Webコラム

日々の雑感 254:
映画『大丈夫。─小児科医・細谷亮太のコトバ─』

2012年3月6日(火)

 「いいドキュメンタリー」と評判の映画はできる限り、時間を割いて観るようにしている。ドキュメンタリー映画を作る者として、自分の技量を高めるための“教科書”にしたいという思い、そして自分の作っている映画の「いい」「悪い」を判断する“物差し”を得たいという思いからだ。そんな映画は目利きの効く映像のプロからの推薦された作品だったり、私が“凄いドキュメンタリスト”と尊敬する人の作品だったりするか、定評のある賞を受賞した作品も見逃さないようにしている。
 今年のキネマ旬報ベスト・テン文化映画部門の候補作品は素晴らしいドキュメンタリー映画が並んでいた。私自身が観た作品の中でも『沈黙の春を生きて』(坂田雅子監督)と『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ)が際立っていたので、そのうちどちらかが1位に選ばれるだろうと予測していたが、出てきた結果は『大丈夫。─小児科医・細谷亮太のコトバ─』。これまで聞いたこともないこの映画が突然、「今年最高のドキュメンタリー」に選ばれたことに正直、驚いた。素晴らしいと私が思った前者2作品を超える映画とはどういうものかと興味津津だった。そして大倉山ドキュメンタリー映画祭で初めてこの作品を観て、私はこれが第1位に選ばれたことに心底、納得した。「納得」というより、「衝撃」だった。観る者の心をこれほど揺さぶるドキュメンタリーが作られたことに、である。正直、私が作ってきたドキュメンタリー映画とは、まったくレベルが違うと思った。キネマ旬報ベスト・テン文化映画部門の選者たちの眼力に敬服した。
 まず技術。息を飲むような映像の美しさ、その映像にそっと寄り添う音楽の美しさ、そして見事な編集。しかしこの映画の圧倒的な力は、映画の内容である。つまり登場人物たちだ。小児がんを患った子どもたちの一途さと健気さ、そしてなりよりも、「小児科医・細谷亮太」の“人間力”である。「こんな医者が、いやこんな人間がこの日本に現実にいるのか!」という衝撃と感動に、私は観終わってしばらく呆然となった。
 タイトルの副題「細谷亮太のコトバ」のように、細谷医師の言葉が凄い。病魔に襲われ短い人生を懸命に生きた子どもたちが生前に残した言葉も心に浸みる。さらにそんな子どもたちに寄り添ってきた親や看護師たちの言葉もいい。映画の感動を反芻し噛みしめるために、私の心を揺さぶった言葉を列記する。

【清水晶子さん(11才)/急性リンパ性白血病で入院】
お母さん「昌子ちゃんはね、すごいんだよ。ラッキーなんだよって(笑い)。こんな経験できる子って、めったにいないんだかたって」

小児がんを患った女の子が目を真っ赤にして両手で涙ぬぐいながら、一生懸命話している。
「自分では、ちゃんと介護とか福祉の仕事に就きたいと思って…でも、親に言って、何か意見を言われるよりは、自分でひっそりと頑張って……」「……実際になったときに、親孝行みたいな形で驚かせてあげたいなって思って……来年にはホームヘルパーの資格取って、またここに来れたらと思っています……以上」

【急性リンパ性白血病で、視力を失った少年/22才で逝去】
「……でも、見えなくても、すごく愉しいです。人の声で顔をみるというか、すごく想像力を使うようになって、なんか……ただ単に毎日過ごすよりは、……ちょっと愉しいかなぁって、自分で思うようになってきましたね」
「初めて会う人とか、すごく面白いです。どんな顔しているだろうって自分で想像しながら会話すると」
「自分がしっかりしないとダメかなと思ってたんで、心配かけたくないんですけど……すごい心配してくれんですよ、親とか、だから余計に心配けたくなかったし。……元気な振りするわけじゃないですけど、なるべくそういう悲しい面を見せたくなかったんで、一応、自分なりには頑張って、やってきました」
「親父へ。いつもお見舞いに来てくれてありがとう。元気出ます。いつもわがままですいません」
「仕事がんばって下さい。口では言えないので、手紙に書きました。汚い字でゴメン。トモより。ヒヒの……、父の日にプレゼント。早く元気になるよう頑張ります」

【脳腫瘍を患う高遠翼くん/17才で逝去】
「将来の夢は、医者になることです」
「やってみたいな、と。病気の子どもを、自分も病気して悲しかったから、少しでもそういう子どもたちを楽にっていうわけじゃないけど、治してあげたいなと思って。なりたいなと思った」

【女性】
「すごく不安がっているとこに、簡単に励ます……ことが私にできなくて、なんて言葉をかけていいのかなぁ……」

【細谷亮太医師】
「治らないからって最初からあきらめるというんではなくて、治らないなら治らない中に、希望をちゃんと見つけて、最初から希望をあげるような仕事をしてかないといけないと思いますよね」

