Webコラム

ガザはどうなっているのか

この文章は、2008年3月15日に開催された「JVJA・パレスチナ緊急報告:なぜガザ住民は封鎖・大量殺害されるのか」で上映したドキュメンタリー映像『ガザはどうなっているのか』の内容を文章化したものです。

第一部・封鎖と民衆

封鎖による物不足と産業の崩壊

 「ガザ産のオレンジ以外 品物がないんです」。ガザ市に隣接するシャーティー難民キャンプの果物店の店主が言った。「これまで卸し業者が冷蔵庫に保存していた果物も1ヵ月前に底をつき、これまでイスラエルから搬入していたリンゴやバナナ、マンゴも店頭から消えてしまいました」
 スーパーマーケットでは炭酸飲料水の冷蔵庫は空だった。イスラエル側からコカコーラなどの製品の供給が止まり、ガザ生産の7UPも値段が2倍以上になった。失業と貧困にあえぐ客たちには購買力もないため、店主は炭酸飲料水の販売を中止した。イスラエルから入ってきていた子ども用の粉ミルクも店頭から消えた。
 品不足による商品価格の急騰の象徴的な例の1つがタバコである。これまで売られていたスーパーなど商店でタバコは手に入らず、タバコ売り露店が街角に急増した。その値段は6月以前の3倍以上に跳ね上がっている。かつて1箱4シェーケルほどだったエジプト製の水タバコは11月中旬、40から45シェーケル、10倍以上になっていた。
 前例のないこの食料や生活用品の品不足は、6月中旬、ハマスによるガザ地区の武力制圧後、イスラエルが課した厳しい封鎖政策の結果である。小麦粉など基本食糧や最低限の医薬品、燃料など「人道に関わる物資」以外、イスラエルはガザ地区への搬入をストップした。これがガザ住民の生活に大きな打撃を与えている。

 封鎖はガザ地区の産業そのものも壊滅状態に追い込んでいる。
 7UP工場は、ガザ地区最大の工業で、かつては従業員300人の従業員を抱えていた。しかし6月中旬以来、工場内の製造機械の大半は止まったままで、従来の10%以下の操業しかできない状況に追い込まれていた。主要な原材料のCO2(二酸化炭素)がイスラエルから入ってこないからだ。従業員も1割の30人に減らさざるをえなかった。現在、ガザ内で製造されるわずかなCO2を元にかろうじて製造を続けているが、容器のキャップなど他の材料も底をつき始めた。製造の原材料のうち90%をイスラエル、またはイスラエルが支配する国境から搬入する物資に頼るこの工場は、このまま封鎖が続けば、工場閉鎖に追い込まれてしまう。
 農業も致命的な打撃を受けている。ガザ地区北部のベトラヒヤは、良質な水源と土に恵まれ、輸出用のイチゴ生産地としてヨーロッパにまでその名を知られている。11月中旬、この村を訪ねたとき、イチゴ生産農民たちが抗議デモのために集まっていた。農民たちの手に握られたプラカードには「農業と農民の危機だ!」「農産物への封鎖を打ち破るために団結しよう!」といったアラビア語文字が書かれている。取材に来た地元テレビ局のカメラの前で1人の農民が箱の中のイチゴを路上に投げ捨てた。「かつては1キロ35から40シェーケルしたのに、今ではガザ地区南端まで50キロを売り歩いても3シェーケル、容器や箱代にもならない。ひどいと思いませんか!」と、その農民はジャーナリストたちに叫んだ。「イスラム諸国や世界の国々に訴えます。ガザ住民への封鎖を解いてください!この封鎖で多額の金を農民は毎日失っているんですよ!」
 ベイトラヒヤでは2500ドナム(250ヘクタール)の土地でイチゴが生産され、今年は1500トン、800万ドルの収入を得るはずだった。しかしイスラエルによる封鎖によって、予定していたヨーロッパへの輸出ができなくなった。そのため例年ならキロ当たり25シェーケル以上で出荷してきたイチゴをガザ地区内でキロ2、3シェーケルで売らざるを得ない状況では、1ドナム当たり3500ドルもかかるコストさえ賄えない状況だ。今年、封鎖で輸出が出来ない状況が続けば、8000人とも言われるイチゴ生産者とその関係者らは破産状態に陥りかねない。ベトラヒヤのイチゴは長年、イスラエルの輸出業者「アグレスコ」に買い取られ、ヨーロッパに輸出されてきたが、最近はパレスチナ産「コラル」の商標でヨーロッパに輸出されてきた。そのため農薬など化学物資を使わず、品質もヨーロッパ市場の規格に合わせて生産されている。農民たちが恐れるのは、この封鎖で今年、輸出ができないばかりか、来年からも輸出先を失ってしまうことだ。
 「私には12人の子どもがいます。封鎖が続けば、満足な生活もさせてやれない」。イチゴ生産者のジャミール・アブフマイダ(52歳)は訴えた。「子どもたちが勝手に外に出歩くのを止められない。テロリストや武装戦士になるかもしれない。好き勝手なことをするが、私はどこで何をするのかと訊くこともできない。タバコ1つ買ってやれないんだから」

 UNRWA(国連パレスチナ難民救済機関)の食糧配給所の前は、配給を受け取るために群がる難民キャンプ住民たちでごったがえしていた。140万のガザ人口のうち、3分の2を占める難民たちの多くが、UNRWAの食糧配布に頼って生活している。ガザの失業率は68%、貧困ライン以下の住民は90% (パレスチナ人権センターの統計)という経済状況のなかで、UNRWAの食糧配給は難民たちにとって命綱になっている。
 そのUNRWAガザ現地事務所のジョン・ギング所長は、封鎖下の状況を「この5ヵ月間の厳しい封鎖でさらに8万人が失業し、経済は崩壊した」と語る。「失業者たちはUNRWAには支援を求めて来るが、救援の予算は増えていないので、人々の要請に応えられない。それが彼らの悲惨と苛立ちを高めています。国連のUNRWAが難民を、WFP(世界食糧計画)が難民ではない一般の貧しい住民を支援しています。140万人のガザ住民のうち110万人を両方の機関で支援しています」
 さらにギング氏は封鎖がガザ住民におよぼす影響の深刻さをこう訴える。
 「封鎖は経済や住民の生活全体の息の根を現実に止めつつある。単に経済だけでなく、教育や保健の制度も、ガザの文明社会をも破壊しています。ガザ住民が生き延びるために封鎖を解く必要があります。緊急の行動は引き延ばすことはできない。今、それが必要なのです」

電池不足に悩むろう学校

 アトファルナろう学校は、1992年の現地在住のアメリカ人ジェリー・シャワさんが日本のNGOの支援で開校した、ガザ地区最初のろう学校である。幼稚部、小学部、中学部で340人の子どもたちが学んでいる。また卒業生とガザ全域の聴障がい者のために職業訓練センターも運営している。
 幼稚部の教室で、教員の1人が子どもの耳から補聴器をはずした。「この子の補聴器の電池はこれが最後です。イスラエルの封鎖のために電池が手に入らないんです」。
 6個の空気電池が入ったパックを差し出しながら、学校の秘書が言った。「1人当たり2個の電池で持つのは1週間です。今あるのはこのパックが2つだけ、4、5人の子が1週間使える分だけしか残っていません」
 この秘書の説明によれば、スラエルはこの電池の中に含まれている亜鉛が爆弾の材料になるという理由でガザ地区への搬入を禁止しているという。「でも亜鉛の含有量はほんのわずかで、爆弾製造とはまったく無関係なんです」と秘書は訴えた。
 このろう学校が封鎖によって受ける影響は電池だけではない。「私たちは(封鎖によって)外の世界からだけではなく、外部の支援者からも切り離されています」と言うのはジェリー・シャワ校長だ。「ガザ地区はイスラエルによって『敵対地域』に指定されています。それが多くの支援者たちを恐れさせます。そのためガザでのプロジェクト支援を控えるようになりました。この学校の資金集めが深刻な影響を受けています。従来のように支援者側からの接触もない。以前のようにこちらから支援者たちに会いに行くこともできない。それはとても重要で、会って話をすることで、こちらの状況を理解してもらえるのに、それができないのです」

