Webコラム

日々の雑感 28
パレスチナ・2007年 春 14

2007年4月8日(日)
職場を求めて入植地に群がる住民たち

 今朝は朝4時過ぎに起きた。ユダヤ人入植地に仕事に出る三男ジハードが出勤する様子を撮影するためだった。しかし外は半月の月明かりだけで、カメラを覗いても、真っ暗闇である。甘いお茶を飲んだジハードは、午前5時過ぎに迎えにきたパレスチナ人の車に乗り込んだ。車まで歩くジハードを後から追い撮影したが、映ったのは暗闇だけ。わずかに車のライトが像を結んだだけだ。
 夜が明け、あたりが明るくなった午前7時ごろ、アブ・アハマド一家や弟一家の子どもたち数人が登校のためカバンを抱えて家から出てきた。子どもたちの後を追った。小学校はこの家から4キロほど離れた場所にある。以前は幼い子どもたちも学校まで歩いていたが、今は通学バスで通っている。あるパレスチナ人バス会社のバスで、子どもたちは1ヵ月35シェーケル支払っている。アブ・アハマドの弟サイードには小学校へ通う3人の子どもがいるから、その交通費だけでも100シェーケルを超えてしまう。痛い出費だ。
 ジェリコとナブルスを結ぶ幹線道路の沿道に、小さな身体に不釣合いなほど大きなカバンを背負った十数人の子どもたちが集まってきた。7時半ごろ、バスがやってきた。パレスチナの他の地区でももう滅多に目にすることのないおんぼろバスだ。数十年は走り続けてきたにちがいない。子どもたちの後に付いてバスの中に入ると、車内いっぱいに子どもたちが詰め込まれている。「芋を洗う」とはこういうシーンを言うのだろう。通路も座席もない、ただ子どもたちの顔、顔、顔・・・。初めて観る日本人なのだろう、珍しそうに目を輝かせてカメラを構えた私をみつめる。「100人以上です」と運転手が私に言った。もしバスが衝突事故でも起したら、大惨事だ。
 20分ほど走って着いた学校は、新しい近代的な校舎だった。ゴルアルファラ小学校。国連UNRWAが運営する学校である。なぜUNRWAなのか。校長の話ではこの学校に通ってくるジフトゥリック村の生徒870人のうち約半数が難民の子だもたちなのだ。校舎は90年代なかばに日本政府の援助で完成した。

 学校のすぐ近くに自治政府系の診療所の建物がある。海外の援助が途絶え、政府の予算が枯渇して運営できないために閉鎖されたままだという。その横には「赤三日月社」のマークを掲げた小さな建物がある。ここも閉じたままだ。夜だけここに救急車が待機すると、同行した青年が説明した。救急患者が出た場合、この救急車で30キロ離れたジェリコ市内の病院へ運ばれる。救急車のいない昼間は、タクシーなどを使って患者を同じくジェリコまで運ばざるをえないという。
 その元診療所の隣に、ビニールハウスが3棟ほど建ち並んでいる。いたるところビニールは破れ、色の違う他のビニールであてがっている。野菜を栽培する農業用ハウスかと思った。しかしそれは、人が住む「家」だった。
 中から2人の青年が出てきた。1人はジェニン出身、もう1人はトゥバスの町からやってきた青年だった。なぜここに住んでいるのかと訊くと、ここで寝泊りして近くのユダヤ人入植地で働いているのだという。いわゆる出稼ぎ労働者で、このビニール造りの「家」はその宿舎だったのだ。
 「家」の中に入ると、10畳ほどの広さ、地面にビニールの敷物が敷かれていた。その上にいくつものマットレスがあり、人が抜け出たままの毛布が無造作に置かれていた。ここで8人ほどが寝泊りしているという。「壁」にはズボンやシャツがかけられ、「部屋」の隅には、プロパンガスのコンロやわずかな食器が並んでいる。「台所」である。「住居」というにはあまりにも貧弱で汚い。まるで家畜小屋だ。こんなところで何日も生活すれば、身体を蝕まれるだけではなく、精神的にも荒むに違いない。トゥバス出身の青年は、実家に戻るのは週に1度か、月に2、3度だけだという。
 なぜこんな生活をしているのかと訊くと、2人の青年は口をそろえるように答えた。
「ジェニンやトゥバスには仕事がないんです。入植地での仕事は日当5、60シェーケルで、確実に仕事にありつけますから」
 彼らの話では、ここで生活する数十人の青年たちの中にはナブルスやヘブロン、遠くはアカバ近くから仕事を求めてやってきている者もいるという。
 私がこれまで抱いてきた“占領の象徴─入植地”とはまったく違うイメージ、つまり“ありがたい職場”として 捉えているパレスチナ人がここにはいるのだ。そんな住民たちに、私たち外部の者が「あなたは間違っている。ユダヤ人入植地の意味、占領の先兵である入植地の危険性をあなたはわかっていない」と諭すのはやさしい。しかし安全で豊かな国で自由に暮らす私たち先進諸国の人間が、神のような位置に立って、家族の生活の糧を得るために必死に生きている現地の人々に「あなたは間違っている」などとどうしていえるだろう。
 私たちはまず、現地の住民がユダヤ人入植地に依存しなければ生けていけなくなっている現実、この構造を直視することだ。そして「豊かな国」で暮らす我われがその構造を変えていくために何ができるのか、何をしなければいけないのかをまず考える必要がある。「理屈」だけでは現場の住民たちには何の足しにもならないのだ。

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