Webコラム

レバノン戦争はイスラエルをどこへ導くのか

――「勝てなかった戦争」への市民の声

(以下の文章は、 『論座』2006年11月号 に掲載された「レバノン戦争:『勝てなかった戦争』はイスラエルをどこへ導くのか」の原稿です)

 レバノン戦争の停戦から1ヵ月半。あの戦争はイスラエル社会に何をもたらしたのか。「勝てなかった」イスラエルは「ヒズボラ殲滅」のために再び動き出すのか。停戦直後のイスラエル市民の声からその答えをさぐった。

遺族や兵士の家族の声

 レバノン停戦発効から11日が経った8月25日、エルサレムにある戦没者墓地の一角、ゴルダ・メイヤ元首相の墓石の前に100人ほどの市民が集った。1ヵ月続いたレバノン戦争で戦死した兵士の遺族や参戦した予備役兵士たちである。戦死者たちを追悼する歌が流れると、遺族たちは目頭を押さえ、抱き合い慰めあった。ゴルダ・メイヤは1973年の第四次中東戦争(「ヨム・キープル戦争」)当時の首相で、その戦争に「苦戦し勝利できなかった」責任をとって辞任した。このセレモニーは、同じように「勝利できなかった」(「敗北した」という声さえある)レバノン戦争の責任をとってオルメルト現首相は辞任すべきだという抗議デモだった。
 参加者の1人サリ(27歳)は、まもなく21歳になるはずだった弟を5週間前にレバノンの戦場で失った。

 「弟は戦闘兵士を志願して軍隊に入り、戦死することも覚悟していました。祖国を守るためです。
私もこの戦争は支持しました。イスラエルが敵のヒズボラから攻撃されたのですから。国民の安全が脅かされたのです。攻撃されて何もせず、ただじっと座しているわけにはいきません。
 しかし、政府は、何一つ成果をあげることもなく、この戦争を中断してしまいました。戦争を“完了”することなく、オルメルトは停戦を決断しました。“完了”させるガッツがなかったのです。私は弟の死をまったくの無駄死にしたくないのです。弟は、イスラエル国民が他の国々の人々と同じように平和に安らかに暮せるようにするという、素晴らしい目的のために死んだのだと納得したいのです」

 同じく集会に参加したワヘル(50歳)は、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地で暮す4人の子どもの母親である。うち3人が兵士として今回の戦争に参戦した。

 「私たちは戦争を支持しました。拉致されたイスラエル兵たちを取り戻すために戦争に踏み切ったのですから。私たちにとって国民1人ひとりが大切なのです。幸い私の3人の子どもたちは無事帰還しました。しかし158人の兵士は帰ってきません。しかしそれでも、この戦争は目的を果すまで続けるべきでした。158人の兵士の命は私たちが目的を果すために支払うべき代償です。しかし私たちが望んだものは何一つ手に入らなかったのです。私たちは今、もっと適切な指導者を求めています。『停戦要求にノーと言い、国民が納得するまで続ける』と言えるリーダーをです」
 「もちろんオルメルト首相にはアメリカ政府の圧力はあったでしょう。しかし彼はそれに対して毅然と、『闘っているのはアメリカの兵士ではなく、私たちの兵士なのだ』と主張し跳ね除けるべきでした」

 この2人に、イスラエル軍の攻撃でレバノンの一般市民1200人近いが殺害され、約4000人が負傷した現実をどうとらえているのか訊いた。

(サリ)「ヒズボラが戦争を始めるとき、彼らは多くのレバノン国民が犠牲になることはわかっていたのです。ヒズボラはとても巧妙です。彼らは民間人が暮す街や村から攻撃してきます。そのとき、どうしますか。ただ座して何もしないわけにはいきません。私たちは反撃するしかない。自分たちを守るために何かをしなければならないのです」

(ワヘル)「ヒズボラは村の農民の家に侵入し、『俺たちはここからイスラエルを攻撃する。もし抵抗すればお前たちを殺す』と脅すのです。ヒズボラは民間人を利用している。利用できるものは何でも使うのです。レバノンの一般市民が殺されているのは、国民がヒズボラと闘えないからです。彼らはヒズボラに対して、『ここからイスラエルを攻撃するのを止めろ!もし戦いたければ、シリアに行け!』というべきだったのです。でも住民は弱すぎて、それができない。だから我われイスラエルがヒズボラと闘わなければならないのです」

