Webコラム

日々の雑感:故郷の同級生の死

2007年1月3日(水)

 私が生まれ育った村は、佐賀平野のど真ん中、専業農家十数軒ほどの小さな集落だった。「だった」というのは、今はもう農業だけでは生活するのは難しく、農業以外の仕事で得る給与を主な収入源とする家庭が大半になってきたからである。
 人口数十人のこの村に、戦後8年経った1953年生まれの同級生は6人もいた。この村の戦後のベビーブームは8年後も続いていたのだ。
 小さな村だったから、夏の海水浴もバスを借り切り、村人総出で唐津の海岸まで出かけた。また四季折々の村伝統の行事で、その準備をし、主役を演じるは村の子どもたちだった。年長のガキ大将が陣頭指揮を取り、村の子どもたち全員が力を合わせ、嬉々としてその“重要な役割”のために駆け回り汗を流した。稲刈りが終わった切り株の広がる田んぼで、野球や鬼ごっこをやるときも、みないっしょだった。村の子どもたちはまるで兄弟姉妹のような濃密な関係の中で育った。
 高校卒業後、大半が村を離れて、佐賀県内外に就職または進学していった。しかし盆正月に帰ってきて、顔を合わせると、大人になってからも、幼い頃から呼び慣れた名、「敏邦ちゃん」「正子ちゃん」という具合に呼び合う。
 私の同級生の幼なじみ6人のうち1人は、村に残り、父親の農業を継いだ。今では、農業を辞めた他の村人たちの農地まで任され大型機械を使った大農業を営んでいる。また他の1人は学生時代、「新左翼」の学生運動に身を投じたが、その後、一転して小沢一郎の支持者になり、今では東京下町で政治運動をやっているという。2人いた女性の1人は保育士となり、嫁いだ近くの町で暮している。5人の同級生の中でもとりわけ親しかったのは、私の実家と隣り合わせだった「正子ちゃん」、江口正子だった。彼女は聡明で、学校の成績も優秀だったが、家庭の事情で大学進学はできないと判断したのだろう、自宅から通学できる商業高校へ進んだ。高校卒業の直前、私たち6人は今後、村を離れて、会う機会も少なくなるだろうと、私の家で小さいな送別会を開いた。お菓子とジュースでのささやかなパーティーだった。その時の写真が私の古いアルバムに残っている。まだ幼さを残しながらも、ちょっと大人になりかけた顔立ちの6人が私の家の前で並んでいる。
 その後、正子ちゃんは大阪のある銀行に就職した。しかし1年もしない間に、彼女は職場の先輩と恋仲になり、娘が安定した職に就けたことを喜んでいた父親の反対を押し切って結婚してしまった。彼女はすぐに銀行を辞め、夫の実家のある四国の街に移り住んだ。蒲団販売の家業は順調で、やがて2人の娘の母親となった。
 その後、私は浪人生活、学生生活、世界放浪、ジャーナリスト活動と国内外を転々としていたが、盆、正月にはときどき、心配ばかりかけている母に顔を見せるために帰省した。そのとき同じく里帰りしている正子ちゃんと会い、よく語り合った。高校時代はスラリと長身だった正子ちゃんの肢体は年を重ねるごとに横に広がってふっくらとなり、男の子の憧れの的だった中学、高校時代の面影は薄れていったが、その一方、2人の娘の母親となり、小さいながらも蒲団販売店を切り盛りする女主人となった正子ちゃんは、腹が据わって貫禄がつき、何事も豪快に笑い飛ばす「肝っ玉母さん」になった。私たち2人の進む道はまったく違ったが、会うと幼いころの「正子ちゃん」「敏邦ちゃん」に戻り、昔と変わらず佐賀弁で、家族のこと、昔の友だちのこと、最近の生活や仕事のことを語りあったものだった。進学校だった私の高校の同級生たちが一流大学への進学、大企業への就職、結婚と順調に人生を駆け登っていくのとは対照的に、私は長い浪人生活と少年時代からの医者になる夢の挫折に苦しみ、やっと入った大学も、世界放浪などで、卒業までに7年もかかり、卒業後は定職にもつけず、40歳を過ぎても家庭も持てないでいた。そんな落ちこぼれの私は、優等生の同級生たちへの劣等感にずっと悩んでいた。しかし、幼なじみの正子ちゃんの前では、構える必要もなく、“裸の心”を曝け出すことができた。
