Webコラム

日々の雑感 197:
若い人たちへの便り

2010年10月7日(木)

 東京都内の複数の大学の学生たちがつくっているフリーペーパーの編集者から、原稿依頼のメールが届いた。その便りにはこう記されていた。

 今、他人にたいして興味がなくなっている人がたくさんいるように感じます。自分のことに必死で、自分さえよければいいという文化状況に陥っています。
 先日、早稲田大学のある学生が、イラクで日本人が人質になった事件について、「なんでわざわざ、あんなとこに行くんだ」といったので、私が「誰かが現地に行って伝えてくれないと、本当のことがわからないじゃない」というと、彼は「別に、知りたくないし、知らなくてもいいじゃん。困らないし」といいました。
 彼のような人はたくさんいると思います。この雑誌は主に学生が読者となりますので、是非、土井さんの仕事のなかで得たものを、彼のような学生にわかるように伝えていただけたらと思います。

 その依頼に応えて、私は以下の一文を送った。

若い人たちへの伝言

ジャーナリスト・土井敏邦

 17年前の1993年秋、私はパレスチナ・ガザ地区の難民キャンプのある家族の住み込み取材を開始しました。その取材は結局、1999年まで6年間、断続的に続きます。私のドキュメンタリー映画4部作『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』第1部、『ガザ』はその家族の6年間の記録です。
 その家族は14人家族で、働き手となれる大人は6人いましたが、1人がイスラエルへ出稼ぎの仕事をしているだけで他は失業中、つまり1人の稼ぎ手が14人家族を支えていました。当然、家族は貧しく、数人の独身の男たちは1つの部屋で川の字になって寝なければならないほど狭く劣悪な住居でした。また食事も質素で、肉はあまり口にできませんでした。
 私は家族の1人、大学で英語を学ぶ青年を通訳に雇いました。優秀な青年で、占領下のガザを出てもっといい環境に移れば、明るい未来が開けるはずだと思いました。私は彼に奨学金を得て欧米へ留学し移住したらと薦めました。すると、その青年は私にこう答えました。
 「家族や近所の人たちが今のひどい状態のままで、私だけがここから逃れて、独り幸せになることなど考えられません。私の幸せは、家族や社会の中にあります」

 私はジャーナリストとして“パレスチナ”と関わって20数年になります。「なぜ遠い世界の問題にそんなに長く関わっているのか」とよく尋ねられます。それは、あの“パレスチナ”は私にとって、暴力、抑圧、占領、家族の絆、隣人関係、共同体意識、自由、人の幸せ……つまり“人が生きること”“社会”“国家”とはいったい何なのかを私に皮膚感覚で教えてくれる“学校”だからだと思います。私は“パレスチナ”によって、“人間”として、そして“ジャーナリスト”として育てられた、自分の心を“豊か”にしてもらったと感じています。“パレスチナ”のことを私が活字や映像で伝えるのは、決して「他人のため」ではありません。私自身のためです。私が現場で感動し、怒り、悩み苦しんだことを、「自分の中だけに留めておくのはもったいない、他の人にも分け伝えたい」という思いからでもあります。もちろん、活字や映像で伝えることで報酬を得て生活していく、つまりその行為が“食べていく”ための手立てであることも確かです。しかしお金のためだけなら、もっと高収入で、もっと楽な職業はあるはずです。収入が少なくても(年収が100万円を下回る時期もあります)、あえてジャーナリストという仕事を続けるのは、金銭では買えない“大切なもの”を得ているという手ごたえがあるからだと思います。
 そしてもう1つ、“伝える”という行為によって、“自分が社会に存在する意味”を自覚できるからです。私が現場で感動したこと、抑えがたい怒りを抱く現実を活字や映像で伝える、それを読み観た人がそれによって心を動かされ、その人の中で何かが変わる。そういう人の数が増えれば、それは社会に小さな波紋を作り出すことになる。つまり自分の言動が他の人に、また社会にわずかながらも影響を与えることなる──これは素晴らしいことですし、また同時に恐ろしいことです。私の著書や映画を読み観た方から感想が寄せられることがあります。「衝撃を受けました」「感動しました」というお便りに、私は「苦労したけど、やっぱり伝えてよかった」と実感します。自分の仕事がわずかながらも、社会的な意味を持ちえたという手ごたえを感じるからです。そしてこう思います。
 「自分はこの仕事を続けてもいいんだ。自分がこうして生きている意味はあるんだ」と。

 私は、「人は独りでは、深い“幸せ”を感じることはできない」と考えています。独り、最高級のおいしい食べ物を楽しみ、また高価で贅沢なモノを手にすることで、一時的な満足感、充足感は得られるかもしれません。しかし他の人との関わりの中に“自分の生きている意味”を実感できるような“深い充実感”を求めるのは難しいと思います。「何を“幸せ”と感じるか」は人によって違うし、判断は自由です。しかし「自分の周囲、半径10メートルほどの狭い世界にしか関心を持てない」若い人を見ると、「もったいないなあ」と思います。「人の深い幸福感は、他の人たち、社会との関わりの中にある」と考える私からすれば、「生きている手ごたえ、深い幸せを感じとる機会を、わざわざ自分から放棄している」ように見えてならないからです。

次の記事へ

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp