Webコラム

日々の雑感 210:
飯舘村に“パレスチナ”を見た

2011年5月6日(金)

20数年ぶりの運転

 2週間ぶりに自宅に戻った私が緊急にやらなければならないことがもう1つあった。車の運転である。1週間をかけてドキュメンタリー『被災地に来た若者たち』を仕上げると、私は近所の自動車教習所に通い始めた。私は大学卒業前に、自動車免許を取得していたが、初めて実際車を乗り回したのは、1984年、サウジアラビアで1年間、日本企業の駐在員として会社勤めをした時だった。日頃、私の不器用さに呆れている連れ合いや親しい友人たちは信じてくれないが、この私が、毎日、片道3車線の広々とした高速道路を、時速150キロ前後で飛ばしていたのである。しかし帰国後、故郷の佐賀で、借りた兄の車で運転中、道路に一時停止しているバスに追突してしまった。右側通行から左側通行へと変わり、道路も狭くなるなど交通事情が急変したこともあったが、その時、自分の運転の未熟さと不器用さを痛感した。「こんなに不器用な自分が車を運転すると、世間さまに迷惑をかけてしまう」と思い知り、それ以来、私はぷっつりと運転を止めた。以来、26年間、車の助手席や後部座席に座ることはあっても、ハンドルを握ることはまったくなかった。連れ合いの幸美とレンタカーで旅行に出かけても、彼女は「運転する人」、私は助手席で「周囲の風景を楽しみ、時々、的外れのナビゲートをする人」という「役割」分担が定着していた。これからもそれは変わることはないだろうと思っていた。
 しかし今回はそうは言っていられない。車が運転できないということは、東北を自分の思い通りに取材できないということを意味していた。他のジャーナリストの車に同乗すれば、その人のペースで動かねばならず、自分が取材したい対象を、十分な時間をかけて追うことはできないのだ。私は教習所で「ペーパー・ドライバー用コース」に入り、3日間、合計4コマ(1コマ50分)の教習を受けた。3万円の出費は痛かったが、背に腹は代えられなかった。
 教習を終えて3日後の4月18日、私は福島県内を取材するため郡山市まで高速バスで向かった。教習を終えたばかりの私には、さすがに高速道路を車で走る勇気はなかった。その郡山市でレンタカーを借りた。その車のハンドルを握り、その敷地から道路に初めて出るときのハンドルを握る手の平から油汗がにじみ出るほどの緊張感と必死の覚悟は、あまり長くないかもしれない私のこれからの人生の中で決して忘れることはない瞬間だろう。郡山駅前から三春町の旅館までの十数キロの道のりのなんと長かったことか。

飯舘村

 飯舘村(いいだてむら)を取材するようになった直接のきっかけは何だったのか、記憶に定かではない。ただパレスチナとの関連で東日本大震災の被害を語るのであれば、やはり天災の被害ではなく、原発事故という人災の被害者たちだろうと、2週間の最初の取材を終えて帰ったときに思った。ならば福島県で、原発事故によって故郷を追われた、または追われようとする人びとにこそ焦点を当てるべきだと考えたのである。すでに何人かのJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会)のジャーナリストたちが、福島原発の周辺の地域で同じようなテーマを追っていた。原発から20キロ圏内の住民たちは、事故の直後、すでに他の地域に避難していた。そんな彼らを追うジャーナリスト仲間たちがいることは聞き知っていた。彼らは、かつての住居に戻る避難住民を追う取材をしているという。しかし、避難する前の住民の生活と、そこで生きる人びとの故郷への思いが見えないと、避難を強いられる住民の苦しみや痛みは十分伝わらないのではないか。もしそれをきちんと記録しようとすれば、これから避難を余儀なくされる地域の人びとである。それが飯舘村だった。4月中旬、つまり原発事故発生から1ヵ月を経てやっと、政府は飯舘村とその周辺地域を「計画的避難地域」に指定した。翌月の5月末までに村から避難するように勧告したのである。この村については、すでに取材していた仲間のジャーナリストたちから断片的な情報を得ていた。そこには農民として土地に生きる人びとの姿がまだ記録できるというのである。

 三春町の旅館に拠点を置いた私は、真っ先にその飯舘村をめざすことにした。しかし三春町から飯舘村までは車でも1時間半かかると教えられた。私は覚悟を決めた。運転歴2日目にして、私は飯舘村をめざして1時間半、必死の思いで車を運転した。ナビだけが頼りだった。そして何とかその村に辿り着いた。
 村には着いたが、それからどう取材を始めたらいいものか、まったく手がかりがなかった。とにかくジャーナリストの取材を受け入れてくれる農民を探すことだ。私はまず町役場に向かった。農政課の担当者に「土地と生活基盤を奪われる農民たちの現状をドキュメンタリー映画で伝えたいと思ってこの村に来ました。取材を受け入れてくれる農民の方を紹介してくれませんか」と伝えると、「村の農民たちは、マスコミの取材に、もううんざりしています。こちらでは紹介できないので、農協へ行ってみてください」と告げられた。農協に行くと、同じような返事で、「自分で農家を訪ねて、直接取材を申し込むしかないでしょう」と突き放され、相手にしてもらえない。私は仕方なく、地図を頼りに、集落まで車を走らせ、農家らしい家を1軒1軒手当たりしだい訪ね歩いた。しかし突然、訪ねる見知らぬよそ者、しかも怪しい外国人のような風貌をした私をすんなりと受け入れてくれる家はなかった。数軒回っても、ほとんど成果のない徒労感ですっかり落ち込んでしまった。夕方、また1時間半の必死の運転を終えて宿に辿り着く頃には心身共に疲労困憊し、打ちひしがれ落ち込んでいた。
 その夜、飯舘村について情報をくれた写真家の森住卓氏から電話がかかってきた。さんざんな成果に落ち込んでいることを正直に告白すると、森住氏は、「これから言う人に連絡して会ってみたら」と、彼は自分が取材した農民たちの名前と連絡先を教えてくれた。絶望の底にいる自分に天から降りてきた蜘蛛の糸だった。私は教えられた村人にさっそく電話連絡し、そのうち2人と翌日会えることになった。

 飯舘村の酪農協会会長であり、前田集落の区長でもある長谷川健一さんは50頭の乳牛を飼育する酪農家だった。58歳、私と同じ歳で、息子2人、娘1人がいる。長男は調理学校を卒業し、その道の仕事をしていたが、数年前、父親の酪農を継ぐ決心をした。しかし原発事故によって計画的避難地域に指定された今、その道も絶たれようとしていた。長谷川さんは、飯舘村の放射線量が異様に高いことは当初からわかっていたのに、1ヵ月間放置しておきながら、なぜ今「計画的避難地域」なのかと、政府など行政の政策の理不尽さに怒りをあらわにした。「計画的避難地域」の乳牛から生産した牛乳は、販売はできない。しかし乳を搾らないと、牛たちは乳房炎になってしまうため、搾らないわけにはいかない。搾った乳は、売れないから捨てるしかない。乳の量を減らすために、与える餌の量も減らしたが、それでも牛は身を削ってでも乳を出そうとするため、がりがりに痩せてしまう。長谷川さんは、そんな牛たちが不憫でならない。

