側とファルージャ住民側との休戦協定で、当時、ファルージャへ続く道路での検問はファルージャ出身のイラク兵と米軍の共同で行なわれていました。<br />
・しかし米軍はイラク兵を信用せず、最終検問は米兵が行なっていました。<br />
・自爆攻撃を警戒し、武装勢力の通行をチェックするために、道路には土嚢が置かれ、ジグザク運転し、徐行しなければ通れない状態でした。<br />
・一旦、街中に入ると、１０日ほど前まで米軍との激しい戦闘があった街とは思えない平穏な様子でした。</p>

<p>・しかし市内に深く入ると、米軍の攻撃の爪あとがいたるところに残っていました。<br />
・とりわけ攻撃の激しかった街の北西部ジュラン地区では、米軍の戦闘機による爆撃によって、多くの家が破壊されていました。</p>

<p>「これがブッシュのいう民主主義なんだよ。サダムは悪いとブッシュは言うが、サダムは彼らよりずっとましだよ。サダム時代は今よりずっといい」</p>

<p>・９月以降、激しくなったファルージャの爆撃でも、このような光景がさらに広がっていると思われます。<br />
・米軍の爆撃で直径十数メートルの大穴が開いていました。幸い、奇跡的に犠牲者は出ませんでしたが、ここにあった民家は完全に破壊されてしまいました。<br />
・これはばらばらになった冷蔵庫です。<br />
・米軍はイスラム教徒にとって最も神聖なモスクをも爆撃で破壊してしまいました。<br />
・これはイラクだけではなく、世界のイスラム教徒にとって衝撃と怒りを増幅させる結果となりました。</p>

<p>・この爆撃によって多くのファルージャの一般市民が犠牲になりました。<br />
・この家は、米軍の攻撃が始まって数日後の４月８日の夜中、午前３時ごろに突然、戦闘機からミサイルを撃ち込まれ、母親と２人の幼い娘が亡くなりました。<br />
・父親のジュマ・ハッサン（３４）さんです。<br />
・この写真の左端の少女が６歳のワファちゃん、右端がその妹ザハラちゃん、４歳です。ミサイルの落下地点の近くで眠っていた２人は、頭と胸に重傷を負い、救急車で運ばれるときに息を引き取りました。<br />
・２人の姉妹が大切にしていた人形が残されていました。<br />
・母親のメアドさん、２５歳です。メアドさんは２人の娘に添い寝をしていました。ミサイルの破片でメアドさんの身体はずたずたにされていました。</p>

<p>「妻は両脚が切断され、左腕はなくなっていました。顔も口から左側が裂けていました。また頭の中に爆弾の破片が入っていました。２日後に亡くなりました」</p>

<p>・突然の爆撃で、ハッサンさんは、妻と２人の娘、つまり家族全員を失いました。</p>

<p>・ファルージャへの入り口アスカリ地区に住むザヒーハ・オベッドさん（４５）は、米軍の狙撃兵に２人の子供を殺害されました。<br />
・オベッドさん一家は、米軍に包囲された地区から避難するために、家族全員、白旗を立てた車に乗って脱出しようとしました。<br />
・しかし家を出た直後、数十メートル離れた家の屋上にいた狙撃兵から銃撃されました。<br />
・後部座席に乗っていた１５歳の少女と８歳の少年が頭を撃ち砕かれました。</p>

<p>「息子は２発の銃弾を受けていました。１発はここで、もう１発はその下でした。飛び出した脳が私の手と脚に流れでてきました」</p>

<p>・フワイダはとても賢くて、高校３年生の最終試験を受けるために写真を撮って送ったばかりで、試験を楽しみにしていました。<br />
・ラスールは小学校１年生で、車で避難する直前、「サラダが食べたい」と言い出しました。母親のザヒーハさんは、「道路が開放されたら、マーケットで野菜を買ってサラダを作ってあげるから」と答えました。<br />
「今は寝ていても、座っていても、何をしていても、子供が私の膝の上で血まみれになって横たわっている光景を思い出します」</p>

<p>（Q・米軍にどんな感情をもっていますか）<br />
「米兵を捕まえたとしても、私に何ができるでしょうか。切り裂き、引き裂きさいてやりたい・・・・でも私に何ができるでしょうか」</p>

<p>・米軍の空爆により、一族31人が殺害される事件も起こっていました。<br />
・攻撃が始まって３日目の４月６日、この家には米軍の攻撃を逃れて、親族４１人が避難していました。<br />
・幼い乳児も含むたくさんの子供たちや女性たちが米軍の戦闘機によるミサイル攻撃で爆撃され、殺されました。<br />
・これは瓦礫の下から出てきた血まみれの毛布、頭の皮がついたままの女性の髪、そしてこれはミイラ化した子供の足の一部です。</p>

<p>「２発のミサイルが天井に撃ち込まれ、避難していた女性や子供たちの上にその天井が崩れ落ち、ほぼ全員が死んでしまいました。赤ん坊ともう１人の子供だけが生き残りましたが、その子は片目を失ってしまいました」</p>

<p>「弟は片脚を切断されました。助かった赤ん坊は生後６ヵ月の女の子です。ここにいた２０人が殺されました。女性と子供たちだけでした」</p>

<p>・他にも投下されたクラスター爆弾で、１０人近い男たちが殺されました。生き残った者たちも重傷を負いました。<br />
・瓦礫の中から全員の遺体を取り出すのに２日間もかかりました。遺体の多くはばらばらになっていたため、身元確認が困難をきわめました。髪や服の色を頼りに確認するしかありませんでした。</p>

<p><br />
・ファルージャ市の郊外です。こののどかな農村部で米軍の攻撃によって１３人が殺害されたという情報は、当初、信じられませんでした。<br />
・ここが、事件が起きた農家です。一見のどかなこの農家の敷地の中に入ったとき、私の疑いは吹き飛びました。<br />
・数軒の家の大半が、爆撃と戦車の砲撃によって破壊されていました。</p>

<p>「戦闘機からのミサイル攻撃で、この部屋は破壊されました。ここには武装勢力などまったくいなかった。ただ家族だけでした」</p>

<p>・この部屋では眠っていた１３歳の少女が殺されました。<br />
「これがその娘の血です」<br />
「娘の母親は手の甲の肉をえぐりとられ、顔や首にも大やけどを負いました」</p>

<p>・この農家の主人、ハイテムさんによれば、４月２４日の未明、米軍に包囲され、突然、空と陸から激しい砲撃が始まったというのです。<br />
・翌朝、爆撃と砲撃が収まってから、米兵がここへ捜索にやってきました。</p>

<p>「これは殺された兄の財布です。米兵がこの部屋にやってきて、この財布の中から兄の身分証明書とおよそ３５０ドル相当の金を奪ったのです」<br />
「これは私の兄ユーセフの血の痕です」</p>

<p>・これは血の固まったものです。<br />
・この農家の住民が殺されたのは建物の中だけではありませんでした。<br />
・弟の一家が爆撃を避けてこの川の中へ逃げこました。しかし破片が飛び散る爆弾（クラスター爆弾？）がすぐ近くに落とされ、川の中で２６歳になる弟アリとその娘、６歳のザハラ、４歳のグフランが殺害されました。妻も重傷を負いました。<br />
「ここは田園地帯で、武器を持って戦う者はだれもいなかったのです」とハイテムさんは言います。<br />
・通常、攻撃をして反撃がなければ、攻撃は止めるものです。しかしまったく反撃がなかったのに、攻撃は午前１時過ぎから午前５時まで続きました。</p>