【別の女性】
「あの、例え次の日に亡くなるような状態であってもその日は一生懸命その子自身が頑張って生きているっという、その生きてる時間を大切にしなきゃいけないって、一日一日頑張っていきましょうと」

【渡邊看護師】
「悲しいときに泣かなくなりましたね。悲しいときに泣かなくなって、嬉しいときに涙が止まらなくなる。うん、だから、亡くなった子たちをみて、亡くなった場面にその瞬間にあまりわんわん泣かなくなって……なったけど、こうやってみんなが愉しくしてたり、嬉しそうにしてたりすると、なんか……もうたまらなくなる。よかったなぁとか思って」

【細谷亮太医師】
「おなじ人間として、一人で考えてるより、いろんな人がどう思っているかっていうことを聞いて自分のものにしていくっていうのは大事なことだし、ひどい目に遭っている……ひどい目にっていうか、とても大変な目に遭っている子どもたちこそ、……自分だけじゃなくて同じような人たちがいろんなことを考えるんだというようなことを感じることが大事なんだと思うんだけど」

「治りにくい病気にかかってしまった人に、健康である僕はひとつの負い目を感じます。なぜ自分ではなくその人なのか、それは誰にもわからない。たまたまその人が病気を引き受け、僕はかからなかっただけのこと」
「それだから、病気になってしまった人に対して、こちらがある負い目を感じるんです」

「死んでしまった子どもたちに、いま僕ができることは彼等のこと、彼等の思いを少しでも多くの人に知ってもらうことです」

「毎日僕を思い出してよ。私を忘れないでね。そういうシグナルが子どもから送られてくるんだ、と子どもを亡くしたお母さんはよくいいます。もういなくなってしまった子どもから、僕を、私を思い出してよ、考えてよというメッセージを確かに受け取るようになって、それからは医者を止めようとは思わなくなりました。
亡くなった子どものことを、いろんな順番で、一人ひとりを思い出します」

「一人ひとりの子どもを忘れないでいることが務めだと感じていますし、そうすることで、自分も生かされているという気持ちになります。
もう自分ではなにも言えない亡くなった子どもたちをとても身近に感じます。ずーっと彼らが傍にいるような気がします。
6才で亡くなった子には6才なりの、4才で逝った子には4才なりの人生の長さがあり、本人にも「家族にも思い出がいっぱいあるはずなのです。
大人になれずに死んでしまってほんとうに無念だろうなと思う反面、彼らには彼らなりの人生を生きたのだという気もします。
だからいずれ死んでいく僕としても、彼らのことをしっかり覚えておいてあげたいです」

「死にたくなかったのに死ななければならなかった、たくさんの子どもを看取った医者としては、例えどんなことがあっても、あちらからお迎えがくるまで、人は生きていなければいけない、と思うのです」

「これは時に、自分が本当にやろうと思ってやっている苦しいことでも、他の人からみると偽善者っぽく見えることがあるんだろうな、というようなことを、自分で感じることがあって。特に若いときはもっと今よりも強かったような気がするんですけど、そういうときにたまたま、床をいっぱい歩いている蟻が邪魔で、潰すときに、自分の指を唾で濡らして一匹ずつ潰しているっていうときに、やっぱり自分は偽善者なのかもしれない、とかいうふうに思ってしまう瞬間があった、というときの句ですね。
 蟻潰す 偽善者の指 唾で濡らし」

「入院している子どもたちといつも一緒に『いいことさがし』をしています。
今日は吐き気がなくてちゃんと食べられてよかったね。窓の外の緑が昨日よりずーっときれいでよかったね、雨が降って風が吹いたからだよ。
今日はお母さんが来てくれてよかったね。
……そんなことから、一回で点滴が入ってよかったね、などと『小さなよかった』を一生懸命さがします。
すると子どもたちは素直にそのことを喜んでくれるようになります。
ここで何かいいことないかなと『いいことさがし』をしていると気持ちが少しずつ元気になってきます。
きっと『いいこと』が見つかるはずです」

「自分を元気づけたり…大丈夫にして欲しいというような気持ち、この子に大丈夫だ思ってほしいと。私が思わせることができなくても、何か自然を超えたようなものが、ちゃんと大丈夫って言ってくれないかなぁっているような気分は、いつもありますね」
「大丈夫も、お祈りですね」

(キャンプファイヤーの炎を取り囲んで座る参加者に語りかける細谷医師が涙を堪えながら語る)
「毎年、キャンプファイヤーは様々な思いをみんなにくれます。
去年ここにいた人で、今年ここに来れなかった人のことを、僕なんかはとても、想います。来たかったろうなぁと思う人を、ちょっとだけ思い出して、黙とうをして終わりにしたいと思います。黙とうって知っているかな? 黙とうっていうのはなんにも、何も言わなくていいんです。静かに十秒間、お友だちのことを想ってください。じゃあ、黙とうします」