 今回のイスラエルによるレバノン攻撃の発端となったのは7月12日、イスラエル北部、レバノンとの国境地帯をパトロール中のイスラエル軍兵士の車輌がヒズボラに攻撃され、10人近い兵士が死亡、2人が捕虜となった事件だった。イスラエル政府にはこの戦争の目的が3あった。1つは捕虜となったイスラエル兵の奪還、2つめは南レバノンにヒズボラを排除した「安全地帯」を作ること、3つめはシリアやイランによるヒズボラへの軍事的支援を断つことである。
 一方、中東専門家の間では、イスラエルのこの戦争は、アメリカ政府 が描く“新しい中東” 構想の実現の一環なのだという見方もある。つまり「反テロ戦争」の名目でイスラエルを先兵に「シーア派テロリスト集団」ヒズボラを攻撃する一方、アラブ全体にシーア派とスンニ派の対立、シーア派国家・イランへの反発を煽る。それによってアメリカによるイラン、これに同調するシリア対する戦争の布石を打ち、最終的には“アメリカ中心の中東”を作り出す。今回のレバノン戦争はその“大計画”の手始めなのだという捉え方である。しかし、少なくともイスラエルの国民の間には、自分たちがアメリカ政府の「大計画」の“駒”として戦争に踏み切ったという意識はない。

予備役兵たちの反乱

 停戦直後から、国民の間に、この戦争を指導した政府や軍の上層部への不満と怒りが噴出した。なかでも前線で、食料や水、また弾薬など装備の不足に苦しみ、一貫性のない軍上層部の指揮・命令に翻弄されて多くの戦友を失った予備役兵たちの怒りは大きかった。その象徴の1つが、エルサレムの首相官邸前に建てられた予備役兵たちの抗議テントである。18歳から3年間の兵役を終えたイスラエル国民の男性は、51歳まで毎年1ヵ月ほど兵役につく。彼らは予備役兵として戦争の緊急時に招集され、イスラエル軍の重要な一角を担う。
 抗議テントでの集会に参加していた予備役兵の1人、アオン(33歳)は電子関係の技術者だ。

 「戦争があり、国を守るために兵士として動員されれば、いつでも戦場へ行く用意はあります。このデモは戦争に反対するデモではないのです。イスラエルは自己防衛の権利があります。テロ組織が好きなようにイスラエルを攻撃することを許すことはできません」
 「この戦争は勝てる戦争でした。しかし多くの兵士が負傷し、殺されました。オルメルト首相やハルーツ参謀総長(軍の最高責任者)は多くの兵士たちを戦場に送ったが、作戦が混乱し適切に指揮できなかった。前線の部隊に『前進せよ』と言ったかと思えば、すぐに『撤退せよ』という。前線の兵士たちは混乱してしまった。私自身、自分は何をしようとしているのか、軍上層部は私たちに何をさせたがっているのがわからなかた。指導者たちは部隊に適確な指令を出せなかったのです。
 戦争が終わっても自分たちが望んだものは何も手に入らず、オルメルトが目指した使命は何も果せませんでした。私の部隊でも友人が戦死しました。私は、その友人は無意味に死んだと思っています。だから、我われはこの戦争を指揮した者たちへに抗議しているのです。オルメルトもハルーツもこの責任をとって辞任すべきです」

 この予備役兵たちにも、レバノンの一般市民の犠牲をどう見るのか質問をぶつけると、次のような答えが返ってきた。

 「気の毒だという気持ちはあります。でも、レバノン政府がヒズボラをきちんと管理せず、国内でヒズボラに好き放題にさせたことが問題です。ヒズボラは女性や子どものいる場所からイスラエルへミサイルを撃ち込んだのです。ヒズボラにイスラエルへの攻撃をさせ続けるわけにはいかない。市民が殺されたことは私たちの責任ではない。レバノン政府の責任であり、ヒズボラの責任です」(アオン)

 イスラエル軍は一般市民の犠牲を最小限にする努力をしたのだと主張する予備役兵もいた。

 「イスラエル軍は爆撃する前にその地域のレバノン人住民に、『我われはあなたたちを傷つけたくない。避難しなさい』とビラを投下して勧告しました。我われは住民のことを気にかけていたからです」(シャイ・33歳/教師)

