Webコラム

日々の雑感 62
パレスチナ・2007年 秋16

2007年11月13日(火)
ハマスによる“アラファト追悼集会”への弾圧

 UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の広報担当官ジャマール・ハマド氏が6月中旬以来の厳しい封鎖によるUNRWAの業務への影響を語ってくれた。要点は以下のような内容だった。
 ガザ住民の失業率はかつての45%から75%に上昇している。UNRWAの雇用促進計画も最低限の数字に留まっている。全住民(約150万人)の約80%に当たる120万人ほどがなんらかの支援に頼って生活している。食料の値段は急騰し(例えば1袋100シェーケルだった小麦粉が現在は180シェーケルに跳ね上がっている)、薬品、燃料、ガソリンなどがほとんど入ってこなくなった。ガザには約100万人の難民がいるが、彼らはUNRWAの食料援助を受け、難民以外の人は「国連世界食料計画(WFP)」の援助を受けている。
 UNRWAは現在、食料配給と以前にイスラエルによって家を破壊された住民のための住居建設に全力を尽くしている。しかし9300万ドル相当のさまざまなプロジェクトは資金難のために休止したままである。ガザのUNRWAはプロジェクトの遂行のため7000人のエンジニアを抱えているが、彼らは現在まったく仕事がない。このままでは彼らを解雇せざるをえない状況になるかもしれない。
 教育現場についていえば、UNRWAはガザ地区で214の学校を運営し、約20万人の子どもたちの教育を提供している。しかし封鎖によって紙不足となり、9月の新学期以来、生徒たちに教科書を提供できなかった。3ヵ月に入った今でも2教科の教科書がないまま授業をしている状況だ。
 一方、ガザからの工業製品や農産物の輸出は完全に止まってしまった。
 最高の質のいちごを生産することで有名なガザ北部では11月にその収穫期に入るが、これまでのようにガザ地区の外に輸出することはできない。そのため肥料や水、温室のビニール代などこれまでかかった経費さえまかなえない赤字になってしまう。今では温室のビニールさえ手に入らない状態だ。
 またこれまでイスラエル衣服業界の下請けとして機能していた縫製工場も原材料の搬入ができず、また製品を外に持ち出せないために完全な操業停止に追い込まれた。
 またラファ検問所が6月中旬から完全に封鎖に追い込まれたため、アラブ首長国連邦やサウジなど湾岸諸国で働いていたガザ出身のパレスチナ人の中には職場に戻れない者もいる。また現地からガザへの送金や物資の搬入が難しくなっている。
 このようにガザ地区の経済活動は90%が停止状態にあり、その損失は1500万ドルに及ぶと推定されている。ガザの経済活動を再生するためには、まず物資の搬入・搬出の窓口であるカルニ検問所や海外との唯一の窓口であるラファ検問所を開放することが必要である。

