Webコラム

日々の雑感 220:
飯舘村・離れ離れになる志賀さん一家

2011年7月21日(木)

 酪農家の志賀正次さん(しが まさつぐ・48歳)一家が暮らしていた飯舘村(いいたてむら)の蕨平(わらびだいら)地区は、隣の長泥(ながどろ)地区と同じく村の中でも最も放射線量の高い集落である。福島原発の爆発から4ヵ月が過ぎた今でも線量は10マイクロシーベルト/時を超えている。5月下旬、一家は安達太良山(あだたらやま)の山麓にある箕輪(みのわ)スキー場のホテルに1次避難したが、その2ヵ月の期限が迫り、2次避難をしなければならなくなった。蕨平では同じ屋根の下で暮らしてきた親子は、ホテルでも正次さん夫婦の部屋と両親の部屋は隣合っていた。しかし2次避難では、正次さんたちは南相馬市内のアパートに、両親は伊達市梁川町のアパートにと、志賀家は離れ離れで暮らすことになる。車でも1時間近くかかる距離だ。

 5月下旬、飼っていた乳牛を屠殺場に送る朝、輸送トラックに乗せられる牛を遠くからじっと見つめながら、母親のエミ子さん(73歳)は、「夢も希望もなくなった」とつぶやき、泣いた。
 「(牛は)家族だ。だって48年間、牛に食べさせてもらっていたんだもん。昨日の夜、『明日の朝は、牛たちにいっぱいうまいものを食わせてあげるっぺなあ』って、3人で泣いたんだ……」
 「原発さえなければこんなことはなかった。家族いっしょにいられてな。またいっしょに暮らせることを期待してがんばんねばな」
 「いい息子を持ったことが誇りだ、自分は。息子が今度避難するとき、送っていくからって、俺が荷物積んでいくからって……」と言うとエミ子さんは嗚咽した。「子はかわいいなあ……。いっしょに暮らしたかった……」

 あれからほぼ2カ月、息子の正次さん夫妻は、約束通り、箕輪のホテルから1時間半ほどかかる伊達市(だてし)梁川町(やながわまち)のアパートに、引っ越しの荷物を乗せた車で両親を送ってきた。日本赤十字社から贈られたテレビや冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、電気湯沸かし器の5品の電化製品がこの日、アパートに届くのに合わせて引っ越しの準備にかかることになったのだ。正次さん夫婦は数店のホームセンターを回って部屋の窓に合うカーテンを探し回り、取り付けた。水道局にも出かけ、水道も翌日から出るようになった。電気も来た。正次さん夫妻が奔走して、やっと人の住める部屋になった。
 1次避難場所のホテルでは3度の食事も出た。しかしこれからは買い物も食事の準備もすべてを老夫婦だけでやっていかなければならない。車で1時間ほどもかかる地区で暮らすようになる息子夫婦とは、これまでのように頻繁に会うことも難しくなる。
 原発事故は、家族をもバラバラにした。

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