 私はこれらの言葉と、それを語る人たちの表情、姿になぜこれほど心を揺さぶられたのだろうか。病魔に襲われた自分の運命を呪い打ち拉がれるのではなく、その運命を堂々と引き受けるばかりか、自分の病気がもたらす肉親など周囲の大切な人たちの絶望や悲しみを慮(おもんばか)り気遣う、がんを患う子どもたちの驚嘆すべき勇気、健気さと優しさ。一方、健康である私は、「自分にはこれもない、あれもない……」と、いつも「ないものさがし」ばかりし、「自分が、自分が」と利己中心にしか考えられないでいる。そんな自分だからこそ、これほどの重い運命を背負いながらも、周りの人を慮る心の豊かさをもつこの子らに圧倒されるのだ。
 それは私が“パレスチナ”に出会い、衝撃を受け、引き付けられた時と似ている。“難民化”“占領”という、あれほど過酷な状況の中でも家族を想い、周りの人びとを気遣い、同胞の未来のために自分の人生さえ投げ出す人びとに、私は圧倒され心を揺さぶられた。そして“利己”を中心に置いて生きてきた自分自身の在り方を問われた。つまり“パレスチナ”は私が自分の在り方、存在の意味を見つめる“鏡”でもあった。
 細谷亮太医師もまたそうであった。なぜこれほどがんを背負ってしまった子どもたちに寄り添えるのか、なぜこれほど子どもの痛みを自分の痛みにしてしまえるのか。医者としてもっと快適で、気楽な道だって選べたはずだ。あの子どもたちをもっと引き離し、「がん患者」として機械的に「治療」できれば、あれほど心を痛め、自分を追い詰めることなく、気楽に生きていられたはずなのに、なぜ敢えて“辛い道”を選ぶのか。やはり、苦しむ子どもたちに寄り添うあの生き方は、自分でも逃げようにもできない、生まれながらにして持った細谷亮太氏の性分であり、天性なのだろう。
 正直に告白すると、私は小学校の頃から、アルベルト・シュバイツァーに憧れ、医者になる夢を追いかけた。実際、医学部をめざしたが、3浪の後、挫折した。しかし細谷医師の生き方を知ると、私のように利己を中心に据えて生きる人間は医者になるべきではなかったのだと思う。私には苦しんでいる人を目の前にして、自分がそうでないことに“負い目”を感じる感性はない。それどころか、自分が同じ苦しみを体験せずに済んだことにほっと安堵し、少し高い目線からその苦しむ相手を「可哀そうに」と憐れみ、涙を流す、そしてそういう自分の「優しさ」に自己陶酔する。どこまで行っても、自己中心なのだ。負け惜しみもあるが、こんな私は、やはり医者になれなくてよかった、所詮、自分は向いていなかったのだ。この映画で細谷医師の言動に圧倒されながら、私はつくづく思い知った。
 私がこの映画で受けた衝撃と感動は、自分にまったく欠落し、でも、いや、だからこそ憧れるものを目の前に突き付けられたことに起因するのかもしれない。つまり、どこまでいっても、“自己中心の発想”なのだ。

 ドキュメンタリーで表現する目的は“作り手”によって、扱うテーマによってさまざまだろう。国や社会の不正義、理不尽さを告発するドキュメンタリーもあれば、人間の悲しみ、苦しみ、醜さ、美しさを伝えるドキュメンタリーもあるだろう。しかしいちばん大切なことは観る人に“感動”を伝えることかもしれない。「醜いところもいっぱいあるけど、人間ってなんて美しいんだろう、なんて健気なんだろう」という感動、「生きるって辛いこと、悲しいこと、絶望することがいっぱいあるけど、でも生きるってなんて素晴らしいんだろう」という希望を、ドキュメンタリーを通して観る人に伝えることができたら、ドキュメンタリストはどんな苦労も報われるような気がする。そのためならドキュメンタリー制作に命を削ってもいいと思えるに違いない。
 『大丈夫。─小児科医・細谷亮太のコトバ─』は、まさに観る人に“感動”を伝える映画である。映画に登場する子どもたち、細谷医師と出会い、10年以上も寄り添い、映像に記録し、そして見事なドキュメンタリー映画として世に送り出した監督、伊勢真一氏の“ドキュメンタリスト”としての感性と力量に、私は同じ世界の片隅にいる後輩として、心からの羨望と敬意を抱く。こういうドキュメンタリー映画を作れるようになるまで、私の残された、長くない人生の時間で足りるのか不安だが、でも一歩でも近づきたい。

次の記事へ

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp