Webコラム

2006年夏・パレスチナ取材日記 21

ラファ国境の混乱と再閉鎖

8月12日(土)

 私の20年来の友人、ラジ・スラーニ弁護士はNGO「パレスチナ人権センター」の代表で、欧米で数々の人権・平和賞を受賞した著名な人権活動家である。彼の奥さんと13歳の双子の子どもは学校が夏休みに入った6月中旬、エジプトの知人の家で休暇をとるため、ラファ国境からガザ地区を出た。ラジはガザ市での重要な会議を終えたら、1週間ほど遅れてエジプト入りし、奥さんや子どもたちと合流するつもりだった。しかし6月26日、彼がエジプトへ発つ予定だったちょうどこの日、前日のハマス武装勢力らによるイスラエル軍基地攻撃の報復としてイスラエルはラファの国境を閉鎖した。
 その直後からイスラエル軍の空爆や侵攻が始まり、彼が率いる「人権センター」はその被害の調査と報告のために休む間もなくフル回転する日々が続いた。「もし1日ガザ地区を出る日が早かったら、今頃エジプトでゆっくりとした日を過していたろうにね」と私が言うと、ラジは「妻が電話で言ったよ。『もしエジプトにいてこの事態になっていたら、あなたはトンネルを掘ってでもガザに戻ったでしょうね』ってね」
 7月下旬、1年ぶりに再会したとき、彼は疲労困憊した表情だった。6月25日以来の状況の厳しさと、それと向かい合ってきた彼の消耗の激しさを物語っていた。「私には休暇が必要だ」とラジは言った。
 ラジは、ラファ国境が開くという情報が流れるたびに、エジプトへ渡る準備をした。しかしそのたびに裏切られてきた。閉鎖から1ヵ月半ぶりにやっと国境が開いた一昨日、ラジがラファ国境に到着したのは午後1時ごろだった。しかしその直後、国境は再び閉鎖され、ラジはまたガザ市の自宅に引き返すしかなかった。そして昨日、ラジは見送りにきたスタッフたちと共に再び国境にやってきた。前日に国境から追い返された1万人を超す渡航者とその家族がすでに国境の入り口周辺を埋めつくしていた。3つのゲートを通過した広場から渡航者たちはバスに乗ってパレスチナ側の出入国手続きをする建物へと向かう、本来、ここにはバスに乗れる数十人ずつが入るように3つのゲートで入場者の数を制限し調整するはずだが、また急に国境を閉鎖されるかもしれないと焦る渡航者たちがゲート前での警官隊の制止を振り切ってこの広場まで押し寄せてきた。その数は5000人ほどにも達していたという。国境を管理する側は対処できないほどの大群衆に恐れをなしたのか、出入国手続きする建物へのバスをストップしてしまった。ラファの日中気温は40度近くまであがる。しかも国境の中の広場には水場もない。暑さのために倒れる女性や子どもが続出した。出入国管理の建物へ歩いて向かおうとする群集、それを後方へ押し返そうとする警備の警察官たち。両者の間で激しい押し合いが始まった。警察官が威嚇のため空に向けて銃を発砲した。それがさらに群集を刺激し、青年たちが警察官に向かって投石を始め、現場は大混乱となった。ラジ・スラーニは焼けるような暑さのなか、群集の混乱に巻き込まれ、ほとんど気を失う寸前だった。幸い、付き添っていたスタッフが救い出し、国境の外のパレスチナ側へ連れ出した。
 この混乱に恐れをなしたのか、午後4時ごろ、出国手続きを監視するヨーロッパの係官たちは、国境通過を炎天下の中で待ち続ける1万人近い渡航者たちを国境に放置したたま、現場を放棄して帰ってしまった。これによって、昨日と同様、渡航者たちの国境通過は中止されてしまった。

 この日も国境から引き返さなければならなかったラジは、翌朝、今度は早朝6時ごろから国境通過を試みるつもりだった。しかし、夜中、この日、国境は閉鎖されるという情報が入った。
10日から国境が開けられたといっても、それはガザ地区からエジプト側へ向かう渡航者に限られて、外からガザ地区に帰ってくる渡航者たちの国境通過はまだできない。つまりラジの奥さんや子どもたちがガザ地区へいつ帰ってこれるのかわからないのだ。もう2ヵ月近く離れ離れになった家族とラジが再会するためには、再び国境が開く日を、怒りを抑え、我慢してじっと待つしかないのである。

 私たち“普通の国”の人間にとって外の国に出ることは、パスポートさえあれば簡単なことである。私たちは当然の権利として自由に日本を出入りし、それを当たり前のことだと考えている。しかし、この権利を突然奪われ、ラファ国境でのパレスチナ人と同じ体験を強いられたら、私たちはどうするだろうか。仕方のないことだと外国に出ることを諦めるだろうか。いや、私たちは、世界がひっくり返ったかのように動転し、自国の政府や国際社会に向かって「人権侵害だ!国際法違反だ!」と声も枯れんばかりに大声で叫び訴えるだろう。しかしパレスチナ人が同じように、「人権侵害だ」と訴えても、国際社会はその状況を変えるために何一つ動こうとはしない。そしてその苛立ちを抑えられず怒りを爆発させ、手持ちのわずかな手段で“暴力”に訴えると、国際社会は一斉に「テロリスト」と糾弾する。あたかも問題の根源がその“暴力”から始まったかのように。なぜ彼らがその“行動”を起こすまでに至ったのかを問おうとすると、国際社会は、今度は「テロの正当化」という非難で、その声を封殺するのだ。

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