Webコラム

日々の雑感 38
パレスチナ・2007年 春 24

2007年4月23日(日)
イスラエル人の“師”、ユリ・ピネス

 私はジャーナリストとして20年以上、“パレスチナ・イスラエル”を追い続けてきた。その取材の結果を、私はこれまで多くの雑誌記事や著書、そしてドキュメンタリー映像などで発表してきたが、そこで伝えてきた流れの“読み”は、大筋のところでは間違ってはいなかったという自負はある。それは私自身に特別な取材能力や深い洞察力があったからではない。ただ私には、複雑で混沌とした状況を読み解くために“道案内”をしてくれる貴重な“師”がいたからだ。パレスチナでいえば、ガザ在住の人権弁護士、ラジ・スラーニ。私が1年半にわたってパレスチナに滞在し取材を続けていた1985年に出会い、以来、友人として、また“師”として今なお私にとって最も信頼する “道しるべ”的な存在である。
 そしてイスラエルでいえば、ユリ・ピネス。彼と出会ったのも1985年で、場所はナザレ市だった。当時のナザレ市長は、著名なパレスチナ人詩人で、イスラエル国会議員でもあったタウフィック・ザイヤード。彼はイスラエル政府によるアラブ系イスラエル人の地方自治体への不公平な予算配分に対抗するため、毎年夏、イスラエル内だけではなく、当時のイスラエル占領地、そして欧米をはじめ世界中からボランティアを募り、彼らの力を借りてナザレ市のインフラの整備を進めた。
 その「ナザレ国際ボランティア・フェスティバル」は同時に、占領に反対するイスラエル人、占領と闘うパレスチナ人、そしてそれを支援する外国人たちが一堂に集う国際的な政治集会でもあった。1986年には、日本から歌手の新谷のり子さんも参加した。
 85年のその「ナザレ国際ボランティア・フェスティバル」に、「占領地での兵役拒否のために投獄された兵士」として参加していたのがユリ・ピネスである。期間中、“ボランティアの基地”となる地元高校の教室で開かれる講演会で、ユリは軍服姿のまま、その兵役拒否の体験を語った。その話をもっと聞きたくて、講演後、ユリに話しかけたのが知り合うきっかけだった。以来、私はイスラエルを訪ねるたびに彼と会い、イスラエルの現状と内情を訊くのが習慣となった。
 ユリは旧ソ連、ウクライナのキエフ市で生まれ育った。ユダヤ人で医者である両親の「アリヤ(帰還)」に同伴してイスラエルへ渡ったのは、15歳の時だった。やがてイスラエル共産党に入党し、政治活動に没頭していく。イスラエルの占領に反対する運動を開始したのもそのころだった。
 兵役拒否のために何度も投獄されたユリは、卒業するとヘブライ大学に入学し、中国の歴史と哲学を専攻した。彼は語学に関して天才的な能力を持つ。母国語のロシア語やヘブライ語はもちろん、パレスチナ人との会話にまったく不自由しないアラビア語、さらに英語、ドイツ語、フランス語も自由に使いこなす。その上に中国語も身につけ、日本語も会話はできないが、読める。
 語学だけではない。その頭脳明晰さは、イスラエル・パレスチナの政治や社会に関する彼の論理明快で核心を突く鋭い分析・解説からも容易に読み取れる。流暢な英語でよどみなく語られる、理路整然としたユリの解説を1言ももらすまいと、私はいつからか、彼と会うときは必ずテープレコーダー、後にはビデオカメラを持参するようになった。お茶を飲みながらの近況報告や世間話の中にも、私には貴重な分析や解説がちりばめられていて、聞き逃すことができないからである。その後、録音テープを聞きなおし、ユリの言葉の1節もらさず日本語に翻訳して、その内容を反芻する。そしてそれを手がかりにして、イスラエル社会の取材方針とその対象の狙いを定めていく。それが長い間、私のイスラエル取材のパターンとなった。
 ヘブライ大学生となったユリは、大学内に「カンポス」という学生運動組織を立ち上げる。アラブ人学生とユダヤ人学生とで構成されるこの学生運動グループは、占領地での兵役拒否など“占領”への反対運動、イスラエル社会におけるアラブ系市民への差別政策の糾弾など、イスラエル社会でも最も進歩的な政治スローガンを掲げた。ユリたちの精力的な活動は徐々にヘブライ大学でも支持を集め、学生委員会選挙でも多数の票を獲得するようになった。
 一方、90年代の初め、旧ソ連からイスラエルへのユダヤ人大量移民が始まると、ユリは新天地で途方にくれる旧同胞たちの救援活動に奔走した。
