Webコラム

日々の雑感 91:
ビルマのサイクロン災害と中国の大地震の報道に思うこと(2)

2008年5月17日(土)

 先週の日曜日(11日)、私は東京都内で開かれた在日ビルマ人の様々な団体の集まりを取材した。祖国ビルマで起こったサイクロン災害で数万人の犠牲者が出て数万人が行方不明、さらに100万単位の住民は家を失ったというビルマ史上、未曾有の大惨事に、在日ビルマ人たちは、どういう思いを抱いているのか、また祖国の同胞たちの支援のためにどう動こうとしているのかを知り、伝えたいと願ったからだ。
 ビルマ軍事政権の報道規制や海外からの支援団体の入国拒否で、その被害の実態に関する情報が限られていたとはいえ、伝えられる断片的な情報からもその被害の規模の大きさと深刻さはわかってきた。日本のメディアも、限られた情報を懸命に報道していた。中国の大地震が起こる前だったから、メディアの関心度も高かった。
 在日ビルマ人の様々な団体の代表数十人が一堂に会し、どのように支援をしていくのかを話しあった。言葉はビルマ語で私はまったく理解できなかったが、とりあえずその声と姿をカメラに収めねばと思った。会議の後、代表の1人が日本語で説明してくれた話によれば、「1日も早く委員会を設置し、そこで募金活動など具体的な支援方法を決める。そして軍事政権を通さず、直接、被災者たちへの救援物資や支援金が届けられるルートを模索する」ことが決ったという。

 1998年以来、私は、日本で民主化運動を続ける在日ビルマ人を断続的に取材し続けてきた。とりわけ2000年前後には、TBSや日本テレビなどを通して彼らの生き方と活動を伝えるドキュメンタリー番組を何本か放映した。その中で出会った当時のリーダーの1人ティンチーさんやチョチョウソウさんたちは、その後も付き合いは続いている。それは「取材対象」としてだけではなく、同世代(チョチョウソウさんは幾分若いが)の人間として強く惹かれるからだ。日本で暮す外国人とりわけアジアの人たちに冷酷なこの国で、厳しい生活を強いられながらも、「祖国の民主化のため」という強い信念を曲げず、凛として生きる姿に、私は強く心を揺さぶられ、自分自身の生き方を問われ続けている。
 彼らの祖国をこの目で見るために1999年にビルマの地を踏んだ。2000年には、祖国へ入れないティンチーさんたち日本の民主化運動活動家たちと共に、ビルマとタイの国境地帯を訪ねた。その後、ティンチーさんは、どんなに民主化運動を続けても変わらぬ日本政府の対ビルマ政策に失望し、アメリカへ渡った。彼のアメリカでの生活を取材するために渡米したのは2005年の夏と2006年の秋だった。
 また民主化運動のために祖国に帰れず、もう10年以上も家族と会えないでいたチョウチョウソウさんが、最後となるかも知れない80歳を超えた父親との再会ため、2006年春にタイのバンコクへ飛んだときも同行し、その邂逅を撮影した。
 そのように在日ビルマ人と関わりをもってきた私にとって、今回のビルマ史上最悪とも言われ10万人を超える犠牲者を出しているこのサイクロン災害を、他の遠い国々の災害のように単なるニュースとして看過するわけにはいかない。日本から遠く離れた祖国で家族の安否を気遣い、不安な日々を送っているビルマ人の友人たちのことを想うと、何かをしなければと焦る。

 だからこそ、この事態に対するビルマ軍事政府の対応に激しい怒りを抱かずにはいられない。軍事政権さえ死者が約7万8千人、行方不明者が約5万6千人(5月16日現在)と発表せざるをえない緊急事態である。おそらく実態はそれをはるかに上回るだろう。国連推定で被災者は250万人、英NGO「オックスファム」は「清潔な水と衛生面の対策をとらないと、コレラなど伝染病で150万人が生命の危機にさらされる」と警告している(『朝日新聞』5月13日版)。
 このような緊急事態にも関わらず、軍事政権は国際援助を拒み続けている。彼ら自らで、250万人の被災者たちの救援ができるのなら、それもいいだろう。しかし現地から伝えられる実態はまったくそれとはほど遠い。

 「水の引かない低地には水牛の死骸が転がり、人びとは草葺きの雨よけに身を寄せ合う」
 「国内企業のトラックが、慈善活動として被災者にコメやパンを配っていた。大人も子供も全力で駆け寄り、物資を奪い合っていた。当局による物資配布活動は一度も見なかった」(『朝日新聞』5月13日版)

