Webコラム

日々の雑感 256:
演劇『荷(チム)』で初めて知った歴史事実

2012年3月24日(土)

 演劇の世界に疎い私は、著名な劇作家・坂手洋二氏のことを昨年秋、連れ合いに連れられて横浜市内で上演された『普天間』を観るまでまったく知らなかった。現在、「オキナワ」の象徴の1つとなっている「普天間」の等身大の現実と問題の本質を、そこで暮らす人びとの声と生活を通して生き生きと描いたその舞台に、私は圧倒された。こういう作品を生み出した坂手氏に初めて注目をした私は、その劇場で坂手氏の戯曲集『坂手洋二 Ⅱ/海の沸点/沖縄ミルクプラントの最后/ピカドン・キジムナー』(ハヤカワ演劇文庫)を買った。
 その坂手氏に、連れ合いが私の映画『“私”を生きる』のDVDを贈った。その直後、坂手氏は自身のブログに、この映画についてこう言及してくださった。

 日本の保守化・右傾化はそのまま国民を愚鈍にしている。こんな国だから、滅びに向かっているのだとよくわかる。少数派に対する「いじめ」を許容して恥じない社会。橋下新大阪市長の撒き散らす教育改悪へ向かう喧伝が政治的に利用されようとしている今、この映画の存在意義は大きい。観て、怒りに震える。同時に、励まされる。ドキュメンタリーというものの果たすべき役割を確実に満身に湛えた、いま、観るべき、見せるべき映画である。

 その坂手氏から、氏が演出する演劇『荷(チム)』の招待状が届いた。連れ合いと共に東京・武蔵関の劇場へ向かったのは3月初旬だった。劇を観てその感想をこのコラムに書かねばと思いながら、1ヵ月近く書けなかったのは、その直後の福島・飯舘村の取材や「最新ガザ情勢」の報告会の準備で多忙だったためだけではなかった。日本と朝鮮の辛い歴史を描いた、あまりに重いテーマに、軽々しく感想など書けなかったからだ。しかしあの『荷』に、私は何を感じ取ったのか、自分なりに整理し、表現することは、招待してくださった坂手氏への最低限の礼儀だと自分を叱咤し、やっとこの文章を書き始めている。

 舞台は、青森県のむつ市と、韓国のソウル。むつ市に住む「芳子」の名で送られてきた「荷」に、ソウルの金潤植(キム・ユンシク)は不審がり、送り返す。しかしその「荷」は、「あなたのものです」と再度、送り返されてくる。金は、不審と怒りでまた送り返すが、また戻ってくる。そのようにして「荷」が日本と韓国の間を何度も往来する合間に、その「荷」の背景が舞台で語られていく。
 1945年8月の日本敗戦直後の大湊(おおみなと/現・むつ市)。下北半島の炭鉱などで強制労働を強いられてきた朝鮮人労働者や、「女子挺身隊(じょしていしんたい)」の名目で日本に連れてこられ、「慰安婦」にされた朝鮮の娘たちが、日本側によって用意された大型船「浮島丸(うきしままる)」で祖国・朝鮮に帰るために集まった。その1人、「慰安婦」だった李貞和(イ・ジョンファ)は、「汚れた身体」で家族の元に帰れないと帰国を躊躇する。しかし彼女に想いを寄せる労働者の若者、朴昌秀(パク・チャンス)は、「きっと家族が待っている」と懸命に帰国を促し、やっと貞和を同意させる。数千人の朝鮮人たちを乗せた「浮島丸」は1945年8月22日、釜山へ向けて出港する。しかし出港前から、大湊の日本人住民の間で、この船が途中で爆破されるという噂が流れていた。強制労働を通して日本の軍事機密を知ってしまった朝鮮人たちを抹殺するために、旧海軍が船に爆弾を積み込んだというのである。果たして出港から2日目、釜山へ向かっていた浮島丸は急に進路を変更して舞鶴港に向かい、港の入口付近で機雷に触れて大爆発を起こし、沈没する。犠牲者は、日本政府の発表だけでも549人、実際は1000人を超えていたという報告もある。犠牲になったのは大半が元朝鮮人労働者や慰安婦たちである。
 かろうじて生き残った貞和は、犠牲となった恋人の昌秀が最後まで身体から放さなかった「荷」を引き取り、大湊から探しにきた日本人青年──彼はかつて自分の家に下宿していた貞和に恋心を抱いていた──に連れられて大湊に戻り、2度と祖国へ戻ることもなく、短い人生を閉じる。
 「荷」を孫の「芳子」の名で韓国に送り続けたのは、実はすでに老人となったその「日本人青年」であり、「荷」の送り先は、元慰安婦、貞和の家族だったのだ。
 貞和の家族が、その「荷」の受け取りを拒否するには、その家族の暗い過去があったからだった。日本植民地時代、日本側の「強制連行」を拒否した兄の身代りとして、貞和は「女子挺身隊」の名目で日本人の警察に連行され慰安婦にされた。その兄は罪悪感から精神を病み廃人同様となり、貞和の母親も首をつって自殺する。その「兄」の孫が、「荷」を送り返した金仁植(キム・インシク)だったのである。

