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  <title>土井敏邦 サイト更新情報</title>
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<dc:creator>土井敏邦 サイト更新情報</dc:creator>
  <description>ジャーナリスト土井敏邦のサイト更新情報</description>
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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120502.html">
  <title>日々の雑感 265：避難区域の見直しを巡る議論(2)</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120502.html</link>
  <dc:date>2012-05-12T02:22:33+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 265：<br />
避難区域の見直しを巡る議論(2)</h1>

<p>2012年5月2日（水）</p>

<p>　4月9日、伊達市の保原市民センターで開かれた第1回目の避難区域の見直しを巡る「懇談会」に続いて、4月11日、今度は福島市内に避難する飯舘村村民を対象にした第3回目の「懇談会」を取材した。村長をはじめ村の行政側と村民が直接、対話する現場をもう一度取材したいと思ったからだ。仙台エマオの若者たちの取材を早めに切り上げ、取材先の仙台市若林地区荒浜から福島市の会場へと2時間ほど車を走らせた。<br />
　「懇談会」開始30分前から、200席を超える会場はほとんど埋まった。開始直前から開始後に開場に来た村民は、会場に入りきらず、出入り口に立って会場からのマイクの声を聞かなければならないほどの盛況ぶりだった。<br />
　一通り、国と村からのあいさつと説明が終わると、会場との質疑応答が始まった。<br />
　真っ先に飛び出したのが、避難区域見直しの基準の１つとなる年間20ミリシーベルトという数値がほんとうに「安全の基準」なのかという問いだった。<br />
　ある村民が国側に問うた。<br />
　「政府は20ミリが安全だといつ決めたのか。なぜ村民を20ミリのところへ帰すのか」</p>

<p>　それに対し国側はこう答えた。<br />
　「昨年12月に政府は『低線量被ばくリスク管理に関するワーキング・グループ』で議論した結果、『100ミリ以下は他のリスクに紛れてわからなくなる。20ミリでは他のリスクに比べば十分に低い数字である』という報告書が出された。その議論には政府に批判的な専門家も参加している。政府は、20ミリ以下なら避難地区の解除に向けて取り組んでいく」</p>

<p>　それに対して、質問者は「それなら『放射線管理区域』とは何なんだ。南相馬や飯舘村だけではなく、日本全国に20ミリ以下は安全だと言ったらどうだ！」と反論した……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120502.html">続きを読む</a></p>

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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120429.html">
  <title>日々の雑感 264：被災地に来た若者たち(2)</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120429.html</link>
  <dc:date>2012-05-09T12:40:09+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 264：<br />
被災地に来た若者たち(2)</h1>

<p>2012年4月29日（日）</p>

<p>　現在、「エマオ」のボランティア活動のまとめ役の1人、堀田暢さんは20歳。ボランティア活動を初めて、もう1年になる。ここへ来た当初、彼が一言しゃべったことがボランティア仲間の間で話題になるくらい口数の少ない青年だった。しかし1年後の彼は、後輩のボランティアたちに適格なアドバイスや指示を出す、みんなに信頼されるリーダーに成長した。<br />
　堀田さんは高校時代から社会問題、とりわけ労働問題、貧困、外国人差別等に強い関心を持ち、その分野の本を読みあさり、講演会や集会にも参加してきた。社会学を学ぶため、大学受験は一ツ橋大学をめざしたが、失敗。浪人を決めた。予備校に通う道を選ばず、飲食店でアルバイトをしながら独学する道を選んだ。しかし1ヵ月ほどで受験勉強に疑問を抱き、社会問題や国際問題の本の読書にふけった。1年後の受験をめざし勉強する友人たちに「置いていかれる」という焦りや不安がなかったわけではなかったが、「大学に進まないと自分で決めたんだ」という自負が自分を支えた。<br />
　1年後、堀田さんは、再受験はせず、貯金した金で海外へ旅に出る決心をした。しかも選んだ先は、欧米諸国ではなく、「日本の過去の戦争犯罪の跡」を観て回るため、アジア諸国を選んだ。シンガポール、マレーシア、ビルマを周り、アジアに進出した日本の工業団地の実態を知るためタイやベトナムにも足を延ばした。<br />
　しかし1ヵ月半のこの旅の間中、ずっと堀田さんの胸に引っかかっていたものがあった。それは東北の震災だった。<br />
　2011年3月11日、シンガポールに向けて旅立つ直前、関西空港でチェックインしている最中、激しい揺れを感じた。チェックインを終えた直後、テレビに映し出されたのは、千葉の石油コンビナートが燃えている映像だった。<br />
　「こんな緊急時に旅なんかしていていいのか。現地へ行って救援活動をすべきではないか」という思いが、その後の旅の間中ずっと、堀田さんの脳裏から離れなかった。<br />
　4月下旬に帰国するとき、「少なくとも旅と同じ期間、ボランティア活動をしよう」と心に決めた。ボランティア先をインターネットで探していたとき、目にとまったのが「エマオ」だった……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120429.html">続きを読む</a></p>

