Webコラム

日々の雑感 249:
飯舘村住民の新年

2012年1月3日(火)


大晦日の夜の長谷川家
(昨年は8人家族だったが、今年は5人だけの年越しになった)

 12月12日に中東から帰国して以来、私の最新作『“私”を生きる』の劇場公開(1月14日から2週間、オーディトリム渋谷で)の準備に奔走し、ガザ取材の整理も発表準備もできないまま、年を越してしまった。
 12月28日からは、9月以来、3ヵ月以上も訪ねていなかった飯舘村を再訪した。現在、制作中のドキュメンタリー映画『飯舘村─故郷を追われる村人たち─』は9月下旬に粗編まで辿り着いたが、どうも自分でも納得のいく内容にならない。その行き詰まりの突破口を見出すための再訪だった。20数年ぶりに車の運転を再開して半年、しかも中東取材の旅で1ヵ月半も運転から遠ざかっていた直後の心もとない運転で、雪と氷でスリップする危険のある東北の道路を走るのは正直怖かったが、安全に走れる春まで待っていては映画の完成はそれだけ遅れてしまう。大金をはたいてタイヤをスタッドレスに替え、東京や大阪での『“私”を生きる』劇場公開が始まって動きがとれなくなる前に飯舘村に向かうことにしたのである。
 全村避難からほぼ半年、村を警備する村人たちの「見守り隊」など一部を除き、飯舘村からは住民の姿は消えた。それでも正月を故郷で迎えるために帰村する村人たちはいるにちがいない、故郷を追われた村人たちはどのように新年を迎えるのかを記録したいと思った。しかし新年を迎えるために帰村する住民はほとんどいなかった。正月は祖父母や子ども、孫たち家族が一堂に集う数少ない機会だ。だが放射線量の高い飯舘村に子どもや孫たちを呼び寄せるわけにもいかない。だから家族が集まるためには、福島市や伊達市の仮設住宅や借り上げ住宅で正月を迎えるしかなかったのだ。
 故郷の村で正月を過ごせない理由は他にもある。半年近く人が住まなくなった家は傷み初め、中にはネズミが巣食っている所もある。それに寒い村で過ごすために欠かせない暖房器具もすでに新たな住居に持ち出し、夜には気温が零下に下がる村で数日を過ごすためには新たに暖房器具を持ち帰らなければならない。
 私は、映画にも登場する元酪農家・長谷川健一さんの飯舘村の自宅で正月を迎えた。飯舘村の行政区(部落)の1つ前田地区の区長であり、また「見守り隊」の一員でもある長谷川さんは、伊達市の仮設住宅から40分ほどかけてしばしば自宅に戻る。そのため村の自宅はまだ“住居”としての機能を保っている。大きな家に住み慣れた長谷川さん夫妻は、狭い仮設住宅に夫婦と長谷川さんの両親の4人が暮らす息苦しさに耐えられないのだろう、自宅に戻るとほっとすると言う。正月も一家はこの自宅で迎えた。4世代、8人家族だった長谷川家だったが、今年の年越しは夫妻と両親、それに独立しアパート暮らしをする次男の5人だけだった。長男夫婦と孫娘は山形に移った。孫娘をこの飯舘村に呼び寄せるわけにもいかない。
 元旦の朝、私は長谷川さんに「明けましておめでとうございます」とあいさつした。しかし長谷川さんは「おはようございます」とあいさつを返した。今年の新年に、「おめでとう」とはどうしても口にはできないと長谷川さんは言った。元旦の朝の食事も、今年はおせち料理は準備しなかった。

 菅野典雄村長は、村の除染を急ぎ、2年を目安に村人を帰村させることを目指している。しかし、私が取材した若い世代の村人たちは「たとえ除染が完了し、国や村が安全宣言を出しても、村に戻る気はしない」と語った。「たとえ今より線量が下がっても、子どもたちの健康への影響が怖くてここで子どもたちを育てようとは思わない」というのだ。「村に帰ろうとは思わない」というのは、若い世代だけではない。中年以上の世代も、商店もガソリンスタンドもない村で、しかも若い子どもや孫たちといっしょに暮らせない村で暮らそうと考える人は少ないのだ。
 長谷川さんは、私の映画の中でこう語っている。
 「ここで生まれ育った私たちの世代以上の住民は戻ってくるかも知れない。しかし若い世代は戻っては来ない。私も息子たちの家族を危険なこの村に戻らせない。だから、私たちの世代がこの村で死んでしまったら、私たちより下の世代のいないこの村は廃村になる 」

 3200億円の除染費用をかけても、飯舘村を再興しようとする行政。除染しても放射線量が幾分下がることはあっても、子どもを産み育てる環境には戻らないと帰村を諦める村人たち。飯舘村は今後、この両者の意識の埋めがたいギャップに直面することになる。

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