 日本と朝鮮の暗い歴史を、むつ市とソウルを何度も往来する「荷」を通してあぶり出されるこの演劇の作者・鄭福根(チョン・ボックン)は、この作品を「苦痛と治癒に関する物語だ」と書いている。

 暴力の被害をこうむった人々は、その被害を克服し、健康な生を取り戻すために、まず治癒の過程を耐え抜かなければならない。非人間的な虐待の受ける間、魂に刻みこまれたすべての傷と自己悔蔑の恥辱から抜け出して、自尊心を取り戻し人間性を回復するためには、自分自身と必死に闘わなければならない。相手に対する怒りの表出や断罪はその次の問題である。

 私はかつて元「日本軍慰安婦」や在韓被爆者を韓国で取材した経験もあり、植民地時代の日本と朝鮮の関係について関心を持っていた。そんな私が、恥ずかしいことだが、この演劇を観るまで、「浮島丸事件」について全く無知であった。演劇を観た直後、あわてて買った書籍『爆沈・浮島丸─歴史と風化とたたかう』(品田茂・著)を元にこの「浮島丸事件」をたどってみる。

 青函連絡船の代替船として運航していた「浮島丸」は、青森県の大湊を母港としていた。敗戦直後の1945年8月19日、その浮島丸に、海軍大湊警備府の2人の参謀から「朝鮮人を乗せて釜山へ行け」という命令が下された。
 当時、青森県には多くの朝鮮人がいた。なぜか。戦争末期、大湊警備府は本土決戦に備え、大湊軍港を中心にした下北半島の軍事要塞化を急ピッチで進めていた。3ヵ月間無補給で戦える計画を立て、その物資を貯蔵するためのトンネル、地下保管庫の建設など数多くの土木工事が必要となった。しかし日本の男性の多くは戦場に駆り出され、その建設ための労働力が不足していた。そのため駆り出されたのが、青森県内で働いていた朝鮮人であり、朝鮮半島で「募集」──実際は、強制連行だった──された朝鮮人たちだった。このような事情で、当時、青森県には2種類の朝鮮人がいた。1つは、強制連行で連れてこられた人たち、もう1つは、日本の植民地政策の結果として朝鮮で食べていけず、やむなく日本に渡ってきた労働者たちである。その移住してきた労働者たちには家族を持つ者も多くいた。浮島丸事件で多くの女性や子どもが犠牲となったのはそのためである。
 その朝鮮人労働者たちの生活は過酷だった。坑道掘りなど危険な仕事は朝鮮人がやらされ、「朝鮮人飯場」の住居は明り窓もない掘立小屋で、敷布団もなく、土間に草や藁を敷いて寝た。食べ物も豆や芋が中心で、米はほんの少し底に入っているだけだった。栄養不足のために仕事を休んだりすると、足腰が立たないぐらいの折檻をされた。栄養不足ときつい労働のために、多くの労働者が死んだと言う。その理不尽な暴力支配は朝鮮人労働者たちに激しい怒りを引き起こしていた。
 敗戦直後、大湊警備府の参謀たちが恐れたのは、その朝鮮人労働者たちの怒りの爆発だった。彼らの脳裏に、敗戦直前の1945年6月、秋田県の花岡鉱山で起きた中国人労働者800人の蜂起、いわゆる「花岡事件」が浮かんだにちがいない。後に、当時の参謀の1人が、「朝鮮人を強制送還しないと、下北で暴動が起きたかもしれない」と証言している。また「浮島丸」の幹部たちの会議で艦長が、「朝鮮人がいろいろな待遇改善とか、いままでどうしてワシたちをこき使ったかと、青森で暴動を起こすから、早いとこ、朝鮮へ送り返せ」と語っていたという証言もある。しかし浮島丸の日本人乗組員たちの多くは、釜山へ行ったら、自分たちは銃殺されると恐れ、釜山行きを拒否し暴動を起こした。そういう部下たちの反応に出航不可能を訴える艦長を、大湊警備府の2人の参謀は「危険があるからといって天皇陛下の命令を拒否するのか、軍法会議にかけるぞ!」と恫喝した。さらに2人の参謀は浮島丸に乗り込み、約250人の乗組員全員を前に軍刀を抜き、「文句のある奴は前に出ろ、たたき切ってやる!」と叫んだ。
 1993年8月25日付けの「朝日新聞」は、「浮島丸事件 波乱の出航明らかに 朝鮮行き拒み乗組員暴動『死刑』と脅し鎮圧」の見出しで、当時の状況をこう報じている。「当時の戦時刑事特別法により軍法会議で即決裁判をすることができた。法務官はその場で『上官の命令に反した罪により、死刑に処す』と言い渡した。この脅しに、(暴動の首謀者だった)上等兵曹は『朝鮮行きを私にやらせてください』と嘆願、法務官は刑の執行の猶予を申し渡した」。