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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120428.html">
  <title>日々の雑感 263：被災地に来た若者たち(1)</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120428.html</link>
  <dc:date>2012-05-04T12:48:33+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 263：<br />
被災地に来た若者たち(1)</h1>

<p>2012年4月28日（土）</p>

<p>　昨年、震災直後の3月下旬から1週間、私は仙台市でボランティア活動に参加した青年たちを取材した。3月中旬、沖縄の知人の牧師から日本基督教団東北教区センター「エマオ」がボランティア活動を開始したことを教えられた。被災者たちと接触する機会を探していた私は、岩手県の被災地を取材したその足で、仙台に向かった。4月上旬、その取材結果を36分のドキュメンタリー映像「被災地に来た若者たち」にまとめた。その映像は「エマオ」の活動の広報として使ってもらったり、私が講演用に使う以外は、公にすることもなかった。ただ、若者が被災地のボランティア活動を通して成長していく様を描いたそのドキュメンタリーをこのまま公開もせずに眠らせるのは惜しいと思った。かといって、1年経った今、そのまま公開するにはちょっと古くなりすぎている。ならば、1年後のエマオのボランティアたちを追加取材することで1本のドキュメンタリーにできないかと考えた。3月と4月に福島から仙台の「エマオ」を再訪したのはそういう理由からだった。</p>

<p>　ほぼ8カ月ぶりに訪ねた3月、私は2人の青年と出会った。彼らは、全国各地から集まってくる学生など若いボランティアたちをまとめるスタッフとしてもう1年近く活動を続けていた。その2人の青年の“生き様”を追ってみたいと思い、4月に再び2人に会いに仙台へ車を走らせた……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120428.html">続きを読む</a></p>

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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120425.html">
  <title>日々の雑感 262：避難区域の見直しを巡る議論(1)</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120425.html</link>
  <dc:date>2012-05-02T12:45:15+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 262：<br />
避難区域の見直しを巡る議論(1)</h1>
<p>2012年4月25日（水）</p>
<p>　原発の爆発で放射能に汚染されてから1ヵ月も経った昨年4月11日、飯舘村は「計画的避難区域」に指定され、6500人の村人に1ヵ月間で村と家を出るように政府に告げられた。1年後、その飯舘村が新たに避難区域の見直しをされることになった。汚染の線量によって3分割されるというのだ。「今のままではインフラ整備が難しい」というのが政府側の説明だ。3分割とは以下の通りである。</p>
<ol>
<li>避難指示解除準備区域：20ミリシーベルト／年 以下<br />
つまり3.8マイクロシーベルト／時 以下</li>
<li>居住制限区域：20ミリ~50ミリシーベルト／年<br />
つまり3.8~9.5マイクロシーベルト／時</li>
<li>帰還困難区域：50ミリシーベルト／年 以上<br />
つまり／9.5マイクロシーベルト／時以上</li>
</ol>

<p>　4月9日から4日間、村民の多い市4カ所で政府側と村役場側が、村民にその新たな避難区域見直しについて説明し、村民の意見を聞く「懇談会」が開かれることになった。初日は、伊達市の保原市民センターが会場だった。</p>

<p>　伊達市には伊達東仮設住宅など飯舘村の住民が多く避難している。この日も200人近い住民が集まってきた。政府側からは原子力災害現地対策本部や各省の担当者たち、それに飯舘村村長はじめ役場の幹部たち、議会の議員たちが出席した。<br />
　政府側は、見直しの基準として「飛行機から測ったデータ─」を出し、長泥地区の多くが、年間線量が50ミリシーベルトを超える地域として色分けし、「帰還困難地域」に指定される可能性が高いことを示唆した。もしそうなれば、入口にバリケードなどを設置し、地区内への立ち入りを制限する計画だという。これに対し、長泥の住民から、「これまで自由に出入りできた地域に1年も経ってからなぜ入ることができないのか」と強い反発が出た。<br />
　会場の最前列にビデオカメラを設置して陣取った長谷川健一さんが質問に立った……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120425.html">続きを読む</a></p>

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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120423.html">
  <title>日々の雑感 261：飯舘村・村を離れた酪農家たち(3)・志賀正次さん</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120423.html</link>
  <dc:date>2012-04-29T20:40:06+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 261：<br />
飯舘村・村を離れた酪農家たち(3)・志賀正次さん</h1>
<p>2011年4月23日（月）</p>
<p>　昨年7月24日のコラム「<a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20110721.html">離れ離れになる志賀さん一家</a>」で紹介した酪農家・志賀正次（しが　まさつぐ）さんに再会するため、南相馬市のアパートを訪ねたのも昨年9月以来だった。当時、志賀さんは、数種類の特殊車両免許を取得し、再就職の準備をしていた。それから7カ月後、彼はコンクリート・ミキサーの運転手として相馬市で働いている。昨年9月から3ヵ月間は常磐高速道路の建設の土木作業の仕事についていたが、昨年暮れに知人の紹介で現在の職場に移った。これまで酪農業の経営者だった自分が、雇われ、若い上司から使われる身となった。その落差に戸惑ったが、生活していくためには仕方がないと自分に言い聞かせている。これまで家族経営で自由にやれた仕事だったが、会社の雇われ人となって一番気を使うのは、職場での人間関係だと志賀さんは言う。年下の上司は「志賀さん」と呼ぶが、心の中では「仕事のできないおっさんだ」と思われてはいまいかと考えてしまい、気疲れする。牛の補償は東電から9割がたもらったが、毎月10万円出るはずの精神的苦痛の補償は、東電側との交渉が決裂し、まだ1円ももらっていない……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120423.html">続きを読む</a></p>

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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120422.html">
  <title>日々の雑感 260：飯舘村・村を離れた酪農家たち(2)・田中一正さん</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120422.html</link>
  <dc:date>2012-04-27T02:37:50+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 260：<br />
飯舘村・村を離れた酪農家たち(2)・田中一正さん</h1>
<p>2012年4月22日（日）</p>
<p>　長谷川義宗さんを山形の牧場に誘ったのは、長泥地区の酪農家だった田中一正さん（41歳）だった。田中さんは、東京生まれで新潟育ちで、北海道の酪農学園を卒業後、数年間、栃木県の大牧場に勤めていたが、11年前、酪農をやるため飯舘村に移り住んだ。一時は、飯舘村一の乳量を生産するほどに田中牧場の酪農業は順調だった。しかし、あと半年でちょうど10年目という時に福島第一原発の事故で、軌道に乗っていた長泥での酪農業を諦めざるをえなくなった。<br />
　飯舘村で生まれ育ったわけではない「よそ者」の田中さんは、他の村人から「お前はいいべ。東京か新潟に帰ればいいんだから」と言われることがあった。しかし、30歳のとき飯舘村での酪農に自分の人生を賭けて移り住み、10年間必死で生きてきた自分は、ここで生まれ育った村人と同様に、いやそれ以上に、この村への愛着、“愛郷心”はあると田中さんは言う……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120422.html">続きを読む</a></p>

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 </item>



<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120421.html">
  <title>日々の雑感 259：飯舘村・村を離れた酪農家たち(1)・長谷川義宗さん</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120421.html</link>
  <dc:date>2012-04-25T12:03:26+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 259：<br />
飯舘村・村を離れた酪農家たち(1)・長谷川義宗さん</h1>

<p>2012年4月21日（土）</p>

<p>　昨年7月17日の「日々の雑感」で紹介した酪農家、長谷川健一さんの長男、義宗さん（33歳）と、飯舘村・長泥地区で、独りで酪農を営んでいた田中一正さん（41歳）に再会するため、福島市から国道13号線を登って山形へ向かった。2人は昨年8月から、米沢市の西10数キロの飯豊町の牧場で働いている。彼らを前回訪ねたのは昨年9月だったから、7カ月ぶりの再訪である。<br />
　前回は奥さん、3歳になる長女とアパートで3人暮らしだったが、5カ月前に次女が生まれ、4人家族になった。福島第一原発の爆発直後、義宗さん一家は千葉に避難し、その後、福島市内の借家で暮らしていた。しかし、そこも放射能の線量が高く、幼児や妊婦だった妻への影響を恐れ、もっと遠くに移らなければと考えていたときに、山形の牧場での仕事の誘いがあった。義宗さんは、調理師専門学校を卒業し、飯舘村の飲食店で調理師の仕事についたが、数年前、父親・健一さんの仕事を継ぐため、酪農の道に入った。やがて牛飼いや「牛の美人コンテスト」である「共進会」に自分の牛を出し競うことに生きがいを見出だし、酪農の道で生きていく決心を固めた。しかし原発事故が義宗さんのそんな酪農の夢を打ち砕いた……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120421.html">続きを読む</a></p>