<p>・この中庭には、３２歳の母親と５人の幼い子供たちがマットレスを敷いて寝ていました。<br />
・この家族は攻撃の激しいファルージャから避難していたのです。<br />
・これは血の痕です。<br />
・母親と生後６ヵ月になる乳児以外の４人の子供は即死でした。母親はとっさにその乳児を洗面所に運び、他の子供を助けようと再び外に出てきたとき、次の攻撃で殺されました。<br />
・子供たちの遺体はほとんどその姿をとどめず、中庭一面に頭や手足、肉片が散乱していたといいます。<br />
・この中庭にミサイルが命中しました。<br />
・これは壁にたたきつけられた肉片と血の痕です。<br />
・これは２歳のイブラヒムの手の皮膚です。<br />
・イブラヒムの遺体はばらばらで頭は庭の隅に転がっていました。まるでナイフで切ったように首が切断されていました。後頭部は切れてなくなっていました。<br />
・脚は３日後にやっと中庭の隅でみつかりました。</p>

<p>・翌朝やってきた米軍の将校は、ここには武装勢力がいなかったことを知り、「アイアム・ソーリー」（済まなかった）と言って立ち去りました。</p>

<p>・事件から２０日ほど過ぎたこの時も、負傷した家族がテントの中で横たわっていた。<br />
・このテントはファルージャのイスラム党から支援されたものだ。<br />
・弟のバラカット（２５）さんは爆撃で右腕の肉をえぐり取られた。負傷した翌朝、米軍の病院で応急手当を受けましたが、その後、ファルージャの病院に引き渡されました。<br />
・もう１人の兄弟、ユーセフ（３１）はほおの肉をえぐり取られ、。あごのつなぎ目の骨も砕かれていました。</p>

<p>・ファルージャの街は２５日間、米軍に包囲されたために、ユーフラテス川の対岸にある総合病院まで負傷者を運ぶことができませんでした。<br />
・そのために、このような会議場も臨時の“病院”になりました。<br />
・このように簡易ベッドが並べられ、負傷者たちの応急手当がここでなされました。<br />
・包囲が解除されて１０日ほど経っても、まだ当時使われた医療品などが残っていました。</p>

<p>・病院の統計によれば、２５日間の米軍の包囲と攻撃で、住民の死者は７３１人、負傷者は２８４７人となっています。その死者のおよそ２５％が子供、他の２５％が女性でした。<br />
・家が爆撃などで破壊されて犠牲になった一般市民が圧倒的に多かったからです。</p>

<p>・包囲された街で医療活動の中心となったのは、街の中心部にある小さな診療所でした。<br />
・米軍によって電気も水道も切断されていました。この診療所は治療に不可欠な電気を確保するために、発電機はフルタイムで稼動し続けていました。<br />
・遺体は入り口付近に置かれて、５体か１０対になると、ボランティアたちが、車で墓地へ運んでいきました。<br />
・遺体の数が１５体、２０体になると、横に並び積み重ねておかれました。遺体は白い布でくるまれました。</p>

<p>・ここは手術室となった部屋です。<br />
・診療所の廊下にも６つのベッドが並べられました。<br />
・ここには４台のベッドが置かれ、この部屋にも４台のベッドが<br />
詰め込まれました。<br />
・患者や医療関係者の食事を用意するために、中庭が調理場になりました。<br />
・歯の治療をするこの部屋は、食料の倉庫になりました。</p>

<p>「ここにはシャワールームも十分なトイレもありませんでした。設備の整った病院とは違い、ここはただの診療所だったからです。水道もありませんでした」</p>

<p>・米軍は救急車にも攻撃を加えていました。救急車が銃撃を受け、運転手が射殺される事件も起きました。<br />
・これは戦車からの攻撃を受け、破壊された救急車です。このような医療活動の妨害も、犠牲者を増やしました。</p>

<p>・ファルージャで最も設備の整った総合病因はユーフラテス川の対岸にあり、米軍の包囲下ではだれも近づくことができませんでした。<br />
・包囲が解除されてから１０日ほど経ったこの頃には、米軍攻撃による負傷者たちがこの病院に収容されていました。</p>

<p>・この１２歳の少年は休戦後の５月４日、米軍の狙撃兵に銃撃されました。<br />
・銃弾によって股関節を砕かれ、ペニスと睾丸を失っています。<br />
「この骨が骨折し、神経も切断されている。ペニスも睾丸も奪われています。</p>

<p>・付き添っている叔父の話によれば、１週間前、米軍が休戦を宣言したとき、この少年は銃撃が収まったかどうか確かめるために外に出たところを狙撃兵に撃たれました。<br />
・この少年は、男性の機能を完全に失ってしまいました。</p>

<p>・この１５歳の少年は脳に爆弾の破片を受け、目以外、全身がまったく動かない状態になっていました。<br />
・レントゲン写真には、脳の中に破片が点在しているのが見えます。<br />
・母親によれば、１ヵ月ほど前、この少年は空になった調理用のガスボンベを交換するために、肩にかかえて外に出ていったといいます。その途中で米軍の爆撃の破片を頭に受けてしまったのです。<br />
・食べ物を食べることもできず、鼻から入れられたチュウブで流動食を流しこんでいます。<br />
・もう治療のほどこしようがないと医者はいいます。</p>

<p>・母親は私に、日本で治療ができないかと訴えました。</p>

<p>・ファルージャ市の中心部にあるサッカー場は集団墓地になっています。<br />
・米軍に街を包囲されて街はずれの墓地に埋葬できなかったために急遽、このサッカー場に集団墓地が作られたのです。<br />
・その数を数えた新聞記者によれば、その数は５００に達しているというのです。<br />
・この墓地だけでおよそ５００体ですから、ファルージャの犠牲者が７００人を超えているという報道は決して誇張ではなかったのです。</p>

<p>・これは９歳の少年の墓で、手だけが発見され埋葬されていました。</p>

<p>・これは５歳と７歳の姉妹が埋葬されている墓です。</p>

<p>・これは戦闘機の爆撃で、３歳の子を抱いたまま死んでいた母親の墓です。母親の墓に抱かれるように、側に小さな子供の墓が並べられていました。</p>

<p>・爆撃で身体がばらばらになった３人の子供の肉片をまとめて埋めた墓です。小さなその墓の墓石には３人の子の名が記されています。</p>

<p>・この老人は、２人の息子を爆撃で失っていました。</p>

<p>・大学生と高校生だった２人の息子は親戚の３人の青年たちと自宅でお茶を飲んでいるとき、戦闘機の爆撃を受け、５人の青年たちは即死したということでした。</p>

<p>・私が日本人だと知った住民の１人が、激しい口調で訴えました。<br />
「イラクに軍隊を送る国はアメリカと同様、犯罪者です。私たちはどんな国の人も受け入れるが、軍隊だけは絶対送らないでほしいのです。軍隊を送る国はどこでも、私たちたちの敵です。日本の軍隊は私たちの敵なのです。彼らは犯罪者アメリカのパートナーなんですよ。イラクに必要なのは再建であり、軍隊ではありません。</p>

<p>「アメリカは我われに自由や民主主義をもたらすと約束しました。いったいそれがどこにあるというのですか。多くのイラク人が家族を失い、家を失っている。サダム時代と変わらないではないですか。<br />
「日本の軍隊もアメリカ軍と同じです。なぜ日本の政府はいつもアメリカに追随するんですか。どうしてスペインのように軍隊を撤退しないのですか」</p>

