Webコラム

日々の雑感 13:「愛国心」の中身をあいまいにした世論調査

2007年2月14日(水)

 2月12日付け『朝日新聞』朝刊の「私の視点」に「歴史認識と愛国心─国民の感覚を大事に」というコラムが掲載された。筆者は東大教授(国際法)、大沼保昭氏。読み終えて、後味の悪い違和感が残った。
 大沼氏はこう主張する。

 まず大沼氏は世論調査で問われた「愛国心」という言葉のあいまいさ、回答者のもつ「愛国心」の概念の多様性をまったく無視している。この世論調査が掲載された紙面に紹介されている国際大学研究員の鈴木健介氏も「愛国心は大きく2種類あると思う」と指摘している。「(一つは)生まれた場所を肯定する愛郷心的なものと、(もう一つは)市民として義務を伴うものだ。前者は『この国が好きだ』だという程度の、後者は『好きだけでは困る。例えば兵役のような何らかの義務も負うべきだ』という考えだ」というのである。
 世論調査の結果にある78%の「愛国心がある」という人たちの多くは「愛郷心」と捉えているのではないか。そう思わせるのは、同じ世論調査で「外国の軍隊が攻めてきたらどうするか」という質問に、「戦う」は3人に1人、半数以上は「戦わない」と答えている結果だ。政府や権力者たちが、今やっきになっているのは、漠然とした「愛郷心」ではなく、兵役など「義務」を引き受ける「愛国心」、もっとはっきり言えば、「国家のための犠牲」を引き受ける「愛国心」を持つ国民を育てることだ。公教育の現場への「日の丸・君が代」の強制はその象徴的な例だろう。しかしその本性を一気にさらすと、戦前のような時代に強い反発とアレルギーを持つ国民がまだ少なくない今の日本社会ではすんなりとは受け入れられない。そのことを熟知している政府と与党は、昨年12月に改悪した新「教育基本法」のなかで、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する(中略)態度を養うこと」という表現を使い、「国家のための犠牲を引き受ける愛国心」を「愛郷心」という庶民に受け入れやすい概念に忍び込ませて義務化していこうとする。
 大沼氏は、そのような政府・権力当局の狙いを重々承知の上で、それを国民の目から覆い隠そうとしてこのような論を張るのだろうか。東大で国際法を教えるほどの知識人が、その程度のことに気付かないはずはないだろうから。
 何よりも解せないのは『朝日新聞』の世論調査の仕方である。「日本を代表する新聞」と自負するこの新聞社の担当者が、「愛国心」という言葉のあいまいさに気付いていないはずがない。ならば、なぜこの世論調査の前提となる最初の質問に「あなたにとって『愛国心』とは何ですか」「『愛国心』という言葉で何をイメージしますか」という、『愛国心』の概念・定義に対する問いかけが真っ先にないのか。「いやそのことはちゃんとわかっていますよ。だから鈴木氏にそのことを語らせているではないですか」と『朝日』側は反論するかもしれない。しかし、その「意図」は世論調査の結果の数字にはまったく反映されないだ。調査に応じた人々にはそのことは問いかけられていないのだから。そして「8割が愛国心を持つ」という「事実」だけが強調される。