 6年前、私の母とほぼ時期を同じくして正子ちゃんの父親も他界した。その年の夏の初盆で、両家とも精霊流しの小船を近くの有明海に放った。2つの精霊船が寄り添うように、沖に流れていくのを見つめながら、「亡くなってからも、あの2人は隣同士やね」と正子ちゃんが言った。その時の正子ちゃんの表情と声が6年経った今も私の記憶に鮮明に残っている。母を亡くし、故郷との太い絆を断ち切られた私は、盆、正月にも故郷にほとんど帰らなくなった。正子ちゃんと故郷で会う機会もほとんどなくなった。
 そしてこの正月、久しぶりに実家に帰った。故郷で農業を続ける兄と母の墓参りをした帰り道、兄が突然、思い出したように私に言った。
 「そう言えば、正子ちゃんが死んだぞ」「えっ!」。私は絶句し立ちすくんだ。
 「いつ?」「もう2週間になるかな」「どうして?」「癌やったらしか」。私はしばらく歩けなかった。
 私は中学時代から正子ちゃんと親しかった中学時代の同級生、諸田龍男に急いで電話を入れた。彼は去年の正月、帰省した正子ちゃんと会っていた。その時、彼女から病気であることを聞かされていたが、それが末期の癌であることは知らされていなかった。私から正子ちゃんの死を知らされた諸田は、電話口で絶句した。
 あわてて車を飛ばしてやってきた諸田と私は、隣の正子ちゃんの実家を訪ねた。彼女の家には2人の姉がいた。正子ちゃんは3姉妹の末っ子だった。一番上の姉が婿を迎えてこの家を継ぎ、看護師となった次姉は、隣の県で家庭を持っていた。2人の姉は正子ちゃんが死に至るまでの経緯を語った。
 平穏に見えた正子ちゃんの四国での結婚生活は二十数年後、崩壊した。2人の娘が成長し結婚したのを機に、彼女は離婚を決意した。家庭問題や家業の心労のためか、正子ちゃんは急激に痩せていった。血液検査の結果、赤血球が急減したことを正子ちゃんら電話で聞かされた看護師の次姉は、すぐに胃の検査を受けるように諭した。その結果、胃癌の末期であることが判明。即、入院することになった。手術で、胃全体を摘出したが、すでに他の内臓に転移していた。医者は「余命半年」と宣告した。
 しかし正子ちゃんの生命力は医者も驚くほど強靭だった。「余命半年」の予想を超え、3年間持ちこたえた。死期を悟った正子ちゃんの故郷への郷愁は抑えがたいほど高まっていった。昨年の正月も病気を押して帰省した。すでに、進行する癌と抗癌剤の副作用で、「肝っ玉母さん」の身体は痩せ細り、衰弱し切っていた。それでも、中学時代、正子ちゃんに思いを寄せいていた諸田が訪ねてくると知ったとき、抗癌剤で髪が抜けた頭にかつらを被り、やつれた表情を隠すため、長時間かけて入念に化粧した。別れ際、諸田がお土産にとプレゼントしたお茶碗を、正子ちゃんは後生大事に四国へ持ち帰ったという。その話を長姉から初めて聞かされた諸田は、ぼろぼろと涙を流して泣いた。
 正子ちゃんの母親は、病気の悪化で入院していたが、一昨年亡くなった。その母親の死の1周忌に当たる昨年夏、正子ちゃんの病状は、もう長時間座っていることもできないほど悪化していた。それでもどうしても故郷へ帰りたいと嘆願する正子ちゃんのために、娘がワゴン車に蒲団を敷いて寝かせ、四国からフェリーを乗り継いで母親を故郷・佐賀の村まで運んだ。正子ちゃんは義兄に背負われて、両親が眠る墓に参った。その時、彼女は「次は私がここに眠ることになるね」とつぶやいたという。
 12月の中旬、正子ちゃんは危篤状態に陥った。
「もうこれ以上、痩せようがなかと思うほどガリガリに痩せて、見ておられんかった」。死の直前に見舞った次姉がその時の彼女を様子を語ってきかせた。
 「『ここまで、ようがんばってくれたね。もうよかよ・・・』と正子に声ば、かけたとよ・・・。正子は最期まで、『佐賀に帰りたか』って言うてね・・・」。

 四九日が過ぎたら、「江口」姓に戻った正子ちゃんの遺骨は、彼女が一番帰りたかった故郷の墓に埋葬される。

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