Webコラム

日々の雑感 186:
レバノンへの旅(1)

2010年9月7日(火)

 昨夜、午後4時ごろ自宅を出て、夜10時半発のエティハド航空機でアブダビ経由、ベイルートに向けて出発した。ほぼ1年ぶりの海外である。6月に脳梗塞で入院したとき、担当の医者から「少なくとも3ヵ月は海外取材は禁止」と言い渡された。その3ヵ月が過ぎた9月初旬、病気になる前から予定していたレバノンに向かうことを決めた。パレスチナではなく、なぜレバノンなのかと周囲からよく訊かれる。20数年もパレスチナと関わりながら、私はまだレバノンの地を踏んだことがない。やはりディアスポラ(離散)のパレスチナ人の現状を知らずしてパレスチナ人全体のことは語れないだろう。将来、レバノンのパレスチナ人を本格的に取材していくのかどうかわからない。でもパレスチナの外のパレスチナ人の状況をこの目で見ておくことは、重要だと思った。
 そうは言っても、臆病な私は、きっかけがなければ、未知の地に足を踏み入れようとはしなかったろう。たまたま親しい中東専門家の臼杵陽(うすき あきら)氏が4月から半年ベイルートにいる。彼がいれば心強い。しかもラジ・スラーニ(パレスチナ人権センター代表)の親友で、20数年前、私がパレスチナの占領地に1年半の滞在中、ヨルダン川西岸のビルゼイト大学で出会った旧友ヒルミとも連絡が取れた。ヒルミは15歳から占領への武装闘争に参加したが、イスラエル軍に捕えられ終身刑を言い渡された。しかし1985年、岡本公三らとの捕虜交換で15年ぶりに出獄し、ビルゼイト大学に入学した。私は彼の生き方に強い関心をいだき、インタビューして記事にした。あれから25年の歳月が流れたが、共通の友人であるラジを通して、互いに連絡を取り合うことができたのである。

 今回は、明確な取材の目的があるわけではない。だから大型カメラも持参しなかった。「とにかくレバノンという国の雰囲気、レバノンとりわけベイルートのパレスチナ人の状況の一端を知ることができればいい。脳梗塞で入院して以来、最初の海外への旅だから、一番の目的は、将来の海外取材のためのリハビリである。観光旅行をしているつもりで過ごそうと思う。『取材、取材』と力まずに、『何か撮れたら、儲けもの』だ。この旅の成果がすぐに出なくてもいい。5年後、10年後に生きてくればいいというぐらいの気軽な気持ちでいい」と自分に言い聞かせた。

 現地時間で午後2時半にベイルート空港に到着した。やはり『地球の歩き方』に記してあるように空港の入国審査時に入国ビザが無料で取れることが判明した。在日レバノン大使館でビザを取得のために4400円も費やしたことが悔やまれる。空港からMホテルまでタクシーで20ドル。同じホテルに滞在中の臼杵氏と再会した。春、出発前の彼とあまり変わらない。元気そうだ。私の部屋は3階で、窓の外は向かいのビルの部屋が丸見えだ。ベッドのある部屋とトイレ・浴室だけの簡単な造りだ。これで66ドルは高いと思ったが、翌日、他のホテルと見比べてみて、決して理不尽な料金ではないことがわかった。6階の見晴らしのきく臼杵さんの部屋は、ソファのある居間と、私の部屋より一回り広い明るい寝室。居間の隅には小さい台所がついている。これなら長期滞在も可能だろう。
 ベイルートに半年滞在した臼杵氏から、最近のレバノン情勢、ヒズボラの動きなど基本的な情報をレクチャーしてもらった。“パレスチナ”とレバノンの関係が少し見えてきた。
 夜8時ごろ、やっとヒルミと直接、電話連絡がついた。ヒルミが十数年前にレバノンへ渡り、今では、レバノンの有力な新聞のイスラエル問題担当記者としてレバノンでも名を知られるジャーナリストとなっていることはラジ・スラーニから聞き知っていた。長い獄中生活で学んだヘブライ語とイスラエル研究が今、生かされているのだ。
 25年ぶりのヒルミを識別できるだろうかと不安だったが、ホテルに入ってくる彼の姿を見て、彼だとすぐにわかった。少しふっくらとなったが、その顔立ちは私の記憶の中にあるヒルミだった。ヒルミも私の顔を覚えていた。ただお互い、「太ったね!」と言い合った。
 ヒルミは私に「一番悪い時期に来たな」と言った。ラマダン明けの休日で、パレスチナ人コミュニティーとの接触はいつもより難しいだろうというのだ。しかし、私の病後の経過や臼杵氏の都合を考えれば今しかなかった。それでもヒルミは私に、レバノンのパレスチナ人コミュニティーの代表的な人物の名前を挙げ、すぐに電話で連絡をとってくれ、明日会う約束をとりつけてくれた。不安だった最初の難関を突破できたと思った。

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