Webコラム

日々の雑感 143:
【ガザ現地取材】 サムニ・ファミリー虐殺事件(1)

2009年1月25日(日)

 ガザ市内から車で10分ほど南に下った郊外、ガザ地区を南北に貫く幹線道路サラフディーン通りから西に100メートルほど西に入ると、突然、家々が瓦礫となった地区に入る。周囲は農園だ。農家が大半だった40軒近いサムニ・ファミリーが暮すこの地区にイスラエル軍の空爆が始まったのは地上侵攻が始まった1月3日の夜だった。F16戦闘機による空爆と戦車の砲撃。そして空からは、パラシュートでイスラエル兵たちが舞い降りてきた。複数の住民が、その兵士たちはハマス武装組織「カッサム」の軍服で変装していたと証言している。翌朝、住民たちは1軒の家に集められた。女性や子どもなど120人ほどが 1軒の家に押し込められたという。その後に起こったことを住民の1人、マヘル・サムニ(42歳)は次のように証言する。

「朝になると、イスラエル軍が近所の住民を1軒の家に集めているのがわかりました。イスラエル軍は住民を尋問し、多くの住民に手錠をかけ目隠しをしました。120人以上の住民が閉じ込められました。サムニ・ファミリーを1つの場所に集めたのです。

子どもたちを含め120人ほどが集められたとき、飛行機からの空爆と戦車の砲撃の音が聞こえ、地上ではブルドーザーの音がしました。その音に、閉じ込められていた住民は恐怖に陥りました。小さな子どもたちは遊んだり食べる物をねだったりしていました。その後、子どもたちはお腹が空き、喉が渇いて泣き叫び始めました。2日間、イスラエル軍からは水も食べ物も与えられていなかったので、家にあった水と食べ物はすぐになくなってしまったのです。2日後、イスラエル軍はミサイルでその家の天井を爆撃しました。

天井にミサイルが撃ち込まれたとき、2人が殺されました。その1人は私の息子でした。息子と従姉妹が殺されました。私は他の家にいました。2人の遺体を見て、周囲の住民たちが泣き叫びました。その後、イスラエル軍はもう1発のミサイルを撃ち込みました。2発目で6、7人が殺され、多くの人が負傷しました。遺体の破片が周囲に飛び散っていました。ミサイルは時間をおいて撃ち込まれたので、攻撃がやんでいる間、無事だった人々は負傷した人を助けようとしました。服を引き裂いて、負傷者の傷口をふさいだりしました。スラエル軍はさらに3発目を撃ち、家の中にいる者は周囲がまったく見えなくなりました。みんなは、あちこち走り回りました。家の中は血と遺体でいっぱいになりました。家の中にいた人ちは気が狂ったようになって、家を出ようとしました。そこで白旗を掲げてドアを開け、負傷者を連れて外に出ました。負傷者は頭や体などから血を流していました。イスラエル軍は他の家でも住民が避難することを許しましたが、2人だけ人質として残しました。住民が家を出ると、それらの家々はミサイルで破壊されました」

 また29歳の女性、ナイラ・サムニは次のように証言する。

「イスラエル軍は大半の住民を1ヵ所の家に集めました。それは私の兄の家で住民 が集められる前は、私の息子、姉妹、母、兄の嫁など14人がいました。やがて兄嫁の出産が始まり、血を流し始めました。救急車を呼ぼうと赤十字に訴えましたが、赤十字はこの地区に救急車を送ることができませんでした。イスラエル軍がこの地区への一切の立ち入りを禁止していたからです。

午前6時に、私たちが避難していたその家に4発のミサイルが撃ち込まれました。その時私は眠っていましたが、目が覚めたときミサイルの破片が私の脚の間にあることに気付きました。自分の脚で立ち上がれるかどうかわかりませんでしたが、立ち上がろうとしました。周りを見ると、兄や従兄弟、親戚たちの遺体がありました。他にも、ある人は殺され、ある人は負傷していました。ミサイルは窓から撃ち込まれていました。最後のミサイルは屋根から侵入していました。生き残った家族は大混乱に陥っていました。どうしたらいいのかわかりませんでした。ある者は家から飛び出し、ある者は家の中を走り回っていました」

 その後の出来事をナイラはさらに次のように語った。

「生き残った者たちは一団となって白旗を掲げて外に出ました。兵士たちは私たちが家を出るのを制止しようとしました。生き残った者の多くが血を流し、死にかけていました。ついにイスラエル軍は私たちが家を出ることを許しました。そして安全な場所にたどり着くまで長い間歩きました。そこで救急車が私たちを待っていました。イスラエル軍による救急車への銃撃でこれまでに何人かの救急隊員が負傷してるので、救急車も私たちのいた地域に立ち入ることができなかったのです。救急車は私たちが連れてきた負傷者たちをすぐにシェファ病院やエルサレム病院などへ運びました」

 さらにファーレズ・サムニ(59歳)はこう証言する。

「20人以上の住民がそこで殺されました。生き残った者の中には負傷した者もいたし、無事だった者もいました。その後、白旗を掲げて家を出ましたが、その中には負傷して血を流している者もいました。私は6、7人の子どもと共に家に残りました。その子どもたちは、負傷して動くことができなかったからです。なんとか外に逃れることができた住民が救急車を呼びました。

4日後に、やっと赤十字がなんとか中に入ることができました。私は血を流している子どもたちや遺体に囲まれていました。食べ物も水もありませんでした。イスラエル軍は負傷者の搬送だけを許可し、遺体の収容は許可しませんでした。負傷した住民はガザ市内かエジプトかサウジへ治療のために送られました。

14日後、イスラエル軍がこの地区から撤退したとき、遺体を収容するために現地へ戻りました。そこで破壊された家々を見て衝撃を受けました。すべての家が破壊されていたのです。遺体も崩れた瓦礫の下敷きになっていました。遺体を瓦礫の中から収容するのに大変な苦労をしました。もうこの地区には、誰かの財産といえるようなものはなにも残っていません」

 また先のマヘル・サムニはさらにこう語る。

「サムニ・ファミリーのうち29人が殺されました。私は父と息子を亡くしました。また息子の農場も失いました。従姉妹の家も無くなり、養鶏場も破壊されました。

私の家も完全に破壊されてしまいました。イスラエル軍は私たちを家から追い出したのち、家を破壊してしまったのです。私たちは何もしていないのに。残っている家ももう住めるような状態ではありません。この地区には40軒の家がありました。サムニ・ファミリーの家々が破壊されました。22軒が完全に破壊され、他の家は部分的に破壊されました。

私たちは避難した後も赤十字に対して、残された者たちを救助し、遺体を収容しに来てほしいとずっと嘆願し続けました。殺された者の中には生後6ヵ月の子、2ヵ月の子、3歳の子もいたのです。しかし『イスラエル軍が現場に入ることを許さない』と彼らは言いました。

15日ほど経ってやっとこの地区に戻ったとき、私たちは全てが破壊されたのを目撃した。まるでツナミの跡のようでした。遺体は瓦礫や石の下敷きになっていました。オリーブの木々もなぎ倒されていました。死後15日が経っていた遺体がどんな状態だったかは、わかってもらえると思います。それらはもう腐乱していました」

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