Webコラム

日々の雑感 67
パレスチナ・2007年 秋 21

2007年11月18日(日)
ファタハとハマスの“憎しみの生傷”

 夜、ワエルの奥さんアムナの実家を訪ねた。ガザ市内のシャジャイーヤと呼ばれる居住区の一角である。アムナの家族も難民一家であるが、難民キャンプの狭い家では増えた家族が暮すことが困難になり、ガザ市内に家を構えた。
 アムナの実家の隣人で、親戚のナセル(仮名)(35歳)は、元ファタハの武装戦士で、今はガザのファタハの幹部である。私はそのナセルと、ワエルの通訳を通して、ファタハとハマスの抗争、ファタハの腐敗、元治安長官ダハランの評価、将来の指導者と目されるマルワン・バルグーティーの評価、そして先日のアラファト追悼集会でのファタハの動きなどについて議論した。自治政府が設立されて以来のファタハの幹部たちの腐敗ぶり、とりわけダハランの横暴ぶりと腐敗について私は激しく非難した。ナセルは実はダハランが支配していた「予防治安部隊」の一員だった。私のダハラン批判に彼は反論した。ダハランは1982年、イスラム大学のファタハ学生リーダーだったころから、ハマスの前身「イスラム同胞団」の「パレスチナを支配する」という狙いを見抜き、彼らと激しく戦ってきた。そしてこの6月以来のハマスの動きは、彼の見解が正しかったことを証明しているとナセルは言う。またダハランが豪邸を持っていたことを腐敗というのなら、ハニヤらハマスの幹部たちだって腐敗しているではないかと反論する。結局、彼と私との意見は食い違ったままだった。

 ナセルの家の居間に、自動小銃M16を構えた武装青年の大きな写真が掲げられていた。彼の友人でファタハ武装組織の指導者、サミハ・マドフーンだという。私はその名前に聞き覚えがあった。ハマスとファタハの武装勢力が激しい戦闘を繰り広げた6月中旬、戦闘で重傷を負ったままハマスの武装グループに拘束され、集団リンチで殺害された人物である。戦闘の数カ月前にハマスに対抗するために創設されたファタハの特殊部隊1500人を率い、数人のハマス部隊員を処刑してきたマドフーンは、ハマスの武装組織が最も憎んだ敵の1人だった。ナセルは、携帯電話に収録された映像を私に見せた。それはマドフーンがハマスの武装青年たちに囲まれ、リンチを受けている映像だった。最初の映像には、裸の腹部に10センチほどの切り傷(大きな口径の銃弾の傷のようにも見える)があり、内部から内臓が見えている。そしてその顔にパーンすると、うつろな眼のマドフーンの表情が映し出される。次の映像は、まさにその裸のマドフーンが10人近い青年たちに殴る蹴るのリンチを受けるシーンだった。興奮した青年たちが大声をあげながらマドフーンの身体に繰り返し繰り返し襲いかかる。すでにあごの辺りはグシャグシャになり顔の原形をとどめていない。腕や脚も折れている。腹部は傷だらけである。最後の映像はリンチの後の映像だった。脚や腕の一部が引き千切れているように見える。顔はもう最初の映像のようにマドフーンだとは識別できない。一部がグシャグシャになっている。
 その映像がリンチの凄まじさを如実に示していた。同時にそれは当時のファタハとハマス間の戦闘の激しさ、その中で生まれた両者間の憎しみの深さを象徴していた。
 この両者の“憎しみ”は、そうたやすく修復できないにちがいない。6月の内部抗争がパレスチナ社会にもたらした“深い傷と亀裂”は、今も双方の組織のパレスチナ人とその支持者たちの中に“生傷”として疼いているのだ。11月12日のアラファト追悼集会でのあの事件は、その“生傷”の1つの表出だったのだといえるかもしれない。

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