 酪農家、田中一正さん(40)も森住氏の紹介だった。田中さんの牧場は、飯舘村でも最も放射線量の高い地区の1つ、長泥(ながどろ)地区にある。独りでの酪農経営のため、餌の牧草は生産せず、購入した餌での飼育方式だった。しかし今はその餌も不足し、村の酪農仲間から牧草を分けてもらう毎日だ。
 北海道にある酪農専門学校を卒業後、10年近く、栃木県にある酪農の大牧場で働いてきた。自分の牧場を経営するという長年育んできた夢を実現するため、東日本での候補地探しをした結果、辿り着いたのが飯舘村だった。そしてほぼ10年、着実に規模を広げ、乳牛も数も60頭ほどになり、1日の牛乳出荷量が1トンを超えるという記録も作った。餌など飼育に工夫をこらし、搾乳量が村1番になった時期もあった。牛の交配も試行錯誤しながら、自分の理想とする乳牛を産ませ育てる酪農業の面白さも知った。これからさらに自分が求める酪農業を実現していく夢を膨らませていた。原発事故がその夢を打ち砕いた。「計画的避難地域」に指定されたこの村で飼育される牛の牛乳はもう販売できない。つまり収入の道は絶たれたということだ。この飯舘村で酪農を続ける道は絶たれてしまった。
 「『俺の夢、俺の人生をどうしてくれるんだ!』と東電と国に言いたいですよ」と、田中さんは言う。

 飯舘村でも長泥地区と並んで放射線量の高い蕨平(わらびだいら)地区は30キロ圏内になる。そこで酪農業を営む志賀正次さん(49)が父親・正男さん(73)から酪農の仕事を引き継いだとき、牛は数頭だった。しかし大震災前には60頭を超えるまでに規模を拡大していた。奥さんのゆり子さん、そして忙しい時期にはすでに隠居した父親正男さんの手を借りて仕事をこなしてきた。高校卒業後、父親から引き継いだ当時は酪農の仕事にあまり身が入らなかった志賀さんだったが、福島県の乳牛品評会(志賀さんはこれを「牛の“美人”コンテスト」と表現した)に自分の牛が入賞したことがきっかけで、酪農業の面白さに目覚めた。どうすれば牛乳をたくさん出し、いい体型をした牛を産み出せるのか、熱心に研究し、試行錯誤するうちに飯舘村でも1、2を争う優秀な酪農家として一目置かれるようになった。牧草作りのために数百万円や1千万円もする大型機械やトラクターも借金してそろえた。「さあ、これからだ」という時に、この原発事故である。将来の計画と夢が一気に土台から崩れ落ちた。酪農は廃業し、産まれた時から手塩にかけて育ててきた牛たちを手放さすか、処分しなければならないとわかったとき、ゆり子さんは衝撃で眠れなくなり、一時、うつ状態になった。志賀さん自身、止めていたタバコも手放せなくなり、酒の量も倍増した。
 志賀さんはどの牛も「あいつ」「こいつ」と言った呼び方はしない。自分が後生大事に育てた、かわいい牛たちは「この子」「あの子」なのである。寝そべる牛を起こすときも、絶対に足蹴りにすることはしない。両手で押すか、膝で軽くつついて起こす。収入源となる牛乳を産み出す、いわゆる「経済動物」ではあるが、しかし志賀さんにとってそれだけではない。自分の“子”であり、“家族”でもあるのだ。そんな牛を、モノを処分するように、いとも簡単に処分したり手放すことはできないのである。4月下旬、子牛や妊娠前の牛など11頭を福島県内の他の牧場に移転させることになった。自分の元を離れてしまうが、生かし続けるために残された唯一の道だった。トラックに乗り込むことを嫌がる牛を何人もの男たちが必死に口ヒモを引き、尻を押してトラックの荷台の押しこんだ。そうやって11頭の牛が荷台に並び、運ばれていくとき、志賀さんも、妻のゆり子さんも泣いた。毎日2回ずつ乳をやりながら育てた子牛たちから切り離される辛さ。志賀さんは、飯舘村での酪農を廃業すれば、牛と関わる仕事はもう2度と関わるまいと決めた。手塩にかけ愛情が増すほど、手放さなければならないときの別れが身を切られるように辛いからだ。しかし高校卒業以来、ずっと酪農家として生きてきた志賀さんは、間もなく50歳になる今、他に何を生業としていいのかと考えると途方にくれてしまう。

