Webコラム

映画『沈黙を破る』ができるまで

この記事は、JSC(日本映画撮影監督協会)機関誌「映画撮影」(No.182 2009年8月15日)に一部掲載された文章の全文です。

(2009年9月11日公開)

撮影報告:映画『沈黙を破る』ができるまで

 2000年より7年間にわたって撮りためてきたパレスチナ・イスラエルでのビデオ映像を元にほぼ1年をかけて編集・制作した私のドキュメンタリー映画『沈黙を破る』が5月初旬に公開されて以来、さまざまなご批評をいただいた。中でもいちばん気になったのは映像のプロたち、そしてパレスチナ・イスラエル問題に詳しいジャーナリストや研究者たちからの批評である。だからこそ、公開初日に劇場に足を運んでくださった中東問題の大御所、板垣雄三・東大名誉教授の以下の評価に、不安だった私は暗闇の中に光を見い出す思いがした。

 『沈黙を破る』では、真実にめざめた人たち(イスラエル人たちもアメリカ人も)の、語る「ことば」だけでなく、その語り方や一瞬の表情・口元・うるおう眸まで含めて、語らざるをえず語る「吐露」の行為の衝迫が、そのまま全体性をもったメッセージとして記録されていることに、特別ふかい感銘を受けました。それが、迫害と脅迫にさらされ続けるパレスチナ人の登場者一人一人の、絶叫や怒声・嘆声でなく、異常な日常の中でさりげなく示す無言のすがたや表情一こま一こまの強烈な印象と組み合わさるとき、パレスチナ問題の「悪」の構造が、一層まざまざとえぐり出され照らし出されることになるのです。私などみずから振り返って恥じることですが、生半可な言説や分析など、ほとんど足元にも寄せつけない、閃きをもった表現力を感じました

 ゴールデンウィークという最高の時期に公開されたにも関わらず、期待したほどに観客数が伸びないことに私は焦った。ただ救いだったのは、観てくださった方々の反応がよかったことだ。「自分たち自身の問題を見る思いがして、深く考えさせられた」といった感想に、この映画制作の私の狙いと思いが届いているという手ごたえを感じた。

【制作の過程】

 映画『沈黙を破る』は、私が映像によるパレスチナ・イスラエル取材を開始した1993年秋からほぼ17年間にわたって撮影した数百時間の映像をまとめたドキュメンタリー映像の4部作『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』の第4部に当たる。全体の完成にほぼ3年を要したこの9時間近い映像シリーズを通して私が描きたかったのは、イスラエルによる“占領の実態と構造”だった。
 『沈黙を破る』では、2002年4月のイスラエル軍によるジェニン難民キャンプ侵攻に象徴される“占領される側”の実態と、元イスラエル軍将兵による“占領する側”の証言を元に構成した。とりわけ本映画の核になっているのは元将兵たちの“告白”である。
 1985年以来、パレスチナの占領地でイスラエル軍将兵の凶暴で傲慢な言動を目の当たりにしてきた私は、なぜあのような言動が取れるのか将兵たち自身に直接問いただしてみたいという衝動にずっと駆られてきた。しかし占領地の現場ではほとんど不可能だった。軍規によって将兵たちがジャーナリストの取材に自由に応じることはできないからである。
 しかし2004年夏、イスラエル人の友人から「元イスラエル軍将兵たちが占領地での加害を告白している」と聞き知った。それが「沈黙を破る」のグループだった。私はさっそくその友人の紹介でメンバーへのインタビューを申し込んだ。しかし彼らは丁重に断った。海外のメディアにイスラエル内部の醜部をさらけ出すことは「汚れ物を外で洗濯する」ようなもので、「売国奴」の裏切り行為だという判断からだった。
 しかし翌年、彼らは海外のメディアにも応じる方針へ転換していた。その理由を後に代表のユダ・シャウールは、「この問題はイスラエルに限ったことではなく、人間として普遍的な問題だということに気づいたから」と説明した。一方、イスラエル社会にこの問題を伝え改善していくには、外の国際社会からの非難・圧力が必要だという彼らの判断もあったのだろう。
 2005年夏、「沈黙を破る」代表ユダ・シャウールは私のインタビューを受け入れた。その直後、幹部メンバーの1人、アビハイ・シャロンからも証言を聞いた。私は2人の証言の内容の深さと強さ、そして普遍性に圧倒された。それぞれ2時間ほどの2人のインタビューを終えたとき、これはドキュメンタリー映画になると直感した。元イスラエル軍将兵3人の目のノアム・ハユットにインタビューしたのは1年後の2006年夏、もう1人のドタン・グリーンバルドやその両親、ノアムの母親、さらに「沈黙を破る」顧問のラミ・エルハナンの証言を撮影したのは、さらに1年が過ぎた2007年の秋だった。元将兵たちの取材を思い立ってから3年を経てやっと素材がそろったのである。

