Webコラム

日々の雑感 120:
31年ぶりの入院生活2

2008年10月13日(月)

 入院時の問診で看護師に「これまで入院したことは?」と訊かれ、過去を振り返った。小学校低学年の頃、ヘルニアの手術をしたことは、当時の恐怖心と共にすぐに思い出せた。次は1977年の学生時代、アフリカ横断の旅の途上、旧ザイールのジャングル地帯の町イシロで、キャンピング・ガスを手中で爆発させてしまい全身に大火傷を負い、町の病院に1ヵ月近く入院したことがあった。それから2、3ヵ月後、今度はカメルーンのジャングルの中をヒッチハイクしている最中に蚊にやられたのか、ナイジェリアとの国境近くで悪寒と高熱に襲われ、乗っていた乗り合いバスでそのまま病院に担ぎ込まれた。マラリアだった。治療が早かったお陰で、1週間ほどで退院できた。1ヵ月がかりのサハラ砂漠横断に向かう直前だった。
 それ以来、長期の入院をした記憶がない。実に31年ぶりの入院である。

 病院の1日は午前6時に始まる。しかし私の1日の始まりは午前5時前だ。夜の就寝が早いから、どうしても目覚めが早くなる。ベッドでじっとしているのはもったいないから、起きだし、パソコンと本を下げて階上のロビーに向かう。まだ薄暗く人気のないソファーで書き物をしたり、本を読んだりして時間を過ごす。
 午前8時、病室のベッドに朝食が運ばれてくる。最初は量が少なく、全部食べ終えても空腹感が残っていたが、これしかないのだと諦めれば、それなりに慣れてくるものだ。
 食後もパソコンと本を抱えて横浜市街の高層ビル群が一望できる8Fのロビーで、本を読んだり、パソコンに向かったりだ。昨日やっとシャワーを浴びる許可が下り、3日ぶりに身体を洗った。昼食は12時。その後、少しベッドで昼寝をする。6人部屋で、他の患者さんたちは私よりも年齢も高く、容態が重い。その患者さんたちが夜中にたてる大きなイビキや、咳き込む音、唸り声などでときどき目が覚めてしまい、自宅で眠るような安眠は望めない。だから昼食の後、どうしても眠気に襲われるのだ。
 今日、担当医から1時間ほど外を散歩する許可が下りた。外に出るには医者の許可書が入った「パスポート」が必要なのである。4日ぶりの外の空気と、長い歩行に少しめまいを感じた。祝日、秋晴れの公園には、幼子を連れた若い夫婦が弁当を広げている。広場でキャッチボールをする男の子と父親。日頃、なんでもないそんな光景が、“幸せ”を絵にした光景のように見える。自由に動き回り、好きなものを食べたいだけ食べ、居たいだけ公園で遊んでいられる。一方、自由に身体が動かせず、また動き回る気力もなく暗い病室のベッドで1日を過ごす患者たち。決った時間に決った量の食事しか口にできず、寝る時間も起きる時間も管理される入院患者たちは、その対極の世界の住人なのだ。つい数日前には自身が“あちら側”にいて、それが普通だと思っていた一般市民の世界を、いま私は病院の患者の目で、まぶしい思いで見つめている。

 午後6時、夕食が回ってくる。朝も昼も夜も、カロリー制限された食事である。不満を言っても仕方がない。食べるものはこれしかないのだから。さすがに4日も経てば、それなりに慣れてくるものだ。そこそこの満腹感も感じるようになった。3日目に体重を量ったら、入院前より2キロ減っていた。65キロへの減量も夢ではないかもしれない。
 夕食後から消灯の午後9時までの間に看護師が点滴の入れ替えや投薬、血圧や体温の検査のために病室を巡廻する。自分の処置が終れば、後は自由時間である。周囲の年配の患者さんたちは、大方ベッドに横になって、枕元にある有料の小型テレビを見て時を過ごす。
 隣のベッドの患者さんは70過ぎで、脚と腎臓の病気でもう半年近く入院生活を送っているという。歩行も困難なため、小水も尿瓶(しびん)を使っている。食事以外のときは、ベッドに座り、うたた寝をしているのか、頭をうな垂れたままじっと動かない。後は横になってテレビを見るか、眠ることで1日が過ぎていく。意識は明確で、ときどき私と短い会話を交わす。独身で身内は横浜市内に住む姉だけだという。私のところに妻がしばしば世話しにやってくるのを、その患者さんは隣のベッドからときどき頭を上げて見ている。妻が帰ったあと、その老人は「姉が日曜日には来てくれると思うけど、仕事で忙しいらしくてね」と私に言った。しかし日曜日、この老人には訪問客はなかった。ベッドに座ってじっとうな垂れているこの老人の姿に、言い知れぬ孤独感を感じた。
 私の階の患者さんたちは、多くは歩行も困難な老人たちだ。だから上記の同室の老人のような入院生活を送っている。もし自分があの患者さんたちだったらと思うと、暗澹たる気持ちに陥ってしまう。身体が自由に動かせない辛さ、病気の苦痛の辛さ、それにもまして自分が必要とされず世間から見捨てられ、生きている価値がないかのように感じてしまう寂寥感に私は耐えられるだろうか。いつ治癒するという見通しも立たず、何もせずじっとベッドで過ごす精神的な苦痛に、私なら参ってしまうだろう。

