Webコラム

日々の雑感 81:
映画「花はどこへいった」を観て

2008年4月23日(水)

 ベトナム枯葉剤被害者を撮ったドキュメンタリー映像はNHKの番組で何度か見てきたから、描かれている事実そのものは私にとって決して目新しいことではなかった。しかしこの映画には、テレビのドキュメンタリー番組と違う特徴があった。
 その第一は、監督の坂田雅子氏に、この映画を撮らざるをえない、切羽詰った動機があったことだ。チラシの映画紹介はこんな文章から始まっている。

 「本作の監督・坂田雅子さんが、フォト・ジャーナリストだった夫のグレッグ・デイビスを肝臓がんで亡くしたのは、彼が入院してわずか2週間後のことでした。彼の死は、米軍兵士として送られたベトナムの戦場で浴びた枯葉剤が原因ではないかと友人に示唆された彼女は、夫への追悼と枯葉剤への疑問から、ベトナムへ行くことを決意します」

 ただ経緯を説明するだけのこの淡白な文章より、映画本編の中での坂田氏自身が語る“動機”が比べようもない強い納得力をもって、観る者の心の届いた。
 正確ではないかもしれないが、その内容を私は次のように記憶した。
 20代の学生時代に出会い、長く連れそうなかで、自分の一部とさえなっていた最愛の夫を、入院から2週間足らずで、肝臓がんで奪われてしまった。自分の人生になくてはならない存在だった夫を失い、生きる目標と意味さえ失いかけていた。そんなとき、夫の親友から、その原因はベトナム戦争時代に浴びた枯葉剤のためかもしれないと聞かされた。茫然自失の生活を送っていた私は、夫の死の原因を追究することによって夫の人生をより深く知り、そのことによって、逝ってしまった夫にさらに近づきたい、そしてその営為のなかに自分が生きる意味を見出し、立ち直るきっかけをつかみたいと思った。その一心で私はベトナムへ向かった。
 この映画はこの追究の軌跡であるがゆえに、映画の中で坂田氏は自らの肉声で語らなければならなかったのだろう。
 “表現者”が、観る者、読む者の心に届くための表現をするために不可欠な要素は、“表現する動機”だと私は思っている。
 イスラエルの有力紙『ハアレツ』記者のアミラ・ハスは、私が最も尊敬するジャーナリストの1人である。イスラエル人でありながら、パレスチナ人地区のガザ地区やヨルダン川西岸に住み着き、身の危険を冒しながら、“占領”の実態を現地から報道し続けてきた。その報道は国際的に高く評価され、「国連ギレルモ・カノ世界報道自由賞」「アンナ・リンド人権賞」などを受賞し、その著書は英語、仏語、独語、スペイン語、日本語など翻訳され、世界で広く読まれている。そのアミラが私にこう語ったことがある。

 「“怒り”が私の“ガソリン”です。ときどき人々が、どうしてそんなにエネルギーがあるのかと訊くんです。“怒り”です。“怒り”が私にエネルギーを与えているのです。朝、起きると、パレスチナ人の誰かが電話してきて、検問所を通過できず職場にいけないと訴える。2時間後には、また他の人が分離フェンスのゲートが開かず、オリーブの収穫にいけないという。3時間後には、ガザ出身のラマラに住んでいる友人がイスラエル兵に拘束されたと聞かされる。だからいつもこのような“不正義”のために怒りを抱いてしまう。私はイスラエル人ジャーナリストである特権をよって、自分の住んでいるラマラから自由に行き来できる。自分だけがそれができることにまた怒りがこみ上げてくる。ユダヤ人入植地に行くと、まさに植民地主義の象徴であることを目の当たりにして、また怒る。ラマラからテルアビブに行くと、イスラエル人市民が通常の生活をしている。それを見て、また怒る。だからいつも私は怒っているんです」〔アミラ・ハス著『パレスチナから報告します』(筑摩書房)「解説」より〕

 私がアミラを尊敬し信頼するのは、ジャーナリストとしてのずば抜けた洞察力、取材力、表現力と共に、彼女のジャーナリスト活動がこの揺るぎない“動機”に根ざしていることを知っているからだ。

 この映画の冒頭で、監督・坂田氏の“動機”を知ったとき、私は“観る姿勢”を正さねばと思った。その“動機”なら、またその“動機”で作られた作品なら信用できると思ったからだ。
 映画を見終わって、これを世に問おうと決意した坂田氏には、映画の制作の過程で、もう1つの“動機”が生まれていたことを私は知った。
 1つは、枯葉剤の被害者の子どもたちとそれを支える家族の絶望的とも見える現状、それを生み出し、それを放置したまま口を拭っている責任者、国家への激しい“怒り”である。それらが最愛の夫を奪われたことへの“怒り”と重なり合うとき、それは抑えがたいほどの激しいものになったにちがいない。しかしそれは決して感情的に、ストレートに表現されてはいない。被害者の子どもたちと家族の姿と声を淡々と見せることで、ナレーションで怒りの感情を吐露するよりも、カメラを回す者の“怒り”がはるかに強烈な説得力をもって観る者に迫ってくる。
 また被害をもたらしたアメリカ政府や化学薬品会社への“怒り”も、資料映像やデーターを示しながら、その因果関係を丹念に、しかも冷静に見せていく手法、そして最後に解説抜きに裁判結果を字幕スーパーで提示するだけの手法によって、観る者の胸にいっそう重く伝わり、それが深く沈殿していく。

映画チラシ

 それにしても、この映画で圧倒されるのは、あれほど絶望的な貧困の中でも、悲惨な被害者の子どもを慈しみ育てる親たち、兄弟姉妹たちの“家族愛”である。
 脳と身体に重い障害を持った子を2人も抱えて懸命に世話する極貧の老いた親たち。「私たちが死んだら、この子らはどうなるのか」と、言葉も発せない子を抱きながら憂え、服の袖で涙を拭くその老人たちの姿に、観客はこの状況を生み出した者たちへの激しい“怒り”を共有したにちがいない。とりわけ私の脳裏に焼きつたのは、「2つの頭を持つ子」として登場する男の子だった。その顔は、とても「普通の人間の顔」には見えない。しかし、その男の子が「笑った」と喜び、懸命に慈しむ親と2人の姉たち。その姿は私たちに「家族とは何か」「家族愛とは何か」という根本的で普遍的な問いを突きつける。その痛ましい家族の、しかし深い絆で結ばれた清貧な家族の姿は、親が子を殺し、子が親を殺める事件が決して珍しくなくなった現在の日本社会に、「あなたたちは、私たちを憐めますか」と問うてさえいるような気がする。「人間の顔のように見えない」容姿と乳児のような知能しなかい弟を抱き、優しく語りかえる2人の姉たちの笑顔。長く続くそのカットに、私たちは、「“人にとって大切なもの”はいったい何なのか」と問いかけられ、私たち自身のあり方そのものが問われている気がしてならなかった。

花はどこへいった:公式サイト
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