Webコラム

インタビュー「パレスチナと私」

2009年7月9日(木)

以下は、映画『沈黙を破る』の広報のために行われたインタビューです。

イスラエルとの出会い

(質問)土井さんの経歴は、81年に中東専門雑誌記者としてスタートして、その後28年に渡ってパレスチナ・イスラエル問題に取り組んでいますが、パレスチナに関心をもたれたきっかけを教えて下さい。

僕は小学生の頃、アルベルト・シュバイツァーの本に感動して以来、ずっと医者になりたいと思っていました。「治療で他の人を助ける医者の仕事は、いちばん生きがいのある仕事」だと思ったからでした。でも実家は佐賀の農家だから、私立の医学部に行くお金はありません。国立の医学部を何度も受験しました。でも失敗し続け、3年浪人しました。「人生で落ちこぼれた」という劣等感と惨めさで、同級生たちや知人、友人たちにも会えない、対人恐怖症になりました。劣等感で苦しむ悪夢を何年も見続けました。

その後、6月に入試があった地方の国立大学に身を置きながら、それでも医学部のための受験勉強を続けていましたが、また失敗したとき、もうその夢を追い続ける気力もなくなりました。しかし少年時代から1つ夢を追い求めてきた私は、それに代わる夢がすぐにはみつからない。何を何のために大学で学ぶのかもわからず、悶々とした日々を送っていました。

「広い世界を見てから、もう一度新たな夢を探そう」と世界放浪の旅を思い立ったのは、大学に入って3年目の1976年春です。土木作業のアルバイトで資金集め、ヒッチハイクの練習のため全国縦断、英語の練習のために米軍基地通い……、準備に1年を費やしました。行く先は、アフリカの赤道直下にあるガボン。シュバイツァーの病院と墓でした。「そこに立てば、何か新しい活路が見えてくるのでは」という、今考えれば、青臭いナイーブな発想からでした。

盗難事故での大金の紛失、ジャングルの町での大火傷と1ヵ月におよぶ入院生活などさまざまなアクシデントを経て、7ヵ月後にやっとシュバイツァー病院にたどり着きました。しかし、墓の前に立っても、これからの活路は何も見えてきませんでした。ただ今考えれば、それは小学生時代からの夢を断ち切る“儀式”だったのかもしれません。「これから何を目指して、どう生きるか」。これが、シュバイツァー病院以後の旅のテーマになりました。しかし、なかなかそれが見つからない。苦しい旅でした。

カメルーンのジャングルをヒッチハイクしている途中、マラリアに倒れてまた入院、やっと回復してサハラ砂漠の縦断の旅にかかったのは1977年の暮れでした。

その旅の同行者数人の中に1人の日本人青年がいました。5年間、1年の半分をイスラエルのキブツ(集団農場)で過ごし、残りの期間は世界を旅する青年でした。「君はイスラエルって知ってる?」「いいえ」「君、イスラエルを知らずして、世界を知ったなんて思ってはいけないよ」。夜毎、砂漠の砂の上に寝転び満天の星を仰ぎながら、彼はイスラエルでの体験を私に語ってきませました。緑に囲まれた美しい環境、労働のための労働、男女平等の共同生活……。そのわくわくするような彼の話に、私の中に「理想郷・イスラエル」のイメージがどんどん膨れ上がっていきました。それが、私の“イスラエル”との出会いでした。1ヵ月のサハラ砂漠縦断の旅を終えるころ、「イスラエルのキブツ」が次の旅の目的地になっていました。

北アフリカのアルジェアからヒッチハイクしてたどり着いたパリで偶然、3人のイスラエル人青年たちとで会いました。兵役を終え海外旅行をしている青年たちです。彼らと小さなアパートを借りて1ヵ月間、共同生活する中で、彼らから聴かされる「素晴らしい祖国イスラエル」の話が、イスラエルへ行きたいという私の思いをいっそう掻き立てました。

