Webコラム

日々の雑感 247:
2年10カ月ぶりのガザ

2011年11月27日(日)


ラファ・エジプト側の国境

 リビアでの調査を終えたパレスチナ人権センター(PCHR/ラジ・スラーニ代表)のスタッフたちが24日にカイロに到着し、今日、ガザに戻るという連絡を受けた。彼らに同行してガザ入りすることが一番安全だと判断し、今日、ガザに向かうことにした。

 朝4時50分、カイロの中心地ザマレック地区のホテルを出て、PCHRのスタッフたちが宿泊する郊外のホテルへ向かった。『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』第1部「ガザ」に登場するバッサムも一行の1人だった。抱き合ってほぼ3年ぶりの再会を喜んだ。PCHRスタッフ5人と私の計6人で、午前6時前にラファへ向けて出発した。早朝で道路は空いていて、100キロを越すスピードで飛ばす。PCHRのスタッフは睡眠不足らしく、すぐに車内で寝入った。私は十分に睡眠を取っていたから、眠気はなく、ずっと車窓の砂漠を眺めていた。2時間ほどでスエズ運河にかかる大きな橋を渡る。アイリーシュでトイレ休憩、11時に遂にラファに到着した。5時間の長旅だった。

 ラファの検問所の入り口でエジプトの役人にカイロのプレスセンターからもらった許可書を提出した。しかし役人は「これだけではここを通過できない」と言い、他の部署に電話した。そして「この国境のオフィスには君の名前が送られてきていない、だから、ここは通過できない」という。まったく予想もしなかった結果に青ざめた。ここまで来て入れとは一体、どういうことだ。この許可を得るために奔走したエジプトでの10日あまりの努力は一体何だったんだ! メディア担当の役人がオフィスから来るするまで私は入り口で待機することになり、バッサムたちPCHRのスタッフは、国境を通過する手続きをするために先に行ってしまった。やがてメディア担当の役人がやってきた。私は携帯電話でカイロのプレスセンターの職員に電話を入れた。電話に出た女性職員とメディア担当官と直接話をしてもらった。長い通話の後、役人はやっと納得したらしく、彼が私を足止めした他の役人に説明してくれた。その結果、やっとここを通過できることになった。このままカイロに引き返すための車の手配さえ考えていた私は、安堵した。メディア担当官は私の窮状に同情したのだろうか、エジプト側の出国手続きが終わるまでずっと私に同行し、ガザに戻るパレスチナ人旅行者で混雑する入管のパスポート審査の窓口での手続きや、税関でのカメラ検査(業務用のカメラを持っているかどうか訊かれ、私は先日、空港でディポジットした時の書類を提出した。担当官が間に入ってくれたからその手続きもスムーズに済ませられた)もその役人が手伝ってくれた。独りなら、ずっと待たされるパスポート審査も、彼が他の旅行者をかき分けて窓口に行き、私のパスポートを出してくれたので、すぐに出国スタンプを押してもらった。さらにメディア担当官は、パレスチナへ向かうバスまで私をガイドしてくれ、他の旅行者のようにバスの後ろの荷車に山積みされるのではなく、私の荷物を安全なバスの床下の荷物置き場に入れてくれるように手配してくれた。そこでその担当官と別れた。実に実直で親切な役人だった。

 パレスチナ側までバスで2、3分の距離だ。8年前、エドワード・サイードとの対談を終えラジとエジプト側からここに辿り着いたとき、ここにはイスラエル兵がいた。ガザへの入国スタンプを押すのもイスラエル人の女性係官だった。しかし今は、イスラエル人はまったくここにはいない。代わりに入国スタンプを押すのは、ヒジャーブの上に野球帽をかぶったハマス政府の女性係官たちだ。4つのブースに4人が並んでいる。かつてイスラエル人の女性係官が並んでいたブースに今はヒジャーブ姿の女性係官が座っている。時代の流れを痛感するシーンだ。私がハマス政府からの入国許可の書類を提出し、「日本のジャーナリストです」とアラビア語で係官に告げると、彼女は笑みを見せ、すぐに入国スタンプを押してくれた。次の税関でも、日本のパスポートを見せると荷物はまったく調べられることはなく通過させてくれた。これでやっとガザに入れた。午後1時45分、私は遂に2年10カ月ぶりにガザの地に足を踏み入れたのだ。「やった!」と心の中で叫んだ。

 ここに辿りつくまで、実に長く苦しい道のりだった。カイロに到着したのは10月28日、それから日本大使館で紹介状を受け取り、それと放送局からのアサイメントレターをプレスセンターに提出しラファ国境を越える許可を申請したのは10月30日だった。しかしイスラムの祝日「犠牲祭」とぶつかったこともあり、10日近く経っても許可は下りなかった。カイロで特別にやることもなくじっと待つことに耐えられず、イスラエルへ飛んだのは11月10日、イスラエル側からガザに入る道を探るためプレスカードを4たび申請したが下りなかった。2週間の滞在を、旧友たちとの再会、西岸への旅行やインタビュー、日本とのメールのやりとり、ハマス側の入国許可の申請などで費やした。そして再びカイロへ。やっと下りたエジプト側の許可書を受け取り、ラファへ向かったは、日本を発ったからちょうど1ヵ月後の今日だった。帰国の予定日までもう12日ほどしかない。それでも、私にとってガザに入ること自体に大きな意義があった。イスラエルが妨げようとしたガザ入りを果たせたのだから。ある意味では私にとってイスラエルの妨害に対するささやかな勝利である。

 前回、宿泊したビーチ難民キャンプの家庭に今回滞在することは難しく、バッサムに依頼した宿泊できる家族探しは失敗に終わり、私は滞在先のあてがなくなった。幸いPCHRの副所長ジャバルが今夜は自宅に泊まるようにと誘ってくれた。今夜の宿泊先が見つかってほっとした。
 実に長い一日だった。

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