Webコラム

日々の雑感 174:
ラジ・スラーニの日本滞在(5)

2010年5月28日(金)[2] ラジ、徐京植氏と会食

 28日夕方、ラジと私たちは横浜中華街で徐京植(ソ・キョンシュク)氏と会食した。徐氏は7年前にNHKハイビジョン・スペシャル番組「響き合う声」のなかでラジと対談した。沖縄・佐喜真(さきま)美術館に展示されている故・丸木位里(まるき いり)/丸木俊(まるき とし)さんの作『沖縄の図』の絵の前で、2人は、その4カ月前にカイロで行われたラジとエドワード・サイードとの対談を受けて、ディアスポラ(離散者)のアイデンティティ、植民地主義などをテーマについて語り合った。パレスチナ・イスラエル問題を超えた普遍的なテーマについての深い対話はしかし、地上波でも衛星放送でも再放送されず、“幻の名作”となった。この番組のディレクターが番組の最後に、当時議論となっていた日本政府の自衛隊イラク派遣に言及したことがNHK上層部の檄鱗に触れたことが理由だといわれている。
 徐さんはパレスチナ・イスラエル問題の専門家ではない。しかし故郷を奪われたパレスチナ人の状況・心情を、“在日”であり、韓国の民主化運動で当局から死刑判決を受け十数年の獄中生活を送った2人の兄を持つ徐さんは、日本人知識人とは異なる、パレスチナ人に対する深く共鳴・共感する鋭い“感性”を持った知識人である。だからこそ、7年前、NHKのディレクターはラジの対談相手として徐さんを選んだのだろう。
 中華料理を囲んだ個室で、7年ぶりの2人の対話が実現した。なかでも私にとって印象深かったのが、国連事務総長、バン・キムンの評価だった。国連は、パレスチナ人住民に無差別の攻撃を繰り返し、国連本部さえ攻撃し多くの支援物資を破壊したイスラエルを表面上は非難しながらも、実際には、アメリカやイスラエルの意向を超えた行動はほとんど起こさなかった。ラジはガザ地区のUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の責任者から、その実態と、現場のUNRWA職員たちの苛立ちと怒りを聴かされたことを初めて語った。国際政治の世界、そして国際機関においても本音と建前の使い分けが平然と行われている現実を思い知らされた。
 最後の夜を、ラジはおいしいい中華料理と中国の酒を口に運びながら、心を開ける知識人と心ゆくまで語りあった。
 帰りのタクシーの中でラジが言った。
 「徐さんをガザへ呼びたい。ガザで彼も参加するパレスチナ問題の国際シンポジウムを開きたい。ガザが無理なら、ヨルダン川西岸でもいい。ヨーロッパの街でもいい。ぜひ徐さんに来てもらいたい」
 ラジは、パレスチナ問題の専門家でもない徐京植さんに、自分と同質の“感性”を感じ取ったのだろう。

 その夜、私はラジに1つの映像を見せた。
 2002年1月、私がラジの半生について十数時間のインタビューを撮影していたとき、その合間に訪ねたラジの実家での映像である。それは数年前、世を去ったラジの母親へのインタビューだった。幼少期、少年期、青年期のラジはどんな息子だったのかという私の質問に、アラビア語で答える母親の姿。日本で、亡き母親と再会することなど予想もしていなかったラジは、椅子に深く背をもたれ、じっと見入りながら、目がしらを押さえた。

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