Webコラム

日々の雑感 285:
【パレスチナ現地報告】(10)
映画の舞台「ジャイユース村」8年ぶりの再訪

2012年12月3日(月)


写真:アブ・アッザム/11月28日・ジャイユース村にて

 私のドキュメンタリー映画4部作『届かぬ声─パレスチナ・占領と生きる人びと』のうち、イスラエルによる“占領”という“構造的な暴力”を最も象徴的に描いた作品が、第2部『侵蝕』である。その作品の前半では、“エルサレムのユダヤ化”のためにイスラエル当局が進める東エルサレムでの家屋破壊の現実を描いているが、後半は、ヨルダン川西岸の街カルキリアの近郊の村ジャイユース村における“分離壁”の現実を伝えている。
ジャイユース村を最後に取材したのは2004年12月だったから、もう8年もこの村を訪ねていなかった。私の映画の主人公である2人の農民、アブ・アッザムとサーレに、映画のDVDを渡す約束も果たせないままになっていた。
 ヨルダン渓谷とこのジャイユース村を再訪するために、私は帰国予定を1週間延長した。11月28日、私は8年ぶりに村を訪ねた。前日に電話で会う約束をとりつけていたアブ・アッザムは健在だった。2003年11月の最初の取材当時61歳だった彼は、今はもう70歳。しかし現役の農民である。村一番の農業収益をあげる彼は6人の子どもすべてを大学または大学院修士、博士過程で学ばせた。その子どもたちは今や西岸各地で、大学の講師やビジネスマン、学校の教師の職についた。英語が堪能なアブ・アッザムは、欧米のジャーナリストたちやイスラエルの支援者たちにとってはジャイユース村の“窓口”の役も担っている。10月オリーブ収穫期になれば、アブ・アッザムのオリーブ畑に毎日数十人のイスラエル人が交流と支援のボランティアとしてやってくるという。
 この8年間で村にさまざまな変化が起こっていた。村人たちの長年の裁判闘争の結果、村と農地とを分断していた分離壁の一部をイスラエル側に移動させることができた。つまり村の農地の一部は、これまでのように分離壁でイスラエル兵の検問を受けなくても通えるようになったのだ。この村の分離壁はメディア報道などで国際的に知られるようになり、イスラエル当局もその国際世論を無視できなかったのだろう。
 村の行政にも変化があった。2007年の選挙で、ハマス系の村長が誕生した。しかしその直後に欧米や日本がこの村のさまざまなプロジェクトの支援を中止した。ハマスに対するボイコットである。困り果てた村人たちは、協議の末、その村長を辞任させ、ファタハ系の村長に選びなおした。村長辞任の圧力をかけた国の1つが日本だったと聞いて、恥ずかしかった。
 夜、私が滞在したアブ・アッザムの家にサーレが訪ねてきてくれた。まだ41歳の彼は、長年、ジャイユース村の土地を守る闘いを続けてきたアブ・アッザムの後継者となる人物である。英語も堪能で、村が抱える問題を外国人にもきちん伝えることができる。土地に根付いた農民の言葉は、街の「政治家」や「有識者」たちの言葉よりずっと重く、説得力がある。パレスチナの現状を知るには、こういう現場の生活者たちの声を丹念に拾うことが最も重要だと改めて思う。
 アブ・アッザムとサーレに映画『侵蝕』の後半、「ジャイユース村」パートを見てもらった。分離壁のゲート前でのイスラエル兵の検問、オリーブ畑の破壊の現場シーン、イスラエル当局による農業用水の使用制限の証言……。その映像を2人は食い入るように見つめていた。当時の様子が私の映像に記録されていることにアブ・アッザムは驚いた。彼はさっそく私を村長の元へ連れていった。アブ・アッザムから映画の内容を聞いた村長は、ぜひ村人を集めて映画の上映会をやりたいと提案した。私は映画のDVDを村にも贈呈した。自分のドキュメンタリー映画が地元で村の記録として利用してもらえることは制作者として本望である。

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