 「寺院には家を失った50人ほどが身を寄せている。乳飲み子や病人もいる。『援助は全く来ない。(軍事政権には)被災者が見えていないみたい』。年配の女性が言った」
 「ミャンマーの新聞やテレビは連日のように、軍政府かんぶが被災地で援助物資を配る様子を報じている。だが、『幹部が行った場所でしか配られていない』と人びとは憤る」
 「水が引かず、貧しい人びとが住む低地は腐臭を放つ『泥沼』と化している」(以上『朝日新聞』5月10日版)

 「コメ価格は既に平年の2倍になっており、軍事政権は備蓄米を放出するなどの対応に追われている。水田は海水につかったままの状態。軍政筋によると、人口約650万人の最大都市ヤンゴン市民が消費するコメのほとんどがエヤワディ管区で生産されており、ヤンゴンに供給するコメが足りなくなるおそれが出てきたため、軍政は他管区・州からの供給を増やすことを検討し始めた。ヤンゴンで6日営業を再開した商店主は『エヤワディで収穫ができなくなると、数ヵ月後にはコメ不足が生じる可能性がある』と話す」(同上・5月8日版)

 「食糧や水が不足し、米や卵の値段が2〜3倍に跳ね上がっているという」
 「自らも被災したヤンゴン市内の30代の男性は『被災者にとって何が大事なのか軍政は分かっていない。国民投票など今は考えられない』(同上・5月6日版)

 「世界保健機関(WHO)などは16日の会見で、ミャンマーのサイクロン被害では初となるコレラの感染が報告されたと発表した。また被災した子供の20%に下痢の症状が確認されたことを明らかにした。病気など2次被害の懸念はさらに高まっている」(同上・5月13日版)

 大惨事に250万にも及ぶ被災した国民が生きるか死ぬかの状況に置かれているなか、自力で救いの手を差し伸べることもできないのに、海外からの人的な救援の申し出を頑なに拒み、入ってくる物資も空港に留め置かれるか、横流しまでする。
 さらに、まったく合法的な根拠を持たない政権の「正統性」を内外にアピールするため、軍事政権は自らを合法化する新憲法案の国民投票を強行した。多くの被災者が最も必要としている支援も受けられず、阿鼻叫喚の真っ只中にいるそのときに、である。しかも憲法の内容はほとんど知らされないまま、「賛成」を事実上、強制される「投票」である。