1978年1月、私はパリからイスラエルへ飛び、ヨルダン渓谷にある、住民500人ほどのキブツにボランティアとして入りました。そこはサハラで出会った日本人青年の言葉どおりの「理想郷」のように当時の私には思えました。何ヵ月か過ぎたころ、キブツのイスラエル人に「次に生まれ変わるとしたら、どこで何人として生まれきたい?」と訊かれたとき、迷いなく「ユダヤ人としてイスラエルに生まれたい」と答えるほど、私は「親イスラエルの日本人」になっていました。

パレスチナとの出会い

(質問)当時、パレスチナの問題についてはどう思っていたのですか。

何も知りませんでした。そんな私に転機がやってきたのは、6ヵ月のキブツ体験が終る頃でした。仲間のオランダ人ボランティアが、「お別れ旅行でガザへ行こう」と私を誘いました。私はガザがどこにあるかも知りませんでした。1978年6月、私は誘われるまま、未知のガザへ向かいました。最初に訪ねたのは、ガザ市郊外のビーチ難民キャンプでした。隙間なく延々と連なるトタンとブッロク作りの貧弱な家々、悪臭を放つむき出しの下水とゴミがあふれる路、そしてそこを行きかう人、人、人。そこは美しい緑に囲まれ整然としたキブツの環境とは対極の別世界でした。たちまち私たちはキャンプの青年たちに囲まれました。

「どこから来た?」「日本人だけど、今はキブツに住んでいる」と私が答えると、青年の1人がむっとした表情で「君はそのキブツが元々、誰の土地か知っているのか?」と私に訊きました。その問いかけが、まさに私の“パレスチナ問題”との出会いでした。

青年たちが語るパレスチナ人の歴史は、「理想郷」の生活を満喫していた私には鉄棒で頭をぶん殴られるような衝撃でした。私は1953年生まれで、中学、高校時代は、連日のように新聞の国際面がベトナム戦争のニュースで埋められていた、いわゆる“ベトナム戦争世代”です。都会の意識の高い同世代の青年たちの中には、「ベ平連」などベトナム反戦運動に関わっていた人が少なくない時代です。しかし佐賀の田舎に育ち、医者になる夢以外は頭になかった私は、そういう国際問題にも国内の社会・政治問題にもまったく関心を持たない、いわゆる「ノンポリ」青年でした。まったく政治意識もなく、真っさらだったがゆえに、初めて全身の知覚で触れた国際問題である“パレスチナ問題”に強烈な衝撃を受けたんだと思います。

もっとパレスチナ人を知りたいと思い、私は今度は独りで、ヨルダン川西岸にある難民キャンプを訪ねました。そこで、自分たちは貧しくても、持っている最高の物を差し出し、客人をもてなすパレスチナ人の“豊かな文化”を体験しました。それはイスラエル人から訊かされていた「野蛮で、どう猛なテロリスト」のパレスチナ人ではなく、難民という苦境の中でも“心の豊かさ”と失わない“人間・パレスチナ人たち”の姿でした。「この人たちのことを勉強したい」。大学でも学ぶ目的がわからず、ほとんど講義も出ていなかった私が、初めて「学びたい」と心底思った瞬間でした。

1年半の放浪の旅を終えて大学に戻った私は、これまで仮に席を置いていた「比較文化」というコースから「国際関係論」に変更し、一から出直すことにしました。パレスチナ問題を学ぶためです。しかし当時、大学にはパレスチナ問題を教えてくれる先生はいませんでした。だから現地から新聞や研究誌などを取り寄せ、また当時、この問題で出版されていた広河隆一さんらの本などを読み漁り、パレスチナ問題を独学しました。大学に入って本気で勉強したのは、この時が初めてでした。

