Webコラム

日々の雑感 321:
「朝日新聞 第三者委員会報告書」を読んで(2)

「朝日新聞 第三者委員会報告書」を読んで(1) からの続き)

2014年12月25日(木)

 「第三者委員会」の7人の委員の中で、岡本行夫氏よりさらに明確に「政権の“代弁者”」の論調を「個別意見」で展開しているのが北岡伸一氏である。
 北岡氏のスタンス、歴史認識の程度がはっきりと見えるのは、「慰安婦報道」とはまったく無関係の「百人切り」問題を持ち出して、「少し考えれば疑わしい話なのに、そのまま報道され、相当広く信じられてしまった」と書いている部分だ。
 「百人切り」問題とは、1971年に本多勝一記者(当時)が朝日新聞に連載した「中国の旅」に出てくる事件である。日中戦争の初期、旧日本軍将校の野田毅少尉と向井敏明少尉が、南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人斬るかを競ったとされる「百人斬り競争」として当時、前線勇士の武勇談として賞賛され、当時の「東京日々新聞」を初め複数の新聞で紹介された。
 この本多記者の記事に対し、イザヤ・ベンダサン(山本七平)氏や鈴木明氏らが「虚報」と主張し、2003年には当事者たちの遺族が「名誉毀損」にあたるとして本多氏らを提訴した。裁判の結果、2006年12月、最高裁においても上告が棄却され、原告側の敗訴が確定した。つまり「百人斬り競争」は事実と最高裁も認定したのである。
 それを北岡氏は「少し考えれば疑わしい話なのに、そのまま報道され、相当広く信じられてしまった」と書くのである。きちんと資料を調べ検証もせずに、自分の主張に近い加害歴史否定論者の主張を鵜呑みにして、事実に反する私見を数百万の読者を持つ大新聞での「報告書」の中に堂々と書いてしまう時点で、この人の「学者」「研究者」として資質の程度が透けて見えてくる。
 また、北岡氏は朝日新聞の論調を「物事をもっぱら政府対人民の図式で考える傾向」があると指摘し、「権力は制約すればよいというものではない。権力の行使をがんじがらめにすれば、緊急事態における対応も不十分となる恐れがあると、対立する他国を利して、国民が不利益を受けることもある。権力批判だけでは困るのである」と言う。まさに権力側、現在の最高権力者・安倍首相の言い分の“代弁”である。
 北岡氏は頭に「権力に対する監視は、メディアのもっとも重大な役割である」と建前を書いたその直後に、「国益」を大義名分にそのメディアの本来の役割を否定する。「国民が不利益を受ける」のが目先の視点からか、長期的な視点からかも言及もせず、「権力の行使をがんじがらめにする」「緊急事態における対応」を「不十分」にしてしまう弊害と切ってしまう。実に権力側に都合のいい言い分である。それなら、「権力を監視するメディア」の役割を憲法で保障し、ある程度実行されているアメリカでは、メディアは「権力の行使をがんじがらめ」にして「緊急事態における対応も不十分」にしているのか。ベトナム戦争時のペンタゴン・ペーパーの暴露、ウォーターゲイト事件の暴露によって、長期的に「国民が不利益を受ける」ことになったのか。

 また北岡氏はこうも書いている。

 「被害者によりそい、徹底的な正義の実現を主張するだけでは不十分である。現在の日本国民の大部分は戦後生まれであって、こういう問題に直接責任を負うべき立場にない。日本に対する過剰な非難は、彼らの反発を招くことなる。こうした言説は韓国の期待を膨らませた。その結果、韓国大統領が、世界の首脳に対し、日本の非を鳴らすという、異例の行動に出ることになった。
 さらに日本の一部の反発を招き反韓、嫌韓の言説の横行を招いた。こうした偏狭なナショナリズムの台頭も、日韓の和解の困難化も、春秋の筆法を以てすれば、朝日新聞の慰安婦報道がもたらしたものである。かつてベルサイユ条約の過酷な対独賠償要求がナチスの台頭をもたらしたように、過剰な正義の追求は、ときに危険である。正義の追求と同時に、日韓の歴史和解を視野にいれたバランスのとれたアプローチが必要だった」

