Webコラム

日々の雑感 190:
レバノンへの旅(5)

2010年9月14日(火)

 まったく予想もしない再会だった。前日、ホテルのレセプションでその顔立ちに見覚えがある女性がスタッフと立ち話をしていた。私がまだPLO東京オフィスに勤務していた1982年、東京で開催されたイスラエルのレバノン侵攻に関する国際民衆法廷に招かれて来日したアメリカ人看護師エレン・シーゲルである。彼女はサブラ・シャティーラ虐殺当時、サブラ難民キャンプにあるガザ病院で働いていて、虐殺の目撃者の1人となった。
 その後、私のアメリカ取材の折、ワシントン在住の彼女と再会した。最後に会ったのは1991年春、NHKスペシャル「アメリカのパレスチナ人」の取材で、NHKの取材班(ディレクター・七沢潔氏とカメラマン・横川清司氏)とワシントンを訪ねたときだった。当時、彼女は、サブラ・シャティーラ虐殺から生還した2人の兄弟をワシントンに引き取り世話していた。NHK取材班は、エレンと共にその兄弟ナビールとムニールを番組の中で紹介することになった。
 あれからすでに19年の歳月が流れたが、エレン・シーゲルの顔立ちははっきりと私の脳裏に残っていた。しかし髪を短く刈り、太り、動きの鈍い老婆のようなその姿は、20年ほど前の彼女の姿から想像もつかないものだった。しかもアメリカではなく、レバノンである。人違いだろうと思ったが、その顔立ちがあまりにもエレンに似ているので、彼女が立ち去った後、私はレセプションのスタッフに、「あの人はアメリカ人ですか」と尋ねた。すると、そのスタッフは私が訊いた人物を勘違いしたのだろうか、違う国籍を答えた。やはり人違いだったのかと思った。
 そして昨日の朝、いつもの通り臼杵さんと朝食のためホテルの食堂に行くと、昨日の女性が隣の席で朝食をとっていた。私はやはり気になり、食事を終えて部屋に戻る間際に恐る恐る尋ねた。「あの……、もしかしたらエレン・シーゲルさんではないですか?」。すると「はい」という答えが帰ってきた。やはりそうだったのだ。私は20年近く前にワシントンを訪れ日本のテレビ局のスタッフと共に、サブラ・シャティーラ虐殺で生き残った兄弟を取材した日本のジャーナリストであることを伝えた。そして私は自分の名刺を差し出した。「Doi」という名前に、やっとエレンは私のことを思い出した。
 まさに奇遇だった。それにしても20年近くも経って、しかもなぜ日本からもアメリカからも遠いベイルートで彼女と再会できたのか。しかし彼女がこの時期にベイルートにいることは決して偶然ではなく、必然のことだということが彼女の話を聞いてわかった。そう言えば、サブラ・シャティーラ虐殺が起こったのは9月だった。彼女は毎年、その記念日の9月16日、17日前後にこの地に戻ってきていたのである。あの虐殺から28年が経った今なお、だ。
 その28年記念のスタディーツアーに参加していた彼女は、私たちに「いっしょに参加したら?」と誘った。そのプログラムは昨夜から始まっていたが、今日は、レバノンの南部への小旅行が企画されていた。レバノン南部に独りで出かけていく気力も勇気もなかった私は、このグループ旅行でなら南部を観ることができると思った。臼杵さんも同意した。「ぜひ!」と私たちはエレンに答えた。このような偶然から、私のレバノン南部への旅が実現したのである。