<p>・９月以降アメリカ軍によるファルージャ攻撃は一層激しくなりました。しかしその報道は、その犠牲者の数が断片的に報じられ、『アルカイーダのザルカウィ派の拠点を攻撃した』というアメリカ側の発表がそのまま伝えられるだけです。</p>

<p>・しかし私は、４月のファルージャ攻撃の時と同様に、あの爆撃によってたくさんの一般市民が犠牲になっているに違いないと思わざるをえません。<br />
                                                                     　　ＥＮＤ</p>

<p></p>

<p>◆マスメディアの問題－“犠牲者の顔”が見えない</p>

<p>　皆さんは、最近、新聞の片隅でよくごらんになると思います。「ファルージャ攻撃８人死亡」。「アルカイーダの拠点爆撃」。しかしその爆撃の下でやはり映像で見ていただいたようなことが続いているとおもいます。４月のアメリカ軍の攻撃のときも、新聞の見出しのようないわれかたをずっとされていました。しかし実際、中に入ってみるとこういう状態だったのです。<br />
　問題なのは犠牲者の顔が見えないことです。私たちは人の死を数で数えてしまう。そしてその一人一人の遺族の痛みをわれわれは何も感じることがない。</p>

<p>（日本の人質事件をめぐる違和感）<br />
　私は、日本の人質問題を考えるときにどうしても違和感を感じてしまいます。今年の４月、３人の日本人人質事件が起こったとき、日本のマスメディアはトップニュースで伝えました。連日、新聞もテレビも３人がどうなったのか、生きているのかどうか、些細な情報も克明に伝え、日本全国の人々も３人の生命を案じました。もちろん、その反動として「自己責任」論の話もありましたが、多くの日本人は何とか生きてほしいと、３人の生命を心底心配したとおもいます。<br />
　しかし、同じ時期にファルージャではこういうことがおこっていたのです。そのことに対して報道はあまり克明には伝えませんでした。日本の中で７００人の住民の死に対する大きな抗議運動が起こったでしょうか。３人の命をあれほど大切にする私たちが、７００人という、何百倍という人の命の重さを想像したでしょうか。私は今回の香田さんの事件に対しても、どうしても違和感を感じてしまいます。もちろん一人の青年が殺されたことに、私も一人の人間として痛みを感じます。しかし同時に、今、何百倍という人が、あすこで殺されていることに、私たちは同じような痛みを感じきれるでしょうか。僕は自衛隊の問題も、イラクの戦争の問題も、日本人の人質事件でしか語れないことに、もどかしさを感じてしまうのです。<br />
　なぜ私たちはイラク住民の７００人、いやこれまでの戦争とそれ以後の犠牲者は１０万人にもなるといわれています。しかし、なぜ私たちは数でしか人の死を感覚できないのでしょうか。なぜ一人一人の命の重さを想像することができないのでしょうか。それは私たちメディア、ジャーナリストの責任であると思います。やはりあのひとたちの等身大の痛みを伝えきれていない。</p>

<p>（本多勝一氏の「戦場の村」）<br />
　私は４０年前に、ベトナム戦争時代に一つのルポルタージュのことを思い出します。みなさんがまだ生まれていなかった頃です。朝日新聞に本多勝一という記者がいました。彼が、今単行本の「戦場の村」という本になりましたけれども、彼は朝日新聞で１９６７年か８年だったかと思いますけども、ベトナム戦争と民衆の状況を９０何回にわたって連載をしました。彼はその連載の前半でサイゴンの市民、山岳民族の人々、それから漁民、そういう人たちの生活を本当に淡々と、まるで文化人類学のレポートを読むような錯覚を起こすほど、その人たちの生活を克明に描きました。浮気が原因で夫婦喧嘩で悩む夫婦、子どものことで喧嘩する親、そういう何でもない日常生活を彼は淡々と描いたわけですね。そうするとあのベトナム戦争の最中ですから、いろんな批判が出ました。『戦争によってこんな大変なことがおこっているときに、何でこんなに地味な、生活だけを淡々と描くんだ、何でこんなものを何回にもわたって連載するんだ』という声がおこりました。しかし、それは本多記者が計算していたことなんですね。４章まで淡々とさまざまな民衆の生活を描いた後で、第５章の『戦場の村』という章で彼はその人たちが戦場でどうなっているかを、具体的に書いていきました。　アメリカ軍の爆撃で全身に破片が突き刺さり、血だらけになった少年、為す術もなく、ただ涙を流しながらじっとみつめる母親・・・・<br />
私たちジャーナリストは、今、そういう作業がイラクにしてもパレスチナに対しても必要ではないかとおもいます。私は以前、早稲田大学の国際問題研究会で講演したとき、『国際問題は勉強しなくてもいいんじゃないですか』と言いました。勉強することよりも感じてほしい。何年の何月何日に何が起こったじゃなくて、モハマドさんがこういう被害を受けた、イマードさん娘が首を切られて死んでしまった、私の娘だったらどうしよう、こういうことを想像することが必要ではないかと思うのです。そのための素材を私たちジャーナリストが提供していかなくてはいけない。しかし、なかなかそれはできていない。それはやはり私たちジャーナリストの責任もある。しかし、皆さん方にも責任はあると思うのです。私たちは数で知って何か分かったような気になっている。私は『イラク問題』とか『パレスチナ問題』とか『問題』をお勉強して済ましてほしくないのです。人です。同じ人間ですよ。今回、新潟の地震であれだけの人がホームレスになっている。一方、パレスチナで起きていることも私たちはテレビで見ます。新聞で見ます。しかし、私たちはパレスチナのガザ地区にあるラファで毎日のようにイスラエル軍に家を破壊されて家を失って行き場もなくなっている人たちのことを想像することができるでしょうか？　５月に起こったイスラエル軍の大侵攻の時ときに７０数人が殺され５００件を超える家が壊され、３０００人以上の人がホームレスになりました。まだ新潟の被災者たちには、助けてくれる政府がいる。みなさんからの救援が届く。マスコミは報じてくれる。しかしパレスチナのラファの人たちは誰も助けてくれません。援助してくれる政府もありません。世界のメディアも大きな事件以外、ほとんど報じてくれません。そして怒りを抑えきれずパレスチナ人が牙を剥くと、世界は彼らを「テロリスト」と呼びます。<br />
私はここで『イラク問題こうなっています』とか『パレスチナ問題こうなっています』という話を皆さんたちにお伝えたいしたいとも思わないし、それが私の役割ではないとおもっています。それよりも『モハマドはどうなっているのか』『ファトマはどうなったのか』というふうに、現地の人々のことを等身大で皆さんに伝えることです。それによって今日、皆さんが何かを掴んで帰ってくださればと思います。ありがとうございました。</p>

<p>Ｑ１　僕もイラク攻撃始まって以来、こういうことが行われていたんだなぁということで、本当にイラク攻撃は許せないなぁと思っていたました。しかし僕が愛知大学のクラスとかで「イラク攻撃について反対していこう」とか呼びかけてみたりしますと、クラスの人は「フセインを倒すためには必要なんじゃないか」といった意見がでます。僕はさっきの映像とか見てると本当にそんなのは言えないなぁと思うんですけれども、こういう意見について土井さんはどのように思われるでしょうか？</p>