 昨日11月12日は、アラファト死去(2004年11月11日)3周年目に当たる。この日、イスラエル占領時代、「アンサール」刑務所があった広場(現在でも「アンサール」と呼ばれている)でファタハ支持者たちが記念集会を開くことになっていた。式典の開始は午後1時だったが、私たちが現場に近いUNRWAの事務所に着いた午前9時過ぎにはすでに、その式典場所に向かって多くのファタハ支持者たちが集まり始め、道路は大混雑していた。ファタハのシンボルである黄色の旗を掲げ、黒のカフィーヤ(パレスチナ頭巾)を巻いた青年たちがトラックやバス、乗用車で続々とアンサールに向かっていたのだ。黄色の旗を掲げ、徒歩で向かう少年、少女、女性たちの姿も多い。
 6月中旬のハマス制圧以来、鳴りを潜めていたファタハ支持者たちにとっては、「アラファト追悼集会」の機会をとらえて一堂に会し、「ファタハは健在である」ことを内外に示す絶好の機会だった。会場の周辺には、自動小銃と警棒を持ち、ヘルメットを被ったハマスの警官たちが厳重な警備態勢をとっていた。その前をアラファトのポスターやファタハの旗を掲げた住民たちが通っていく。その光景に、「ハマス支配下でも、敵対するファタハの政治活動の自由は保障されているんだ」と思った。
 式典が始まる直前に会場に向かうと、周辺は黄色の旗を持った人と車でごったがえしていた。人垣を掻き分けてやっと現場前にたどり着くと、広場も道路もファタハ支持者で埋め尽くされている。「10万人以上」と後にメディアは伝えたが、現場での感覚ではそれをはるかに超す数のように思えた。私の長いパレスチナ取材でも、これほどの数のパレスチナ人が一堂に会する現場に出くわしたことがない。「ガザには、これほどのファタハ支持者がいるんだ」と実感した。
 全体を見渡せる高い場所を確保しようと高い建物を探したが、すでにどこも人でいっぱいだった。時計は式典の始まる午後1時を回ったばかりだった。群集の間を掻き分け、会場に近づこうとしたときだった。銃声が聞こえた。私に付き添っていた通訳のワエルが、「空に撃つ祝砲だ」と言った。群集の間に大きな動きはなかった。しかし銃声はだんだん大きくなり、やがて群集がいっせいに銃声とは反対方向に動き出した。銃声はどんどん近づく。群集に向かって発砲し始めたらしい。女性たちの悲鳴、男たちの怒声が響き渡る。流れ弾に当たる可能性がある。逃げる群集の流れに入って私とワエルは建物の陰まで移動した。そのとき、修理したばかりのカメラのマイクが再び引き千切られていることに気付いた。群集に揉まれている間に切れてしまったのだ。一番大事なときにカメラが使えないと分かり愕然とした。しかし何より、自分の身の安全を確保することが先決だった。前方で撃たれた参加者たちが担がれ、また車で何人も運び出されてくる。「今度はあそこからも撃っている!」とワエルが指差したのは、群集が逃げる方向にあるモスクの建物だった。とにかく逃げるしかない。追ってくる警官にカメラを見られ、没収されたり破壊されたらたまらない。私たちは逃げる群集に混じって急いで現場から離れた。式典の参加者たちは、手にしていた黄色の旗をしまい始めた。周辺の道路を埋め尽くしているハマスの警官たちは事態の急変に興奮している。ファタハの旗を手にして逃げるのは危険だと判断したのだろう。ワエルがカメラをカバンにしまい込んだほうがいいと助言した。私は撮影を諦め、カメラをカバンに入れた。ファタハの支持者たちが警官たちに向かって「シーア! シーア!」と罵声を浴びせた。そういえば逃げる群集の中から「シーア」という叫び声が聞こえてきた。ワエルが「イランのシーア派だという意味で、ハマスに対する罵り言葉だよ」と教えてくれた。その言葉を浴びせられ怒った警官たちがその群集に向かって走り始めた。群集は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。しかし捕まった参加者たちは警官に囲まれた。殴られているのかもしれない。後で聞いた話だが、あの会場で群集の一部が警備するハマス警官に向かって「シーア! シーア!」と叫んだために、警官がその群集に向かって発砲したという。
 私たちは道路に立ち並ぶハマス警官たちの目の前を、他の参加者たちに混じってゆっくり歩きながら、現場から立ち去った。シェファ病院にはけたたましいサイレンを鳴らしながら、複数の救急車が出入りした。その入り口には人だかりができている。ここでもハマス警官が住民やメディアの出入りを制限しているようだった。

 いつも行きかう乗り合いタクシーも道路から姿を消した。私とワエルは仕方なく、ビーチ難民キャンプの彼の家まで30分ほどとぼとぼ歩いた。私は打ちのめされていた。ジャーナリストの自分がカメラを持ちながら重要な現場をほとんど撮影できなかった情けなさと、ハマスの実態を目の当たりにした衝撃のためだった。女性や子どもたちを含む丸腰の住民に向かって発砲し死傷者を出すあの集会弾圧の光景は、まさにイスラエル占領時代、とりわけ第1次インティファーダ時代のイスラエル兵がパレスチナ住民にやっていた光景そのものである。
 その直後のテレビ報道や目撃者たちの証言で、発砲の発端についてさまざまな説が出た。「集まった群集が花火を鳴らしたために、これを銃声と誤解したハマス警官が発砲し始めた」という説。ビルの一角からファタハの武装勢力が、警備するハマス警官に向かって挑発の発砲をしたため警官が応酬し、あの騒ぎになった」という説。「群集の一部が警官たちに『シーア! シーア!』と一斉に罵声を浴びせたために、怒った警官が発砲した」という説・・・・。どれが事実なのか私には判断できない。
 その後、日本の朝日新聞はインターネット版で、この事件を次のように報じた。

 パレスチナ自治区ガザで12日、04年11月に死去したアラファト・パレスチナ解放機構(PLO)議長の没後3年を記念する集会が開かれ、同議長が率いたファタハの支持者とイスラム過激派ハマスの治安部隊との間で銃撃戦が起きた。病院によるとファタハ側の少なくとも6人が死亡、約80人が負傷した。ファタハとハマスは互いに、相手が先に発砲したと非難し合っている。6月からガザを支配するハマスはこの日、厳重な警備を敷いた。集会には10万人以上が参加、ファタハ側の存在感を見せつけた。
(asahi.com「アラファト氏3周忌集会 ファタハとハマスが銃撃戦」)

 現場の真っ只中にいて、全体を見通せたわけではないが、これだけは言える。あれは「アラファト議長が率いたファタハの支持者とイスラム過激派ハマスの治安部隊との間で銃撃戦」などでは決してなかった。集会に集まったほとんどの人は丸腰の住民だったのだ。この事態を起そうと、ファタハ・メンバーの一部が挑発のために発砲し、それがきっかけで一部で銃撃戦が行なわれたかもしれない。しかし、これほどハマスの統制の厳しい今のガザで、周辺を埋め尽くすほどの数の警官と「銃撃戦」をやれるほどの人数のファタハ武装勢力があの現場にいたとは考えられない。私が目撃した限り、ハマス警官は明らかに丸腰の参加者たちに発砲していた。
 私はハマスという組織に幻想を抱いていたのかもしれない。「イスラエルの“占領”と武力で戦い、貧困に苦しむ住民たちを慈善事業で助ける、腐敗とは無縁のクリーンな、大衆の根強い支持を得ているハマス」。私はそういうイメージでハマスを捉えていた。しかし今日、私が目の当たりにしたのは、“組織とその権力を守るために、武力で民衆を押さえ込み、住民に銃口を向けることも辞さない全体主義の組織”の顔だった。為す術もなく、それまで掲げていたアラファトのポスターや黄色い旗を丸めて手に握り締め、立ち並ぶ完全武装のハマス警官たちの列の前をとぼとぼと歩く集会参加者たちの姿をみつめながら、私はこの日とこの事件が、パレスチナ人住民のハマス観を変える大きな転機になるような気がした。ワエルの家に戻ると、式典に参加した生徒たちに付き添い現場にいたという小学校教師の奥さんが私に言った。「私はファタハ支持者でもハマス支持者でもありません。しかし今日は、ハマスに対して激しい怒りを抱きました」。それはこの日の式典に参加した10万人を超える住民が共通に抱いた感情に違いない。もしかしたら、そこまで計算し尽くしたファタハ側の仕組んだ罠だったのかもしれない。そうだとしても、多くのガザ住民は、間違いなく“ハマスの素顔”の一部を目の当たりにしたに違いない。
 この日、ハマス当局は、この式典に参加しようとしたガザ地区南部のラファやハンユニスのファタハ支持者たちが会場のあるガザ市に入るのを阻止するために、ハンユニスとガザ市の間の道路にいくつもの検問所を設置し住民の移動を制限したという。まさにイスラエル占領当局がやったやり方である。

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