Webコラム

日々の雑感 228:
映画『祝の島』監督・纐纈あやさんの“人間力”

2011年9月23日(金)

 私と綿井健陽(わたい たけはる)さんが立ちあげた「ドキュメンタリストの会」とNHKメディアテクノロジーとの合同勉強会の5回目(9月20日)で、ドキュメンタリー映画『祝の島』(ほうりのしま)を上映し、監督の纐纈(はなぶさ)あやさんの話を聞いた。同じ島を舞台にした鎌仲ひとみさんの映画『ミツバチの羽音と地球の回転』は以前観て、感想をこのコラムにも書いたが、『祝の島』はこの鎌仲さんの映画としばしば比較される映画である。残念ながら、それまで『祝の島』を観る機会がなかったが、周囲の映像関係者たちから、「原発問題ではなく、島の人を描いた作品」「地味で、深い映画」という評判は聞いていた。
 東日本大震災以後、初めて開く勉強会に、ぜひこの映画を上映したいと思った。大震災以後、ドキュメンタリストは何を、どう描くべきなのかをまだ模索し続けている今、貴重な手掛かり、ヒントを得られるのではと期待したからだ。幸い、纐纈監督の都合もつき、『祝の島』の上映会が実現した。

 地味で静かな映画だった。人びとの暮らしが淡々と丁寧に描かれている。1年9カ月という長い時間をかけ、島に住み込み、村人たちの仕事を手伝いながら、撮り手がすぐに質問をぶつけて無理に言葉を引き出そうとするのではなく、相手の動きをじっと見つめ、自然に発せられる言葉を丁寧に拾う。「インタビューは、自分の中では禁じ手にしていたんです」と纐纈さんは、あるインタビューで答えている。

 言葉にしてしまうという事に対して、私の中では怖さというのがあって。例えば「原発に何故、反対しているのですか?」と聞いて、「これこれこうだから」と答えてもらったら、それでわかったような気になってしまうのが嫌だったんです。言葉からこぼれ落ちてしまう部分があると思うし、その言葉さえ出せば観ている人が納得できてしまうというような、そういう話の使いかたをするのも嫌でした。


(写真提供 纐纈あや監督)

 耳に痛い言葉である。確かにインタビューは、ドキュメンタリーですぐに結果を出そうと焦るとき、安易に使ってしまいがちな手法である。私も現場でその癖からなかなか脱却できず、インタビューで聞いた言葉を補強するために映像を用いがちである。これはジャーナリストの性癖でもあるのかもしれない。“言葉”に寄りかかりすぎるところがある。すぐに問題とその所在を相手から言葉で聞き出そうとする。そして私が期待していたような、時には予想以上の適格な言葉を引き出せたら、「それでわかったような気になってしま」い、目的は果たせたような錯覚を起こしてしまうのである。
 私のこれまでのドキュメンタリー映画の大半がそうであった。とりわけ『沈黙を破る』は、元イスラエル軍将兵の証言の“言葉”が作品の核になっている。10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映される『“私”を生きる』もそうだ。社会の大きな流れに抗って、“私”を守るために凛として生きる3人の教師たちの体験と心の内の思いを“言葉”として引き出し、並べ、それを“生活”の一部の映像で補強する。現在、制作中の『飯舘村──故郷を追われる村人たち──』もまた、“言葉”に寄りかかったドキュメンタリーになる。
 『祝の島』の終盤に出てくる島の人たちの言葉について、纐纈さんはこう語る。

 島の人たちとの関係性ができてきた時、島の人たちそれぞれが思いをしっかりと言葉にして持っているということに気がついたんです。だから情報として聞き出すとか、納得したいから聞くということではなくて、その人そのものの言葉として記録しようと思うようになりました。

 言い訳じみたことを言えば、私が言葉に寄りかかるドキュメンタリーを作るとき、記録するその言葉は、纐纈さんのいう「それぞれが思いをしっかりと言葉として持っている」、言いかえれば、「相手から自然とにじみでていくる」「本音としてほとばしり出る」そんな言葉を拾い集め、記録しようとしているつもりである。それが成功しているかどうかは、その記録された言葉が観る人、聞く人の心に届き動かすかどうかにかかっている、と私は思っている。

 纐纈さんのインタビューの答えの中で、もう1つ私が深く考えさせられた言葉がある。

 何かを知る時って、大抵の場合、問題が起きてからそのことを知ることが多いですよね。そしてようやく、その場所に居る人を知って、情報やデータを得て、それぞれの立場の人の話を聞いて、それで問題を知ったような気になる。でも、一番知らなければならないのは、そういうことなのだろうかと思ったんです。マスコミには島の人たちの抗議行動ばかりが取り上げられて、何を守ろうとしているのかという、「何」の部分はいっこうに映し出されない。それは、今のマスコミにも、その情報を受け取る私達側にも、「知る」という行為において決定的に欠落している意識ではないかと思います。