2年後、私が大学に提出した卒業論文は「パレスチナ人の基本的人権に関する一考察」というタイトルです。それは、当時、ベトナム戦争下における住民の人権侵害を体系的に分析した社会学者、芝田進午氏の手法を占領下のパレスチナ住民に応用したものでした。その後の私の仕事は、そこで得た問題意識と視点を、現地の取材を通して具体的にルポルタージュや映像で探求していていく作業だったような気がします。つまりその後のジャーナリストとしての私の仕事は、28年前の卒論の延長なのです。

私はその卒論を、著書を参考にさせてもらった広河隆一さんに読んでもらうために、広島から東京に上京しました。それが広河さんとの最初の出会いでした。

ジャーナリストの道へ

(質問)ジャーナリストを目指したのはその頃ですか。

大学生活の終わりのころ、私は朝日新聞記者(当時)、本多勝一氏の著書『戦場の村』と出会いました。衝撃でした。まるで読者がその現場に立って目撃しているかのような錯覚を起すほどに、その状況を乾いた文章で淡々と記述していく。ルポルタージュはこれほどまでに人に衝撃と感動を与える力があるのだと私は初めて思い知りました。「こんなルポを一生に一度でもいいから書いてみたい。その後の人生はどうなってもいい」、心底そう思いました。それが私のジャーナリストの道へ踏み出すきっかけでした。

大学を卒業したのが28歳。年齢制限でどこにも就職口はありません。上京してアルバイトしながらルポライターへの道を模索しました。「私が初めて全身で衝撃を受けた国際問題、占領下のパレスチナ人について、『戦場の村』のようなルポを書く」。その夢だけが自分の支えでした。ちょうどそのころ、私の卒論を読んでくれていた広河さんから、中東専門雑誌の編集記者をやってみないかという誘いを受けました。ルポライター修行のためには願ってもない環境だと思い、二つ返事で飛び込みました。それから2年間、見よう見まねで文章と写真の修行をしました。

次は取材の資金です。『ジャバン・タイムズ』の求人広告で見つけたのは、サウジアラビアでの「日本企業の駐在員」の仕事でした。1984年から1年間、私はサウジ東部の工業都市のオフィス・マネージャーとして勤務します。その間も私はルポを書く修行を続けていました。当時、私のオフィスで働いていたフィリピン人スタッフの生活とその家族を追ったルポ「輸出されるフィリピン人出稼ぎ労働者」は「朝日ジャーナル・ノンフィクション賞」に入選、ルポを書く自信が少しついてきました。

1年間で貯めた200万円ほどの資金を元に、占領地のヨルダン川西岸に入ったのは1985年5月です。それから1年半、ラマラ近郊の難民キャンプ入り口の民家を拠点に、占領地の各地を取材して回りました。その結果書き上げたパレスチナに関する最初の著書が『占領と民衆─パレスチナ─』(1988年 晩聲社)です。このタイトルは『戦場の村』が新聞連載された時の原題『戦争と民衆』を真似たものでした。「『戦場の村』のようなルポを書きたい」と思い立ってから7年が過ぎていました。

(質問)土井さんが活字だけではなく、映像での表現をするようになったのは、どういう理由ですか。

理由は3つあります。1つは、経済的な理由です。1991年の湾岸戦争直後、私は1年ほど週刊誌『朝日ジャーナル』の嘱託記者をやっていましたが、その雑誌が休刊になり、まったくのフリーになりました。しかし、私には執筆だけで生活していく自信も力もありませんでした。そのとき、NHKの友人に勧められてビデオを回し始めました。最初は使い物にならない素人映像でしたが、その後、少しずつ撮るコツを覚え、徐々にテレビで発表する機会が生まれてきました。テレビに映像を発表して得る収入は、活字媒体での収入と一桁違っていました。テレビ番組を2、3本発表すれば、私のように質素な生活に慣れている者なら1年は食いつなげます。

2つめは、映像のもつ魅力です。視覚と聴覚の両方に強烈に訴える映像の表現力とインパクトは活字の比ではないと思いました。編集の技術も少しずつ身につけていくと、ますます映像表現の面白さにのめり込んでいきました。