 高橋幸吉さん(58歳)もかつては酪農をやっていたが、その後、乳牛ほどに手がかからない和牛の飼育に切り替えた。その傍ら、米や野菜のハウス栽培も続けてきた。昨年、会社勤めをしていた長男が不況のために失業し、農業を継ぎたいと言い出した。次男も農業を手伝いたいと言う。高橋さんは、そんな息子のために、他人から借りて田や畑を広げた。さらに現金収入を得やすい野菜のハウス栽培を拡張するため、数百万円の借金をしてハウスを増設した。原発事故のため飯舘村が「計画的避難地域」に指定されたのはその直だった。高橋さん一家の将来設計が根底から瓦解した。残ったのは、多額の借金と、後継者が出来た期待と喜びを一瞬にして奪われた高橋さんの失望感、さらに夢を打ち砕かれた息子たちの絶望感だった。これから何をしたらいいのかわからない息子たちは、途方に暮れ、ぶらぶらと日々を過ごしているという。
 拡張したばかりのハウスへ案内してもらった。長泥集落の谷間を流れる川沿いにあるハウスに近づくと、放射能軽量器の数字が20マイクロ・シーベルト/時近くまで跳ね上がった。飯舘村の数値として新聞などメディアで伝えられる村役場前の数マイクロ・シーベルト/時の4倍、5倍の数値である。ハウスで栽培されていたホウレンソウは、販売できないため、収穫されないまま伸び放題になっている。この地方の特産として有名なトルコキキョウもやっと芽が出たばかりだが、出荷はできないから放置するしかない。家の近くに建てられたハウスには、シイタケが栽培されていた。シイタケの菌を植え付けた10数センチの立方体の土に、ハウスの中に所狭しと並んでいる。しかしこれも出荷ができないとわかって以来、放置されたままだ。定期的に水を撒かれることもなくなった土塊はカラカラに乾ききっていて、もう菌も死滅している。多額の費用を使った準備もすべて無駄になった。
 高橋さん一家の生活設計はまったく狂ってしまった。

 4月26日、飯舘村で「愛する飯舘村を還せ!」という村民の決起集会が開かれた。この現状に村の中から声を上げなければと、村の若者たちが企画した。
 村役場に隣接する施設で平日の夕方から開かれたこの集会に、定員の200人を超える村人が集まり、席に座れない参加者は立ち見となった。地元福島のテレビ局や新聞社はもちろん、NHKやTBSなど東京のテレビ局、全国紙の記者たちも多数、取材に押し掛けてきた。集会では村人の代表数人が、原発事故によって故郷を離れざるをえない現状への不安と悲嘆、そしてこの状況を生み出した東京電力と政府への激しい憤りをぶつけた。そのうちの1人の村民はこう訴えた。
 「住民が村から離れ、バラバラになったら、もう飯舘村ではないんです。孫たちに『もう還ってくる古里がなくなってしまう』と泣かれました。わかるでしょ? 東北人は優しいと言われます。優しいんじゃないんです。我慢しているんです! でも、もう堪忍袋の緒が切れました。村民の皆さん、この怒りを東京電力と政府にぶつけようではないですか!」
 代表の言葉に、会場の村人たちはうなづき、涙し、拍手した。それは村人一人一人の声だったに違いない。廃業に追い込まれる酪農家や和牛飼育農家の実態を訴える女性もいた。すでに大量の放射線量を浴びてきた結果、将来の健康への不安を訴える青年もいた。語らずにはいられない、心の奥底から湧き起るような発言者一人一人の言葉が聞く者の胸に響き、沁みとおっていく。会場にいる村人にとっても、他人事ではなく、自分自身のことなのである。語り手と聞き手の双方がこれほど緊迫した思いで一体化した集会は私もこれまで体験したことがない。村人たちは全く関わり知らぬ原発事故によって村が放射能で汚染され、今まさに廃村の危機にまで立たされていた。生きる基盤である土地を追われようとする村人たちが、心の奥底から吐き出す、叫びに似た言葉が私の胸に沁み入り、心を揺さぶった。発言する村人の真剣な顔をカメラのファインダーから見つめながら、私は心の中で叫んでいた。
 「この人たちの無念さ、悲しみ、そして怒りをこのカメラで記録し、伝えずにおくものか!」と。

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