封鎖で中断した日本政府の支援プロジェクト

 封鎖による品不足のなかでも、最も深刻な物資の一つがセメントである。封鎖が強化される前は1トン当たり400シェーケル(1万2000円)〜420シェーケルだった値段は、封鎖から5ヵ月経った11月中旬には1000〜2000シェーケルに跳ね上がった。それでも手に入らないほど品薄状態だ。
 セメント不足は、それを原材料とするブロック工場の操業停止、さらに建設業全体を麻痺状態にし、それがガザの失業率をいっそう高める結果となっている。
 さらに、建設のための原材料不足は海外支援によるプロジェクトをも直撃している。
 ガザ地区中部のハンユニス市郊外で、日本政府支援の難民再定住プロジェクトが進行していた。2005年夏にユダヤ人入植地やイスラエル軍がガザ地区から撤退する以前、入植地に隣接するパレスチナ人難民キャンプの家屋が大量に破壊されてきた。住居を失ったその難民たちを再定住させるため、438軒の家屋を建設し、その子どもたちのためのUNRWA学校校舎、さらに診療所とコミュニティーセンターを建設する大プロジェクトである。その総額は1200万ドル(約14億円)にも及ぶ。しかし建設資材の不足のため、家屋建設は建設予定地の地盤整備を終えただけで、凍結したままだ。
 診療所は封鎖が強化される以前に建物は完成し、07年7月に開設されるはずだった。しかし封鎖のために、26万1千ドル(約3000万円)相当の医療器材などが搬入できず、診療所の建物の中は空っぽ状態である。封鎖がこのまま続けば、巨額な資金を投じた日本のプロジェクトは気泡に帰すことになる。

医療現場への影響

 ガザ地区最大のシェファ公立病院の職員がガスボンベの保存倉庫へ私を案内した。中に保存されている18本の窒素ガス・シリンダーを示しながら、職員は「手術用の麻酔ガスに使われるものですが、これだけしかありません。これらは3つの病院に分配します。あと2日分しかありません」という。「イスラエルが十分なガス・シリンダーの搬入を許さないからです。10本の空のシリンダーをガスを補填するためにイスラエルへ送ったのですが、返ってきません」。
 麻酔ガスが切れてしまえば、一切の手術はできなくなる。

 この病院は人工透析を必要とする患者240人を抱えている。その治療のための人工透析器械は35台、しかし11台の器械は使用不能となっている。封鎖によって部品が手に入らず、修理ができないからだ。現在、機能している器械のうち3台は、使用限度の12000時間を3000時間も超えて使用し続けている。
 医薬品不足も深刻だ。シェファ病院の化学療法の病棟では、輸血に必要な特殊なフィルターが不足して十分な輸血を受けられない患者、また化学療法によって減少した白血球を増やす薬が不足しているため、感染の危険にさらされている患者もいる。とりわけ抗ガン剤の不足がガン患者の治療に重大な支障を及ぼしている。

 ガン治療など高度な医療技術や施設を必要とするガザ地区の患者は、これまで隣国のエジプトやイスラエルで治療を受けてきた。封鎖は彼ら重病患者たちの治療の道を閉ざしている。ハマス政府保健省の統計によれば、11月中旬現在で外部での治療が必要な患者は600人から700人、そのうちガン患者は約450人だった。しかし封鎖によって外での治療が受けられず、死亡した患者は5ヵ月間で37人に達した。

 シェファ病院のガン病棟に21歳の青年が入院していた。ナエル・エルクルディは右睾丸にガンが発見され、2006年3月にこの病院で手術を受けた。しかし2ヵ月後、病状は悪化し、当時まだ渡航が可能だったエジプトの病院で放射線治療を受けた。その後、病状はまた悪化したため、今度は化学療法の治療に切り替えた。その後、ガザへ戻り、シェファ病院で4回の化学療法の治療を受けた。それでも回復に向かわず、家族はイスラエルでの治療を決断した。6月にイスラエル側の病院に申請し、10月10日にやっと病院の受け入れが決まった。当日、ナエルは車椅子でイスラエルとの境界、エレズ検問所へ向かった。そこでナエルはまだ暑い日差しの下で午前8時から午後1時までじっと待たされた。しかし結局、検問所の通過は許可されなかった。「治安」の理由だという説明だった。
 病室に付き添っている母親はその後のナエルの症状をこう語った。
 「息子は外で5時間も待たされてとても疲れ果てていました。家に戻ってから、嘔吐を繰り返し、症状は急激に悪化していきました。息子はもう食べることができず、水を飲むと吐いてしまう。食べてと哀願しても、食べられないと答えるばかりです。もう口の中が感染してしまっています」
 母親が納得いかないのは、息子のような重病患者になぜ『治安』の問題があるのかということだ。ナエルだけではない。封鎖強化の後、イスラエルは『治安』の名目で多くの患者を拒絶していると母親は言う。
 苦しそうな表情で目を閉じ、母親の言葉を聞いていたナエルが、突然、ベッドの上で声を振り絞るようにして言った。
 「ここガザでは私の治療はできないんです。イスラエルかアラブ諸国でしか治療できないんです・・・」
 それだけ言うと、ナエルはまた苦しそうに眉間をしわを寄せて目を閉じた。