 「愛国心のある人ほど(アジア諸国への侵略や植民地支配に対して)反省する必要があると考える傾向が強い」と大沼氏は言う。実際、『朝日』の紙面にも、「愛国心強いほど『反省』」と大きな見出しが躍る。しかしこれも実にあいまいな「事実」だ。強い愛郷心をもつ私も『朝日』の世論調査によれば、「愛国心を持つ国民」に分類される。そして私は、日本の“被害”だけが強調され、それによって“加害”の歴史が覆い隠されている昨今の動きに強い危機感を抱いているから、「アジア諸国への侵略や植民地支配に対して反省する必要があると考えている」1人である。だから新聞の見出しの「正しさ」を証明する典型的な一例となるのだろう。
 しかし、ここでも「愛国心」の概念の違いによってその数字が大きく変わってくる。「国家のための犠牲を引き受ける」ことが「愛国心」と捉え、それを推進していこうとうする勢力が、果たして日本の過去の加害を「反省する必要がある」と考えるだろうか。彼らが「国家のために犠牲を引き受ける」ように国民を誘導していくためには、その国家は「美しい国」でなければならず、“加害の歴史”という“汚点”があってはならない。かつて「愛国心」という美名の下にアジア諸国への侵略を正当化し推し進めてきた過去の歴史を国民が記憶に留める限り、再び「愛国心」を煽り立て「国家のための犠牲を引き受ける」国民は育てることはできないことを、彼らは一番よく知っている。「新しい歴史教科書をつくる会」が日本の加害の歴史を伝えることを「自虐史観」として糾弾している現実、日本の加害の歴史を否定し、「日の丸・君が代」を教育現場に強要し「愛国心」を称える特攻隊の映画まで制作する石原都知事の言動、NHK番組改ざん問題で「元日本軍『慰安婦』問題」に関する番組への自民党幹部による干渉の疑いがNHK内部の証言から次々と明らかになっている現実がその象徴的な例である。
 ジャーナリズムの現場をわずかでも知る者なら、今、南京虐殺や元日本軍「慰安婦」問題、731部隊の生体実験などに象徴される日本の加害歴史の報道がどれほど困難であるか身にしみて知っているはずだ。たとえ現場の勇気ある記者やディレクターたちが報道にこぎつけたとしても、それに対する読者や視聴者や団体、また当局から抗議や恐喝などありとあらゆる圧力が加えられるのが現在の日本メディアの現状なのである。
 大沼氏は「外国のメディアは、日本の政治家の妄言やナショナリズムを誇大に報道しがちだ」と言うが、「政治家の妄言」は単なる一部の突出した右翼政治家の意見ではない。その背景には日本の加害の歴史を否定する現在の日本社会の空気がある。「妄言」はそれを象徴する氷山の一角に過ぎない。学校の教科書から「元日本軍『慰安婦』」問題など日本の加害の歴史に関する記述が次々と消され、学校現場で教えられなくなっているのもその一例である。また逆に、加害の歴史の事実が学校現場で教えられず、メディア報道からも隠されようとする現状では、そういう空気が生まれるのは当然だろう。元日本軍「慰安婦」に関する番組を放映すれば、視聴者から「あの『売春婦』たちの嘘をなぜ公共の電波を使って流すのか」といった抗議の声が殺到するのが今の日本社会なのである。外国のジャーナリストたちは、その日本の現状を現場でつぶさに観察し熟知している。日本を代表する大学で教える立場にいる者がそれを「誇大な報道」と言い切ってしまうとすれば、足元の現状さえ認識できない「知識人」として外国人ジャーナリストの笑い者になってしまうだろう。

 それにしても、この現実を無視し、「愛国心」という言葉の中身を吟味することもなく「愛国心のある人ほど反省する必要があると考える傾向が強い」と言い切る論調に私は頭をかしげてしまう。と同時に、背後にその方向に世論を操作しようとする意図があるのではないかとさせ勘ぐってしまう。
 大沼氏は「(前略)8割が愛国心をもつと考えているのは至極まっとうな感覚である。それを『愛国心が復活して日本は戦争への道を歩んでいる』などと解釈するとしたら、そうした解釈の方に問題がある」という。しかし前述したように、「愛国心」という言葉の危うさを考えると、大沼氏のこのような見方にこそ「問題がある」ように思える。
 世界での過去の戦争を分析した精神科医、中井久夫氏はエッセイ『戦争と平和についての観察』の中でこう書いている。

「戦争への心理的準備は、国家が個人の生死を越えた存在であるという言説がどこからともなく生まれるあたりから始まる。そして戦争の不可避性と自国の被害者性を強調するところへと徐々に高まっていく」

 為政者たちが「愛国心」「国に奉仕する国民像」を声高に叫び、北朝鮮の「拉致問題」「核実験問題」を前面に打ち出して“被害国・日本”像をマスコミを取り込んで喧伝する現状を目の当たりするとき、私にはこの中井氏の分析が大沼氏の見方よりはるかに現実味と説得力があるように思えるのである。

 たしかに日本という祖国に“愛郷心”を抱きながら、日本の加害の歴史に反省をする必要を痛感する人は少ないないだろう。いや“愛郷心”を抱くがゆえに反省を痛感する人もいるはずだ。しかし問題は、国の行方を決定する、またはそれに大きな影響力をもつ権力者たちの中に、国民の間に「国家のための犠牲を引き受ける愛国心」を推進し、そのために「汚点である加害の歴史」を覆い隠そうとする傾向があることだ。その動きを監視し警告を発していくこそのが見識あるジャーナリズムやアカデミズムの大きな任務の一つであるはずだ。

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