 北岡氏のこの文章を読んだ時、私は以前読んだドイツのヴァイツゼッカー元大統領の演説を思い出し、同じ敗戦国の「識者」でありながら、その歴史認識のあまりの違いに驚いてしまう。
 北岡氏は「国民の大部分は戦後生まれであって、こういう問題に直接責任を負うべき立場にない。日本に対する過剰な非難は、彼らの反発を招くことなる」と言う。
 一方、ヴァイツゼッカー氏は「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」「若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります」(永井清彦訳『荒れ野の40年』(岩波ブックレット・1986年)より/以下同様)と語っている。
 また北岡氏は「日本に対する過剰な非難は、彼らの反発を招くことなる。こうした言説は韓国の期待を膨らませた」「さらに日本の一部の反発を招き反韓、嫌韓の言説の横行を招いた。こうした偏狭なナショナリズムの台頭も、日韓の和解の困難化も、春秋の筆法を以てすれば、朝日新聞の慰安婦報道がもたらしたものである」「国家補償が最善であるという立場には、疑問もある。すべてを国家の責任にすると、その間の違法行為に従事し、不当な利益を得ていたブローカー等の責任が見逃されることにつながらないだろう」という。
 他方、ヴァイツゼッカー氏は「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」「他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題のなかから、平和への能力、そして内外との心からの和解への覚悟が育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです」

 同じく「識者」と呼ばれる両者のこの違いはいったいどこから来るのだろうか。自国の加害歴史ときちんと向き合ってきた国民と、戦後70年経ってもそれが出来ないでいる国民との国民性の差? それとも「識者」としての見識・思想・哲学の深さの差? もっといえばヴァイツゼッカー氏の言う“人間としての力”の差?
 この北岡氏の「個別意見」が英訳され、欧米はじめ世界に公開されたらどういう反応が返ってくるだろうか。ましてや「政治学者」「東大名誉教授」「国連次席大使」などの肩書きと共に公開されたら。

 このような人物を朝日新聞はなぜ「第三者委員会」委員に選んだのか、私には不可解でならない。もっと適切で見識の深い「識者」は他にもいくらでもいるはずなのに。その疑問を大学教授のある知人にぶつけたら、彼は「朝日新聞は、政府寄りの人を委員に入れて、政府にいい顔をしたかったのでしょう」と即答した。やはり安倍政権の機嫌をとらないと、朝日新聞は権力側に潰されるという危機感があったのだろうか。

 私が一番懸念するのは、この「慰安婦」報道批判に象徴される官民一体となった「朝日新聞たたき」によって、「朝日新聞」が萎縮し、「無難な報道」に終始するようになることだ。「最近の朝日はおもしろくない」と周囲からよく聞く。つまり数百万の購読者数を維持するために、「誰にもでも受け入れられる無難な記事」が増え「朝日の主張」が影をひそめてきたというのだ。それは最近の「朝日新聞たたき」でいっそう加速することが予想される。
 しかし、私は「東京新聞」のように、もっと主張に「角度」をつけた方がいいと思う。「角度」をつけ過ぎたら、読者が離れ数百万の購読者数を維持できなくなると新聞社の経営陣は心配しているのかもしれない。しかしあれほど「角度」のついた古館「報道ステーション」が、毎日10数パーセントの視聴率を維持している現状を経営陣はもっと直視してきちんと分析する必要があると思う。もちろん権力側・右派勢力からは厳しい批判もあるだろう。しかしだからこそ「負けるな! がんばれ!」と声援を送る視聴者・国民は少ないはずだ。それが10数パーセントの視聴率として端的に現れている。それは「中立」ぶって、ほとんど意味もない無難なコメントでニュースを締める大越「ニュースウォッチ9」より、視聴者ははるかに注目している証左だ。つまり「国営放送か」と見紛うほどに政権べったりのニュース選びをするあの姑息なNHKニュース番組より、多くの国民は古館「報道ステーション」の方がよっぽど健全なジャーナリズムを体現しているとみなし、それを求め期待し、支持しているのだ。

 朝日新聞は、「視点・主張を曖昧にすれば、読者層の幅が広がるのでは」と国民大衆をあなどらない方がいい。朝日新聞はかつての「朝日」でいいのだ。「朝日」が会社存続のために権力側の機嫌をうかがい、擦り寄り、独自の視点・主張を弱めるとき、「朝日」は死ぬ。その時、権力は今よりもさらに暴走の足を早め、もう誰も止められなくなる。戦前・戦中時と同じ轍を踏んではいけない。今こそ、「朝日」の踏ん張りどころだ。がんばれ、「朝日」!

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