 10月10日に検問所を追い返された後も、ナエルの家族は3度、通過許可を申請したが、全てイスラエル側に拒絶された。ナエルのガンはすでに他に転移し、シェファ病院では治療の施しがなかった。
 11月17日、ナエルと母親に話を聞いてから、6日後、ナエルは息を引き取った。

第二部・封鎖とハマス

 ガザ地区の封鎖が強化されたのは、2006年1月の評議会の選挙でハマスが勝利し、3月にハマス政権が誕生した後である。イスラエルの生存権を認めず、武装闘争の停止を拒絶するハマスに対する、イスラエルと欧米を中心とする国際社会による“懲罰”だった。しかしそれは選挙でハマスを選択したガザ住民への“懲罰”でもあった。
 07年6月にハマスがファタハとの内部抗争に勝利しガザ地区を制圧すると、その封鎖はさらに強化され、住民の生活はひっ迫した。
 だが、それはハマス自体には大きな打撃とはなっていない。それはハマス政府の要人も認めるところだ。財務省の実質的な大臣であるイスマイール・マフフーズ次官は私のインタビューで「この封鎖によって(ハマス)政府はそれほど苦しんでいない」と明言した。

 「我われはただ公務員の給与を払い、基本的な公共サービスを行なうだけです。開発事業はできなくなったが、なんとかやっていける。しかし住民はたいへん苦しんでいる」というのだ。
 ハマスが封鎖によって打撃をほとんど受けない理由は、秘密の地下トンネルなどを通して、エジプト側から十分な資金と武器が搬入されているからだといわれる。マフフーズ次官もアラブ・イスラム諸国からの援助によってハマス政府は財政的になんら問題はないことを認めている。ハマスはその潤沢な資金で、封鎖のために生活苦に追い込まれる住民の経済援助や食糧援助をすることで、さらに支持を広げていく。
 マフフーズ次官は「封鎖に対する住民の怒りは、ハマス政府に向かってはいない」と言い切った。「この封鎖の背後には、イスラエルとアメリカ、それにパレスチナ人やアラブ諸国の一部がいることを住民が熟知し、この封鎖は住民が権利を取り戻すために払うべき重い“代償”であると認識しているからだ」というのである。
 またパレスチナ人権センターのラジ・スラーニ弁護士も、封鎖はハマスを窮地に追い込むどころか、かえってその力を強める結果になると主張する。
 「何が“過激派”を生み出すのか。封鎖による社会的・経済的な窒息状態で、貧困と空腹に追い込まれる。また孤立化し、抑圧と弾圧に苦しめられる。そんな状況こそが“過激派”にとって理想的な環境なのです。つまりそれがハマス支持の増大にとって最高の環境であり、ハマスをさらに強化する。だからこそ私たちは『封鎖は非人間的であるばかりか、“犯罪”だ』と言っているのです」