 だが彼らは、イスラエル軍によって道路や橋が破壊されて住民の避難が困難であったこと、また村に残った住民は、避難の手段も経済的な余裕もなく、逃げることができなかった実情を知らない。

一般市民の声

 では一般のイスラエル市民はこの戦争をどう観ているのか。8月下旬、私は、エルサレムの繁華街で通行人、数人に街頭インタビューした。だが、返ってくる答えは、前述した遺族、予備役兵の意見とほとんど違いはなかった。全員がこの戦争を「ヒズボラの攻撃に対する当然の反撃」として支持し、「ヒズボラを殲滅し、『拉致』されたイスラエル兵を奪還するという戦争の目的を最後まで果すべきだった」と答えた。そして戦争の指揮を誤ったばかりか、目的を果さず停戦に応じたオルメルト首相や軍の上層部を強く非難し、大半が「辞任すべき」だと主張するのである。
 一方、レバノンの一般市民の犠牲についても、「ヒズボラが民間人を“人間の盾”につかったから」といった趣旨の答えばかりで、イスラエル軍の責任に言及する声は皆無だった。
 それは世論調査によっても裏付けられる。イスラエル軍の攻撃開始から3週間近く経った7月31日から8月1日にかけてテルアビブ大学が行った世論調査によれば、ユダヤ人市民のうち93%がこの攻撃を支持、「正当化できない」と答えたのは5%に過ぎない。またレバノンのインフラを破壊し多くの民間人の犠牲を出したイスラエル軍による空爆も、91%が「正当化できる」と答えている。

この戦争が生み出すもの――識者の分析

 このようなイスラエル社会の空気の背景は何なのか。これからイスラエルへどういう方向へ向かおうとしているのだろうか。イスラエル国内で「戦争 ―反対意見―」というタイトルの特別号を発行した雑誌『内側からのニュース』編集長セルジオ・ヤヒニに訊いた。
 ヤヒニはイスラエル国民の「興奮を伴った戦争支持」の背景には、1993年の『オスロ合意』以後、入植地問題、ガザ入植地の撤退問題など国民の世論は大きく割れ、イスラエル国民が一つになる機会が長くなかったことがあると指摘する。「今回の戦争はその“国民の一体感”“団結”を取り戻す絶好の機会となった」というのだ。それを可能にした第一の理由は、今回の戦争には『正当性』があると大半の国民が考えていることである。「イスラエルは数年前に撤退し占領地でもない南レバノンから突然攻撃を受けた。これに報復するのは当然というわけです」
 ヤヒニが挙げる第二の理由は、左派勢力がすでに壊滅状態にあったことだ。「オスロ合意」の崩壊とパレスチナ人の第二次インティファーダ(民衆蜂起)は、左派の間に「イスラエルの『寛大な和平の提案』にパレスチナ人は暴力で応えた」という失望感と反発を生み、左派の無力化または右傾化を促す結果となった。それが今回の「国民の団結」をより容易にしたとヤヒニは分析する。実際、今回の戦争で、当初から反戦運動に立ち上がったのはアラブ系イスラエル人や国家の基本理念であるシオニズムに反対する一部のユダヤ人だけだった。
 一方、ヤヒニは、「この戦争の結果、与党『カディマ』など中道勢力が崩壊し、それに代わって右派が台頭しつつある」と指摘する。ヨルダン川西岸からのパレスチナ人の追放を主張するリーベルマンら極右政治家や、西岸からのユダヤ人入植地撤退に反対する勢力が前者の“代替の勢力”になりつつあり、「これはイスラエル社会にとって、とても危険な兆候です」と言う。
 この戦争は、イスラエルにどういう教訓をもたらしたのか。一部の左派知識人の中には、『この敗北によって国民は『武力では問題を解決できない』という教訓を得た』という声もある。しかしヤヒニは「その分析は間違っている」と言い切った。

「むしろこの戦争が次の戦争の始まりになると私は見ています。軍の上層部のみならずメディア全体も、この戦争で勝利できなかった原因を“技術的な問題”に矮小化しようとしている。今回の戦争で面目を潰された『中東最強の軍隊』イスラエル軍は、その名誉を回復するために必死になっています。『勝利できなかった』戦争で受けた屈辱を払い、その能力を証明するためには、次の戦争しかないのです。一方、もしこの戦争で勝利し当初の目的を果たしていたら、事態はさらに悪化していたでしょう。自信過剰になったイスラエルは、次はシリア、イランの攻撃と突き進むことになっていたかもしれないからです」

