Webコラム

日々の雑感 155:
パレスチナ日記 7

2009年9月6日(日)西岸の街へ小さな旅

 「審査中」というGPOから結果を訊きに何度もオフィスに足を運ぶが、「待て」の繰り返し(GPO: The Government Press Office/ジャーナリストにプレスカードを発行する行政機関。イスラエルによって封鎖中のガザに入るためにはイスラエル当局が発行するプレスカードが必要)。もし来週の初めまでに結果が出なければ、火曜日の夜中に出る飛行機で帰国しようと決めた。それまではとにかく待つしかない。しかもオフィスが休日で閉まる金、土曜日にはまったく動きがとれない。じっと宿舎で過ごすのももったいない。そこで週末に西岸の街を訪ねることにした。
 金曜日はイスラム社会では休日なので、キリスト教徒の多いベツレヘムだったら、街は賑やかだろうと思った。東エルサレムのバス・センターから「21番」の小型バスで向かう。ギロ入植地の手前からヘブロンへ向かう道路(主にヘブロン地区、グシュ・エツィオン地区のユダヤ人入植者たちが利用する道路)で南下、ベイト・ジャラ町を通り、ベツレヘムへと向かう。しかし午前9時過ぎの商店街はまだシャッターを閉めたまま。生誕教会前の広場前も商店は閉まったままで閑散としている。観光客も少ない。期待を裏切られ、すぐにエルサレムへ引き返すことにした。2つの方法がある。1つはタクシーでエルサレム地区とベツレヘム地区を区切る検問所を通過し、バスに乗り換えて戻る方法。ここでは空港のようなX線による荷物検査と金属探知機を通過し、兵士たちの尋問を受けねばならない。それを考えると気が重い。
 もう1つの方法は、同じ「21番」のバスで来た道を引き返す方法だ。この場合、ヘブロン道路の検問所を通らなければならない。ここはパスポートやビザを見せるだけで済む。私は後者を選んだ。検問所前には長い車の列ができていた。私たちの番になると、全員が車から降ろされる。そして一人ひとりIDカードやパスポートが若い女性兵士にチェックされる。パスすれば、バスに戻る。10分ほどで通過できた。それにしても、銃を持った若い兵士たちの横柄で傲慢な態度には辟易させられる。

 翌日の土曜日は、ナブルスへ向かうことにした。悪名高いフワラ検問所をはじめ、街へのアクセスが緩和され、多くの住民が街に押し寄せ、ビジネスが近年にない繁栄をしているとある特派員から聞いていた。その現状をこの目で見ておきたかった。
 もう1つ、ナブルスへ向かう目的は、映画『沈黙を破る』に登場するバラータ難民キャンプのモハマドに会い、その近況、とりわけモハマドたちが進めていた劇場建設がどうなったのかを報告するために見ておかねばならなかったからだ。
 ラマラまで「18番」の小型バスで難なく着けた。そのラマラの乗り合いタクシー乗り場で、ナブルス行きのタクシーに乗り込む。7人の乗客を乗せる黄色の乗り合いタクシーだ。15シェケル(約360円。現在1シェケル=約24.5円。ラマラまでは6.5シェケル)は、70キロほどの距離を考えれば決して高くない。聴いていた通り、かつて通過を待つ人と車でごったがえしていたフワラ検問所は閑散としていた。検問する兵士がいなくなったわけではないが、以前のように車を降りて、検問所を歩いて通過し、次の車に乗り換えるようなことはしなくてよくなっている。私たちのタクシーもまったく検問されることなく、すっと通過した。これが住民たちをどれほどストレスから解放していることか。
 私は、バラータ難民キャンプ沿いの道でタクシーを降りた。モハマドと再会したのは2年ぶりである。何度電話してもモハマドが出ないのが気になっていた。木曜になってやっと彼が電話に出た。勤めていたUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の障害児の施設を解雇され仕事を失ったのだという。やっと手にしたやりがいのある仕事を失い、また失業状態になったモハマドの声は元気がなく、不機嫌そうだった。
 会ってみると、以前と変わらないように見えた。彼は私をバラータ内のNGO「ヤッファ・カルチュラル・センター」へ案内した。そこで私はモハマドとセンターの代表マフムード・スブハに、映画『沈黙を破る』の日本語版で、2002年と2007年のバラータ難民キャンプの様子を見せた。7年前のバラータの様子と登場する青年や子どもたちの姿がモハマドやマフムードには懐かしいらしく、「もうこの子はこんなに大きくなっている」などと言いあっている。

 映画に登場する劇場のその後について訊くと、UNRWAは障害児の施設運営の継続をあきらめたため、施設の建設は当時のままだという。しかも予算カットでモハマドたちスタッフも数ヵ月前に解雇されたというのだ。
 彼が私の電話になかなか出なかったのは、ラマダン中で昼近くまで眠っていたこともあろうが、失業して失意の中にある彼は、かつての自分を知っている者たちと接触したくなかったのかも知れない。しかも野菜市場で働いていた弟アハマドが結婚して子どもができたという。パレスチナ社会では、20代後半になっても結婚しない男性は異様な目で見られがちだ。そんな社会の空気の中で、40歳近くなったモハマドは、弟が結婚できて自分ができない現状に、口には出さないが孤独感、悲哀感、疎外感に苦しんでいるにちがいない。
 かつて長くアメリカで暮らしていたマフムードの通訳で、モハマドが障害児のための施設の新設と、建設中止状態の劇場の建設継続を計画していることを知った。それが実現すれば、失業状態にあるモハマドが生きがいのある仕事を再び始めることができるはずだ。問題は資金だ。しかも運営費をも援助するためには、継続的な資金が必要となる。大きな支援組織を見出だす必要がありそうだ。

 ナブルスの街を歩いた。ラマダンの午後、商店街は買い物客でごったがえしている。2002年のイスラエル軍侵攻直後の状況を目の当たりにした私は、その変わりように驚かされる。7年前のあの状況を、現在の活気ある商店街の光景からは想像することもできない。ヨルダン川西岸の都市間の検問が緩和されたことで、多くの住民が街に集まるようになり、週末はイスラエル内のアラブ系市民も買い物などでヨルダン川西岸に自由に入ってこられるようになった。これによって、西岸の経済にいくらか活気が戻ってきた。これはイスラエル当局が、西岸でのアッバス政権の人気の回復と、住民のハマス離れを促すことを狙っているのだろう。
 ナブルスからラマラまで乗り合いタクシーで1時間ほど。この間、イスラエル軍の検問で止められることはまったくなかった。100キロを超えるスピードで突っ走る。
 しかしラマラからエルサレムまでは渋滞とカランディアの検問で1時間半を要した。前者は15シェケル、後者は6.5シェケル。それは距離の違いと比例している。つまりラマラ─エルサレム間は、半分以下の距離なのに、はるかに時間がかかるのだ。エルサレムへ向かう検問の厳しさがこの時間の差になっている。

 日曜日、今度は南へ向かった。ヘブロンの最近の状況を見ておこうと思ったからだ。ベツレヘムの交差点までは金曜日と同じく「21番」の小型バスで向かう。その交差点からはヘブロンまで直行の乗り合いタクシーで7シェケル。これもまったく検問なし。ヘブロンの街も賑わっていた。繁華街はかつての旧市街周辺のずっと手前に移っている。ナブルスと同様、商店には物があふれ、買い物客が行き交い活気に満ちている。前回、訪ねたときは、シャッターが閉められ閑散としていた旧市街の商店が開いていた。新たな繁華街とは比較にならないが、それでも買い物客が往来している。
 たしかにヘブロンの状況も好転している。

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