イスラム系慈善組織

 ガザ地区中部の街デイルバラに、イスラム系慈善組織「サラーハ協会」が運営する学校がある。小学校から高校までの一貫校である。男子学校は600人、女子校は400人、その生徒の95%は“孤児”である。パレスチナでは両親のいない子だけではなく、母親がいても父親がいない子どもも“孤児”とみなされる。生徒たちの授業料や通学のバス代は無料、制服や学用品も学校側が提供する。公立学校やUNRWA学校が1クラス4、50人もの生徒を抱え、生徒1人ひとりに教師の目が届かない環境に比べ、この学校では1クラス2、30人だ。理科室も他の学校では望みようもないほど施設が整い、コンピューター教室も備えている。
 サラーハ協会は30年前に創設されたガザ地区最大の慈善組織で、学校運営のほか、1万人を超える孤児の支援活動も行なっている。孤児に関する資料を受け取ったガザ内外の慈善組織や支援者たちが、その家族に直接送金するシステムである。また若者のためのスポーツセンター、また治療費が払えない貧困者のためクリニックの運営、さらに貧困家庭への経済援助も行なっている。
 サラーハ協会のようなイスラム系の慈善組織は、住民たちにもハマスの関連組織だとみなされている。その真偽をアブ・ハリール代表に問うと、こう反論した。
 「我われは1978年以来、活動を続けています。もしこの協会がハマスの一部なら、30年間生き残ることもできず、ここまで発展することもなかったでしょう。イスラエル占領下でも、パレスチナ自治下でも、30年間、何ら問題なく活動を続けてきました。ハマスとの関係を疑われるのは、前代表が選挙でハマス系の政党から出馬したからでしょう。しかし公正な資金用途、支援住民の選択の実態、あらゆる政党への偏見のない対応によって、、例外なくパレスチナ社会全体のために活動していることがわかるでしょう」
 しかしアメリカ政府はサラーハ協会をハマス系組織とみなし、2006年から関連諸国にも銀行取引の禁止を要請し、パレスチナ銀行も取引を止めた。
 同じくイスラム系慈善組織「イスラム協会」も、貧困住民のための医療活動、幼稚園の運営、食糧配給などの活動を続けている。失業と貧困に喘ぐ住民たちへ慈善組織による幅広い支援が、ハマスへの支持を広げた大きな要因の1つといわれている。

ハマスのリクルート手法

 ハマスが支持層を広げるもう1つの手法は、若者たちの取り込みである。少年または青年たちのリクルートは、モスクや学校内で行われる。ハマスの武装組織「アルカッサム軍団」の戦士となった21歳の青年は、ハマスに加わる経緯を次のような証言した。
 「私が中学2年、14歳のときハマスの団体にモスクでのイスラム学習会に誘われた。彼らは私と共に座り、イスラムの基礎や祈りやコラーンなどについて語りかけた。外でブラブラするより、モスクへ来るようにと言われたので、モスクへ通い続けたのです。学習会で神に近づくことは素晴らしいことでした。
 中学2年でモスクへ通い始めたとき、学校でイスラム活動に参加した。それは社会活動、学習会活動、政治活動などでした。その後、ハマスの特別な会合に参加し、ハマスに加わるようになったのです」
 この青年によれば、学校でのハマスの活動は、宗教と文化の分野が中心で、他の生徒たちにイスラムの知識や文化を広め、モスクに来るように促すことだという。また他の生徒たちをイスラム運動に勧誘する手法を青年はこう説明した。
 「まず勧誘したい生徒と話をし、その性格や住んでいる場所、家庭の経済状態や社会状況、教育レベルなどの情報を得ます。その後、あらゆる面での援助を始め、イスラム運動に勧誘します。青年はその運動組織に感銘し、参加するようになるのです」
 このように学校でハマス系の運動組織にリクルートされた少年たちは、大学生や社会人となった後も、ハマスのメンバーとして活動することになる。
 さらにハマスによるリクルートの主要な対象となるのが4、50代など中年の男性だといわれる。モスクへの勧誘、物心両面での支援などを通してハマスに引き込む。いったんハマスのメンバーまたは支持者になれば、家族をもハマスに引きいれることができる。

ガザ制圧後のハマスへの反発

 6月のハマスによるガザ制圧の結果、状況の改善として第一に挙げられるのが“治安の回復”である。ハマス統治から1ヵ月後の7月中旬、パレスチナ人権センターのラジ・スラーニ代表は、私の電話インタビューで「治安はかつてなく素晴らしい状況です」と伝えてきた。「外国人が危害を受けることもない。かつての日々を取り戻しつつある。自由に街を歩き、ホテルでくつろぎ外を出歩き働くこともでき、まったく問題もない。BBC記者の誘拐事件のような人質事件はもう起こらないだろう」
 しかし一方、スラーニ氏は、ハマスの治安当局による拷問の実態も伝えていた。「拘留中に死亡した事例が1、2件あります。何十もの事例はハマスの治安部隊やハマス武装組織『アルカッサム』によるものです。彼らは警察や監獄での治安の実権を握っている。彼らは治安のプロとして経験が不足しています。住民を守るべき検察の機能も回復せず、文民の司法制度の破壊という深刻な問題に直面しています」