 以前、同じような感慨を持った場所があった。私の亡母が長年入居していた特別養護老人ホームである。晩年、脳梗塞の他に認知症の症状まで出てきた母は、食事のために車椅子で食堂に出る以外は、ほとんどベッドに横になっていた。もうテレビを観る気力もない母に出来ることは、ベッドで横になり、眠るか、じっと周囲の光景を見つめることだけだった。ホームでは音楽会などさまざまな催しを開き、入居者たちに娯楽の機会を作ってはいたが、母はもうそれに参加する体力も気力も失っていた。そんな母に私に出来ることは、車椅子でホームの外に連れ出し自然に触れさせること、そしてしきりに語りかけることだった。目にする草花のこと、遠望できる故郷の景色のこと、そして昔の思い出話……。それは母に、独りではないことを自覚させ、そして生きていることを実感させるためだった。
 「もう、死にたか……」。ベッドに横たわりながら、もう細い骨にしわだらけの皮膚が付いているだけのように痩せ細った、80歳を過ぎた小さな母がつぶやいた。「こがんしてまで、生きとうなか……」。生きる目的も、生きる喜びも感じとることができず、ただ生物として生き続けるための食事と薬品を投入され、生命を維持しているだけの自分。「何のために生き続けているのか」。思考能力の衰えた母であっても、そういう思いがよぎるのだろう。横でそのか細い声を聞きながら、私は胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
 農家に嫁ぎ、結婚して間もなく、戦時中に出兵した最初の夫に病死され、ずっと年下の夫の弟と再婚させられた母。その後3児をもうけたが、その夫は多額の借金を押し付け、他の女性の元へ走った。4人の子の母として、また農家の大黒柱として夜明け前から夜中まで働きずくめの日々。借金を背負いながらも、母は必死に生きてきた。
 老いて倒れた母は、いま生きる意味を見失い、「死にたか」とつぶやく。しかし私にとっては掛け替えのない母である。次男の私は、40歳半ばになっても就職も結婚もせず、母の期待を裏切り続け、ずっと母の最大の心配の種だった。そんな私は、わずかでも罪滅ぼしをせずに母を死なすわけにはいかなかった。私にできることは、一時も長く母の側にいて、「あなたは生きていていいんだ、いや生きてほしいんだ」「あなたに生きていてほしいと願う者がここにいるんだ」と、もう思考能力の薄れた母に全身で伝えることだった。1999年、母が倒れ、危篤状態から奇跡的に回復した直後から、私は2ヵ月に1度は必ず故郷の佐賀に帰ることを自分に義務づけた。たとえ海外で取材中であろうと、その旅先から福岡空港へ直行し、佐賀へ向かった。帰ると、1週間ほど実家から1キロほど離れた老人ホームへ通い、母の側に朝から夜まで付き添った。ベッドの横に机を用意してもらい、母が眠るときはその机で仕事をしながら、母が目覚めるのを待った。1週間後、私が老人ホームを去るとき、母は決って「お前がおらんごとなったら、どがんすっきよかか(どうすればいいか)……」と子どものように泣いた。
 そんな生活が2年ほど続いたのち、壊疽(えそ)を起こし始めた足指を治療するために入院した完全看護のはずの病院で、母は食べ物を喉に詰まらせて急死した。享年84歳だった。
 あれからもう7年が過ぎた。今、病室で自由に動き回ることもできない老いた患者たちがベッドでじっと横になっている姿を見ると、同じように一日中ベッドで過ごし、「こがんしてまで生きとうなか。はよ死にたか……」とつぶやいた母の姿を思い出してしまう。
 この老いた患者さんたちに必要なのは物理的な医療だけではないのではないか。生きる意味さえ見失いかけている患者さんたちに「自分は生きていてもいいんだ」「生きていたい」と感じさせる“心のケア”も医療と同じくらい重要だと思わずにはいられない。

(附記:10月16日に退院できました)

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