Webコラム

日々の雑感 302:
“本物”の芸人

2013年10月5日(土)

 私の映画『“私”を生きる』を高く評価し、舞台で紹介してくれている有名な芸人がいるという情報は、この映画を劇場公開した昨年初頭に、知人たちのネット情報で知ってはいた。ただ芸能界のことにまったく疎い私は、「松元ヒロ」という名も、その人が「コメディアン」であることすらも知らなかった。
 ただ連れ合いは、「夫の映画を評価してくれる人のライブならぜひ観なければ」と、4ヵ月も前から、神奈川県民ホールで10月2日に予定されていた『松元ヒロ・ソロライブ』のチケットを買っていた。そのことを知らされたのは1週間前だった。個人的に面識にある俳優さんや演出家の演劇以外、ライブは誘っても「そんな高い入場料を払ってまで見たいとは思ない」と、私が絶対、首を縦に振らないことを知っている彼女は、直前になって、「もう行くと決めたから。行かないとチケット代が無駄になるからね」とチケットを差し出した。「私の誕生日(10月5日)のお祝いよ。それも断るつもり?」と、「忙しいから」と渋る私を強引に連れ出したのである
 平日の夜に、コメディアンの独り語りだけで小ホール客席433の会場が埋められるのだろうかと、私はいぶかった。果たして満席にはならず、後方の数十席は空席だった。客層も中高齢者が大半だ。ところが、舞台に登場した松元ヒロは開口一番、「これくらいが一番いいんです。満席になっちゃうと緊張しちゃってうまくやれないし、これ以上少ないと、やる気を失っちゃうますから」と、観客を笑わせた。

 松元は、自分がこれから語る話は「際どい内容」だけど、この会場は「closed」され「under control」されているから安心です、とオリンピック招致委員会での安倍首相のスピーチを引き合いに出し皮肉る。滝川クリステルの「おもてなし」スピーチにも、「あの人は“おもてなし”する人じゃなくて、(スターで)いつも“おもてなし”されている人じゃあないですか」と笑わせ、彼女が最後に合掌するしぐさに、「あれはタイのあいさつで、日本の“おもてなし”の動作じゃない。日本じゃあ、あれは死者への弔いのしぐさですよ」とまた会場をどっと沸かせるのだ。
 松元はまず、改憲問題をネタにした。現憲法と自民党案を対比させながら、前者が「国民」を主体にしているのに対して、後者が「国」を中心に据えていること、本来憲法とは政府や為政者たちを縛るものであるはずなのに、後者が逆に「国民」を縛る「上から目線」の内容であることを、噛み砕きわかりやすく語ってきかせる。松元の語りの深さに唸らされたのは、現憲法が用いる「個人」と自民党案が使う「人」との意味あいの違いを語った時だった。「個人」とは英語で「individual」。「in-dividual」つまり「これ以上分けられない、あらゆる付属(社会的な価値基準)を排除した個」という単位であり、現憲法はこの「個」を基本にしている、それに対し自民党案の言う「人」とは、どうにでも解釈できる曖昧模糊とした単位であり、その守られるべき対象や権利の所在がぼかされるという。松元の話は、さらに憲法の中の「天皇制」の問題へと踏み込んでいく。「コメディー」にはまったく馴染まない、そんな深刻なテーマを語りながらも、松元は絶妙な語り口で観客を笑わせてしまうのだ。
 ある日、こんな松元の舞台を観に来たあるテレビ局のディレクターが、感動して控室にやって来てこう言ったという。「ヒロさん、感動しました! でも、テレビでは絶対、出せません」。
 そんなエピソードを語って観客の笑いを取った後に、松元はこう啖呵を切った。
 「テレビに出せるものなら、出してみろ!」
 客席からまたどっと笑いが起こった。でも私は笑えなかった。自分の芸への揺るぎない自信を表現したその言葉に私は胸を揺さぶれたのだ。自分の映画を上映する劇場では観客はまばら。数々の「ドキュメンタリー映画祭」のコンペに応募するたびに落選続き。「やはり自分の作品は駄作なのか。自分には力がないのか」と、最近、私は自信を失い、打ちひさがれそうになっていた。そんな私には、松元のその啖呵は、こう聞こえた。
 「自分が、自分自身の力を信じてやれなくて、誰が信じてやるんだ! たとえ他人から『見栄だ』『自信過剰だ』と笑われても、こう言ってやればいいんだ、『映画祭の審査員に俺の作品を選べるものなら、選んでみろ!』と」

 第2部で松元は尊敬する先輩芸人、マルセ太郎のことを語って聞かせた。
 マルセ太郎は在日朝鮮人2世として大阪の猪飼野(現在の生野区)に生まれている。高校卒業後、新劇俳優を志し上京するが、俳優座養成所の試験に失敗、失意とヒロポン中毒のなかで出会ったのがパントマイムだった。「マルセ」という芸名も、パントマイムの“神様”マルセル・マルソーからとった名前だ。また形態模写の芸も身につけ、とりわけ猿マネは「本物のサルよりはるかにサルらしく悲しげだ」と評されたほどだった。
 しかし彼の下積み生活は長かった。寄席やストリップ劇場、キャバレーの舞台で演じる時期が続いた。生活のためにスナック経営もやった。やっと小さな劇場で1ヵ月の独演会のチャンスがめぐってきた。最初の大入りだった劇場もだんだん客が減り、1人の客を相手に演じる時もあった。「もしあの時、客が1人もいなかったら、自分はこの道を捨てていたかもしれない」とマルセ太郎は当時を述懐したという。
 私は松元ヒロがマルセ太郎のそのエピソードを語ったとき、その閑散とした劇場の光景が目に浮かび、胸が締め付けられる思いがした。それはまさに今年の春の自分自身の姿だった。私の映画『異国に生きる─日本の中のビルマ人─』を上映した映画館で、100席を超えるその劇場に観客はたった5人。ほとんどが空席の劇場で舞台あいさつをした時のあの悲哀が脳裡に蘇ってきた。
 しかしマルセ太郎の芸の凄さをちゃんと見抜いていた人がいた。10人ほどの客の中にひと際、特徴のある笑い声が聞こえた。永六輔だった。その直後、マルセ太郎の元に1枚のハガキが届いた。あの永からのハガキだった。「感激、ただ感激 六輔」とだけ書かれたその1枚のハガキをマルセ太郎は何度も何度も読み返した。
 もう1人、マルセ太郎の芸を高く評価し、表舞台へと押し出す手助けをした有名人がいた。立川談志である。ある時、小さな酒場で行われたマルセ太郎の独演会にふらりと現れ、観客の前に立つとこう言った。
 「テレビでたけしを観る、タモリを観る、これは“文明”だ。今夜、この店でマルセ太郎を観る、これは、“文化”だ」
 後にマルセ太郎の“看板芸”となった「スクリーンのない映画館」は偶然から生まれた芸だった。小劇場での独演会でネタが切れ、それを誤魔化すために、つい先日観たばかりの映画について語ったのが始まりだというのだ。映画をまるでその場で観客に再現して見せるかのように語って聞かせるその話術が評判になり、それは映画再現芸「スクリーンのない映画館」として人気を博していく。

 松元ヒロは、敬愛する先輩芸人、マルセ太郎の歩みを熱く語りながら、順風満帆ではなかったであろう自身の半生を重ね合わせ、自分を鼓舞していたのかもしれない。そして自分がめざしたい芸道を自らに語り聞かせ、改めて自分の胸に刻み込もうとしているように、私には見えた。
 松元ヒロが今回のライブの中でも、マルセ太郎から引き継いだ芸があった。その1つが、チャップリンの映画『ライムライト』の中で、主人公の芸人カルベロが舞台で演じる「ノミのサーカス」だ。実際には存在しないノミの夫婦が芸をしているように見せるチャップリンのあの名演技である。マルセ太郎がテレビ番組で演じるその芸は、YouTubeに残されている。その芸を今度は松元ヒロが引き継ぎ、舞台で演じてみせたのだ。

 松元ヒロが第3部で演じた映画再現の芸は、マルセ太郎の「スクリーンのない映画館」から学び、引き継いだ芸なのだろう。ただ違うのは、松元ヒロが紹介する映画の多くが社会派のドキュメンタリー映画であることだ。
 この日、松元が紹介したのは、現在、東京で上映中の『標的の村』
 沖縄本島北部、自然豊かなヤンバルの森の中の人口160人ほどの村、東村(ひがしそん)に新型輸送機「オスプレイ」のヘリパッド(着陸帯)の建設計画が明らかになったのは2007年。以来、その建設に反対する東村の村人たちの闘いを描いたドキュメンタリー映画だ。この映画はさらに2012年9月、普天間基地へのオスプレイ強硬配備に反対し、基地を座り込みで封鎖した住民と、これを排除しようとする警官たちとの衝突の様子も描いている。
 松元は、東村の建設現場ゲート前での住民と沖縄防衛局の役人たちと激しいやりとりなど現場の様子を語り、抵抗する住民たちを国が訴える「スラップ訴訟(市民参加に対する戦略的訴訟)」の理不尽さを、怒りを込めて、熱く語って聞かせた。
 さらに、普天間基地ゲート前に座り込んだ住民を力づくで排除しようとする警官と、これに必死に抵抗する住民の姿をリアルに再現してみせた。
 「あんた達は県民の命を守るべきでしょ! アメリカを守るのか!」「なんでこんなことをしてる、ウチナンチュー(沖縄人)は! 県外の人もアメリカ人も何もしてないよ! 沖縄人同士でこんなことをしているだよ!」と訴え叫ぶ住民、うしろめたさに目をそらす沖縄人の若い解警官たち……。その喧騒の中で、車の中から聞こえてくる、もの悲しい沖縄の抵抗の唄「安里屋ユンタ(あさとやユンタ)」を、松元は舞台で見事に歌ってみせた。

サー 君は野中の茨の花か
サーユイユイ
暮れて帰れば ヤレホンニ 引き止める
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

サー 嬉し恥ずかし 浮名を立てて
サーユイユイ
主(ヌシ)は白百合(シラユリ) ヤレホンニ ままならぬ
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

 それは、もう「コメディアン」松元ヒロではなかった。まるでウチナンチューに乗り移ったように、全身で悲しみと怒りを訴えるオキナワの“語り部”の姿だった。「笑い」を求めて来た観客たちの中には、沖縄の現実を懸命に語る、その深刻な松元の“芸”に戸惑った者もいたはずだ。しかしそんな観客も、「これを伝えずにおくものか!」という松元の気迫に圧倒されたに違いない。会場はシーンと静まりかえった。前の席にいた女性の客は目がしらを抑えていた。「笑い」を超えた“感動”が伝わったのだ。

 私のドキュメンタリー映画『“私”を生きる』も、こんなふうに松元ヒロによって語られたのか。そうだったとしたら、映画の作り手として、これ以上の光栄があろうか。

 帰り道、押し黙ったままの私に、連れ合いが「なぜ、黙ってるの? 感想を聞かせて」とせがんだ。しかし私は声を発せられなかった。社会の在り方と自分の生き方、そして自分の“芸”を見事に一体化させた“本物”の芸人を目の当たりにした衝撃と感動に、私は言葉を失っていたのだ。

映画『飯舘村 放射能と帰村』
『飯舘村 ─放射能と帰村─』公式サイト

異国に生きる
『異国に生きる』公式サイト

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