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日々の雑感 275:
石原慎太郎氏、橋下徹氏そして佐野眞一氏(2)

石原慎太郎氏、橋下徹氏そして佐野眞一氏(1)

2012年11月7日(水)

 『週刊朝日』の河畠大四・編集長(当時)は、「掲載中止」の理由を、次号で「同和地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載してしまいました。タイトルも適切ではありませんでした」「差別を是認したり助長したりする意図はありませんでしたが、不適切な表現があり、ジャーナリズムにとって最も重視すべき人権に著しくは配慮を欠くものとなりました」と書いている。
 しかし昨年、『新潮45』(2011年11月号)の記事『最も危険な政治家・橋下徹研究/孤独なポピュリストの原点』で、ノンフィクション作家の上原善広氏がすでに「同和地区を特定する記述」を発表している。この記事に対して橋下氏が、今回のように「取材拒否」までちらつかせて激しく抗議したという声は聞かない。なぜ『新潮45』の上原氏ではなく、『週刊朝日』の佐野氏なのか。
 今回、橋下徹氏に関する連載を始める理由と手法を佐野氏自身、記事の中でこう記している。

一番問題にしなければならないのは、敵対者を絶対に認めないこの男の非寛容な人格であり、その厄介な性格の根にある橋下の本性である。そのためには、橋下徹の両親や、橋下のルーツについて、できるだけ詳しく調べあげなければならない。

 「ルーツをたどって実像に迫る」のは佐野氏の作品の手法である。実際、佐野氏は、ダイエーの「中内功」、「小泉純一郎」、「石原慎太郎」、「孫正義」など「時の人」を、そのルーツまでさかのぼって描いた話題作を次々と発表してきた。私はその手法そのものが「差別」だとは思わない。例えば、ソフト・バンクの孫正義氏を『あんぽん・孫正義伝』で描くとき、佐野氏は孫氏の「在日韓国人」であった過去、父親や祖父母などルーツを詳細に描いている。孫氏の人物像を描くとき、その事実は避けて通れないし、それを描くことで孫正義の実像がより鮮明になっている。この作品に対して、「『在日』差別」だという声があったのか私は知らないが、今回のような問題にはならなかったことは確かだ。
 橋下氏のルーツをたどった記事も、佐野氏の記事が初めてではない。上記した『新潮45』の上原氏の記事にも、父親が「被差別部落」の出身であることが記されている。なぜ橋下氏は、上原氏の記事ではなく、佐野氏の記事をこれほど問題視したのか。

 今回の佐野氏の記事を読んで、私はこれまでの作品とは違うなあと違和感を持った。まずタイトル。『ハシシタ 奴の本性』─DNAをさかのぼり本性をあぶり出す」と、敵意むきだしで、あまりに挑発的で、危険な表現だ。記事の中味も、あちこちに感情が先走った、品のない表現が目につく。これまで私が読んだ佐野氏の作品は、綿密な取材で集めた“情報”“事実”を元に、独自の鋭い切り口で分析していくスタイルだった。私たちが期待した橋下氏に関する記事も、橋下氏に対する作者の敵意むき出しの感情的な記事ではなく、綿密な取材を基づいた、私たちが知らない“情報”“事実”の積み上げと、新しい分析なのだ。
 橋下氏の父親像を伝えるのにも、その「縁戚にあたる」、よく正体のわからない人物の語りだけに頼る、あまりに粗雑な描き方に、今回の佐野氏はどうしてしまったのだろうと頭をかしげた。その直後、『新潮45』の上原氏の記事を読んで、さらに疑問が深まった。佐野氏の記事の中にある橋下氏の父親に関する内容は、ほぼ10カ月前に発表された上原氏の記事の中で、すでにより詳細に描かれているのだ。上原氏はその情報源として「橋下氏の父親の実弟」を実名で明記している。上原氏の調べ上げた詳細な事実を元に、淡々と描かれた記事と読み比べてみると、今回の『週刊朝日』の佐野氏の記事は二番煎じで新鮮味がなく、内容が薄く、表現に品がない。
 おそらく第2回目以降で、佐野氏らしい記事に戻り、私の違和感や疑問は払拭されたのかもしれない。しかし、連載は突然、中止となってしまった。

 「DNAをさかのぼり本性をあぶり出す」といった危険な表現、また「同和地区を特定するなど極めて不適切な記述」については佐野氏も『週刊朝日』もその非を認め謝罪すべきだろう。しかし今回の件で、最も深刻で、問題にすべき点は、この「連載中止」だと私は思っている。「不適切な記述」について謝罪すべき点があったとして、どうして、こうもあっさりと「連載中止」を決め、全面降伏してしまったのか。ライターの橘玲氏が、ご自身のWebサイトにこういう文章を掲載している。

佐野眞一氏は、大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞を受賞し、日本のノンフィクション界の頂点に立つ。ジャーナリストとしての経歴を考えれば、被差別部落の出自と個人批判を重ねればどのような事態が引き起こされるのか熟知していたことは間違いない。その佐野氏が、激しい批判を覚悟のうえで、『確信犯』として、自らの名声を賭けてこの連載を始めた。『週刊朝日』編集部は、佐野氏とその覚悟を分かち合っていたのではなかったのか?

