Webコラム

日々の雑感 107:
花火の興宴の中で

2008年7月25日(金)

 横浜国際花火大会は、昨年は台風で中止になったため、2年ぶりの開催である。日曜日、首都圏から押し寄せた大群集の雑踏の中を、できるだけよく見える場所を求めて右往左往する疲労を思うと見に行くのは止めようと思ったが、夕方、そわそわして仕事に集中できない。見に行った後の後悔と、行かなかった後悔を天秤にかけて、結局、前者を選んだ。進まない仕事への焦りを抑えて会場へ向かったのは、開始の1時間ほど前だった。会場に近い山下公園はすでに群集で埋まり、警備する警察官たちがマイクで、「もう山下公園は人でいっぱいで、入場できません!」と叫んでいる。それでも、いちばん花火がよく見える公園内に、警官の目を盗んで見物客が次々と入っていく。3年前、群集で埋まった山下公園を諦め、大桟橋への道路で見ようとしたが、建物の陰になってよく見えなかった悔しさを思い出し、“規則破り”を何より嫌がる連れ合いを無理矢理誘って、私は公園の中に押し入った。いちばん見晴らしのよさそうな場所はすべて、すでにビニールシートが敷き詰められ、“陣取り”されている。その場所の「所有者」はその人数には不釣合いなほど広い場所を占拠し、中には寝そべっている者もいる。その一方で、座る場所さえなく、かといって大群集の中に埋もれ自由に移動するスペースもなく、立ち往生してしまっている見物客たちがいる。私たちも場所捜しに悪戦苦闘した後、立ち入り禁止区域になっていた海辺の「通路」に、多くの「違反者」に紛れて腰を下ろすしかなかった。柵より海側は立錐の余地もなく見物客がひしめきあい、柵の反対側は敷き詰めたシートの上で若者たちが寝そべっている。そのうえ、海側で座れず中腰になった見物客にその若者たちが「オッサン、座らないと見えないじゃないか!」と怒鳴る。「自分さえよければ」という今の日本の風潮を絵に描いたような光景だ。
 ともあれ、私は海辺に近い“最高の場所”から花火を満喫できた。目の前の夜空いっぱいに色鮮やかな光の花が次々と咲きそろう。月並みな表現だが、この世のものとは思えないほど華やかで幻想的な一瞬の光が、目の前に迫ってくる。そして少し間があって「ドン!」と腹に響くような音が鳴る。「わあっ! きれい!」と、歓声があちこちから上がる。歳のせいか、「美しいもの」を見ても最近あまり感動しなくなった自分が、子どもに帰ったように、目の前に広がる花火の豪華な美しさに見とれている。それも息を抜く間もないほど、次々と打ち上がる。「日本の花火の技術は凄いなあ!」と横の連れ合いに言った。横で無邪気に感嘆する私の側で連れ合いが、ふとつぶやいた。「あの1発、1発が何百万円もするんだよね」。無邪気に感動していた私は、彼女の一言に、あの数秒の鮮やかな輝き毎に数百万円が灰になっていくという現実に引き戻された。後で、ネットで調べてみると、二尺玉の花火が60万円、一番高い花火は350万円から400万円もするという。この横浜国際花火大会で打ち上げられた花火は約6000発、総額が億単位だろう。1時間足らずのうちに燃え尽きてしまうそれだけの大金が、財政難で喘ぐ福祉や医療の現場、または貧困で食べる物もなく、住民が生死の境をさまよう最貧国で有意義に使われたら……。何億もする豪華な花火の興宴に「わあっ! きれい! 最高!」と無邪気にはしゃぐ日本人と、最低限の衣食住も保障されず、さ迷う最貧国や戦地の住民たち。その両者がこの同じ世界で同じ時を生きているその不条理。美しい花火を楽しむ気分が一瞬にして萎えてしまった。
 1時間10分の花火大会が終わり、まだ群集で埋まった山下公園で群集の中を歩きながら、改めてその数に圧倒された。翌日の新聞は「約51万人の人出」と伝えた。花火にはこれだけの大衆が集まる日本だが、隣国の韓国のように、「アメリカ産牛肉の輸入問題」のような社会・政治問題で怒る群集が何十万単位で集まることはまずありえないだろう。その違いはどこから来るのだろうか。日本にだって、「年金問題」「高齢者医療問題」など国民が怒るべき問題はいくらでもある。なのに、それが韓国のような「怒りの大衆デモ」というかたちにはならない。「それは国民性の違い」という言葉で私たちはわかったつもりになっていていいのだろうか。
 「堅強で不沈」と信じる“日本丸”は実は“泥舟”で、それに気づかず飽食と享楽に耽っている私たちは、世界という大海の荒波に飲み込まれて、あっと言う間に沈んでいく──その悪夢が正夢にならないという保証はどこにもないはずだ。

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