 一方、パレスチナ側の主な映像は2002年3月から始まっている。イスラエルの地方都市で起こったパレスチナ人による自爆テロによって20人を超える犠牲者が出たとき、イスラエル軍によるヨルダン川西岸への大規模な軍事侵攻が予想された。私は取材先にバラータ難民キャンプを選んだ。占領への抵抗の最も激しい拠点の1つとなっていた、西岸最大のこの難民キャンプに、イスラエル軍は真っ先に侵攻してくるはずだ。ならば、その侵攻の実態を内部から取材しようと考えたのである。
 私がその難民キャンプに入ったのは、実際にイスラエル軍が侵攻し包囲する1週間ほど前の3月27日だった。ある青年の家に住み込み、彼とその周囲の住民の動きを記録しようと計画した。果たしてイスラエル軍はバラータを包囲し、結局、私はその後、住民と共に11日間、難民キャンプに閉じ込められることになった。当時、キャンプ内にいたジャーナリストは私ひとりだった。つまり包囲され攻撃される難民キャンプの内部の様子を記録し外に伝えられる立場にあったのは私だけだったのである。イスラエル軍が内部まで侵攻してくることを想うと正直、怖かった。数十メートル先からは住民の中に混じる私が外国人であることを兵士たちは識別できないだろう。撃たれる可能性はある。しかし何よりも恐れたのは、私が兵士たちに捕獲され、撮影した映像や写真を没収されて、映っている住民とりわけ武装した青年たちに危害が及ぶことだった。イスラエル軍は包囲し空や周囲から攻撃してきたが、幸い、キャンプの中までは侵攻せず、私の不安は杞憂に終わった。

 ジェニン難民キャンプで多くの住民が殺害されている事実を知ったのは、バラータで包囲されていたときだった。ラジオ・ニュースは100人ほどの住民が殺害されたと伝えた。私は焦った。ジャーナリストとして、包囲され膠着状態が続くこのバラータに留まり続けるより、ジェニンに向かうべきではないか──その思いは日増しに強まっていった。包囲から11日後、私はTVと書き込んだ白旗を掲げて難民キャンプを脱出した。
 ジェニン難民キャンプに入ったのは、イスラエル軍の包囲が解除されて2日後の4月17日だった。難民キャンプの中心部は大地震の跡のように瓦礫の山となっていた。辺りに死臭が漂い、ちぎれた身体の一部もまだ瓦礫の中に残っていた。その日から2日間、私は瓦礫の中で無我夢中でカメラを回した。また1週間後に再訪し、さらに1ヵ月後、すでに瓦礫の整理が始まっていた現場に戻り、侵攻を目撃した住民たちの証言を集めて回った。その時出会ったのが、映画に登場する片手を失った青年弁護士イマド・カーセムと、瓦礫に埋まった大金を1ヵ月間も掘り続けるヤヒヤ・ヒンディーだった。
 侵攻から5年後、私は現場を再訪し、難民キャンプの様変わりと2人とその家族のその後を追った。たしかに破壊された家々は再建され、外見だけは侵攻の傷痕が癒されたかのように見える。しかし人びとの心に残した傷は決して癒されてはおらず、根本問題は何一つ解決されていなかった。私はその現実を描き出したかったのである。

