Webコラム

日々の雑感 230:
山形国際ドキュメンタリー映画祭/報告(1)
『密告者とその家族』

2011年10月8日(土)

 10月6日から「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」に参加している。今回は、私の作品『“私”を生きる』が「ニュー・ドックス・ジャパン」8作の1つに選ばれ、招待していただいた。今まさに『飯舘村』の制作で行き詰まり悩んでいる私にとって、ドキュメンタリー映画について改めて勉強させてもらう絶好の機会である。
 2年前、私は自費で参加し、数日、朝から夜まで映画漬けになって多くの作品を観た。山形国際ドキュメンタリー映画祭に対して期待が大きかっただけに失望した作品も少なからずあったが、いくつかの素晴らしい作品にも出会えた。ドキュメンタリー映画の世界に足を踏み出したばかりの私は、実に多くのことを学ばせてもらった。その報告は2年前のこのコラム「日々の雑感」に記した(山形国際ドキュメンタリー映画祭2009 (1))。
 今回も、私自身の中で観た作品を反芻し記録するために、思いつくままその感想を書いていく。

『密告者とその家族』

YIDFF 作品紹介:密告者とその家族
The Collaborator and His Family
アメリカ、イスラエル、フランス/2011
監督:ルーシー・シャツ、アディ・バラシュ(Ruthie Shatz, Adi Barash)

 イスラエル治安当局のために密告をするパレスチナ人─「裏切り者」としてパレスチナ社会で最も忌み嫌われ憎まれる存在であり、1994年のパレスチナ自治政府創設後、民衆や当局の復讐によって、多くの密告者たちが投獄され殺害された。密告者たちは裏切った同胞たちからの復讐を恐れてイスラエル当局に保護を求め、イスラエル国内に逃亡した者も少なくない。そんな家族のイスラエルでの生活を追ったドキュメンタリーである。
 まずこの映画で最も感銘を受けるのは、密告者イブラヒムとその家族への密着度である。カメラがそこに存在しないかのように、家族の赤裸々な姿が描き出されている。なぜカメラはこれほど家族に密着できたのか。
 一番大きな要因は、密告者とその家族側の事情だったろう。治安当局にさんざん利用された揚句、逃れたイスラエルで身分証明書も与えられず、「不法滞在者」として警察にいつ拘束され、パレスチナ側に追い返されるかと怯え続ける。用済みとなり、ぽいと捨てられてしまった密告者。このままでは子どもたちの将来が潰される。かといって故郷に帰れば殺害されかねない。彼らが生き残る道は、この現状をイスラエル社会に訴え世論の力でこの状況を変えてもらうしかない。そのために、メディアは有効な“道具”となる。ただしそのメディアはイスラエル社会に影響力をもち動かすものでなければならない。だから制作者はイスラエル人自身である方が望ましい。しかもイスラエルの公用語ヘブライ語が堪能な密告者にとって細かい心情を伝えることもイスラエル人相手ならできる。撮影・監督したルーシー・シャツとアディ・バラシュが私たちのような第三国の外国人ではなく、もう一方の当事者であるイスラエル人であることは偶然ではなかったと思う。

 密告者と家族の心を開かせたのは、単に「イスラエル人だから」ではもちろんないだろう。撮影者側の動機や人間性が決定的な要因となったはずだ。撮影者は、取材対象として「“絵”になる、インパクトの強い」取材対象だったことだけが映画を作る動機ではなかったと私は思う。母国の治安当局に利用され捨てられたこの家族に対するイスラエル国民の1人としての後ろめたさ、罪悪感、そして何よりも“怒り”が映像から読みとれるのだ。それはイスラエル人として、というより人間としての“良心”“怒り”というべきかもしれない。その怒りを撮影者自身が直截に言葉として表現するのではなく、自分自身が怒りを抱く事象を丹念に、しかも感傷的、感情的になるのではなく、 “乾いた”タッチで淡々としかも丁寧に描き伝えているところにこの映画の凄さがある。
 このドキュメンタリーの“対象への深い密着度”は、取材者と被取材者の双方の思いと利害とが一致することによって可能になったのだろうと私は思う。
 欲を言えば、1つだけもっと描きだしてほしいことがあった。それはなぜイブラヒムが密告者となったかという根本的な問いだ。映画の中で、「子どもたちのために」とイブラヒム自身が語っている。それは漠としていて、私たちの意識の上を滑ってしまう。しかし「なぜ、同胞を裏切ってまで密告者に」という問いにきちんと向き合い、観るものを納得させなければ、彼らのイスラエル国内での生活の惨めさ、過酷さの意味が深まらない。また裏切ってきたパレスチナ社会の現状が浮かび上がらず、それがゆえにイブラヒムいう人物が多くの矛盾を内包した現在のパレスチナ人の1人として普遍化できず、パレスチナ社会から浮き上がった、特殊な人物、跳ね上がり者としてしか映らないのだ。また普通の善良なパレスチナ人を「密告者」に引きずり込んでいく占領当局の残忍さも十分に見えてこない。
 私自身、現地で取材中に、重病の家族がイスラエルの病院で治療を受けるための許可と引き換えに、また拘束された女性が性的な暴行を受け、それを撮影した写真を「協力しなければこの写真を村にばらまくぞ」と脅迫されて“密告者”にされる例があると聞いた。
 2人の監督は家庭の事情で来日できなかったが、彼らに訊いてみたいことがある。イスラエルの恥部を描き出したこの映画は、イスラエル国内で上映されたのか。そのとき、イスラエル人はどう反応したのか、ということだ。「汚れた自分の衣服を外で洗濯するな」という諺に象徴されるように、「自国民が祖国の恥部を外にさらけ出すこと」を忌み嫌う保守派のイスラエル国民は、この映画が日本で上映されていることを知ったら、どう反応するのだろうか。彼らは「同胞を裏切った卑怯で馬鹿なパレスチナ人の話さ」と切り捨ててしまうのだろうか。

(後記)この映画は、映画祭の最高賞である「ロバート&フランシス・フラハティ賞」を受賞した。

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