そしてもう1つは、映像は国境を越えられるということです。日本の活字で表現したら、伝えられる対象は日本人だけです。しかし映像は、そのテロップを英語文字に変えただけで、世界に広がっていく可能性があります。実際、私が最初に発表したドキュメンタリー映像『ファルージャ2004年4月』は、日本語字幕を英語に変えたDVDがアメリカの各地で上映され、ミラノ映画祭でも公開されました。『沈黙を破る』も、当初から、パレスチナ情勢に大きな影響力を持つ欧米での上映を念頭においていましたから、現在、英語版を制作中です。

映画製作について

(質問)テレビ番組ではなく、映画を作りたいと思われたのはなぜですか。

テレビ番組と映画の違いは、活字の世界でいえば、雑誌記事と著書の違いのようなものかもしれません。テレビ番組は、私個人の意向というより、テレビ局側つまりディレクター、プロデューサーの意向が強く反映されます。そしてできあがった番組も、たとえ自分の映像による番組であっても、もう私の作品ではなくテレビ局の番組で、その後自由に使用することはできません。

またテレビ番組には厳格な時間制限があり、その枠に押し込めなければならないため、出したい映像を納得いく長さで使うことができないことも少なくありません。放映された後も消化不良のフラストレーションが残ってしまうんです。また番組で使えなかった莫大な量の映像は、1度も人の目に触れる機会もなく、永遠に引き出し中に眠ってしまいます。

一方映画は、テレビと違い、ある程度自由に長さが決められ、自分の意向も存分に反映できます。しかも自分の作品となります。つまり著書と同じに、自分がこれまで生きた軌跡の1つとして、ずっと残っていきます。1度放映されたら消えてしまうテレビ番組とはそこも違います。

(質問)映画を観たときに、パレスチナ人の生活が描かれていることによって、遠い世界のことではなく、パレスチナ人やイスラエル人を自分と同じ人間として見ることができました。

私は、映画『沈黙を破る』は「パレスチナ・イスラエル問題」という枠を突き抜けて、人間の普遍的なテーマに迫るものにしたいと願いながら制作しました。そのために、いくつか留意した点があります。

1つは、人間をきちんと描くこと。つまり固有名詞で、等身大で、しかもその人物の内面をも描き出すことです。2つめは、それと関連しますが、パレスチナ・イスラエルの現場を素材として、人間共通の“普遍性”を引き出していくことです。3つめは、表層的な現象ではなく、取上げる問題の“構造”を描きだすこと。そしてそのためには、パレスチナ人側という一面ではなく、“合わせ鏡”のように、対立するイスラエル側もきちんと人間として描き映しだすことです。

もしこの映画で、日本人観客がかつての中国大陸での旧日本軍将兵の姿を重ね合わせて観たり、アメリカ人がベトナムやイラクに派兵された米軍兵士の姿を思い起こしたり、さらに現代の日本人が自分が生きている今の姿を映し出して見つめる、そんな映画として観てらえるとしたら、成功だと考えています。

(質問)パレスチナの住民たちが、大人も子どももカメラをほとんど意識していない。土井さんを受け入れているのがわかります。彼らの日常を撮っている。彼らとの関係性はどうやって築いていったのですか。

もし人びとの日常の素顔が撮れ、本音に近い声が拾えているとすれば、それは、私の人びととの関わり方や撮る姿勢に関係があると思います。

まだ共同体がしっかり残っていた農村の大家族の中で育った私は、同じように“濃い人間関係”が生きている難民キャンプの家族の中に入っていくことは、何の違和感もなく、むしろ自分の子ども時代に戻ったような懐かしさと安らぎを覚えます。だから彼らの生活にスッと入っていけます。居心地よさそうなこちらの姿に、相手も安心し警戒心を解くのかもしれません。