【構成の模索】

 2006年秋に4部作の設計図を描いたとき、『沈黙を破る』となる第4部の原題は『告白と自省─加害を語るイスラエル人たち』だった。つまり元イスラエル軍将兵たちの証言だけの映像にすることを考えていた。それが最終的に「バラータ包囲」と「ジェニン侵攻」が加わったのは編集過程の結果である。実は当初の計画ではその2つの要素は、原題第3部『自爆と侵攻─増幅する不信と憎しみ』の中に組み込まれるはずだった。しかし実際に編集してみると、「自爆」で伝えるべき要素が多すぎ、最長2時間半前後と決めていた粗編集の枠内にどうしても「侵攻」が入りきらなかった。その結果、第4部に回すしかなくなったのである。
 しかしそれは結果的に、第4部に厚みを加えることになったと今は思っている。元将兵たちの証言は深く、強い。しかしその言葉をより深く観る人に印象づけるには、その言葉を裏付ける前提の“占領によるパレスチナ側の被害”の実態を描く必要がある。「バラータ包囲」と「ジェニン侵攻」はその被害を象徴する映像となった。これまでの3部までは、“占領”を描くのに、封鎖と失業、土地や水資源の略奪で生活基盤が破壊される民衆の生活など、比較的「地味な映像」が続くが、第4部はそれとはうって変って、激しい銃砲撃、破壊や殺戮シーンなどが次々と現れ“強い映像”が観る人を引きつける。この2つの映像が加わることで、『沈黙を破る』はより“映画的”になったといえるかもしれない。

 その映画構成のプロセスは試行錯誤の連続だった。私自身が編集した粗編集の段階では、『沈黙を破る』は2部構成だった。1部「侵略」は「バラータ包囲」と「ジェニン侵攻」を描き、2部「告白」は元将兵たちの証言という構成である。しかし試写段階で、制作メンバーの中から「2部の証言の言葉の印象があまりに強いため、このままでは1部で描くパレスチナ人の記憶が後半では吹っ飛んでしまう」という意見が出た。パレスチナ側の映像は元将兵の言葉をより実感を持って聞いてもらうための“伏線”だと私は考えていたから、観る人にパレスチナ側の実態を印象づけられなければ、その“伏線”の効果も消えてしまう。その解決案としてプロデューサー・山上徹二郎氏が提案したのが、パレスチナ側の映像と元イスラエル軍将兵の証言を交叉させる手法だった。パレスチナ側の映像のどの部分を、証言のどの位置に置くか、仕上げの編集を担当する秦岳志氏と私は試行錯誤した。その結果が映画の完成版である。

 この映画の構成上、私が最も苦心したのは、4人の元将兵たちの証言の選択と並べ方だった。映画『沈黙を破る』の核は元将兵たちの証言である。どの言葉を選び抜き、これをどう並べるかによって、この映画は生きもし、死にもする。幸い、証言をまとめた拙著『沈黙を破る』の執筆を終えた直後からこの映画の編集に取りかかったので、その証言の細かい内容がまだ鮮明に記憶に残っていた。私は、ぜひ伝えたい言葉の要点を抽出して短冊に書き込み、それをボードに並べていった。その並びを見つめながら、要旨のまとまり、論理展開を頭の中で試行錯誤しながら、構成を練っていった。過去に10本を超す「ETV特集」の番組をNHKで制作した体験から学んだ手法である。
 粗編集の段階で、2部「告白」の部分は1時間半、それだけの長時間、飽きさせずに観る人の心に元将兵たちの言葉がきちんと伝わる映像にできるかどうかが勝負だった。そのためには、まず何よりも“話の流れ”つまり論理展開がスムーズでなければならない。私はまず4人の証言をカテゴリー別に、例えば「個人の実体験」「個人のモラルの崩壊」「社会のモラルの崩壊」といった具合に分類する作業から始めた。すると複数の証言の重複部分が明確になり、最も強い証言だけを残し、残りは削ぎ落とせた。それによって4人の証言の“役割分担”も明確になった。
 どんなに重要な証言であっても、重い語りが延々と続けば、聞く人の集中力は途切れてしまう。その解消法の1つとして多用したのが、話の区切りごとに「黒み」を入れる手法だった。また個々の証言の内容をイメージできるように、語りに似合った現場の映像を私がかつて撮影した映像ファイルから探し出し、証言の言葉に被せていく手法(つまり映像のインサート)も各所で用いた。さらにカテゴリーの間ごとにパレスチナ側の映像や異種の映像を組み入れ、証言を小休止し、元将兵たちの言葉にパレスチナ側の映像をシンクロさせていく手法も、長い証言ドキュメンタリーを飽きさせずに聞かせていく手法の1つだった。