<p>Ａ１　私はサダム・フセインがよかったなんて言うつもりは全くありません。ただ、多くの国民を抑圧し、殺害してきた、それに対して私は彼を弁護する気もないです。ただ、ああいう形でアメリカが他国を軍隊で蹂躙したこと、「あの連中はアメリカにとって危ないから」という理由で、ああいう風に大量の人々を殺してサダム・フセインを追放する。自分の国ではない、他国でそんなことをする権利があるんでしょうか。自国の国民が、クーデターなどによってサダム・フセインを倒したというなら、それは理解できます。でも他国の軍隊が『大量破壊兵器があるから』とか『アルカイダとの関係があるから』とかいう、今では全く根拠のなかったことを口実に挙げてイラクを侵略したのです。イラク攻撃は９・１１直後からもう戦争の計画が始まっていたのです。『イラクは危ない』という。しかし誰にとって危ないのか、本当に危機だったのか？　今から見てみれば、アメリカにとってそれほど危機じゃなかったわけです。それを今では「イラクを民主化するため」という口実をあげている。そんなものはよけいなお世話です。どうしてそんなことを他国の軍隊があれほどの住民を殺してやる権利があるのでしょうか。私はそれに対して非常に怒りをもっています。私はサダム・フセインを弁護するつもりはない。しかし、ああいうやり方は私は絶対に認められません。</p>

<p>Ｑ２　今日は名古屋大学から伺いました。今日は講演ありがとうございました。肉片がこびりついた扉の映像を見て、二日間かけて肉片を集めたという住民の話をビデオで耳にしまして、どういう思いだったかを僕も想像しないといけないなと、非常にこの日本にいてわからないことを想像しないといけないということを土井さんの話を聞いて思いました。質問ですが、私は名古屋大学で社会科学研究会おいうサークルをやっていまして、そこで１年生の疑問から「アメリカの民主主義っていうのは何なのか？」というのを考え始めています。そもそもアメリカ国内では貧富の格差とか差別とかが起こっている、これは一体何なのかということを考えています。今とりわけ自由とか、平等とか言われるけれども、果たしてこれがアメリカの人々、労働者にとって何なのかということを考え始めています。土井さんのブックレットを僕たちも検討しているんですけれども、あとがきの中で土井さんが「ブッシュ大統領の自由、民主主義というのは何と虚ろに響くことか」というふうに言われていまして、ここで土井さんが言われていること、現地で感じられたことがあると思うんですけれども、土井さんはアメリカのブッシュが言う「民主主義」というのをどう感じられるかというのを聞きたいと思います。よろしくお願いします。</p>

<p>Ａ２　みなさん、この中にマイケル・ムーアの「華氏９１１」ご覧になった方いらっしゃいますか。いらっしゃいますね。それから「ボウリング・フォー・コロンバイン」、あの映画もご覧になった方はいますね。私はあの映画を見れば、私がとやかく説明するよりも、アメリカの社会構造とはどういうものか、アメリカのいう民主主義というのはどういうものなのかがよく見えてきます。誰がイラクに兵士として送られているのか。何であれほどの社会格差が生まれているのか。兵士を送り出す決定をする政治家たちの一体どれくらいの息子がイラクに送られているのか。このアメリカのもっている矛盾した社会・政治構造というものをものの見事に描いてます。あれをご覧になって下さい。本当にあれは強烈です。やはり日本のジャーナリストの中にああいう日本の社会の矛盾構造を描ききる人がまだいないというのが、日本のジャーナリズムのレベルの低さかなという気がします。あれほどのドキュメンタリーを作る人がまだいない。日本の自衛隊のイラク派遣に反対というのはいいけれども、あの自衛隊の人たちがどういう人たちなのか、日本の持てる層と持たない層との格差によって何が生まれているのか。私たちは『日本は自由で民主的な国だ』という前にやっぱりそういう日本社会・政治の矛盾構造を描いてみる必要があるような気がします。<br />
私は、アメリカの『自由』とか『民主主義』というのを本当に信じられません。先ほどの質問の答えになってないかもしれませんが。<br />
まもなくアメリカの大統領選挙の結果がでます。アメリカのブッシュを支えているのは誰か。キリスト教原理主義者、いわゆる福音主義者これが今アメリカのブッシュを支えている大きな基盤の一つです。僕は本当に信じられない。彼らはブッシュと、彼がやる戦争を支持しているわけでしょ。私はキリスト教というのは「人を殺すな」っていうのが原点だと信じ込んでいました。しかし、彼らはイラクでのこういう殺人を支持しているのです。いったいキリスト教とは何なんでしょうか。そういうアメリカ社会がもっている矛盾。経済的な構造、そういうところからアメリカ社会を見ていかないといけないと思います。まさにあのマイケル・ムーアが描いたような社会構造の矛盾、あのあたりから『アメリカの民主主義というのは何なのか』という問いかけをしていかないといけない。大統領選挙が公正に行われていますとか、アメリカのメディアはすごいって言ったって。アメリカ中西部の人たちの中には、中国がどこにあるかも知らない人も少ないないという。いったいアメリカのメディアや教育は何を教え伝えているのかと思いますよね。<br />
私は岩波ブックレット『米軍はイラクで何をしたのか』の「まとめ」に書いていますが、アメリカは自由を世界に広める使命があるといいます。自由は神から送られた贈り物であり、それを広めるのはわれわれ最強国アメリカであり、それはわれわれの義務であると。いらぬおせっかいです、そんなものは。あなたたちの言う『自由』というのは、あなたたちの思うままになるっていう意味の『自由』でしょう。それがイラク人にとっての『自由』なのですか。石油を自分たちが自由に搾取できるっていう『自由』なのでしょう。自分たちの命令を従順に聞く政府ができることが、アメリカのいう『自由』なのでしょう。でもそれはイラク人にとって『自由』なのですか。われわれが『自由』とか『民主主義』とか言うとき、それを強い立場にある人間が弱い立場の人間に強制するとき、それらがどういう意味なのかをちゃんと私たちは必ず見ていかないといけない。イスラエルは『民主主義の国』だという。しかしパレスチナのあの占領地でイスラエルがやっていることをみれば、何が『民主主義の国』なのか。だから私たちは、誰がどちらの立場からものを見ているのかを見定める必要がある。私はやはり、一番底辺の人々の視点からものを見ていかなくてはいけないと考えています。</p>

<p>Ｑ３　講演ありがとうございました。イラクへの自衛隊派兵についてですけど、日米関係を損なわないために重要なことであり、簡単には撤兵はできない。という人が一部いますが、土井さんはそのことに関してはどのようにお考えでしょうか。</p>