そしてもう1つ、私が相手を取材対象として上から見下ろすような姿勢で見ていないことを、相手が感じ取ってくれるからでしょう。「負け惜しみ」「自己肯定」と笑われるかもしれませんが、私自身がかつて挫折し“負け犬”になった体験が、“人の痛みを感じ取る感性”を私にいくらかなりとも与えてくれたのではないかと思うことがあります。占領下のパレスチナ人たちの苦難を目の前にすると、自分のかつての心の傷が疼きだすような気がします。だから、ある意味では、あの挫折が私のジャーナリストとしての仕事の上で“財産”となっていると言えるかもしれません。

これも、私の挫折の体験と劣等感、今なお迷いながら生きている体験から来るのでしょうが、私はあの人たちから学びたいという気持ちをいつも持っています。あの苦境の中で、深い家族愛でつながり、他人を思いやる“心の豊かさ”を失わない人びとの中にいると、自分自身が問われます。「経済的には彼らより豊かであるはずの私は、あの人たちのような家族愛や、他人を思いやる優しさを持っているだろうか」と。『届かぬ声─パレスチナの占領と民衆─』の第1部『ガザ─「和平合意」はなぜ崩壊したのか─』」で登場するジャバリア難民キャンプのエルアクラ家に住み込んでいたとき、貧困の中でも失われない家族のぬくもりの優しさに、私は何度も胸が熱くなりました。そして“豊かさとは何だろう”と自問していました。感動し、学びたいというこちら側の姿勢が相手に伝わり、その心を開かせることになっているのかもしれません。

(附記:『沈黙を破る』は、長編ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人々─』4部作の第4部)

『沈黙を破る』

(質問)「沈黙を破る」のメンバーの真摯な告白が胸を打ちます。とても20代の若者の発言とは思えませんでした。またイスラエル政府や軍、そして社会をあれほど痛烈に、しかも公に批判することができることにも驚きました。

私自身、20代半ばのあの青年たちの語りの深さに驚き、感動しました。同世代の日本の青年たちからは絶対に聞けない言葉でしょう。「占領地での兵役」で自己と葛藤し、悩み苦しんだ体験が、あのような深い内省の言葉と紡ぎだしているのだろうと思います。

彼らの証言に目を通した精神科医・野田正彰さんが指摘されているように、あのような発言が公にできるのは、イスラエル社会にはまだあのような声を“聴く社会”があるからだと思います。野田さんによれば、「聞いてくれる人たちとの人格的な関わりができ、それを通して自分の意味を感じられる」というのです。

そこが日本社会と違うところでしょう。「日本の社会ではこういう発言をする文化が希薄で、受け止める下地がない。周囲からの脅迫にさらされ、家族や親族からも『そういうことを行ったら、職場や学校でまずいことになり、生きていけないよ』という“柔らかな懲罰”が加わる」と野田さんは言います。

この映画は、登場する人たちの姿と言葉の“鏡”に、私たち日本人と日本社会を映し出しているといえるかもしれません。

(質問)パレスチナの占領を取材してきた土井さんが、イスラエル人を取材するのは難しいことですか。

パレスチナ・イスラエル問題で、私はいわゆる「中立」ではありえません。私は明らかに、最大の被害者であるパレスチナ人側に立っています。しかし、決して偏見をもってイスラエル人と向き合ってはいないつもりです。彼らの言い分もきちんと聞きますし、伝えます。またそうしないと、この問題を立体的、重層的に伝えることは難しいと思います。パレスチナ人とイスラエル人とは“合せ鏡”のようなものだと思います。双方をきちんと伝えてこそ、この問題の構造が見えてきます。『届かぬ声』第3部『2つの“平和”─自爆と対話─』でも、自爆する側と自爆された側の言い分をきちんと伝えることに腐心しました。そうすることで、さらに説得力が強まるからです。

4部作全体を通して私が最も気を配ったことの1つは、「パレスチナ支援運動のための作品にしない」ことでした。つまり一方の側の言い分だけを羅列し、敵対するイスラエル側の声を無視するやり方です。そうしてしまうと、私が伝えたいイスラエル側の人びとや一般の人びとは拒絶反応を起してしまい、ほんとうに私が伝えたい声が彼らに届かなくなってしまうからです。