【ナレーションと音楽の排除】

 『沈黙を破る』にはナレーションも音楽もない。それは私の“ジャーナリズム”観と深く関連している。私は、ジャーナリストの役割は、本人がその思想と感性で“感動し伝えたい事柄”や“問題の本質に関わる事柄”と思った事象を、それを持つ“手”が見えない黒子となって、伝えたい相手の前にそっと差し出すことだと考えている。そこにジャーナリストの“手”が見えてはいけない。相手に見てほしいのは、ジャーナリストの思想と感性が「本質に関わる大切なことだ」と捉えた“事情”そのものだ。それに脚色をする必要はない。「ほら、ここで感動してください」と言わんばかりに、ナレーションの言葉使いや声の抑揚、感情を煽るような音楽で“誘導”することは、かえってそのドキュメンタリー映画が持っている本来の力を削ぐことになりかねない。そんな脚色をしなくても、ジャーナリストが選び撮った事象が“本物”なら、その事象そのものが人の心を揺り動かすはずである。
 私が理想とするドキュメンタリー映像やルポルタージュは、視聴者や読者を“現場へ連れていく”作品、まるで自分が現場に立っているような錯覚を起させる作品である。その現場で聞こえてくるのは、風の音だったり、鳥の声だったり、人びとの雑談の声や笑い声であるはずだ。現場にはナレーションも音楽もないのである。
 ただ、まったく映像の説明なしでは映画の内容を深く理解してもらうのは難しいので、最低限の説明はテロップ処理している。一方、映画『沈黙を破る』をはじめ『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』全作を通して、ナレーションに代って状況説明の役割を果たしているのが、登場人物自身による“語り”である。
 活字から映像に入った私のジャーナリスト歴と深く関連していることだが、私は取材する人物の背景と考えを知るために、三脚にカメラを固定して、まずインタビューを撮る。実際に顔出しで使うインタビュー映像は長くはないが、1、2時間に及ぶその語りの中には、現場で生きる当事者にしか語れない状況説明が盛り込まれている。その語りの部分を抽出し、現場の映像を被せると、説得力のある“ナレーション”になる。それは現場の当時者の解釈・説明であり、作り手の主観や注釈を入れた「ナレーション」ではない。またそれは現場の声だから、“観る人を現場へ連れていく”という私の狙いから外れることにもならない。

【2つの印象的なシーン】

 『沈黙を破る』を観た多く人たちが、最も印象に残ったシーンとして挙げる箇所が2つある。
 その1つは、イスラエル軍の侵攻によって破壊されたジェニン難民キャンプの瓦礫の中で、ボランティアのアメリカ人女性が号泣するシーンである。
 「映画批評家」金子遊氏は、「映画芸術:闘うドキュメンタリー映画時評(1)」の中で、こう書いている。

 最も印象的なシーンのひとつは、パレスチナ人の虐殺があった難民キャンプでの光景であるが、それはすでに2004年の著書『パレスチナの声、イスラエルの声』にて報告されている。

「(チャベスというアメリカ人女性が)瓦礫の死体に埋もれた遺体を捜すためにブルドーザーとシャベル機が瓦礫を掘り起こす作業をじっと見つめていた。そのとき突然、これまで抑えていた感情の糸が切れたかのようにチャベスが嗚咽を始めた。やがて嗚咽は号泣となり、半狂乱となって泣き叫んだ。イスラエルを支援し続ける祖国アメリカ、この破壊のために使われた武器も大半はアメリカ製だった。その国民の一人であることがいたたまれなかったのだと、彼女は後に私に語った」

 実はこの記述に相当する映像は、そっくりそのまま映画にも出てくる。このアメリカ人女性の短く刈った金髪、やせた顔の沈痛な面持ち、重い足どり、パレスチナ人たちのなかで立ち往生している寄る辺なさを、映像はあますところなく伝えている。撮影した映像がまず先にあり、それから取材が進められて、上に引用した文章が書かれたのだろう。ルポルタージュの方も充分に迫真性のある本であるが、やはりここには映像で見なくてはならない細部があり、何よりも最初に「映画的光景」があったということが重要なのである。また、ここには先進国に住む私たちとイスラエルによるパレチスナ人の虐殺が、他人事ではないという「関係」が示されている。アメリカや日本の国家や企業がイスラエルを支援することで、私たちは間接的にパレスチナ人の強制追放や虐殺に加担しているのである。
 このチャベスという女性の寄る辺なき歩行は、ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』におけるイングリッド・バーグマンの彷徨に比するしかないほど映画的である。この異国から来た女は純粋に「見る」ことによって、「自分が個人として耐えられるものの限界を越え、何か耐えがたいものを発見する」(『シネマ1』G・ドゥルーズ)。私たちはチャベスの号泣の理由を知らなくても、彼女の記憶と思念が頭のなかで逆巻いている、その歩行を見るだけで、直観的に人間的悲劇の途方もない何かを感得する。劇映画であるかドキュメンタリー映画であるかに関係なく、映像を「映画的光景」として現出することが映画作家の使命であろう。そのような意味において、現場のドキュメント映像に寄りかからずに、イスラエル軍の元将校たちへのインタビューを通して、その共同的な記憶を掘り越していく『沈黙を破る』という映画は、登場する人物たちの耐えがたき内面の痛みをスクリーンに定着している。

 映画に関してはほとんど素人の私は、「映画的光景」とは具体的にどういうものかよくわかっていないし、「ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』におけるイングリッド・バーグマンの彷徨」も知らない。チャベスが瓦礫の中を歩く姿を撮影したとき、私の中にそれほど深い読みがあったわけでもない。ただそのように評価していただいたことは素直にうれしいし、映像が撮影者の意図を超えて観る人に伝わっている事実に私は驚いている。
 現場で撮影しているときは、私は深く考えた末、チャベスにカメラを向けたわけではない。ただこのアメリカ人女性のただならぬ様子に私は直感的にカメラを向けていた。あの映像が撮れたのは偶然である。ブルドーザーで遺体捜査をする光景を撮影していたとき、偶然、傍に彼女がいた。その彼女が号泣し始めた。アメリカ人女性が泣く姿が異様だったから、私はカメラを向けた。それだけである。
 ただ編集段階では、あのシーンは意図して使った。ジェニンの映像の中でパレスチナ人女性が泣くシーンが2ヵ所ある。しかし明らかにアメリカ人女性が号泣するシーンは別の意味あいを込めている。
 金子氏は「ここには先進国に住む私たちとイスラエルによるパレチスナ人の虐殺が、他人事ではないという『関係』が示されている。アメリカや日本の国家や企業がイスラエルを支援することで、私たちは間接的にパレスチナ人の強制追放や虐殺に加担しているのである」と書いている。そういう解釈もあろう。ただ、私は「国民」と「個人」との間で引き裂かれる姿をあのシーンに読み取った。
 チャベスはヨルダン川西岸の大学で長年、英語を教えていた。パレスチナ人社会で暮らしアラビア語も解る。占領下のパレスチナ人の現状を皮膚感覚で知る“親パレスチナ”のアメリカ人である。しかし、それでも自分がイスラエルを支援するアメリカという国家の一員であることには違いはない。パレスチナ人の学生に英語を教え、ジェニン難民キャンプの惨状に居ても立ってもいられずボランティアとしてかけつけるほどの人物でも、「お前たちアメリカ人こそテロリストだ」という罵言を浴びせられる。それに対して、「私は違います」とは言えない。「アメリカ人」なのだから。
 私も似たような体験をしたことがある。30代の一時期、私は留学生寮で韓国の学生たちと暮らしていた時期があった。その学生たちは80年代の韓国で民主化運動に深く関わってきた若者たちで政治意識も高く、私たちはよく酒を飲みながら政治議論をした。韓国をはじめアジアにおける日本の加害の歴史もよく話題になった。私は日本の加害の歴史にきちんと向き合おうとしない日本政府を激しく非難した。すると韓国人学生の1人に私は「あなたはまるで自分が日本人ではないような言い方をしますね」と言い返された。私は次の言葉を継げなかった。個人としては「自国の加害歴史を追及する」ほど「良心的」なのかもしれない。しかし「日本の過去の歴史を背負う国民の1人」である現実からは逃げられないのである。
 “良心を持った個人”と“間接的な加害国の一国民”という2つのアイデンティティの間に引き裂かれ号泣するあのチャベスの姿に、私は自分自身の姿を投影してしまうのである。

 もう1つ、映画を観た人の多くが印象的なシーンとして挙げるのが、元イスラエル軍兵士ドタンとその両親の映像である。父親は「兵士は国民の安全を守る役割があり、ドタンたちの言動は感傷的すぎる」と批判的だ。一方、母親はドタンの心情に寄り添おうとし、彼の活動に理解を示す。「沈黙を破る」の写真展を見た母親は、息子ドタンに「あなたも同じように残虐行為をやったの?」と問い詰める。「自分はやっていない。ただ見ていただけだ」と答えるドタンに、母親として教えてきた倫理観を息子が守り通せたと安堵する。一方、占領地で辛い体験をし、心に深い傷を負った息子たちに同情し、いたわる。ドタンら「沈黙を破る」のメンバーたちの活動は、そんな心に傷を負った他の兵士たちにとって“心理療法士”の役割を果たしているとも語るのだ。
 観る人は、母親の息子への愛情が吐露された言葉に感動し、納得する。通常なら、映像はここで終わるのだろうが、私はそんな母親の言葉に対するドタンの反応をどうしても知りたかった。両親へのインタビュー映像を持って、私はドタンを再訪した。
 母親の言葉を映像で聞いたドタンは、「彼らは占領地の現実を見ていないし、見たくないのだ。しかし私たちは占領地の住民たちにとって、あの人たちやイスラエル国家の“拳”なのだ」と突き放す。多くのイスラエル国民が“パレスチナ人”について抱いている「被害者意識」に対して、ドタンら元将兵たちが沈黙を破り、自国の加害の実態を突き付け、挑んでいく──この映画の主要なテーマが凝縮されているシーンである。
 観客は母親の心情を理解し寄り添っていたからこそ、息子のその“突き放し”に衝撃を受ける。またそのことで、占領地で兵役につく若い将兵たちの抱える問題、“占領”の持つ問題の根の深さを実感させられるのである。このシーンは、映画『沈黙を破る』に“深さ”を与える重要な要素の1つになっていると言える。
 一方、あのシーンは私たち日本人にとって、「ヒロシマ・ナガサキ」「東京大空襲」など戦争の“被害体験”と“被害者意識”の上に構築され、「南京虐殺」に象徴される“加害体験”から意図して目を背けてきた日本人のナイーブな「平和」観への問いかけでもある、と私は考えている。

【“普遍性”を引き出す】

 『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』4部作のうち、なぜ第4部『沈黙を破る』を映画にしたのか──多くのメディアの記者たちや観客から問われる質問である。
 結論から言えば、プロデューサー・山上徹二郎氏の判断に負うところが大きい。私自身も、その提案に同意した。なぜ『沈黙を破る』かと言えば、全4作の中で、パレスチナ・イスラエル問題を超えた“普遍性”を最も内包している作品だからだ。
 私はパンフレットの「監督の言葉」にこう書いている。