<p>Ａ３　だからこそ、私たちはストップできるときに必死になって止めなければいけなかった。走り出すとこういうふうに既成事実をもとにしてどんどん前に進んでしまいます。今、日本の軍国化がどんどん進んでいます。今止めておかないと、もうここまできてしまったんだから後戻りできないんだという論議で突っ走られる可能性が非常に強いと思います。私たちは、そういう状況をきちんとやっぱり見張っておかないといけない。皆さん、あなたたちはまだ大丈夫かもしれないけれど、あなたたちの子供たちの時代には徴兵制になっているかもしれませんよ。イラクの自衛隊派遣だって、今からでもできないことはない。スペインだってすぐ撤退したではないですか。やろうと思えばできますよ。ここまで来たのだから、もう引き返せないという論理は、為政者の論理です。そんなこと絶対にありえないと私は思います。今、引き返さないと、とんでもない方向に行く気がします。<br />
さっき私は自衛隊派遣に対するファルージャの市民の声を紹介しましたけど、みなさんがよく聞かれるサマワの話とは違いますよね。サマワでどういうことが報道されたかと言いますと、とくに読売系の新聞やテレビでは、『一般市民が、ほらこんなに水を得られるようになりました』とか、『道路がこんなになりました、学校が始まりました、本当によかったです』という市民の声が強調して伝えられる。すると、視聴者や読者は『ああ、やっぱりこういう支援をしているんだ。イラクでは歓迎されているんだ』というイメージをたたき込まれていきます。しかし、考えてみて下さい。サマワというのは、私の故郷、佐賀県、その県庁所在地の佐賀市は十数万人の人口です。おそらくサマワってその程度だと思いますよ。その佐賀の人間がたまたま自衛隊などの恩恵をえたから、「自衛隊はイラクに来てよかった」と言ったとしますよ。しかし、それは日本全体の声としてわれわれは受け入れることができるでしょうか。それをイラク全体の声として普遍化できるのでしょうか。<br />
ファルージャのようにアメリカ軍の攻撃を直接受けた住民からは、私の映像の中のような声が出てる。人質事件などもアルカイダがやっているとかいう議論がなされますけど、根底にあるのはこういう民衆の怒りの声があるのだということは私たちは覚えておかなくてはいけない。あれほど親日的だったイラクの人たちを反日に変えつつあるのです。<br />
先ほど誰かがおっしゃっていましたけれども人質事件で真っ先に小泉首相は「自衛隊は撤退しない」と宣言した。私は、当たり前だと思いますよ。彼の目は国民に向かっていないです。ブッシュに向いているのですから。アメリカに「私はあなたに従順です」と言わないと小泉首相は自分の役を果たせないわけでしょ。そりゃあ、あいう言葉は当然でてくるだろうと思いますし、別に私は驚きもしませんでした。小泉首相は、人質事件が起きたとき、真っ先にアメリカのブッシュ大統領に対して『自分はあなたに忠実ですよ』ということを知らせなければならなかった。<br />
もう一つ私は『復興』という言葉の欺瞞に、非常に怒りを感じます。自分で壊しておいて復興というのはどういうつもりなんでしょうか。あれは弁償です、補償ですよ。どうして『復興』などという言葉を使うのでしょうか。それは破壊したアメリカが当然イラクの国民に対してやるべきことです。それをどうして他国に押しつけるのでしょうか。日本は、アメリカの攻撃に加担したのですから、『復興支援』しているのではないですよ。『弁償』すべきです。そのことを私たちは頭に置いておく必要があると思うのです。</p>

<p>Ｑ４　ぜひ教えてもらいたいのがありました。パレスチナや今のイラクでもそうだと思うのですが、アメリカ軍とかイスラエル軍の軍事力と闘う人々がテロリストだと言われていることは、私はおかしいと思うんです。闘っている相手は、数百倍というアメリカの軍事力やイスラエルの占領で、それに対して体張って立ち向かう勇気は私はすごいなぁと思うのです。しかしそれを『テロだ、テロリストだ』と言われているのを聞くと、『ではみんなが悪い人だとみなすと、殺しても構わない』みたいな論調があります。私は反論しないといけないと思っているのですが、頭だけで考えることが先行してしまって、なかなか実感込めて、『そんな議論はおかしい』と言えないところがあります。土井さんはよくパレスチナに行かれているというのを聞きました。パレスチナでは、『ハマス』は、僕が知る限りでは、慈善活動を行い、本当に民衆の側に立って活動をしているということでした。私はそれを聞いて、すごいとことだなあと思ったのです。テロリストだと言われているハマスの真実の姿、どういう思いで体張って闘おうとしているのか、その彼らの思いなどについて土井さんが現地で取材して実感したことを教えていただきたいと思います。お願いします。</p>

<p>Ａ４　質問された方がっかりされるかもしれませんけど、私には『テロ』という言葉について、自分なりの定義をもっています。『テロというのは、政治的な目的のために一般市民を標的にし攻撃すること』という定義です。これに従えば、パレスチナ人が自爆攻撃でバスを爆破することもテロです。これは否定できない。ただ、占領された人間がイスラエル軍に対して武力で抵抗することはテロではない。占領されたイラク人がアメリカ軍に向かって抵抗している。これもテロではなく、武力による抵抗活動（レジスタンス）です。これは国際法でも認められた抵抗権です。その違いをきちんと識別しなければいけない。私はパレスチナ人が自爆攻撃でバスを爆破することは『自爆テロ』だとはっきりと書きます。それはテロだからです。<br />
一方、一般のマスメディアはどういう報道の仕方をするかというと、『パレスチナ人が自爆テロをする。それに対しイスラエル軍が報復する。つまり暴力の連鎖だ』という。しかし、その中で、足を踏まれている、つまり占領されているという“構造的なテロ”に対しては一言も言及しない。私はその構造をきちんと見て伝えなければいけないと思います。<br />
一方、先ほどファルージャで怒った民間人への無差別攻撃は、テロではないのでしょうか。バスへの自爆攻撃を『自爆テロ』と呼ぶのなら、なぜ『国家によるテロ』をテロとはっきりと表現しないのでしょうか。あれは間違いなく、“国家テロ”ですよ。この言葉をマスメディアの中に広げていかないければいけない。「ファルージャで米軍の爆撃によって８人死亡」と書くのではなく、「爆撃の国家テロによって８人死亡」と明確に表現すべきです。</p>

<p>Ｑ５　ありがとうございました。今の話と関係するのですが、運動の中で『戦争もテロも反対』というスローガンがあります。それ『テロ』という言葉の定義がはっきりしないという問題がある一方、戦争をやっている側と踏みつけられている側の抵抗を同じく『テロ』として見ている傾向があると思います。そのような『戦争もテロも反対』というスローガンについて土井さんはどうに思われるか。</p>

<p>Ａ５　例えばイラクの武装勢力が、警察官や兵士になる募集に応募して列を作っているところに爆弾を仕掛けて殺害するようなやり方は、私はテロだと思います。応募して列を作っている青年たちに、そうするなと言うのなら、彼らはいったいどうやって生活していけばいいのですか。仕事を求める一般市民ですよ、彼らは。それに対して、爆弾を仕掛けてやるというのはこれはテロ以外のなにものでもない。私は絶対、このような行為を擁護できません。しかしザルカウィ一派がアメリカ軍に向かってそういう攻撃をするときは、私はそれをテロだと思わない。ただ私には一つ分からないことがあります。ザルカウィ一派、アルカイダは『テロ組織』と呼ばれている。私の連れ合いが、『アルカイダの人たちの仕事って何でしょうね』って私に聞くわけですよ。『人を殺すことが彼らの本来の仕事なんでしょうかね』と。どうなんだろうね、と二人で考え込んでしまいました。私はまじめにアルカイダの人に訊きたいですね。『あなたがたは、最終的に何がしたいんですか。何が目的なんですか』と。<br />
　私はアメリカ軍との闘いをテロだと思いません。そういう抵抗活動を行っている人たちを『テロリスト　』と断定できるのだろうか。アメリカ軍の侵略や占領と闘っているのなら、『テロ組織』ではないのではないか。『テロ』とは何かということを真剣に見直す必要があると思います、どういう場合が『テロ』で、どういうものが『テロ』ではないのかを。『テロリストとの闘い』『反テロ』といえば、なんでも許されてしまう。その『テロ』という言葉の曖昧さをブッシュたちは利用してしまっている。自分が気に食わないもの、自分たちの利益に反するものを『テロリスト』と呼べばいいわけですから。『反テロ』と宣言してやってつければ、それは『テロ』ではなく、『俺はテロリストをやっつけてるから、いいことしているのだ』というふうに世界に説明してしまうわけです。だからアルカイダとは一体どういう組織なのか、何を目的に闘っているのかを、本当にジャーナリストは取材すべきだと思いますよ。できることなら、私は、本当にビン・ラディンに会ってその点についてちゃんと話を聞きたいと思います。</p>

<p>Ｑ６　僕も名古屋大学から来ました。あのブックレットを読んで、とくに先ほどのファルージャの映像も見せていただいて、日本人も軍隊を送ったら敵なんだと現地の人が言っている。それを僕らが許してしまっているということが非常に悔しいのですが、ファルージャの人たちはすごいと思いました。土井さんが取材で入ったのは米軍の攻撃の後ですよね。ファルージャの人々は土井さんのブックレットに書かれているように、米軍の攻撃を跳ね返し、米軍を叩き出すという闘いをやった人たちなんですね。それを非常にすごいなと思って土井さんのブックレットを読みました。あのように住民が武器をもって闘ったのだということを初めて知りました。土井さんが現地で取材して感じたこととかあったら、教えていただきたいのですが。もう一つ、僕たち日本が軍隊を送ったら敵だと言ってるようなイラクの人たちに信頼してもらうために僕らは何をすればよいのかについてお願いします。</p>

<p>Ａ６　それはやはりとても大事な問題ですね。私のブックレットの中に高校の教師が私のインタビューに答えて、「アメリカ軍と闘ったのは、われわれ一般市民なんです。病院の関係者だったり、教師だったり、生徒だったり、われわれの町を守るために闘ったんです。アメリカはアルカイダだとか言うけれどもわれわれはアルカイダなんて見たこともない。アルカイダがいたとしてもスーパーマンではないのです。一人か二人、アルカイダがいたからといって戦況が変わるものではありません。私たちファルージャの住民が闘ったのです」と答えています。私はこの言葉はとても重いと思います。しかしメディアは今イラクで起こっていることを、『アメリカはアルカイダの拠点をたたいた』、『ザルカウィ一派に対する闘いなのだ』というふうに報道しています。でも皆さん、不思議だと思いませんか。ザルカウィがいたと言っているけれどもザルカウィの顔も見たことがないでしょう。ザルカウィの手下を拘束したという報道がある。それなら、その人物をちゃんと出して、アルカイダやザルカウィが実際、ファルージャにいるという証拠を出すべきなのに、なぜかそれが出てこないのか。酒井啓子さんだったでしょうか、テレビで発言していましたが、『ザルカウィという人物の存在は、大量破壊兵器と同じではないでしょうかね。いるいるって言って本当はいないのではないか』と。その可能性はじゅうぶんあるわけです。私自身、ザルカウィ、ザルカウィとしきりにアメリカが強調するけれど、本当にいるのかなと疑っています。その点は私たちはもう少し慎重にならなくてはいけないのではないでしょうか。『ザルカウィの拠点を叩いた』といわれて、簡単に『ああそうですか』と納得してはいけないのではないか、そういう気がするのです。<br />
一方、現在、ファルージャで実権を握っているムジャヒディン（イスラム聖戦士）たちも、「アルカイダやザルカウィはファルージャにいない」と言うのだったら、ちゃんとジャーナリストを入れて、そのことを見せればいいのに、逆に「ジャーナリストはまかりならん」と言っている。そのようなやり方は非常にまずいとおもいます。私がファルージャを取材して一週間後に『一切のジャーナリストはファルージャに入っていけない』という通達が出た。私たちは、『やはり、ザルカウィが実際、ファルージャにいるために、見せたくないのかな』と疑ってしまう。なぜそれほど見せたくないのか。たしかには、ジャーナリストを名乗ってアメリカのスパイが入るのが怖いということもあるでしょう。実際、そういうこともあるのです。私がファルージャを取材していたころ、あるレストランで食事をとっていたイタリア人がムジャヒディンたちに囲まれて連行されました。幸い、本当にジャーナリストだということが分かって解放されましたけど、それほどジャーナリストと名乗って入ってくるスパイに彼らは神経質になっています。<br />
でもいちばん重要なことは、は誰が一体あの爆撃の下で殺されているのかということです。アメリカが主張するように、爆撃で殺されているのは本当にアルカイダの連中なのか、そのことを私は今、一番知りたいです。現在、イラクに入れたら入りたいのですが、今入国ビザがなかなか取れません。香田さんの事件が起きて一番驚いたのは、彼はどうやって入ったんだろうということでした。今私たちの仲間の森住卓というカメラマンも、９月初旬にビザを申請したのですが、まだ取れません。今ジャーナリストがイラクに入るのがとても難しい状況です。現在、バグダッドにいるＮＨＫと共同通信の人たちも外を取材するのが危険なために、ほとんど部屋を出られない状況です。そういう中では、自分たちで取材もできないため、現地のスタッフを現場に送って情報をもらって書いている。そうせざるをえない状況なのです。本当は実際に私たちが現場へ行って、自分たちの目で実際、確かめてみたいのですが。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>５月大侵攻の爪あと（２）と情勢</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/000019.html" />
<modified>2004-12-24T03:54:29Z</modified>
<issued>2004-12-24T03:48:46Z</issued>
<id>tag:www.doi-toshikuni.net,2004:/blog/1.19</id>
<created>2004-12-24T03:48:46Z</created>
<summary type="text/plain">国境の最前線で生きるパレスチナ人たち
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　土井敏邦

（5月大侵攻後も続く小規模の家破壊）

　「私には兄弟も父も息子もいません。助けてくれる身内はだれもいないのです。どこへ行けばいいのですか」と、瓦礫の山となった自分の家の前で老婆が訴えた。「生まれてからずっと暮らしてきたこの家を見てください。ほら、ここへ来て。私たちの家財道具のすべてがどうなったか、見てください！」

　エジプトとの国境沿いラファ難民キャンプの一角にあったこの家で、未婚で頼れる家族もないこの老婆は、未亡人となった他の姉妹2人と肩を寄せ合うように暮らしてきた。しかし8月8日、イスラエル軍の侵攻で周辺の数軒の家と共に完全に破壊されてしまった。理由はわからない。老婆たちは行き場を失い、ホームレスとなった。

　国境近くで装甲車が爆破され6人の兵士が死亡した事件を契機に、今年5月、イスラエル軍は大量の戦車、武装ヘリコプター、ブルドーザーを動員してラファの難民キャンプに侵攻した。2週間近くに及ぶ侵攻の結果、５８人の住民が死亡、２６１...</summary>
<author>
<name>doitoshikuni</name>


</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.doi-toshikuni.net/blog/">
<![CDATA[<p><u><strong>国境の最前線で生きるパレスチナ人たち</strong></u><br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　土井敏邦</p>

<p>（5月大侵攻後も続く小規模の家破壊）</p>

<p>　「私には兄弟も父も息子もいません。助けてくれる身内はだれもいないのです。どこへ行けばいいのですか」と、瓦礫の山となった自分の家の前で老婆が訴えた。「生まれてからずっと暮らしてきたこの家を見てください。ほら、ここへ来て。私たちの家財道具のすべてがどうなったか、見てください！」</p>

<p>　エジプトとの国境沿いラファ難民キャンプの一角にあったこの家で、未婚で頼れる家族もないこの老婆は、未亡人となった他の姉妹2人と肩を寄せ合うように暮らしてきた。しかし8月8日、イスラエル軍の侵攻で周辺の数軒の家と共に完全に破壊されてしまった。理由はわからない。老婆たちは行き場を失い、ホームレスとなった。</p>

<p>　国境近くで装甲車が爆破され6人の兵士が死亡した事件を契機に、今年5月、イスラエル軍は大量の戦車、武装ヘリコプター、ブルドーザーを動員してラファの難民キャンプに侵攻した。2週間近くに及ぶ侵攻の結果、５８人の住民が死亡、２６１軒の民家が完全に破壊され、５６１家族、およそ３４００人が住処を失った（「パレスチナ人権センター」統計）。</p>

<p>　5月の侵攻時に比べ規模が小さいために、世界のメディアはほとんど伝えないが、その後も、イスラエル軍のラファ難民キャンプへの侵攻と家屋の破壊は断続的に続いている。イスラエル側は、武器密輸に使われているエジプト側へのトンネルを破壊するためと主張している。しかし破壊された家の中には国境から遠く離れた民家も少なくない。</p>

<p>　5月18日に突然、イスラエルのブルドーザーに隣の２軒の家と共に自宅を完全に破壊されたアラ・バナット（31歳）は、家の近くから見える国境側を指差して訴えた。</p>

<p>　「私の家からあの国境まで500メートル離れています。もし誰かがトンネルを掘るとすれば、（エジプト側に到達する）７００メートルも離れたところから掘るだろうか。目的地まで到達するためだけでも1年ほどもかかってしまう。この地区にトンネルがあったのかどうか考えてみてください。まったく不可能です」</p>

<p><br />
（癒えない5月大侵攻の傷跡）<br />
　5月に家を失った家族の中には、４ヵ月近く経った今も、元の家の敷地内に建てたテントで暮らす者もいる。気温が３０度を超す真夏のテント生活は過酷だ。</p>

<p>「外から入ってくる害虫に悩まされています。パンに蟻がたかっているときもあります。冷蔵庫もありません」<br />
と老婆マリアム・マカウィ（64歳）は言う。しかし警察官の息子の少ない収入では生活費にも事欠き、借家の家賃を払う余裕もない。<br />
「ＵＮＲＷＡ（パレスチナ国連難民救済事業）が借家の金を払ってくれるのを待っています。もしそうしてくれないのなら、このテントにとどまるしかありません。他に選択の余地がないのですから」<br />
　<br />
　借家で暮らせても、家を失った家族は深い傷痕を引きずっている。<br />
　1０人家族、アルガッサース家の主ハリール（５０歳）がイスラエル軍に殺害されたのは、昨年12月の侵攻の時だった。ハリールは他の家族を避難させ、独り家に残ったが、やがて職場の市役所に向かうために家を出た。その直後、イスラエル兵士に狙撃された。背中から入った銃弾は、心臓を突き抜けていた。半年後の5月、大黒柱を失ったこの家族にさらに災難が襲った。再び侵攻してきたイスラエル軍が、この家族の家を完全に破壊したのである。</p>

<p>　妻のナジャハ（43歳）は、夫と家を失い、義母（85歳）と7人子供をかかえ、市役所からのわずかな年金で生活を切り盛りしなければならない。そんな彼女の一番の心配事は、相次ぐ不幸が幼い子供たちに与えた心理的な影響だ。子供たちの中には今なお、夜、悪夢にうなされる子がいる。7歳になる末っ子は夜中に起きだし、夢遊病のように眠りながら歩き始め、外に出ようとする。朝、その理由を訊いても、何も覚えていないと言う。9歳になる子は夜、おねしょをするようになった。</p>

<p>「ある子が『いつ、お父さんは墓から戻ってくるの』と訊きます。他の子はときどき、お父さんの血を見るために、殺された場所へ連れていってくれとせがみます。また他の子は『僕は戦車のところへ行き、お父さんを撃ったようにイスラエル兵を撃つんだ』といいます」</p>

<p>「僕は毎夜、イスラエル人がやってくる夢を見ます」と答えたのは11歳の少年、サミーハだった。「だからいつも枕の下にナイフを置いているんです。もし奴らをみつけたら、腹を刺すんだ」</p>

<p>　そのサミーハに「将来、何になりたい？」と訊いた。すると少年は「大きくなったら、ナイフや武器を買って、イスラエル人をやっつけるんだ」と答える。「そうじゃなくて、どんな仕事につきたい？」と問い直しても、少年の答えは同じだった。「警官になりたい。いや抵抗の戦士になりたい。そしてイスラエル人を撃つんだ。復讐をするんだ」。</p>

<p>　止むことなく続くイスラエル軍の家屋破壊と住民殺害は、パレスチナの次世代を担う子供たちの心に、イスラエルへの修復しがない憎しみを植え続けている。</p>

<p><br />
（銃撃の恐怖に晒される国境最前線の住民たち）</p>

<p>　国境沿いの住民たちにとって、恐怖は家の破壊だけではない。イスラエル軍の監視塔からの無差別銃撃によって生命の危険にさらされている。<br />
　バルフム家は国境から数十メートル、その間にあった家々はすべて破壊され、その3階建ての家は国境の最前線となっている。そのため国境の壁に近いイスラエル軍の監視塔と向き合う位置にある。8月12日朝、ハルフム家の次男、サーフエルディーン（1３歳）は、朝食を済ませると、屋上で飼っている鳩に餌をやるため、階段を上がった。その直後、家族は激しい銃撃音と叫び声を聞いた。駆け上がった次女のアスマ（14歳）は、屋上近くの階段で頭から血を流して倒れている弟の姿を目撃した。アスマは手で傷口を塞いで出血を止めようとしたが、激しい出血だったの止血できなかった。銃弾は頭の左側から右側に突きぬけ、壁をえぐっていた。少年は病院へ運ばれたが、3日後に死亡した。</p>

<p>　「ここへ来て見てください。あれが銃撃した軍の監視塔です」と、現場を案内したアスマが屋上の入り口から南側を指差した。真正面、数十メートル先に不気味な鋼鉄の固まりが視界に飛び込んできた。この家族は日常的に塔からイスラエル兵に監視され、銃撃に怯えて暮らさなければならない。</p>

<p>　サーフエルディーンは7月にエジプトに住む親戚を訪ねるために、旅行の準備を済ませていた。パスポートも取得し、旅行バッグに衣類も詰め終わっていた。しかしイスラエル当局が国境を1ヵ月近く封鎖したために予定通り出発できずにいた。その直後に起きた事件で、少年はエジプトへ永遠に旅立てなくなった。</p>

<p>　昨年9月、同じ地区で、部屋の中で頭を銃撃され、身体障害者となった男性もいた。９日の夕方、大工のラムジ・アタフ（３０）は2階の寝室で妻と、家の改築のために来る労働者たちの明日の食事について相談しあっていた。そのとき突然、銃撃が始まり、木製のドアを突き抜けた銃弾がラムジの頭に命中した。すぐに病院に運ばれたが、一時呼吸が止まり、3ヵ月間意識不明が続く重症だった。その後、数回の手術と長いリハビリによって、1年近くが経つ現在、やっと杖をついて歩けるまでに回復したが、右手は麻痺したままだ。銃撃は前例と同じく、軍監視塔からだった。その塔とラムジの家まで４００メートル近くも離れている。</p>