(質問)『沈黙を破る』は、音楽もナレーションもありません。どのような意図がありましたか。

ジャーナリストの役割は、本人がその思想と感性で“感動し伝えたい事柄”や“問題の本質に関わる事柄”と思った事象を、それを持つ“手”が見えない黒子となって、伝えたい相手の前にそっと差し出すことだと私は考えています。そこにジャーナリストの“手”が見えてはいけない。相手に見てほしいのは、ジャーナリストの感性が「本質に関わる大切なことだ」と捉えた事情そのものです。それに脚色をする必要はありません。「ほら、ここで感動してください」と言わんばかりに、ナレーションの言葉使いや声の抑揚、感情を煽るような音楽で“誘導”することは、かえってそのドキュメンタリー映画が持っている本来の力を削ぐことになりかねません。そんな脚色をしなくても、ジャーナリストが選び撮った事象が“本物”なら、その事象そのものが人の心を揺り動かすはずです。

私が理想するとするドキュメンタリー映像やルポルタージュは、視聴者や読者を“現場へ連れていく”作品です。まるで自分が現場に立っているような錯覚を起させる作品です。その現場で聞こえてくるのは、風の音だったり、鳥の声だったり、人びとの雑談の声や笑い声であるはずです。現場にはナレーションも音楽もないのです。

ジャーナリストととして

(質問)土井さんの、ジャーナリストとしての意義や目的地はどこにあるのでしょうか。

私は、自分が生きている意義と幸せをいちばん感じられるのは、自分の存在と行為が、他者にプラスの影響を与えることができたときだと思います。例えば医者は、自分の医療行為によって、患者の命を救ったり、苦痛から解放してあげることができる。それによって、その医者は存在意義を自覚でき、生きがいを実感できる。それほど明確な意識があったわけではないでしょうが、私が小学6年生とき、ジュバイツァーに感動し医者になりたいと思ったのは、それに似た漠然とした思いがあったからだろうと思います。しかしその夢は挫折しました。

いま私はジャーナリストとして、自分の仕事に最も意義を感じるときは、自分が伝えることで、声を届ける術もない弱者、被害者たちの心の叫び声を、私が“伝え手”として広く社会に伝えることで、その人たちの状況が、「−1」から「0」に、「0」から「1」に好転させるきっかけになりえる時だと思っています。つまり“私は存在する意義があるのだ”と実感できるときです。私が“パレスチナ”を伝えることで、そこで生きる人びとの苦難をより多くの人たちに伝え、その状況を変える動きを起す1つのきっかけになりえたら、私の仕事の意義はあります。それは、私の存在意義の自己確認でもあります。

私の『沈黙を破る』もそうです。この映画によって、パレスチナ・イスラエル問題への認識が深まり、状況を変えるための一助になれば、私はこの映画を作った意義もあり、そして私が生きている意義を再確認できます。

私は医者への道は挫折しました。しかしジャーナリストとなった今も、追い求めているものは変っていないような気がします。

(質問)映画が完成した後、パレスチナとどう関わっていきますか。

パレスチナの戦場や占領下の苦難の中で生きる人びとを取材していると、人間のむき出しの醜部を目の当たりにするときももちろんありますが、一方で、きらっと輝く人間の美しさ、優しさに出会う機会も少なくありません。そんなとき、深い感動を覚えると共に、自分自身の生き方、価値観を問われる思いがします。

私は、人間としても、そしてジャーナリストとしても、“パレスチナ”に育てられました。パレスチナ・イスラエル問題が近い将来、解決するとは思えません。私はこれからも現場へ通い続け、取材を続けていくと思います。そしてこれかも、“パレスチナ”は私がものを考え、人間として成長するための“学校”であり続けると思います。

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