Webコラム

日々の雑感 318:
“パレスチナ”と関わるジャーナリストとして

2014年7月26日(土)

 明日27日、パレスチナへ向かう。当初、23日に出発予定で成田空港まで行ったが、テルアビブ空港が閉鎖となり、航空機がテルアビブまで飛べないため、キャンセルになった。そのため27日に延期になったのだ。
 福島取材の続きや10月のラジ・スラーニ氏来日の準備など日本国内でやらなければならないことが山積し、ガザ空爆が始まっても現地に向かうつもりはなかった。しかし7月18日、イスラエル軍の地上侵攻が始まってすぐ、パレスチナ行きを決めた。そこに至る経緯は後述する。
 5年前、1回目のガザ攻撃の時もそうだった。前年の暮れから始まった空爆の様子をBBCニュースなどで追っていたが、1週間後、イスラエル軍の地上侵攻を知り、すぐに現地へ向かうことを決めた。ガザ住民の犠牲者や負傷者が急増することが予想され、長くパレスチナとりわけガザの取材に関わってきたジャーナリストとして、じっと日本で傍観しているわけにはいかなった。その時は、地上侵攻は1週間で終わり、その直後からガザに入って、被害の状況を2週間にわたって取材した。
 帰国後、その結果をNHKの番組、岩波ブックレット、そして世界報道写真展会場での映像上映など発表した。さらに、その直後にイスラエル兵の加害の告白を描いた私のドキュメンタリー映画『沈黙を破る』が公開された。それらが在日イスラエル大使館の眼に止まり、怒りを買ったのだろうか。その後、私はイスラエル政府プレスオフィスからプレスカード発給を拒否され続けている。そのプレスカードがなければ、イスラエル側からガザ地区には入れない。一方、2009年と違ってエジプト新政権とハマスとの険悪な関係にある現在、エジプト側からガザ入りするのも不可能だ。今回、私が当初現地入りを躊躇した理由の1つに「どうせガザには入れないから」という諦念があった。

 そんな私の尻をたたいたのは連れ合いの一言だった。
 「ずっとパレスチナを追ってきたあなたが、こんなパレスチナの非常時に日本にいてもいいの?」
 その言葉は私の胸にグサリと刺さった。それが、ジャーナリストとしての私の姿勢・生き方を問う言葉だったからだ。「ジャーナリストは取材する相手とどう向きあい、関わっていくのか」という根源的な問いである。
 「ジャーナリスト」として組織の中で正規の訓練を受けたこともない私は、パレスチナの現場で、取材や表現の方法やスタイルをまさに手探りで試行錯誤を重ねながら作り上げてきた。そして何よりも私は「抑圧とは何か」「自由とは何か」「家族、社会とは何か」そして「人間の幸せとは何か」など今の私をかたち作っている価値観、思想の基盤を、30年近い年月をかけパレスチナの現場で積み上げてきた気がする。つまり“パレスチナ”は私の“人生の学校”だったのである。
 「この非常時に、ジャーナリストのお前はその“パレスチナ”を見捨てるのか!」
 連れ合いの言葉は、私にはそう聞こえた。

 私にパレスチナへ向かう決意をさせたもう1つのきっかけがあった。
 私と同じように、長くパレスチナを追い続けてきたジャーナリスト仲間、古居みずえさんの言動だった。彼女がパレスチナと関わり始めたのは、第一次インティファーダ(1987~1993年)の初期だった。彼女はパレスチナの人々、とりわけ困難の中で力強く生きる女性たちに魅せられ、難病を抱えながらも、生活の安定を捨ててパレスチナに飛び込んだ。以来、断続的に20数年にわたり取材を続け、写真や文章、そして映像で発表してきた。
 しかし3・11以後、私を含め多くのジャーナリストがそうしたように、国内の緊急時である大震災の被害の実態を取材するため被災地に向かった。彼女は福島とりわけ村を追われた飯舘村の女性たちに的を絞り、ドキュメンタリー映画制作の取材を続けている。彼女は車の運転ができず移動が難しいために、福島市内にアパートの部屋を借り、バスで現場に通っている。他のジャーナリスト仲間が同じようなテーマで次々と映画を作っているなか、なかなか形にできないことに古居さんは焦っているにちがいない。「何年かかるかわからないけど、まあマイペースでこつこつやっていくよ」と私たちに返す言葉は、おそらく焦る自分に言い聞かせる言葉でもあるのだろう。
 古居さんは実に不器用なジャーナリストだ。お金を稼ぐために、いろいろなテーマを器用にこなす一部のジャーナリストとは違い、自分が決めたテーマを追い始めると、他のことに右顧左眄(うこさべん)せず、ひたすら時間をかけてそのテーマを追う。だから、お金儲けが実に下手である。しかも60代半ばになって難病治療の副作用も少しずつ深刻化している。経済的な不安と健康への不安、そして将来への不安も抱えながら、それでも古居さんは自分が決めたテーマをひたすら追い続ける。
 そんな古居さんが、7月初旬、ガザ攻撃が始まるとすぐ、「パレスチナへ行く」と言い出した。福島の取材も思うように進まず焦っているだろうし、何よりも経済的に苦しいはずの彼女はどうやってパレスチナ取材のための多額の費用を調達するつもりなのか。私は心配になり、そのことを問うと、彼女は事もなげに言った。
 「借金してでも行く。だって、ガザの人たちのことが心配で、福島にいても仕事が手につかないんだもん」
 その言葉には、「センセーションナルな事件だから、行って取材すれば、写真や映像が売れて金になる」という打算の匂いはまったくなかった。ただ一途に、自分がかつて取材し関わったガザの人たちの安否が心配でならず、じっとしていられないのだ。
 私は自分が失いかけている“パレスチナと関わり続ける原点”を古居さんのこの言葉に突きつけられ、横っ面をひっぱたかれる思いがした。「どうせ現地に行っても、ガザには入れず取材もできないのだから、かける時間と費用が無駄になる」という打算が私の意識のどこかにあった。ガザ攻撃突発のニュースに接したとき、私の脳裏に「爆撃や砲撃に殺され傷つき、住処を追われ生活の基盤を破壊され、途方にくれるガザの知人たちの顔」が真っ先には思い浮かんでこなかった。私はジャーナリストとして、そして何よりも人間として、何か大切なものを失いかけている。
 私は「今自分はパレスチナへ行かなければ」と思った。私が失いかけている“ジャーナリストを志した原点”、そして“人間として感性”を取り戻すためにだ。

(写真:2009年ガザ攻撃で父親を目の前で射殺され自らも爆弾破片が頭部に残ったままのアマル[当時8歳])

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