 政治・社会活動の中でも、学生の本業もおろそかにしなかった。彼の自宅の本棚には、孔子や孫子などに関する中国古典の原書がずらりと並んでいた。彼は日本人の私に、孫子の思想の深さにについて熱心に語った。イスラエル人から中国の思想家の解説をしてもらう。なにか奇妙な気分だった。その中国語原書の隣には、「安倍公房」「三島由紀夫」の本が並んでいた。
 やがて彼はヘブライ大学の大学院へ進学し、中国の歴史・哲学の研究者への道を歩み始めた。北京への留学などで、イスラエルを留守にすることが多くなったユリに会う機会も少なくなった。2003年秋にインタビュー(拙著『パレスチナの声、イスラエルの声』〔岩波書店・2004〕に収録)して以来、ユリとの連絡は途絶えていた。長い北京留学、アメリカ・プリンストン大学での研究などで長くイスラエルを離れていたからだ。
 今回も連絡が取れないだろうと半分諦めながらかけた電話に、彼が出た。1週間前に、ヘブライ大学での「中国・日本の歴史文化」に関する国際シンポジウムのために北京から戻ったばかりで、あと2、3週間でまたイスラエルを離れるという。まさに「奇跡的なタイミング」だった。私たちはヘブライ大学の近くで待ち合わせた。ほぼ3年半ぶりの再会である。もう40代中ばになったユリ。今や中国歴史の研究ではイスラエルの第一人者となり、秋にはヘブライ大学の教授に就任する予定だ。22年前、軍服姿で兵役拒否について語っていた20歳前後のユリが、今や大学教授・・・。時の流れを改めて実感する。
 東エルサレムまで歩き、パレスチナ人の経営するレストランでビールを飲みながら、ユリは最近のイスラエルの社会状況、パレスチナ・イスラエル情勢を語った。
 彼によれば、現在、表層的には一見落ち着いているように見えるが、今パレスチナ人の置かれている状況は、政治的にも経済的にも1948年以来、最悪の状態だろうという。イスラエルの支配はいっそう強化され、封鎖と分断、居住地域の包囲網によってもうパレスチナ人は生きていくことさえ困難な状況に追い込まれている。政治的にも、不能状態で、将来の希望はまったく持てない。一方、イスラエルの政治・社会も腐敗と退廃が蔓延し、この国から脱出したいと願う国民は日増しに増えている。和平のために国内で運動をしてきた左派の活動家たちも失望し、国外脱出する者も少なくない。
 昨年夏、ユリが一時帰国したとき、レバノン戦争が始まった。ユリは真っ先に「なんと愚かなことを」と思った。イスラエルは建国以来、82年までほぼ7年から9年ごとに戦争を体験してきた。イスラエル軍の将校たちや兵士たちも、実戦の中で否が応でも鍛え上げられていった。それでも82年の戦争では完全に“勝利”できなかった。あれからほぼ二十数年間、イスラエル人は戦争を体験していない。一方、イスラエル軍の兵士たちは、占領地でのインティファーダという新たな事態の中で、「民衆蜂起を鎮圧する“警察”部隊」としての役割を果すことを要求された。つまり今回の第2次レバノン戦争では、軍の指導層や将校さえ、戦争で実戦を体験した者はほとんどいない。ましてや“警察”部隊としての体験しかない兵士たちには戦争の闘い方を知る術もなかった。
 一方、イスラエル社会も大きく変化した。かつてのように社会全体が貧しい時代には、兵役後もイスラエル軍に残ることは生きていく手段でもあった。士気も高かった。しかし現在のイスラエル社会は、経済的に以前よりずっと豊かになり、価値観も多様化した。軍人として生きることは、それほど魅力的なことでもなくなった。当然、士気も下がる。まだ軍と兵士の実力も今よりずっと高かった20年前の第1次レバノン戦争さえ成功できなかったのに、現在のイスラエル軍の能力と士気の低さで、ヒズボラの台頭で以前よりも強大化したレバノンを容易に武力で叩き潰せると期待した政府首脳および軍幹部の愚かさをユリは嘆いた。

 ユリは現在、北京とエルサレムの2箇所に住居を確保している。基本的な生活の糧をヘブライ大学での教職で得て、講義のない残りの半年近くを北京での研究や、アメリカでの研究で過ごす生活だ。結婚はしていないが、イスラエルの歴史を研究する中国人女性と同棲している。政治活動家としてあれほどイスラエル・パレスチナの政治にコミットし、占領に反対し闘い続けてきたユリは、今、イスラエルの政治現実から逃避しようとしているようにも見える。それは現実に失望し逃避する「和平派」「左派」と呼ばれた人たちの今の姿を象徴しているように私には映るのである。

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