 一体こんな為政者が支配する体制が「政府」とか「国家」とかいう名に値するのだろうか。「国家」とは「国民の生命・財産を守るもの」であるはずなのに、この軍事政権が必死に守ろうとしているのは、国民ではなく、自らの権力・権益でしかないないように見えるのは私だけではないはずだ。
 こんな国の権力者たちに、国際社会はどう対応すべきなのか。私は、30年ほど前の学生時代、ある著名な大学教授と論争したことを思い出す。1970年後半、カンボジアで200万人を超える国民がポル・ポト政権によって虐殺・粛清されたが、そのポル・ポト政権が、78年にカンボジアに侵攻したベトナム軍によって駆逐された。当時、私が通っていた大学に、このベトナムを支持する著名な教授がいた。日本を代表するマルクス主義者の1人で、ベトナム解放戦争、原水爆廃絶運動の旗手でもあった哲学者・社会学者、芝田進午氏である。私はその面識もない芝田氏の教官室を訪ね、当時、私が抱いていた疑問を氏にぶつけた。「たとえどんなにひどい政権が支配する国であっても、他国が侵略して武力でその政権を倒すようなことが許されるのか。そんなふうに1国の主権を他国が侵害していいのか」という素朴な疑問だった。それに対して芝田氏が具体的にどう答えたのか今は記憶にないが、ただ「もしベトナムが侵攻してポル・ポト政権を倒していなかったら、カンボジア国民の犠牲はもっと広がったはずだ。それでもよかったのか」という問いを返されたことは覚えている。「でも、だからといって、他国を侵略し主権を踏みにじってもいいんですか!」と私は芝田氏に食ってかかった。芝田氏がどれほど著名な教授かも知らず、ただ当時、芝田氏の主張がどうしても納得いかず、直接、問わずにはいられなかったのだ。
 今の私なら、どう判断するだろうか。ベトナムは「虐殺・粛清されているカンボジアの民衆を救うため」にカンボジアに侵攻したのではなく、当時、しばしば国境紛争を引き起こしていたポル・ポト政権より、自国に亡命していたヘンサムリンに政権を握らせる方が思いのまま操れ(実際、後に誕生するヘンサムリン政権はベトナムの“傀儡政権”とさえ呼ばれた)、自国の国益に繋がるという判断からだったのだろう。しかし結果として、次々と虐殺・粛清されていっていたカンボジア民衆を救う結果となった。つまりあの「侵攻」は結果として、カンボジア民衆にプラスだった。
 私は、現在の国際社会において、アフリカ・ジンバブエのムガベ独裁政権や、ビルマの軍事政権は、かつての“カンボジア”ではないかと思えてならない(北朝鮮もその範疇に入るのかもしれない)。自己保身を最優先し、そのために自国民に多大な犠牲を強いることを意にも介さない独裁政権に、国際社会はどう対応するべきか。「政権や指導者が適切でなければ、それを変える権利があるのは自国民だけであり、外部から干渉すべきでない」という主張は“正論”である。しかし、圧倒的な武力で統治され反対の言動さえ封じられ、自国民にそれを変える力も機会もないときはどうなのか。たとえばあの“カンボジア”は放置されるべきだったのか。
 このような議論をすると、大方の人は「では、あのイラク戦争はどうなんだ」と問うだろう。「クルド人、シーア派住民をはじめフセイン独裁政権下で弾圧・粛清されていった多くのイラク国民。今後も予想された弾圧・粛清からイラク国民をアメリカはあの戦争で救ったではないか。“カンボジア”と同じではないか」とブッシュ政権とその賛同者たちは主張するだろう。しかし、フセイン時代とは比較にならないほど社会状況が悪化した現在のイラク情勢をみれば歴然としているように、イラクは“カンボジア”ではなかった。著書『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』で明らかにされているように、あの戦争はあくまでも「ネオコン」を中心とした政権内外の一部勢力によって誘導された戦争であり、「解放」を希求するイラク国民の多数派の声に呼応した侵略ではなかった。だから当時のイラクとイラク戦争を引き合いに出し、“カンボジア”的なビルマやジンバブエの状況を論じるのは乱暴すぎる、と私は思う。
 では現在のビルマやジンバブエのような国に対して国際社会はどう対応すべきなのだろうか。国連や欧米諸国がこれほど説得しても、何一つ変わらない状況のなかで、独裁政権下で圧殺されていく大多数の国民を救うために何が可能なのか。“カンボジア”のように、“外部からの武力による政権打倒”しかないのだろうか。しかしその場合、多くの重大な問題が出てくる。まず、圧政に呻吟している国民の多数派でも、他国の武力介入をほんとうに望んでいるのか、その民意をどうやって知ることができるのかという問題だ。例え自国政府の圧政に苦しんでいる国民でも、主権、自決権を犠牲にしてまで、他国の介入を受け入れる用意・覚悟があるのかという問題である。そのような国民の意思を無視して、外からの見方・価値判断だけで介入する権利はどこの国にもない。また独裁政権を倒して後、誰が政権を担い、社会の秩序を守っていくのか、その基盤があるのか、ないとすれば、国際社会はどのように支えていくのかという問題も出てくる。

 現在、国際社会で議論されているのは「保護する責任」がビルマの現状に適応されるべきか否かという問題だ。これは2005年の国連総会特別首脳会議が採択した「成果文書」に盛られた理念で、ルワンダの虐殺などを教訓に、危険にさらされた人間は国家だけでなく国際社会にも守る責任があるとし、必要な場合は安保理を通して共同行動をとることをうたっている(『朝日新聞』5月17日版より)。
 ただこの合意は、集団虐殺や民族浄化などの政治的な暴力や迫害などの政治的暴力や迫害を想定したもので、今回のような自然災害にも強制介入できるのかどうかで、各国の主張が食い違っている。フランスなどは「サイクロン自体は自然災害だが、その後は人災だ。疫病などの新たな被害の波が押し寄せる恐れがある。早急に強制介入すべきだ」と主張するが、中国は、「国内問題に介入すべきではない。国際法上も災害救援のための強制介入を求めた合意や取り決めはない。そんな空論は時間の無駄だ」と反論しているという(同上)。
 その中国の主張に私は強い反発を覚える。問題は、今苦しんでいる何十万という被災者たちにとってどちらが望ましいかである。被災者たちは1日も早い救援を渇望しているはずだ。その国家がやらなければ国際社会が代わってやるしかないではないか。国民への救援の手を拒み続けるこのビルマの軍事政権を支援しているのは中国である。その中国政府にとって、支援する軍事政権の維持が最優先であり、苦しんでいるその国の民衆の救済は第二義的な問題に過ぎないのではないかと疑ってしまう。ビルマに限ったことではない。アフリカのダルフール問題における中国の動きに象徴されるように、民衆を抑圧する政権・権力者を中国政府が支援し続けている例は少なくない。その目的はアフリカにおける天然資源を確保するためといわれている。ちなみに“カンボジア”でポル・ポト政権を支援し続け、侵攻したベトナムに侵攻すること(「中越戦争」)で「懲罰」を加えたのも中国である。

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