<p>　現在、軍監視塔に面するラムジ家の窓は、ブロックで塞がれている。昼夜を問わず、監視塔から無差別の銃撃がその後も続いているからだ。父親フセイン（５５）は、家の前の通りで遊ぶ子供たちを示しながら言った。<br />
「ごらんの通り、通りの人々は一般住民であり、子供たちです。まったく警察署や軍事基地もありません。なのに、どうしてイスラエル軍は銃撃してくるのか。私たちがパレスチナ人だからでしょうか。それでも私たちはこの土地から離れません。他に行く場所がないからです。私たちはこの土地で生まれ、この土地で死んでいきます」</p>

<p>　国境の最前線で暮らしていたパレスチナ人たちの多くは、いつ家を破壊されるかという不安と、銃撃の恐怖のために家を去り、国境から離れた安全な街の中心部や郊外の借家へ逃れた。そして人が住まなくなった家々は、「空家だから」という理由でイスラエル軍の破壊の対象となる。</p>

<p>　イスラエル軍報道官室の海外メディア担当代表、シャロン・フェインゴールド少佐（2003年3月当時）は、ラファでの家屋破壊の第１の理由は、武器密輸に使われる国境のトンネルを破壊するためと答えた後、次のように言葉を継いだ。<br />
　「第２の理由は、それらの家が空家だからです。かつてパレスチナ人が住んでいましたが、今はすでに住民が去った家です。この周辺で激しい戦闘が行われるため、住民たちが家から出ていったのです。その空家がパレスチナ人武装グループによってイスラエル軍への銃撃の拠点に使われています」。</p>

<p>　しかし住民たちが家を離れるのは、「周辺で激しい戦闘が行われるため」ではなく、いつ家が破壊されるかもしれないという恐怖と、イスラエル軍からの無差別銃撃の恐怖のためである。また最前線の空家となった家も、常に銃撃される危険があるために、だれも近づけない。</p>

<p>「イスラエルのセキュリティー（安全保障）を護るため」という大義名分を掲げ、イスラエル軍は国境の街ラファで、住民の生活を破壊し続けている。イラク情勢に注目が移り世界のメディアが見向きもしないなか、国境の街ラファでは、今日もパレスチナ人住民たちが銃撃され棲家を失っている。</p>

<p><br />
（出口の見えないパレスチナ情勢）</p>

<p>　現在、パレスチナ・イスラエル報道のなかでもっとも注目されているのが、シャロン首相による「ガザ撤退計画」である。「強硬派のシャロン首相が“和平”に向けて動き出した。これに猛反発する右派勢力と闘いながらシャロンはガザからの入植地撤退を実現し、和平への道を切り開こうとしている」といったイメージが広がっている。しかしこの一見「和平への動き」のように見える計画は、実はヨルダン川西岸における大半のユダヤ人入植地を維持するための“引き換え”であることに世界のメディアはあまり注目しない。この「和平への動き」はガザ地区とヨルダン川西岸にパレスチナ国家を建設するというパレスチナ人の目標の芽を完全に摘んでしまうことになりかねないのに、である。</p>

<p>　一方、パレスチナ人自身も内部に大きな問題をはらんでいる。アラファトを中心とする自治政府の腐敗と指導力不能という深刻な問題だ。ガザ地区では、そのような自治政府への住民の不満と怒りを利用して、「改革」の名の元にモハマド・ダハランが治安当局の幹部拉致などの手段で反旗を翻しつつある。欧米やアラブのメディア中には、このようなダハランを「アラファトの腐敗した旧体制に挑戦する“アラファト後の新たな指導者”」として持ち上げる傾向がある。</p>

<p>　しかし現地の見識あるパレスチナ人たちは、ダハランがアメリカＣＩＡからの莫大な資金援助を用いて、特にガザ地区の治安当局関係者たちの“忠誠”を金で買い集めていることを見抜いている。つまりダハランは、アメリカからの潤沢な支援をバックに、アラファトの腐敗政治の「改革」を叫びながら、アラファトとまったく同じ「金で忠誠を買う」という政治手法でアラファト後の権力の座を狙っているというのだ。このようなパレスチナの内部情勢に失望したパレスチナ住民たちは、ハマスやイスラム聖戦などイスラム勢力の支持へといっそう傾きつつある。パレスチナのあるＮＧＯによる世論調査によれば、イスラム勢力の支持率は今年3月の２９％から6月には３５％に急増している。一方、かつて過半数を超えていたアラファト率いる「ファタハ」の支持率は２８％にとどまったままだ。しかしそのイスラム勢力の支持急増は、住民がパレスチナの将来をイスラム勢力に託そうとしている証左と短絡すべきではなく、腐敗した自治政府などに対する反発の象徴とみるべきだろう。</p>

<p>　そのようなパレスチナの絶望的な状況のなかで、パレスチナ人住民から“将来の指導者”として支持を高めつつあるのが、イスラエルの獄中にある“インティファーダの指導者”マルワン・バルグーティだ。次回の選挙で副大統領として誰がふさわしいかという先のＮＧＯの世論調査では、現首相のアハマド・クレイが６％、先のダハランが４％に比べ、バルグーティは２５％と群を抜いている。しかも出身のヨルダン川西岸（２４％）より、ガザ地区（27％）での支持が高いことは注目すべき点である。調査対象の住民の６７％は、「イスラエルの裁判が彼をパレスチナの指導者として資格をいっそう高めている」と答えている。　<br />
　<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>イスラエル軍５月大侵攻の爪あと０４．夏取材</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.doi-toshikuni.net/blog/archives/000018.html" />
<modified>2004-12-24T03:48:22Z</modified>
<issued>2004-12-24T03:34:06Z</issued>
<id>tag:www.doi-toshikuni.net,2004:/blog/1.18</id>
<created>2004-12-24T03:34:06Z</created>
<summary type="text/plain">いまパレスチナはどうなっているのか
――イスラエル軍５月大侵攻の爪痕が癒えないラファからの報告――
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　土井敏邦

（なぜ今、ラファか）

　パレスチナ情勢が混沌としている。メディアでも、戦後なお混乱が続くイラクの報道の影に隠れて“パレスチナ”は断片的にしか伝えられないため、いっそう状況がつかみにくい。だが、イラクの行方を含む中東

　情勢は、“パレスチナ”抜きに語れない。

　挫折した“オスロ合意”に代わる新たな中東和平へ指標として、昨年春、アメリカのブッシュ大統領が打ち上げた「ロードマップ」構想も、イスラエル政府による“分離壁”の建設や、ヨルダン川西岸地域でのユダヤ人入植地拡張へのアメリカ政府の承認などによって、いまや死に体にある。一方、イスラエルのシャロン首相は、昨年暮、ガザ地区からの入植地撤退案を打ち上げたが、極右勢力だけではく、与党リクード内部の右派勢力からも猛反対を受け、来年の実現は危ぶまれている。だが、このガザ地区撤退の見返りとしてヨルダン川西岸地区の大半のユダヤ人入植地...</summary>
<author>
<name>doitoshikuni</name>


</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.doi-toshikuni.net/blog/">
<![CDATA[<p><u><strong>いまパレスチナはどうなっているのか<br />
――イスラエル軍