 「朝鮮人を祖国に返す」ための浮島丸出航のはずだったが、当初からその目的地が朝鮮の釜山ではなかったことが明らかになってきた。敗戦直後、日本政府と米軍との協定によって、「航行中の船を除き、8月24日午後6時以降は大型船の航行を禁止する」と定められた。8月22日午後10時に大湊を出港した浮島丸は、釜山到着まで70時間以上を要するため、到着見込みは早くても25日の午後8時となる。つまり協定に違反することが当初からわかって出航したことになる。
 さらに、NHKドキュメンタリー『撃沈』(1977年8月13日放映)の中で当時、朝鮮人労働者の添乗員として乗船した人物は、「行き先を質問したら、『舞鶴まで』という返事だった」と証言している。また浮島丸の機関長も「まあ、とにかく朝鮮には行かない、と。艦長もそういうことをはっきり言うことで、兵隊たちのみんなもそのように説明して納得して出ようと言うことになって、大湊を出たんですよ」と語っている。
 実際、浮島丸は釜山へ向かうはずだった浮島丸は突然、進路を変更し舞鶴港へ入港した。その直後、港から沖合300メートルの海上で浮島丸は突如、爆発を起こし、沈没する。出航からほぼ2日後の8月24日午後5時20分だった。
 なぜ突然、浮島丸は爆破・沈没したのか。事件の翌日、艦長は海軍省運輸本部と大湊警備府に電報で、「触雷」(機雷に接触)によって、船体が中央から切断されて沈没したと報告している。それを根拠に日本政府は「まったく不可抗力に起因する災難」であり「旧海軍の責任を追及するがごとき(朝鮮側の)賠償要求等はこれを容認することができない」という方針を事件の5年後に決定し、その姿勢は今も変わらない。つまり「浮島丸撃沈の原因は不可抗力の触雷だから、日本政府には一切責任はない」というのである。
 しかしこの「触雷」について疑問視する声もある。先のNHKの番組の中でも、「浮島丸は新潟まで行けば、爆沈されるのだ、といううわさを聞いたことがあります」という住民の証言を紹介している。また金賛汀・著『浮島丸釜山港に向かわず』の著書の中で、「俺たちは釜山に着いたら銃殺される。浮島丸は没収されてしまうであろう。だから、釜山に着くまでには自爆させんだ」という海軍下士官の証言が記されている。また『アイゴーの海』(「下北の地域文化研究所」発行)でも「浮島丸とは言わなかったが、朝鮮人を乗せる船の名前を工作部機関区で塗りつぶし、自爆する装置をつけたということだったのです」という証言がある。
 たとえ爆発の原因が「機雷」であっても、機雷の位置を記した海図を証拠隠滅のために焼却させた日本政府の責任は免れないと『爆沈 浮島丸』の著者・品田茂氏はいう。
 浮島丸の爆沈による朝鮮人労働者たちの犠牲者の数も、今なお明らかになっていない。日本政府は、朝鮮人乗客3735人のうち死亡者は524人、日本人乗組員255人のうち死亡者数25人、合計549人としている。しかしこの数字が報告されたのは、沈没から8日後で、これが作成されているときには舞鶴湾に沈んでいた犠牲者の遺体が浮かび上がって浜辺に次つぎと打ち寄せられていた真っ最中であり、とても死亡者数が確定できるとは思えない、と品田氏は書いている。前出の『浮島丸釜山港に向かわず』の中でも、「浮島丸に乗った朝鮮人は6000人近くいたんじゃないですか。浮島丸が青函連絡船の代替として運航したとき、船底には乗客を入れないで4000人乗せたんですから。大湊から乗せた朝鮮人は船底までギッシリ詰め込みましたからね。4000人ではすまないはずですよ」という元乗組員の証言がある。1945年12月7日、在日朝鮮人連盟青森県本部委員長の孫一氏がGHQに提出した申立書には、生存者からの証言から「乗客7500人から8000人のうち2000人くらいしか生存しなかった」と記されているという。戦後日本の海難事故で最も多い犠牲者を出した1954年の青函連絡船・洞爺丸の転覆事故が死者1155人、1912年のタイタニック号遭難の犠牲者が約2500人といわれているから、浮島丸・爆沈による犠牲者はそれらをはるかに上回る犠牲者数だった可能性がある、と品田氏は書いている。