 映画の中で、どうしてあんなに暮らしの描写にこだわったかというと、島の人たちが何を守ろうとしているのかを私自身が見たいと思ったからなんです。

 原発建設への抗議デモというセンセーショナルで映像的に「絵になる」シーンを映し出して、伝えきったつもりになっているメディア──いやフリージャーナリストの私にだって、その傾向はある──への核心を突いた問いかけである。「何を守ろうとしているのか」を見定めるためには、長い年月をかけて、じっと人びとの生活に寄り添い、見つめていくしかない。しかしそういう手間のかかる仕事は「無駄」と切ってしまい、性急に、そして強引に「結論」を描き出そうとする私たち。
 長い年月を経て手探りで初めてのドキュメンタリー映画を世に出した、まだ30代半ばのこの女性監督に、私はこれまでのジャーナリストの在り方を根本から問われた気がする。

 纐纈さんが祝島(いわいしま)の「愛おしい」人びとに出会い感動してから映画作りに踏み出すまで8年間の時が流れている。出会って5年目、彼女は原発反対運動の写真で祝島の人たちと「再会」する。その顔に「島の人たちの姿って、これだけじゃないよな」「一番大切な普段の島の人たちの顔ってこれじゃあないよなあ」と感じ、「本当に苦しくって、それと同時に、すごく悔しかった」と纐纈さんは語っている。そして彼女は島の人たちが命をかけて守ろうとしているものを映画にする決意を固める。それから実際に島に入るのは3年後、さらに1年9カ月をかけて島に住み着き、人間関係を作り、カメラで記録し続けている。長い期間、纐纈さんは映画にしたいという願いと志を、なぜ持ち続けることができたのか。その間の生活や映画制作後の将来の生活への不安はなかったのか。私は勉強会の最期にその疑問を彼女にぶつけた。

 まだ20代の頃、映像でやっていこうというところから入ってなくて、何が自分にできるかなとウロウロしながらたどりついたということがあったので、あまり気負いがなかったのかなあ。こう撮らなければいけないとか、これでプラスマイナスで資金回収を絶対しなければいけないとか、そこらへんの思慮深さが欠如していて始められたのではないかと思います、勢いというか。今次の作品を作ろうと考えるときに、1作目を作ろうと思ったときのことを思い出すと、とても不思議なんですけど、不安というものがまったくなくて、これは絶対にできると、絶対いいものになるという、へんな確信みたいなものを自分に刷り込んだんですかね。その確信は何かというと、あの島に初めて降り立ったとき懐かしいと感じた感覚と、一人ひとりが現れたときの自分の嬉しさ、島の人たちが本当にいいなあとワクワクするという、私がそう思う人たちをそのままきちんと撮っていくことができたら、絶対におもしろいに違いないという、そんな感じだったんですね。やっぱり私自身が強烈に島をおもしろいと思ったところから始まったので、そのことに対しての自信があったのではないかと。

(Q・生活の不安はなかったですか。映画ができた後、どうやって生きていこうかとか)

 ものすごくありました。私は1年9カ月の撮影中、今だにどうやって食べれていたんだと思うぐらいぎりぎりのところでやっていまして。祝島にいるときに食べさせてもらって食いつないでいたというくらいの感じでした。
 しかし本橋成一さん(プロデューサー)に、他の仕事はせずに集中しろと言われて、「とにかく耐えてやるぞ」という感じでやっていました。今だに楽になったわけでは全然ないんですけど、年金暮らしの方々から1口5000円をいただいたお金を使わせていただくということがほんとにありがたくて、やっぱりお金の質というのが作品の質につながっているというふうにとても思っていたんです。そのことにかなり支えられていたような気がします。そのお金を使わせていただくには、ほんとうに恥ずかしくないもの、自分に嘘をないものを作りたいって、そういう応援してくださる方の存在もとても大きかったと思います。

(Q・今後への不安はなかったですか。今後どうしようと思っていますか)

 作り続けていきたいなあと思っています。私の場合は、映像を作り続けていくといっても、こういう作品を作り続けていきたいなと。それは自主制作でしか作れないと思っているので、どうやって食べていくかというのはいまだにずっと考えて続けていることなんですけど。半農半映画制作作家とかを本気で考えたりします。ただフリーランスだからこの映画は作れたのだろうと考えていますし、組織に属している、あるいは大きなスポンサーがつくといろいろ制約がかかってくることを考えると、やっぱりどんなに苦労していても、一つ一つお金を集めをしながら、作っていくしかないかなあと思っています。

 自分の発する言葉に嘘がないか確かめるように言葉を選びながら、誠実な語り口で答えるこの30代半ばの映像ドキュメンタリストの表情は、キラキラと輝いていた。祝島の人たちが、「この人になら自分たちの記録を託してもいい」と思い、彼女を全面的に受け入れ支えたのも、なるほどと納得できた思いがする。ジャーナリストもドキュメンタリストも、 “人間の総合力” “人間力”が勝負だと私は思っている。この若い映画監督は天性のものなのか、30数年の半生の中で培ったものなのか、その資質をすでに身につけている。すごいドキュメンタリストである。

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