 ハマスの強権的な統治への不満と反発は住民の中に広がっていった。私が2003年以来、ラファで追い続けてきた、イスラエル軍に2度も住居を破壊された家族の長男はハマスの武装青年たちに銃撃され片脚を失っていた。
 この家族は住居を失ったのち、04年1月からサッカー場の倉庫で暮らしていた。突然、ハマスの武装青年たちが長男(20歳)だけが残るその「家」にやってきたのは、ハマスとファタハとの激しい戦闘が続いていた07年6月14日午後だった。男たちは窓からサッカー場の向かい側にあるファタハの建物に銃撃しようとした。長男は「ここから撃てば、撃ち返され、家族が危険にさらされる」と訴えた。男が「武器はどこだ?」と訊いたので、「好きなように探してくれ。見つかったら持っていけばいい」といいと長男は答えた。すると突然、1人の男が近づき、私に平手打ちを食らわした。突然、家に侵入してきて侮辱する男たちに我慢できず、長男は平手打ちを返した。他の男が殴ったので、殴り返した。すると突然、1人が私の脚を撃った。「お前は不信心なやつだ」とその男が言ったので、長男はコラーンの一節を言い返した。男は銃口を私の頭に向けた。長男は男に「もし男らしさや自尊心の欠片でもあるなら頭を撃て」と言った。すると男は私に「不正義の犠牲者として死にたいか、この不信心者め!」と言って、脚の同じ箇所を撃った。その後、男たちは長男を外に引きずり出し、出血するまま放置した。人が助けに来るまで30分ほど出血し続けた。
 片脚を失った長男にハマスへの感情を訊くと、「同じパレスチナ人をあえて侮辱し銃撃する連中に激しい憎しみを抱く。そんなことをやる連中は同じパレスチナ人ではない。もしハマスを壊滅するチャンスがあれば、私はやる」と答えた。
 父親は「息子はファタハの戦闘員でも自治政府の職員でもない。彼は日雇い労働の仕事をする民間人なんです。まだ若い。ほんの20歳です。銃など持ったこともない。そんな息子をなぜ家の中で撃ったのか。13年間、ファタハ自治政府がパレスチナを統治してきた。しかし誰かがやってきて、通りや家の中、刑務所内で、発砲するようなことは決してなかった。しかしハマスは多くの住民を銃撃し、殺している」
 この事件の後、これまで金曜日にはモスクの礼拝を欠かさなかった父親は、モスクでの礼拝を止めた。今は家の中で独り祈る。「どう祈るべきかをハマスに教えてもらう必要はない」と言うのである。父親は近所のハマス関係者にも、あいさつができなくなった。ハマスへの拒絶反応の結果である。

アラファト三回忌追悼集会の弾圧

 ガザ住民のハマス離れを象徴する事件が起きたのは11月12日、アラファト3回忌追悼集会の現場だった。この日、早朝からガザ地区全域から続々と住民が会場となるガザ市に向かった。ハマス治安当局は幹線道路に検問所を設け、住民の集会参加を阻止しようとした。それでも会場は数十万の群集で埋まった。
 「私自身の見積もりでは参加者数は15万から20万人ほどだろう」とラジ・スラーニ氏は言う。「そのうちファタハ支持者が4分の1か3分の1以上いたとは思えない。最も重要なことは集まった群集がどういう人たちかということです。彼らは現状に不満を抱き怒っている住民たち、またはハマス統治の犠牲者たちだということです。彼らはハマス統治の実態に対して声を上げて叫びたかったのです。これは“政治的なメッセージ”なのです」
 スラーニ氏は彼らを「“灰色地帯”の大衆」と呼んだ。「つまり組織の外の一般人たちです。どの政治勢力にも、とても重要な存在です。彼らが集まったとき、政治勢力側は、この群集は味方か敵かを判断すべきです。どんな組織でもその強さは構成員の数や資金では測れない。その“灰色地帯”の民衆をどれだけ取り込むことができるかで決まる」というのである。06年1月の評議会選挙でハマスを勝利に導いたのはまさにこの“灰色地帯”の民衆だった。

