Webコラム

日々の雑感 292:
『異国に生きる』公開初日を迎えて
前篇・横井朋広さんのこと

2013年3月30日(土)

 日本で長年、祖国の民主化のために活動してきたビルマ人青年を追ったドキュメンタリー映画『異国に生きる─日本の中のビルマ人─』が今日、初めて劇場公開される。
 撮影開始から15年、長い年月を経て、やっと映画としてかたちになって、一般の人たちに観てもらうところまで漕ぎつけた。
 この映画の完成について、私は2つのことを書いておかなければならない。
 その1つは、ドキュメンタリストをめざす青年、横井朋広さん(30歳)のことだ。この映画の土台を造ったのは私ではなく彼だったからである。
 2010年4月、前作『“私”を生きる』の試写会に参加していた横井さんは、上映後、私のところに来て、「私は映像ドキュメンタリストを目指しています。土井さんのところで勉強させてくれませんか」と言った。私は、「自分にはアシスタントを雇う経済力はないから、生活の糧をちゃんと確保して来るなら」という条件で、私は彼を受け入れ、彼は私の家に通い始めた。私は彼に、ドキュメンタリー制作の素材として、長年、私の映像倉庫に眠ったままになっていた在日ビルマ人を撮った100時間を超える映像テープを渡した。「この映像を元に、新たに追加取材・撮影をして、在日ビルマ人のドキュメンタリーを作ってみないか」という私の提案を、彼は受け入れた。それから1年ほどかけて、彼は私の過去の映像に全部目を通し、全映像の内容をリストアップした。一方、彼は私が紹介したチョウチョウソー(チョウ)さんを通して、在日ビルマ人コミュニティーと出会い、交流を深めていった。この映画で、1998年から2008年までの映像、そして最後のインタビューの映像は私の撮影だが、東北被災地でのビルマ人たちのボランティア活動の映像など、2010年以降の映像は、横井さんが撮影したものである。
 その後の1年、私の映像と彼自身が撮影した映像を素材に、彼の編集の格闘が始まった。彼は週の4日間をアルバイトし、残りの3日間をドキュメンタリー作りにあてた。しかし編集は遅々として、なかなか進まなかった。私は2011年春以降、『飯舘村』の取材と編集作業、その一方で『ガザに生きる』5部作の制作を進めなければならず、他になかなか手が回らなかったこともあったが、当初、在日ビルマ人のドキュメンタリー制作には、なるべく口も手も出さないようにした。横井さんが独り試行錯誤し、悩みながら作り上げていくことがいちばんいい修行だと思ったからである。
 やっと彼がつないだ映像に、私は何度も「ダメ出し」した。彼は悩んで、また試行錯誤し、何度も行き詰った。それでも私はじっと待った。正直、「映画にするのは難しいかも」と諦めかけた時期もあった。
 そんな私が「これは行ける」と直感したのは、横井さんが被災地でボランティア活動をするビルマ人たちの映像をつないだ時だった。それまで私の中でも漠然として輪郭が見えていなかった「なぜ今、在日ビルマ人なのか」「彼らを通して、日本社会に何を伝えるのか」という核となる疑問に、やっと答えがみつかったと、その時、私は思った。「東日本大震災という日本の未曽有の大惨事に、在日ビルマ人たちはどう反応したのか」、「自分が生きる社会と個人はどう関わるのか」という普遍的なテーマを、横井さんの被災地の映像が、象徴的に提示していたからだ。
 その核となるテーマに、主人公のチョウさんがどう答えるのか──この映画の核心となるそのインタビューは、私がやならければと思った。その結果が、ボランティア活動の映像に挟み込んだチョウさんと、妻のヌエヌエチョウさんの言葉であり、パンフレットに収録した「チョウチョウソウ・インタビュー」である。
 横井さんが四苦八苦してつなぎ終えた粗編を元に、最終的に、私が並べ替え、映像を削除または追加し、全編に渡って再編集してできあがったのが本編である。そういう意味で、『異国に生きる─日本の中のビルマ人─』は私と横井さんの合作といえる。

 その後の横井さんについても言及しておきたい。
 彼はチョウさんをはじめとする在日ビルマ人たちに、単に「取材対象」として接するのではなく、「人生の先輩」として敬愛の念と礼節をもって接し、きちんと人間関係を作っていった。在日ビルマ人たちも、そんな誠実で謙虚な彼に「ナインナイン」というビルマ名のニックネームを与え、温かく受け入れた。

 この映画を作り上げた彼は、これから進むべき人生の選択をしなければならなくなった。まったく先の見えないドキュメンタリストとして生きていくのか。それとも安定した生活を求め、定職につくか。私は彼に言った。
 「もしドキュメンタリストとして生きていくつもりなら、一度、人生を賭けなければならない時期がある。私の場合、それが“パレスチナ”だった。私はそのために、『普通の生き方』を捨てた。たくさんのものを失った。将来の安定した生活も諦めた。そして私は“パレスチナ”をライフワークとして伝える“ドキュメンタリスト”として生きる道を選んだ。横井さんも、今、選択しなければ時期だと思う。君が今、ライフワークにしたいと思っている“ビルマ”に人生を賭けるか、それとも、そんな不安定な人生は見切りをつけて、安定した職に着くか、だ」
 すると、彼は「ドキュメンタリストとして生きていきたいです」と言った。
 「でも、食えないぞ」
 「ええ、覚悟しています」と彼はきっぱりと答えた。
 そして今年1月、横井さんは3年近く勤めたアルバイトを辞めた。

 私は横井さんが、“ビルマ”に関して、宇田有三氏がフォトジャーナリズムの世界で成し遂げたような歴史に残る偉大な仕事を、映像の世界で果たせる日が来ることを、心から願っている。

『異国に生きる』日本の中のビルマ人
『異国に生きる』公式サイト

次の記事へ

ご意見、ご感想は以下のアドレスまでお願いします。

連絡先:doitoshikuni@mail.goo.ne.jp