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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120418.html">
  <title>日々の雑感 258：飯舘村の新小学校での入学式</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120418.html</link>
  <dc:date>2012-04-23T02:03:14+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[

<h1>日々の雑感 258：<br />
飯舘村の新小学校での入学式</h1>
<p>2012年4月18日（水）</p>

<p>　4月6日、飯舘村の隣、川俣町に新設された飯舘村の合同小学校校舎（プレハブ）で入学式が行われた。村には、草野小学校、飯樋小学校、臼石小学校の３校があり、かつては100人を越える入学生がいたが、この日は24人。「少ない」と思う人が多いだろうが、私にはむしろ意外なほど多かった。というのは、3月に福島市内のアパートの避難している飯舘村出身の若いお母さんたちに話しを訊いたとき、全員が小学生の子どもたちを福島市内の学校に転校させることを考えていると答えたからだ。母親たちは、「市内から1時間もかけてバスで通わせなければいけない。そのため早朝に子どもたちを無理やり起こし、朝食を口に押し込むように食べさせる。子どもにとっては辛い毎日だろうし、『早く起きなさい、早く食べなさい』と毎日、口うるさく叱り続ける自分が嫌になってきて辛い」と涙ながらに語った。「飯舘村に近く、線量も低くないはずの川俣町の学校になぜわざわざ通わせなければならないのか」と疑問を吐露する母親もいた。そんな母親たちの声を訊いていたから、私は新しい川俣町の小学校に入学してくる子はほとんどいないのではないかと予想していた。だから、24人という数にむしろ驚いたのだ……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120418.html">続きを読む</a></p>

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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120417.html">
  <title>日々の雑感 257：飯舘村・除染の試み</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120417.html</link>
  <dc:date>2012-04-21T01:28:44+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 257：<br />
飯舘村・除染の試み</h1>

<p>2012年4月17日</p>

<p>　4月5日、ほぼ1カ月ぶりに飯舘村を訪ねた。知人の住民Kさんが村の北部、草野地区の自宅へ案内してくれた。この地区で昨年暮れから1月にかけて独立行政法人「日本原子力研究開発機構」によって、「除染モデル実証事業」が行われた。ある一定の地域を、高圧洗浄や洗浄剤を用いた洗浄、舗装の撤去・再舗装などで除染をやって、どのくらい効果があるかを試みる事業である。Kさんの自宅を含むモデル地区の面積は400メートル四方、その除染にかかる費用は6億円だという。<br />
　では6億円をかけた除染事業で線量はどれほど下がったのか。Kさんが線量計を出し、地上1メートルほどで測ると2~2.5マイクロ・シーベルト／時。除染前からほぼ半減したという。「日本原子力研究開発機構」が出した「結果速報」では、庭で下草刈りや表土剥ぎ取りなどで除染作業をやった結果、空間線量は4.34マイクロ・シーベルト／時から2.34マイクロ・シーベルト／時に、つまり低減率は45％だった。また表面線量は6.56マイクロ・シーベルト／時から4.35マイクロ・シーベルト／時になり、低減率は34％に過ぎないことが判明した。つまり除染作業をやっても、政府が住民の帰還の基準と考えている20ミリシーベルト／年前後の線量が残る地区であることに変わりはないことになる……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120417.html">続きを読む</a></p>

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  </content:encoded>
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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120324.html">
  <title>日々の雑感 256：演劇 『荷（チム）』で初めて知った歴史事実</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120324.html</link>
  <dc:date>2012-03-28T01:22:11+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 256：<br />
演劇『荷（チム）』で初めて知った歴史事実</h1>

<p>2012年3月24日（土）</p>

<p>　演劇の世界に疎い私は、著名な劇作家・坂手洋二氏のことを昨年秋、連れ合いに連れられて横浜市内で上演された『普天間』を観るまでまったく知らなかった。現在、「オキナワ」の象徴の１つとなっている「普天間」の等身大の現実と問題の本質を、そこで暮らす人びとの声と生活を通して生き生きと描いたその舞台に、私は圧倒された。こういう作品を生み出した坂手氏に初めて注目をした私は、その劇場で坂手氏の戯曲集『坂手洋二 &#x2161;／海の沸点／沖縄ミルクプラントの最后／ピカドン・キジムナー』（ハヤカワ演劇文庫）を買った。<br />
　その坂手氏に、連れ合いが私の映画『“私”を生きる』のDVDを贈った。その直後、坂手氏は自身のブログに、この映画についてこう言及してくださった……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120324.html">続きを読む</a></p>

