Webコラム

日々の雑感 17
パレスチナ・2007年 春 3

2007年3月26日(月)
“占領”を告発するイスラエル人

 元エルサレム市議会議員で、現在、イスラエルによるパレスチナ人家屋破壊を調査・報告するNGOで活動するメイル・マーガリットと昨日、半年ぶりに再会した。現地に戻ってきて、必ず訪ねる数少ないイスラエル人の友人の1人だ。いつも満面の笑顔と抱擁で迎え入れてくれる。欧米流の「個人主義」の意識が強く、見知らぬ他人との人間関係に壁を作って一定の範囲内に迎え入れることを拒み、 “冷たい”とさえ感じさせる多くのイスラエル人の中で、“無防備”に両手を挙げて暖かく迎え入れてくれる稀有なイスラエル人だ。彼と会うと、その暖かい人柄にほっとする。
 前回の取材で、レバノン戦争に対するイスラエル人の反応について訊いたとき、メイルは初めて家族の“ホロコースト体験”を語ってくれた。出会ってもう7年近くになるが、彼の“占領”に反対する活動の原点に“ホロコースト体験”があったことを、そのとき私は初めて知った。ホロコースト生存者である父親からの“遺産”は、『人種差別を決して許してはいけない』という信念であり、それこそが、自分がイスラエルの“占領”と闘い続ける原点であることを彼は目に涙を浮かべながら語った。決して流暢な英語ではないが、言葉を選びながらとつとつと発するメイルの語りには、彼の誠実さ、信念に忠実に生きる、凛とした生き方がにじみ出ている。優しい彼の目もその心のありようを表しているようだ。

 今日は、オランダの国会議員らをエルサレム周辺のユダヤ人入植地や分離壁に案内するメイルに同行した。1997年ごろ、東エルサレムの一角にユダヤ人入植地の建設計画が持ち上がり、故ファイサル・フセイニ氏やハナン・アシュライウイ氏ら当時のパレスチナ人指導者たちが先頭に立って反対運動を展開していた地区である。現在、すでにその入植地は完成していた。そこからユダヤ人墓地を隔てた1キロほど先のオリーブ山の中腹にある民家を指差し、メイルが言った。

 「あのパレスチナ人の家がつい最近、ユダヤ人入植者に買収されていたことが判明しました。パレスチナ人の家主は、まずパレスチナ人の『イスラエル協力者』に売却しました。同じように、何人かのパレスチナ人の『イスラエル協力者』を経て、最終的にユダヤ人入植者に買い取られたんです。結局、家主は『ユダヤ人に土地を売った』というパレスチナ人社会のタブーを侵したとして殺害されました。その家主は『イスラエル協力者』に売った段階で、それが最終的にユダヤ人の手に渡ることを知っていたという容疑です。しかし実際、知っていたのかどうかはっきりしません」

 メイルの説明によれば、この入植地とオリーブ山の中腹にある入植地予定地が将来つながり、その間にある東エルサレムと郊外に結ぶ道路は切断され、東エルサレムのパレスチナ人地区は分断されてしまうという。このようにして“エルサレムのユダヤ化”は、国際社会が気付かない間に着々と進行している。
 メイルは、さらに議員らをアブディスの分離壁に案内した。数年前まで、この道路は東エルサレムからアザリヤ村など郊外のパレスチナ人社会、さらに北部のラマラ市、南部のベツレヘム市、ヘブロン市、さらにヨルダン渓谷のエリコ市などとを結ぶ交通の要の道路だった。それが高さ10メートル近い高い壁で完全に遮られてしまった。
 90年代の後半、私はアザリヤ村のパレスチナ人の民家を借り、取材の拠点としていた。毎日、この道路を乗合タクシーで通っていたものだ。私がアザリヤ村を取材の拠点できなくなったのも、この分離壁の建設が進んでエルサレムへの行き来が困難になり、他の地域へのアクセスができなくなったためだった。かつて車が自由に行きかっていた周辺の光景が目に焼きついているが故に、目の前に立ちはだかる分離壁の衝撃も大きい。
 今、東エルサレムをヨルダン川西岸から切り離す分離壁はほぼ完成してしまったという。しかし日本のメディアでは分離壁のことをほとんど伝えなくなった。しかし分離壁の建設は日々進行し、パレスチナ人の生活への圧迫をいっそう強めている。それが“沸点”に達し、パレスチナ人がその絶望感と怒りを爆発させたとき、世界のメディアは一斉に「パレスチナ人のテロ」と騒ぎ立てる。あたかも何の理由もない、「血に飢えた残忍なパレスチナ人によるいつものイスラエル人惨殺」であるかのように。真綿でじわじわと首を絞められ殺されていく実態は、センセーショナルな「事件」の陰に置かれ、イスラエルの「セキュリティー」という名目の陰で見えなくされていく。

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