誤解のないようにいっておくが、私は佐野氏の『橋下批判』には同意しない。しかしそれでも、次のことだけはいっておきたい。

佐野氏とともに批判に耐える覚悟がないのなら、『週刊朝日』編集部はそもそもこの連載を始めるべきではなかった。

覚悟を決めて記事を掲載したのなら、中途半端な謝罪などせず、批判に耐えて、連載を最後まで続けるべきだ。そして連載が終わり、『作品』として完結したときに、そこから生じるすべての責任を引き受けるべきだ。

責任を引き受ける気も、著者を守る覚悟もないのなら、出版などやるべきではない。出版と表現の自由というのはそういうことだと、私は思っている。

橘玲 公式サイト:週刊朝日は謝罪すべきではなかったし、連載を続けるべきだった

 私は橘氏のこの意見に、基本的に同感である。これほど挑発的な記事を敢えて掲載する以上、それ相当の批判を覚悟の上だろうと思っていたら、謝罪だけではなく「連載中止」までし、あっさり「全面降伏」してしまった。橘氏が言うように、「そんなに簡単に引っ込めるなら、最初からやらなければよかったじゃないか!」と呆れてしまう。
 ただ、この連載を始めるとき、佐野氏にも河畠編集長にも、当初、その「批判に耐える覚悟」はあったと私は思う。しかし、橋下氏に「取材拒否」を突き付けられた親会社の朝日新聞社本体が、今後、「政界の台風の目」となる橋下氏の取材ができなくなることの損失の大きさを怖れ、打算し、『週刊朝日』側に「連載中止」を命じたのだろう。河畠氏も編集長とはいえ、所詮、「組織の一員」である。上層部からの命令をはねのける力もなかったろうし、職を賭してまで“ジャーナリストとしての信念”を死守しようとするほどの“気迫”もなかったのだろう。
 一方、作者の佐野氏が沈黙し続けているのは腑に落ちない。「批判の嵐」が過ぎ去るのを待って、『週刊朝日』で発表できなかった取材結果を、単行本として発表し、汚名を一気に晴らすつもりなのだろうか。ただ、今回の件で、沈黙したままの佐野氏が負った“傷”は、そんなに浅くはないような気がする。
 それにしても、『週刊朝日』も朝日新聞社も、今回の「連載中止」がジャーナリズム全般に及ぼす、計り知れない悪影響を考えなかったのだろうか。私はとりわけ三つのことを危惧している。第一に、橋下氏や他の政治家たちに「自分へのどんな批判も、『取材拒否』をちらつかせて激しく抗議すれば、『朝日』のような大きなメディアも簡単に降参する」という誤った信号を送ってしまったこと。第二に、「橋下批判」や「被差別部落問題」記述の結果を目の当たりにして、メディアはこの種の問題の扱いに萎縮し、タブー視して、自主規制・自己検閲してしまうことになりかねないこと。そして何よりも、佐野眞一という日本を代表するノンフィクション作家がこれまで積み上げてきた実績と信頼、名声がこの事件を機に一瞬にして崩れてしまいかねないことだ。「正力松太郎」「中内功」「石原慎太郎」「孫正義」など「時の人」「一時代を風靡した人物」を綿密な取材を元に、これほど鋭く描き切った作家・ジャーナリストを、私は他に知らない。その佐野氏が、「政界の台風の目」「時代の寵児」ともてはやされる橋下氏、私が石原慎太郎氏と同質の“匂い”を嗅いでしまうこの橋下氏にどう鋭く切り込み、その派手な言動の背後にあるもの、その人物の実像にどう鋭く切り込んでいくのか、私は読んでみたかった。だからこそ、その機会が「掲載中止」によって奪われことが残念でならない。
 今、佐野氏以上にそれができる作家・ジャーナリストがいるだろうか。たとえそれほどの力のあるライターがいるにしても、この事件の結果に萎縮せず、「橋下徹」の実像に迫る仕事を成し遂げるには、これまで以上の勇気と覚悟が必要だろう。
 この事件を機に、佐野眞一というノンフィクション作家が潰されるとすれば、それは日本のジャーナリズムにとって大きな損失だ。この『週刊朝日』の「連載中止」事件が、日本のジャーナリズムの“萎縮”“自己規制”“自己検閲”をさらに加速させる転機とならなければと願うばかりだ。

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