 爆沈時の現場の様子も、証言が残されている。先の『浮島丸釜山に向かわず』の中で、元乗組員がこう証言している。

 艦内も大混乱で、カッターを降ろす者、走り回る者、叫んでいる者、朝鮮人たちが必死で甲板まで上がろうとしている。アイゴー、アイゴーと叫んでいる女性や泣き叫ぶ子供。もう混乱の極みにありました。
 艦から降ろされていたカッターを吊っているロープが切れ、カッターが海の中に転覆するという事故も目撃しました。
 その時、私は地獄を見ました……。爆発で甲板にあった船倉の蓋が吹っ飛んだんでしょう。その近くにいた私は、ふと船倉の底をのぞき込んだのです。
 なんと水がごうごうと渦を巻いているんです。その渦に朝鮮人の女・子供が巻き込まれ、必死になって手を上げて「アイゴー!」と叫んでいるんです。そして水の中にのまれていきました。地獄でしたね……

 演劇『荷(チム)』の中では、撃沈時の朝鮮人たちの苦しみが、労働者たちと家族に扮した若い俳優たちの踊りで象徴的に表現されている。もし私がこの事実を、演劇を観る前に知っていたら、その踊りがもっとリアルに私に迫ってきたにちがいない。海水の渦に叫びながら飲み込まれていく朝鮮人労働者と家族たちの姿を、その踊りに私はまざまざと見たはずだ。
 日本語とコリア語が飛び交う舞台。そのコリア語を字幕で追う。しかも観客がその舞台に向き合うのではなく、韓国側と日本側が舞台の上で向き合い、観客はそれを側面から観る。私にはすべてが初めての体験であり、新鮮だった。ほとんどが「手紙」で構成される戯曲を、「向き合う」構造で見せ、言葉を「対話」として現象化させる──パンフレットにある演出家の坂手洋二氏の文章を私流に解釈すれば、そういうことだろうか。
 舞台装置の斬新さ、若い俳優たちの熱演も、もちろん私は心動かされた。しかし何よりも、先に書いた「浮島丸爆没」という歴史事実と、それを「植民地時代の日本と朝鮮の関係に関心がある」と思っていた自分が何も知らなかったことの衝撃に圧倒され、それがその後もずっと、この演劇を観た私の印象を覆っている。
 もう1つ驚いたことがある。このような深刻なテーマを扱った重い演劇が満席の客を集め、しかもその客層に若い人が多かったことだ。『荷』という作品に惹かれてというより、「坂手洋二・演出作品だから」ということで集まった観客ではないかと私は推測した。いずれにしろ、この演劇を通して、ほとんど知らされてこなかった「浮島丸爆没」という日本と朝鮮の歴史事実に日本の若い世代がこの演劇『荷』を通して向き合うことに私は一抹の希望を見る思いがした。
 ただ、この演劇は百人規模、千人規模の日本人に観てもらうだけでは惜しい。もっともっと多くの日本人が向き合わなければならない演劇である。

【関連サイト】
東京演劇アンサンブル 『荷』
坂手洋二さんのブログ:Blog of SAKATE

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