Webコラム

日々の雑感 164:
『トーラーの名において』(ヤコブ・ラブキン著)から(前編)

2010年5月16日(日)

『トーラーの名において』
──シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史
ヤコヴ・M・ラブキン著(平凡社/2010年4月)

 「ユダヤ人」や「シオニズム(パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとする運動)」、「イスラエル国家」に関する私たちの「常識」を根本から覆す衝撃的な書籍である。著者ヤコブ・ラブキン氏は、旧ソ連生まれのユダヤ人で、歴史研究者。いわゆる「ユダヤ教・反シオニズム」の論者である。
 ラブキン氏は、「シオニズム」を「民族主義運動のなかにあって唯一無二の存在」だとし、「シオニズムの主眼は、まず言語を作り、新しい民族意識を形成し、そこから生まれ出た民を地球上のまったく別の一隅に移住させて現地の住民たちと入れ替え、そして、この植民地化された領土を取り戻そうとする先住民たちの試みから自己の身を守ることに存した」と定義している。また「シオニズム」が正統派ユダヤ教の中心部において「メシア信仰の根本からの否定、すなわち、いくつか人為によって〈聖地〉を奪取することはしないという神との契約を破棄するものとして異端視される」と言い切り、正統派ユダヤ教のある一派は「ショア(ホロコースト)をシオニズムの行動主義に対する神の懲罰としてとらえ、シオニズムに対する批判をさらに強化した」とまで書く。まさに「一般に広く行き渡ってしまった『ユダヤ教すなわちシオニズム』『ユダヤ人(教徒)とイスラエル人とは一心同体』という謬見を粉砕しようとしている」著書である。
 また私たちが「ユダヤ人の悲劇の歴史」の象徴の1つとみなしがちな「流謫(るたく)の境遇」についても、「イスラエル国の存在そのものによってメシアによる贖いが妨げられているという理由で流謫の境遇を意識的に選びとっている」「ディアスポラとは、むしろ、ユダヤ教徒にとって好都合かつ快適な選択肢として認知されているものだ」とラブキン氏は言う。
 また「シオニストたちがいかなる努力を払おうとも、トーラー(旧約聖書のモーセ五書)を実践せずして〈イスラエルの地〉に居を移し、住み続けることは不可能である」「トーラーなくして、われわれは数十年とユダヤ人であり続けることはできないが、〈イスラエルの地〉なしでも、われわれは二千年間、存続することができた」という。
 またこれも現在のイスラエル国家からは想像もつかないことだが、「ユダヤ教の伝統は、あらゆる暴力の形態から身を引き離し、ユダヤ教徒のあるべき特徴として、慎ましくあること、慈悲深くあること、そして善の行い手であることの三つを掲げる」というのだ。そして「ロシア系ユダヤ人が、自分たちにはイスラエルを再征服し、それを防衛し続けるだけの十分な力が備わっているのだという前代未聞の自信を獲得したのは、まさにユダヤ教と、あくまでも人間の慎ましさを重んじる伝統を完全に捨て去ることとの引き換えによるものだった」というのである。

 イスラエルのアラブ諸国との「戦争」とその「勝利」についても、この書はまったく違ったアングルを提示している。1967年の「1967年の第三次中東戦争(六日戦争)の大勝利」も「不可避の没落へのといたる一連の破壊のプロセスのなかに書き込まれたもの」とさえラブキン氏は言い切るのだ。
 氏はあるラビの次のような将来を暗示するこんな言葉を引用している。

 「たしかに彼らは今日、その力の頂点に達しているのであろう。しかし、それは同時に下り坂の始まりでもあるのだ。彼らは、遅からず、今回の勝利品によって引き起こされる厄介事の存在に気づくことであろう。アラブ人の憎しみはさらに増し、必ずや復讐を求めるであろう。シオニストたちは、今、国境の内部に数十万人の敵勢を抱え込んでいる。われわれは皆、『今ここに』において、大きな危険にさらされているのだ」
 「ユダヤ教の立場からシオニズムを批判する人々は、イスラエルが軍事的勝利を重ねる度に、不敬の輩がこのような軍事的成功を手にするなどということが一体なぜ可能なのか、という問いを発し続けてきた。宗教=民族派がここに奇跡の成就、つまり神の好意の印を見て取るのに対して、反シオニストのハレーディたちは、その勝利を悪魔の采配に帰着させる」「1967年の勝利は、神のなせる業であるのか、あるいは、義人を罠にかけるため、贖いの蜃気楼を映し出す悪魔のなせる業か、そのいずれかなのである」

 さらに「シオニズムとは、つまるところトーラーに示された流謫(るたく)と贖いの視点の棄却であり、そこに異邦人一般と、とりわけパレスティナ人に対する攻撃的な姿勢が結びついたものであった」とも。

「テロリズム」についても、ラブキン氏は斬新な見解を示している。

 「『テロリズム』とは、20世紀前半、ロシア系シオニストたちがパレスティナに持ち込んだものであり、それが世紀の後半にいたり、翻って彼らの末裔たちに刃を向けるようになったのだ」「その後、『レヒ』、『イルグン』といった武装組織がテロ行為を繰り返し、そして、そうした組織のただなかから、イッハク・シャミール、ベナヘム・ベギンといった、のちのイスラエル首相らが輩出しているのだ。これらの軍事組織に共通しているのは、民族的な綱領の実現のために、まずもって住民に恐怖を教え込み、ついで敵勢をも恐怖で震え上がらせなければならないという確信である。皮肉なことに、時とともにパレスティナ人たちが採用するようになったのも、これとまったく同じ手法であったのだ」「今日、パレスティナ側が行っているテロリズムは、シオニストたちの絶えざる侵犯行為に対する相応の罰として下されたものと考えられなくもないのである」

(つづく)

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