 私がインタビューした予備役兵や市民の多くが「この戦争は勝てる戦争だった。ただ指導者たちの指揮が誤っていた。十分な準備を整えて戦争を“完了”すべきだ」という認識で一致していた事実は、このヤヒニの分析を裏付ける象徴的な一例である。
 一方、インタビューをしながら私の中に膨らんできた疑問──「カノ村での民間人殺戮に象徴される軍による残虐行為に、なぜ、イスラエル市民はこうも無感覚なのか」という問いに、ヤヒニは「多くの犠牲を出したイスラエル社会は、レバノンで実際に何が起こったのかを知らないし、また知りたがらない。レバノンでの現実を無視し見ないようにしているのです」と答えた。

 「国内のテレビは、アラブの衛星放送が伝えたような子どもや女性たちの遺体が瓦礫の中から取り出される映像はまったく流さなかった。BBCやCNNでその一部を見ることはできても、そのような海外メディアの報道を国内のメディアは『“反イスラエル”“反ユダヤ主義”の傾向の強い海外メディアのいつものプロパガンダ』と非難し無視したのです。またアメリカでも保守派が、『アラブ側が伝える映像は、捏造され細工が施された“虚偽の映像”』と宣伝し、国民がそのような事件を無視するのを助長しています」

イスラエル人の“心の鎧(よろい)”

 しかしこの情報化社会で、「レバノン人住民の被害実態を知らない」というのは納得しがたい。その私に元エルサレム市議会議員、メイル・マーガレットは「国民は事実を知ってはいるが、“痛み”を感じないのだ」と説明した。彼の父親はポーランド出身で、家族の大半をホロコーストで失った“生存者”の1人である。
 では、 “痛み”を感じないようにイスラエル国民が“心に鎧(よろい)”をつけているとすれば、その“鎧”は何なのか。

「1つは “ホロコースト・メンタリティー”です」とマーガレットは言う。「自分たちユダヤ人はあれほど悲惨な被害を受けてきたという被害意識が、他者への加害に対して“免罪符”となっています。自分たちは史上最悪の残虐を受けてきた最大の犠牲者なのだという意識が、自分たちが他者に与える苦しみへの“良心の呵責”の感覚を麻痺させているのです」

 もう一つ、 “鎧”を作り上げる転機としてマーガレットが挙げるのが1967年の第3次中東戦争である。

「以前もイスラエルが戦争などでアラブ人の一般住民を殺戮することはあったが、まだそのことへの“良心の痛み”を持ち続けていた社会でした。しかしこの戦争によってイスラエル人は変わってしまった。それまでユダヤ人はホロコーストに象徴されるように、“いつも迫害され虐殺され続けるひ弱で、貧しい民族”という自己イメージを抱え続けてきた。しかしこの大勝利で、突然、広大な領土と絶大な権力を手にした。“脆弱なユダヤ人”だった国民は、その新たな現実に、自分を見失ってしまったのです。それはやがて“過剰な自信”となり、信じられないような傲慢さと横暴さを国民の心と社会に生み出していったのです。それは抑圧され続ける“ひ弱なユダヤ人”の歴史の反動ともいえる現象でした」

 レバノン戦争に限らず、占領下のパレスチナ人の過酷な状況にも、イスラエル国民が驚くほど無知であり無感覚であることは、現地を取材しながらいつも痛感することである。情報がないわけではない。有力紙『ハアレツ』記者、アミラ・ハスやギデオン・レヴィらは現地から占領下の実態を伝え続けている。しかし多くの国民は「自己を嫌悪するユダヤ人」の宣伝記事として無視する。その背景には、マーガレットが指摘するようなイスラエル人独自の歴史があるのかもしれない。しかし、それはイスラエル人に限ったことではない。9・11の悲劇を世界に訴える一方、イラク戦争と占領に象徴される自国の加害には触れたがらないアメリカ国民や、北朝鮮のミサイル問題や拉致問題など“日本の被害”を強調する一方、“日本による過去の加害の歴史”を無視し封殺しようとする私たち日本人の深層心理に共通するところがあるように思えるのである。

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