 「ベイト・アトゥワル・アスムード」というNGOが企画する「サブラ・シャティーラ虐殺追悼ツアー」の参加者の大半は、数十人のイタリアの代表団だった。他にもイギリスから3人、アメリカからはエレン、そして日本から私と臼杵さんが急きょ参加することになった。
 2台のマイクロバスに乗って、地中海沿いに走る幹線道路を南下した。南部では沿道にバナナ畑が続く。国内だけでは消費できず、シリアへも輸出されるのだという。それにしても、イスラエル北部の地中海沿岸ではバナナ栽培の話は聞かないが、さらに北部のレバノン南部になぜこれほどバナナが育つのか。イスラエル北部より気温が高いということか。バスはベイルートから数十キロ南のサイダ市、さらに南に下り、イスラエルとの国境に近いツール市へ。さらに南東方向に位置するカナ村へ向かった。
 カナ村は1996年と2006年夏の第2次レバノン戦争のさなかの2度にわたりイスラエル軍の民間人虐殺が起こった村である。私たちは4年前の空爆による民間人虐殺で犠牲になった村人の集団墓地に着いた。犠牲者たちの数十の墓石がずらりと並ぶ墓地。それを囲む壁には、犠牲となった村人、女性や子どもたち、老人たちの顔写真がずらりと並ぶ。当時私は、この事件のニュース映像をガザ地区ハンユニス市にあるパレスチナ人権センターのオフィスで観ていた。瓦礫の中から掘り出される幼児たちの遺体、首と腕がぐったりとうなだれた幼児の遺体を両手に抱えて運ぶ救急隊員の姿が今でも鮮明に記憶に残っている。その現場に自分が立つことになるとは想像もしていなかった。
 ツアー団体は、その後、ツール市に近いパレスチナ難民キャンプ「ブルジ・シュメリ難民キャンプ」へ向かった。入口ではレバノン軍の兵士が人や車の出入りを検問していた。ツアーの主催団体のスタッフが検問に立つ兵士に書類を提出した。しばらくして2台のマイクロバスは通過を認められた。大通りの道幅は広く、西岸の難民キャンプのような光景である。狭く雑然としたシャティーラ難民キャンプとは雰囲気がまったく違っていた。沿道に飾られている看板やポスターはアラファトやアブ・ジハードなどPLO主流派ファタハの指導者たちばかりだ。この難民キャンプはファタハ支持者が多いのだろう。
 「この難民キャンプは、レバノンでも一番貧しいキャンプです。住民の大半は、周囲の農場で農業労働者として収入を得ているんです」とツアーのコーディネーターが説明した。
 この主催団体「ベイト・アトゥワル・アスムード」が運営する幼稚園やユース・センターの建物で昼食が用意されていた。広間に机といすが用意され、数十人のツアー客に牛肉入りのご飯とヨーグルトが振る舞われた。パレスチナでは結婚式などパーティーのときに客に振る舞われる食事である。
 イスラエルとの国境に近いこの難民キャンプで、1982年の第一次レバノン侵攻時に、イスラエル軍による住民虐殺事件が起こっていたことを、私はここを訪ねて初めて知った。
 イスラエル軍がレバノンに侵攻して間もない1982年6月7日、この難民キャンプはイスラエル軍の空爆と爆撃にさらされた。この無差別攻撃によって、難民キャンプの3分の2が破壊された。このキャンプの中にあった「アルホーレ・クラブ」の建物には女性や子どもたち、老人らが避難していた。そこをイスラエル軍は白リン弾で攻撃した。中にいた100人近い住民のうち、97人の子どもや老人、女性たちが爆死し生き残ったのは2人だけだった。その遺体は肉片と化し、収容して埋葬できなかったため、この建物そのものが集団墓地となった。現在、そこには記念碑が建てられ、碑には犠牲者全員の名前が刻まれている。
 ツアー団体の代表がその慰霊碑に献花した。
 難民キャンプの中を歩いた。自治開始以前の西岸のデヘイシャ、バラータ、ジェニン難民キャンプなどとそっくりの光景だ。狭い路地に遊ぶ子どもたち。無造作に置かれたゴミ。建物の2階の洗濯物の列。路の両側に駄菓子屋や八百屋、雑貨屋が並ぶ……。ここでもベイルートのブルジ・バラジネ難民キャンプと同じように、路地ですれ違う男の子たちの大半がおもちゃの銃を手にしている。中には10代後半の青年も混じって銃撃戦遊びに走りまわっている。イスラエルへの武装闘争が子どもや青年たちの夢であり、そのまねごとをすることが、この狭苦しい難民キャンプでの生活の閉塞感と貧困を一時でも忘れさせてくれる“清涼剤”になっているのだろうか。
 しかしそんな青少年ばかりではなかった。難民キャンプ巡りを終えた私たちツアー団体は、再び「ベイト・アトゥワル・アスムード」の建物に戻った。先ほどの食事の席になっていた大部屋は劇場に様変わりしていた。ステージでキャンプの子どもたちの音楽演奏や踊りが用意されていた。高校生だろうか、ユニフォームに着飾った男女の青年たちが、スコットランドのバグパイプを演奏した。パレスチナ難民キャンプでなぜバグパイプなのか。臼杵さんは、英国委任統治時代に入ってきて、それがパレスチナ社会に浸透したのではないかと推測する。
 圧巻は、中学生の男女によるパレスチナ伝統の踊りだった。トーブなど伝統の衣装をそろえるお金の余裕がないのだろう。臼杵さんの言葉を借りれば「ロシア民謡風」の色鮮やかな衣装に身を包んだ男女が、パレスチナの農村社会の生活をモチーフにした踊りを披露した。鎌やくわで農作業する男たちに、娘たちが壺に入れた水を振る舞って回る。パンを乗せるお盆や農機具のふるいを使った娘たちが見事なステップを踏んで踊る。男たちは肩を組んでダプカを披露する。まだ童顔の少年、少女たちが暑い気温の中、汗びっしょりになって激しく動き回る。その健気(けなげ)な少年、少女たちに私は胸を揺さぶられた。後ろの席にいた私も踊りに引き付けられるようにステージの裾に進み出て、カメラで子どもたちの激しい動きを夢中で追った。帰りのバスの中で臼杵さんも「あの健気さに涙が出そうになった」と言った。
 イスラエルとの国境に近いその難民キャンプを出たのはもう午後5時だった。バスは再び地中海沿いの道路を今度は北上した。1時間半後、ベイルートの街に入ることには、朱色の夕日があたりの雲を赤く染め、地中海に沈んだ。

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