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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120321.html">
  <title>日々の雑感：255 演劇『パーマ屋スミレ』に思う“伝える”ことの意味</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120321.html</link>
  <dc:date>2012-03-22T15:05:30+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感：255<br />
演劇『パーマ屋スミレ』に思う“伝える”ことの意味</h1>

<p>2011年3月21日（水）</p>

<p>　演劇『パーマ屋スミレ』は、日本の高度成長期の真っただ中、東京オリンピック直後1965年の頃の、九州・大牟田の炭鉱住宅の「在日」コミュニティーの物語である。作・演出は「焼き肉ドラゴン」で数々の演劇賞を受賞した鄭義信（チョン・ウィシン）。満席の観客が泣き、そして笑うこの演劇には、「在日」の問題、「北朝鮮への帰還問題」「『エネルギー革命』による石炭産業の衰退」「資本による労働組合の分裂工作」「コスト・カットによる安全管理の無視と炭鉱爆発」「国と資本によるCO（一酸化炭素）中毒後遺症患者たちの切り捨て」「CO患者とその家族の悲劇」などの深刻な諸問題が散りばめられている。</p>

<p>　「在日」の3姉妹の次女、須美（南果歩）は、在日コミュニティーの「アリラン峠」で理髪店を営む。しかし夫が炭鉱の爆発事故でCO患者となり障害者となる。妹・春美（星野園美）も、重度のCO患者となった夫の発作と暴力、生活苦に呻吟するが、ついには発作の苦しさを見かねてその夫を殺害してしまう。姉妹、兄弟の間の憎愛、無力な労働組合への幻滅、日本社会の「在日」差別など、社会の最底辺の中で様々な辛苦を飲み込みながら、「アリラン峠」の在日コミュニティーの住民たちは怒り、泣き、笑いながら、たくましく生き抜いていく……</p>

<p><a href="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120321.html">続きを読む</a></p>

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<item rdf:about="http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120306.html">
  <title>日々の雑感 254：映画『大丈夫。─小児科医・細谷亮太のコトバ─』</title>
  <link>http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20120306.html</link>
  <dc:date>2012-03-08T20:38:00+09:00</dc:date>
  <content:encoded>
<![CDATA[
<h1>日々の雑感 254：<br />
映画『大丈夫。─小児科医・細谷亮太のコトバ─』</h1>

<p>2012年3月6日（火）</p>
<p>　「いいドキュメンタリー」と評判の映画はできる限り、時間を割いて観るようにしている。ドキュメンタリー映画を作る者として、自分の技量を高めるための“教科書”にしたいという思い、そして自分の作っている映画の「いい」「悪い」を判断する“物差し”を得たいという思いからだ。そんな映画は目利きの効く映像のプロからの推薦された作品だったり、私が“凄いドキュメンタリスト”と尊敬する人の作品だったりするか、定評のある賞を受賞した作品も見逃さないようにしている。<br />
　今年のキネマ旬報ベスト・テン文化映画部門の候補作品は素晴らしいドキュメンタリー映画が並んでいた。私自身が観た作品の中でも『沈黙の春を生きて』（坂田雅子監督）と『ミツバチの羽音と地球の回転』（鎌仲ひとみ）が際立っていたので、そのうちどちらかが1位に選ばれるだろうと予測していたが、出てきた結果は『大丈夫。─小児科医・細谷亮太のコトバ─』。これまで聞いたこともないこの映画が突然、「今年最高のドキュメンタリー」に選ばれたことに正直、驚いた。素晴らしいと私が思った前者2作品を超える映画とはどういうものかと興味津津だった。そして大倉山ドキュメンタリー映画祭で初めてこの作品を観て、私はこれが第1位に選ばれたことに心底、納得した。「納得」というより、「衝撃」だった。観る者の心をこれほど揺さぶるドキュメンタリーが作られたことに、である。正直、私が作ってきたドキュメンタリー映画とは、まったくレベルが違うと思った。キネマ旬報ベスト・テン文化映画部門の選者たちの眼力に敬服した……</p>

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