Webコラム

日々の雑感 218:
『無情素描』が問いかけるドキュメンタリー映画の意義

2011年7月10日(日)

 ドキュメンタリー映画『無情素描』(むじょうそびょう・大宮浩一監督)を観た。「東日本大震災を扱った最初の映画」だと聞いたから、どういうものか観ておかなければならないと思った。私も、現在、ドキュメンタリー映画『飯舘村──故郷を追われる村人たち──』を制作中だから、どういうふうに大震災が描かれているのか知りたかったし、それを私のこのドキュメンタリー映画作りの参考にしたいと考えたからである。
 3月11日以来、来る日も来る日もテレビで東北の津波の被災現場は観てきたし、私自身、3月から4月にかけて、岩手の陸前高田(りくぜんたかた)や大槌町(おおつちちょう)、宮城県仙台市の荒浜(あらはま)、石巻市(いしのまきし)などの被災地の現場に立ち、カメラを回してきた。だから、映画に登場する廃墟や被災者たちの姿や声は決して珍しくはなかった。ただ新鮮だったのは、映画館の大きな画面いっぱいに映し出されるハイビジョン映像の鮮明な廃墟の光景だった。巨大で鮮明である分、映し出される映像は圧倒するような現実感を観る者に与える。さらに、脚色されない現場の自然音が、観る者をさらにその現場に立っているような気にさせる。監督やカメラマンの意図や狙いと一致するかどうかわからないが、1000年に1度とさえいわれるこの大惨事の現場を、その時でしか撮れない時期、つまり瓦礫の山がそのまま放置されたままにいなっている時期に、あるがままに素晴らしい映像で“記録”したこと──歴史の重大な事象を映像に刻みつけ残したというこの1点だけでも、この映画が制作され公開された意義はあると思う。
 「“映画”として成立している」と、ある映画関係者がこのドキュメンタリーを評した。「“映画”として成立している」とは、どういうことなのか、ドキュメンタリー映画の知識もあまりなく、自分で映画を作り始めてまだ間もない私には、よくわからない。ただこれまで数えきれないほど観てきたテレビの映像とは違うことは確かだ。だからと言って、映画パンフレットの「評者」のように、テレビ報道との比較によって「この映画の素晴らしさ」を際立たせようとするのは愚かなことである。

 何が違うか。まずレポーターがいない。もちろん、東京のキー局のスタジオにいる司会者がレポーターに話しかけもしないし、コメンテーターと呼ばれるタレントも並んでいない。テレビで毎日登場する彼らは、沈黙へのトレランス(耐性)が極端に低下した病人である。時間と空間をコトバと意味で埋めようとする。その点、この映画の製作者たちは、まともである。黙っていることに耐えられる。
 望むべきはこの時代が少しでもその『深さ』を共有してくれることである。テレビの映像なんかに管理され、支配されていては望みようもないけれど。

 それは「八百屋」と「衣料品店」を比べ、「衣料品店には八百屋にないものがある」と自慢しているようなものだ。テレビとドキュメンタリー映画とは役割が違うのだ。「テレビ報道」の最大の使命は、“情報伝達”である。情報をより分かりやすく伝えるためには「コトバ」は不可欠であり、観る人にその情報の「コトバ」をわかりやすく伝えるために、テロップ説明やナレーションは重要だし、ときにはレポーターも有効だ。その“情報伝達”のためにテレビ局のジャーナリストたちは長い期間をかけて必死なって現場を駆け回った。彼らが現場から伝える情報で、被災者たちは自分たち自身と周囲に起こったことを改めて知り、生き残るための必要な情報を得た。また多くの国民がそれによって被災地の現実を目の当たりにすることができ、「では自分たちは何をすべきか」を模索した。今回の大震災におけるテレビ報道の役割は測り知れないほど重要であり大きかった。そういうテレビ報道に関わった者たちを「沈黙へのトレランス(耐性)が極端に低下した病人」と表現するこの傲慢さと無知。こういう人間ほど「トレランス」といった不必要な横文字を使って格好付けたがるものだ。
 こういうもの言いは、この大震災という歴史的な惨事を、過労や睡眠不足による疲労に耐えながら、また被曝の危険晒されながら、ジャーナリストとしての使命感に突き動かされて現場から報道を続けた人たちに対する冒とくである。
 『無情素描』という映画は、こういう愚かな「評者」の「褒め言葉」などなくても、いやむしろない方が、その真価は伝わる。
 「テレビ報道がなしえなかったことで、ドキュメンタリー映画にしかできないことは何か」を監督やカメラマンをはじめ、この映画制作にかかわった人たちは模索し、それをかたちにするために苦闘したはずだ。この模索と苦闘の跡を私はこの映画の端々に観た。
 またこの映画に“方向付け”と“深さ”を与えているのは、玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)氏の言葉と読経だろう。被災地の風景の取り留めもないスケッチに見えるこの映画に、まさに「画竜点睛」の役を果たしている。延々と映し出される瓦礫の映像を意味づけているのは、まさに玄侑氏が語る“無情”という言葉だ。『無情素描』というタイトルは、まさにこの映画の成り立ちと狙いを見事に言い当てた絶妙の題である。
 現在、ドキュメンタリー映画『飯舘村』を制作中の私が、「テレビ報道がなしえなかったことで、ドキュメンタリー映画にしかできないことは何か」を模索する上で、この映画はいくつかの重要なヒントを提示してくれた。

映画『無情素描』公式サイト

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