 予想を超える参加者で会場が埋め尽くされた集会が終了した直後、突然、会場周辺で爆発音と銃撃音が鳴り響いた。その直後、会場を包囲していた大量のハマス武装警官が群集に向けて発砲し始めた。それは空へ向けての威嚇射撃ではなく、銃を水平に向けての銃撃だった。群集は一斉に逃げ惑い、会場は大混乱となった。
 「何十、何百という銃弾が現場の至る所に飛び交い、参加者たちは身を守る安全な場所も見つけられなかった」と現場にいた目撃者の1人、ハリール・シャヒーンは証言する。「
 ハマス警察官が参加者たちを追い回し、警棒で手当たり次第に殴った。警官たちが危機的な状況下にあったわけではなかったのです。催涙ガスや音爆弾などの手段を用いることもせず、このような状況では使用が禁止されている実弾を使っていました」
 病院の発表によると、この日の死者は6人、負傷者は約80人に達した。

この事態についてハマス広報官アイマン・タハ氏は私のインタビューで「その会場は政府機関や警察本部、大学など重要な施設の近くだった。警察を配備したのはそれらの重要機関を攻撃から守るためだった」と語り、「しかし間違いが起こったことは誰も否定できない。公正で透明性のある調査委員会を政府は率先して設置し、この事件を看過しません」と釈明した。
 ハマスの統治に不満と怒りを持つ群集に向けた無差別の銃撃は、ガザ住民のハマスへの失望とハマス離れにさらに拍車をかけたことは間違いない。「この事件でハマスは明らかに“灰色地帯”の支持層を失ってしまった。その何十万という民衆の支持をハマスは失ったのです」とラジ・スラーニ氏は言い切った。
 しかしそのスラーニ氏も、近い将来、ハマス統治が崩壊する可能性については否定的だ。「ハマスに対抗する勢力指導層も組織もガザ地区でまだ見ることができない。ハマスのガザ当地の現状が脅かされるとは思えない。ハマスはガザを効果的に支配しているし、ガザ地区を効果的に支配し続ける」というのである。

 パレスチナが分裂した状況下でガザ住民はどういう思いを抱いているのか。7UP工場 幹部・アンマール・ヤズギは、現在のガザ住民の現状を、「3つの勢力の犠牲者」と表現する。「周囲に3つの勢力があり、住民はその真ん中にいます。まずイスラエルが封鎖や攻撃などによって住民をたたく。ハマスは住民をたたき、その生活など気にもかけない。一方、ラマラの自治政府はガザ住民に圧力を加えることで前回の選挙でハマスを選んだことを後悔すると考えている。しかし根源の問題は“占領”です。占領がなければ、こんな状況にはならない」という。
 それに対し、先のスラーニ氏は「占領を憎み、反対するだけでは十分ではない」と反論する。「パレスチナ人全体が“占領”を憎み、占領を好ましいと思っている者は1人もいない。しかしそれだけでは占領を消し去ることができない。パレスチナ人は政治的な力を組織化し結集しなければならない。民衆を指導し、組織化し、占領を克服するためにです。しかし現状ではまだ見られない」

 11月下旬、アメリカ主導で中東和平会議が開催され、パレスチナ独立国家樹立に向けて08年末までの問題解決を目指す「共通理解」文書をブッシュ大統領が発表した。しかしパレスチナ問題の最終解決には不可欠な聖地エルサレムの帰属、パレスチナ難民の帰還、最終的な国境の画定、入植地など「未解決の問題」が交渉対象と課題となるかどうかも不透明のままだ。これらの問題が交渉の課題となれば、支持基盤の弱いオルメルト連立政権は、反発する右派が離脱し、崩壊してしまう。またパレスチナ側も、ガザを統治するハマス抜きには真の和平への道は拓けてこない。つまり、この「和平会議」がパレスチナ問題の解決につながっていく可能性はほとんどない。
 一方、ヨルダン川西岸のアッバス体制とガザ地区のハマス支配というパレスチナの分裂が解消される糸口はまったく見えない。2008年、イスラエル・パレスチナ情勢はいっそう混迷が深まることが予想される。

この文章は、2008年3月15日に開催された「JVJA・パレスチナ緊急報告:なぜガザ住民は封鎖・大量殺害されるのか」で上映したドキュメンタリー映像『ガザはどうなっているのか』の内容を文章化したものです。

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp