Webコラム

日々の雑感 314:
組織の責任と個人の責任(3)

2014年4月4日(金)

 「日本人の責任の取り方」と考えるとき、私の頭に浮かぶのは、「戦争責任」のことだ。そして真っ先に記憶に蘇ってくるのは、以前に読んだ小熊英二著『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)の中のある記述である。それは戦争中に撃沈された戦艦「武蔵」の乗組員だった元海軍少年兵、渡辺清の日記の紹介だ。

 九死に一生をえて復員した渡辺は、故郷の村で「天皇陛下が処刑される」という噂をきく。渡辺は、「天皇は 米軍に連行される前に、立派に自決することによって、なんびとも侵し難い帝王の帝王たる尊厳を天下にお示しになるだろう」と信じた。「それは『生きて虜囚の辱を受けず』という戦陣訓を教えられ、天皇を『大元帥』と信じてきた彼にとって、それは当然の考えだった」のである。
『〈民主〉と〈愛国〉』の記述はこう続く。
 「渡辺は、自分が乗っていた戦艦『武蔵』が撃沈されたとき、艦長が『操艦の責任』をとて、艦ともに沈んだことを覚えていた。それを思えば、戦いに敗れ国土を占領された大元帥が、『おめおめと生きておられるはずがない』。彼にとって天皇の自決は、『敗北の責任をとる手段といえば、さしずめそれ以外にない。開戦の責任者である以上、そうするのが当然だ』と考えられた」

 そんな渡辺に衝撃を与えたのは、1945年9月30日の新聞に掲載された、天皇がマッカーサーのオフィスを訪問して2人で並ぶ写真だった。渡辺は激怒した。
 「訪ねた先方の相手は、おれたちがついせんだってまで命を的(まと)に戦っていた敵の総司令官である。『出てこいニミッツ・マッカーサー』と歌にまでうたわれていた恨みのマッカーサーである。その男にこっちからわざわざ頭を下げていくなんて、天皇には恥というものがないのか。いくら戦争に敗れたからといって、いや、敗れたからこそ、なおさら毅然としていなくてはらならないのではないか。……」
 「おれは天皇に騙されていたのだ。絶対者として信じていた天皇に裏切られたのだ」

 渡辺は「自分だけが生き残ったことが、やたらむしょうにうしろめたい」と思い、「なにごとにつけ死んだ仲間から『あいつ1人でうまいことをやっていやがらあ……』と思われているようなことはしたくない。おれは在天の戦友に見られている」と考えていた。
 そんな渡辺は、1945年11月、天皇が靖国神社に参拝したというニュースを聞いて、「この世には霊魂は存在しない」と思った。
「なぜなら、『存在しているとすれば、天皇はその霊魂に呪い殺されて、生きていることはできない』はずだったから。彼の考えでは、天皇が自分の名による命令で兵士たちが死んだことを、『もしいささかでも考えていれば、靖国の社前にはとても立てなかったはず』だった」

 さらに渡辺は、1946年元旦に天皇が詔書を出し、みずからが「現人神」であることを否定し、「人間宣言」したときも、「退位の宣言か、あるいは国民と戦死者への謝罪を期待していた渡辺は、これは『とんでもない居直り宣言だ』と受け取った」「とくに彼が激怒したのは、この詔書が、国民の『道義』の低下を嘆いていることだった。渡辺は『戦争の責任もとらずにいる自分のことは棚にあげて、どうしてそんなもっともらしいことが言えるのか』と思った」

 1946年3月、新憲法の草案が新聞に掲載されたとき、天皇を「国民統合の象徴」と規定したその第一条を読んだときの衝撃と怒りを渡辺は日記に書き留めている。
 「これほど節操のない無責任きわまる天皇をどうして国民の『象徴』と言えるのか」「己れの責任をいささかも省みず、かつての敵の司令官につっかい棒をあてがってもらってまで、天皇でありつづようとする天皇」を象徴にするくらいなら、「イワシの頭のほうがまだましだ」
 天皇は為政者たちの「ロボット」だったのであり、そのような天皇に執着するのは誤りだと述べる友人にも渡辺は納得しなかった。「もし天皇が『ロボット』だったら、天皇を信じて死んだ戦友はどうなるのか?」と。

 小熊英二が紹介しているこの渡辺清の日記の中で、現在の「個人の責任を問わない日本社会」の体質の根源の1つを見る思いがしたのは、渡辺の次の言葉である。

 「それにしても情けないのは、あれだけの破滅的な大戦争をしていながら、『それを仕組んだ責任者は自分だ』といって名乗り出る者がいまもって一人もいないということだ。……とにかく偉い人ほど他人にむかって道義の大事を説くが、それがいざ自分のことになると、その不感症ぶりは、まさに白痴にひとしい。まったくひどい話だ。
 だがおそろしいのは、これが国民に与える心理的な影響だろう。わけても天皇のあり方は、『天皇さえ責任者として責任をとらずにすまされるのだから、われわれは何をやっても責任なんてとる必要はない』というようなおそるべき道義のすたれをもたらすのではないか。つまり国ぐるみで、『天皇に右へならえ』ということになってしまうのではないか。おれはそんな予感がしてならない」

 戦争末期、約4000人の若い兵士たちを死に追いやった「特攻」も、それを企画し命令した軍の幹部たちは戦後も処罰されることもなく生き延びた。中国東北部で生体実験など多くの民間人を人体実験で殺害した731部隊の責任者・石井四郎は、戦後のその「実験結果」を米軍に売り渡すことでその罪を逃れた。沖縄では、多くの若い女子たちをひめゆり学徒隊として動員し死に追いやった学校幹部が、戦後、何の責任を問われることなく、東京で家族と平穏に暮らしていた。

 「責任者個人がその責任を逃れ、その責任の所在を組織や国民に帰してぼかし(たとえば敗戦直後、為政者の責任隠蔽のために定着した「一億総懺悔」のように)、ついにはその責任そのものも、なかったことにしてしまう」傾向は、とりわけ戦中・戦後、もはや日本社会の“体質”とさえなっているのではないかと思ってしまうほどだ。
対照的なのは、同じく第二次大戦の敗戦国ドイツの場合だ。最高責任者のヒットラーは自殺し、戦後、ナチスに関わった人物や組織は否定され、処罰されるか消滅させられていく。国旗も変わり、ナチスとその過去の歴史を賞賛する者や組織はドイツ社会から疎んじられ糾弾されると聞く。一方、日本では戦前、政財界の体制とそれを担ってきた人間たちが戦後も権勢を振るい、元A級戦犯が戦後、首相にまでなる。
 日本とドイツのこの違いは、どこから来るのか。キリスト教の倫理観のあるなしに起因するのか、文化や歴史の違いによるのか。渡辺清が指摘するような、「『天皇さえ責任者として責任をとらずにすまされるのだから、われわれは何をやっても責任なんてとる必要はない』というようなおそるべき道義のすたれ」だけで、すべての説明がつくのか。ずっと以前から日本の風土や風習、歴史に起因するもっと根深い、「個人の責任を問わない」“体質”がはぐくまれてきたのだろうか。例えば「狭い場所に多くの人間がひしめき合って暮らす日本社会では“和”が尊重され、“個人の責任”を追及すれば、その“和”が壊されるために、“責任”の所在をぼかし、まるく収めることが美徳とされてきた」といったふうに、だ。
 一方で日本には、海外から、あたかも日本古来の文化であるかのように賞賛される「武士道」がある。毅然とした責任の取り方、“潔さ”を尊ぶその教えは、戦争責任の取り方に象徴される日本社会の現実とは真逆の哲学である。メディアや大衆は、日本の男性スポーツ選手を「サムライ」と呼び、もてはやす。実際の「武士道」とはほとんど無縁の言葉なのだろうが、私には、その「サムライ」が、現実の日本社会にはまったく欠落したその生き方への憧れの一つの表出のようにも聞こえる。

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