Webコラム

2006年夏・パレスチナ取材日記 25

分離壁による「エルサレム地区」周辺の変化

8月16日(水)

 日本山妙法寺の堀越上人に案内されて、エルサレムの南東部、イスラエルのいう「エルサレム」の境界にそびえ立つ分離壁の南端に立った。小高いその丘からは万里の長城のように、丘や谷を蛇のようにくねって続く分離壁が一望に見渡せる。パレスチナ人の村サワハラは、1948年の第一次中東戦争後、1967年の第三次中東戦争までイスラエル側とヨルダン側に分断されていた。その後イスラエルによる占領によって再び統合されたが、今、この分離壁によって、東側はヨルダン川西岸に、西側はエルサレム側にと再び分断されようとしている。この分離壁が完成すれば、血縁関係のある村人は壁によって往来も難しくなる。
 このサワハラ村から車で5分ほど分離壁沿いに北上したアブディスは、かつて東エルサレムから乗り合いタクシーで10分ほどで着けるエルサレム郊外の町だ。かつてパレスチナ自治政府の首都の候補にあげられたこともある。1997年から2002年まで、私はこのアブディスから歩いて10分ほどのアザリア町の民家に部屋を借りて取材の拠点にしてきた。アブディスの幹線道路は、イエス・キリストの時代以前から最古の町ジェリコとエルサレムを結んできた歴史的な道路である。私がここを毎日通過していた当時、アブディスはエルサレムとヨルダン川西岸を結ぶ交通の要所で、北はラマラやナブルス、南はベツレヘムやヘブロンへの乗り合いタクシーの発着所として賑わっていた。
 しかし2003年、この幹線道路が分離壁によって塞がれて以来、町の様子も一変した。エルサレム側との往来が途絶えた壁沿いの商店街は客足が途絶えて商売が成り立たたなくなった。今は8メールほどのコンクリートの壁と道路1つ隔てた商店の大半が扉を閉じたままだ。
 ジェリコとエルサレムを結んでいた道路は巨大な壁に遮断され、昔のアブディスを知らない人に、そこがかつてエルサレムへと続く歴史的な幹線道路だったことを想像させるものは何もない。昨日、NGO「パレスチナ草の根・反アパルトヘイト壁」の代表ジャマール・ジュマが言った「パレスチナ人の歴史の破壊」の典型的な一例である。
 塞がれた幹線道路のすぐ右手では、数メートルしか離れていない2つの民家の間を縫うように高い壁が走り、隣接する2つの家々が分断されていた。左手はエルサレム地区、右手はヨルダン川西岸となる。当然、その資産価値も家賃も両者では雲泥の差がつくことなる。いったい何を基準にこの隣接する家々は分断されなければならなかったのか。この高い壁によって、かつて隣人付き合いのあった住人同士の人間関係も完全に断ち切られることになる。

 1年半前に取材したエルサレム郊外のヌーマン村へ堀越上人と共に向かったのは、最も日差しが強く、気温が最高度に達する午後3時過ぎだった。あえてこの時間を選ばねばならかったのは、働きに出る村の男たちが仕事から帰ってくる時間に合わせるためである。東エルサレムからミニバスで、エルサレム最南端のパレスチナ人町オムトゥーバまで行き、そこから荒野の道を1キロほど歩かなければならない。35度を超える猛暑の中、カメラを抱えて埃っぽい坂道を登るのは苦行である。強い日差しから頭部を守るためにハンカチを頭にかぶり、ぜいぜいと荒い息で一歩一歩急な坂を上っていく。そうしなければならない事情があった。
 ベツレヘムから北東へ1キロ、人口200人ほどのヌーマン村は、1967年の第三次中東戦争でイスラエル軍に占領された後、拡張された「エルサレム地区」の内部に組み入れられた。しかしその住民にはエルサレムの身分証明書(ID)は与えられず、ヨルダン川西岸のIDしか所有していない。しかし、そのヌーマン村とベツレヘム地区の他の町や村とを隔てる分離フェンスが建設されたのだ。村人はエルサレムIDがないためにエルサレムへも行けず、一方、ヨルダン川西岸の町や村に出るにも、分離フェンスのゲートを警備するイスラエル兵の厳しい検問を受けなければならなくなった。
 一方、村が「エルサレム地区」内部であることを理由に、市当局はこの地区を家屋の建設などを制限する「グリーン・エリア」に指定、家族の増加のために村人が新設した家を「無許可建築物」として、多額の罰金を課し、それを拒否すればその家は破壊される。その一方、「エルサレム地区」にも関わらず、ゴミの収集や電話など市当局による公共サービスはまったく受けられないという。
 私は何度も水を補給しながら30分ほどでやっと村に到着した。村の南端に行くと、1年半前はまだ建設中だった分離フェンスはすでに立派なセキュリティー道路に沿って完成していた。近くのパレスチナ人民家をヨルダン川西岸側に押しやるかたちでくねりながら続いている。
 1年半前に取材したある家族の家は、「無許可建築物」としてこの1月、イスラエル当局によって破壊されていた。かつて訪ね、居間で主人にインタビューしたその家は完全に瓦礫の山と化していた。
 再会したヌーマン村の村委員会代表ジャマール・ダラウイ(39歳)によれば、ヨルダン川西岸からこの分離フェンスのゲートを通って村に入ろうとする外部の者は、警備するイスラエル兵によって全て追い返されるという。ジャマールの母親は今、病気で重体である。ヨルダン川西岸の町や難民キャンプに嫁いだ娘たちがその母親の見舞いと看病のために村に入ろうとしても許可されなかったほどだ。
 かつてはヨルダン川西岸側の町から、業者がトラックで村人の生活に不可欠なプロパン・ガスを運んできた。しかし今はこのトラックさえ村に入れず、村人が自ら車で近くの町から運び入れるしかない。一方、ゲートで検問する兵士は住民の車で運ばれるプロパン・ガスをみつけて、「どうしてこんな危険なものを車で運ぶのか」と平気で言うというのだ。
 村人が飼う羊に予防注射が必要となり、ヨルダン川西岸の町から獣医を呼ぼうとした。しかしゲートのイスラエル兵がその獣医の村への立ち入りをどうしても許可しなかった。兵士と村人たちの押し問答の末、出た妥協案は、羊を分離フェンスの外へいったん連れ出し、そこで待機する獣医が予防注射を済ます。その後、再び羊をゲートから村側に戻すというものだった。
 こういう状況だから、私たち外国人がベツレヘム方面から車でこの村に向かうとすれば、どういうことになるか簡単に想像がつく。ましてや私のようなジャーナリストに、この村の実態を取材され報道されることは当局にとっておもしろくないことにちがいない。猛暑の中、あえて息を切らして坂道を登らなければならなかったのはこのような事情のためである。
 しかし万が一、イスラエル兵に歩いて村へ向かうところを発見されても、私には何のやましいところもない。私は、エルサレム地区へ入ることを禁止されている「ヨルダン川西岸住民」でもなく、“ゲットー化された村”を取材するのはジャーナリストとして当然の行為だからだ。

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