 彼らの証言は、日本人にとっても「他人事」ではない。元イスラエル軍将兵たちの証言は、日本人の “加害の歴史”と、それを清算せぬまま引きずっている現在の私たち自身を見つめ直す貴重な素材となるからだ。つまり、元イスラエル軍将兵たちの行動と言葉を旧日本軍将兵の言動と重ねあわせるとき、それは“遠い国で起こっている無関係な問題”ではなく、かつて侵略者で占領者であった日本の過去と現在の“自画像”を映し出す“鏡”なのである。日本人である私が元イスラエル軍将兵たちの証言ドキュメンタリーを制作する意義は、まさにそこにある。
 しかしこの映画は、作り手の私のそんな意図を越えて広がっていくに違いない。元将兵たちの証言に、アメリカ人はベトナムやイラクからの帰還兵を想うだろうし、ドイツ人はアフガニスタンに送られた自国の兵士たちと重ね合わせるだろう。「沈黙を破る」の元将兵たちの言葉が、それだけの力と普遍性を持っているからである

 私が言及した“普遍性”について、違った視点を提示する声もある。Webサイト「弱い文明」の筆者は『沈黙を破る』について次のような批評を掲載している。

土井監督以下スタッフは、この映画を通じて、パレスチナ/イスラエル問題という枠を超えて普遍的な人間の問題に迫ろうとした、という。それはまず成功していると思う。だが僕は同時にこの映画は、「普遍性」に逃げていくのではなく、普遍的な問題意識からパレスチナ/イスラエル問題を発見するという、逆の流れをも可能にしている、そこが素晴らしいと思うのだ。
 たとえば「戦争・紛争はなぜ起きる/なぜ終わらない」とか「軍隊ってなんだ」という問題意識、それは当然ながら日本人の我々の過去・現在の問題とも直接重なる。実際、イスラエル兵士の証言は、多くの場合旧日本軍のアジアにおける「占領者」としての姿としばしば重なる。だが、もっと広く「人間ってなんだ」「平和な社会ってなんだ」という、漠然とした問題意識を出発点にしてさえ、この映画から多くのことを持ち帰れるだろう。そしてなおかつそれは、抽象的な一般論として終わるのでなく、パレスチナ/イスラエルへのまなざしを深める形で残る。それが最初に書いたとおり、「パレスチナ問題をよく知らない人にもわかる/勧められる」、と僕に感じられた理由なのだろう。
弱い文明:『沈黙を破る』より引用)

 「パレスチナ・イスラエル問題」という固有のテーマを出発点にするか、それとも普遍的な問題意識を出発点にするかは、映画『沈黙を破る』で提示したかったテーマを大きく左右するものではないと私は考えている。「映画の中で描かれているパレスチナ・イスラエル問題の“本質”と“構造”と共に、それが内包する“普遍性”を読みとってもらう」というのが狙いだからである。
 映画に“普遍性”与えるために留意したことがある。まず登場人物を、「パレスチナ人」「イスラエル人」としてではなく、1人の“人間”として固有名詞で、等身大できちんと描くこと、個人の内面、とりわけ「家族観」「幸福感」「世界観」など同じ人間の普遍的な主題への思いを人びとの言動からできる限り引き出すことである。それによって観る人に「これが自分の息子だったら……」「あれが自分の親だったら……」という想像力を呼び起こし、まるで自分が映画の中の世界に実際に生きているような感覚を抱かせることができればと願った。
 つまりこの映画を「パレスチナ・イスラエル問題の映画」としてではなく、「パレスチナ・イスラエル」を舞台に“人間の生き様を記録した映画”として観てもらう、さらに観る人に、それを“鏡”として自分と自分の社会、祖国の在り方を映し出してもらう──そんな映画にしたいと私は願ったのである。

この記事は、JSC(日本映画撮影監督協会)機関誌「映画撮影」(No.182 2009年8月15日)に一部掲載された文章の全文です。

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