Webコラム

日々の雑感 323:
写真家・安世鴻氏の仕事

2015年1月月1日(木)


(撮影:安世鴻/2014年8月末に東ティモールにて)

 大晦日、名古屋市内で、韓国人の写真家・安世鴻(アン・セホン)さんとその家族、奥さんの李史織さん、そして6歳になったヨンスちゃんに会った。日本語が不自由な安さんのために、在日で日本語と韓国語のバイリンガルである史織さんが通訳の役も担っている。
 安さんは2001年から中国に残されている朝鮮人日本軍「慰安婦」のハルモニたちを撮り続けて発表してきた。2012年には予定していたニコン・サロンでの写真展が右翼の圧力で一時中止に追い込まれたが、安さんは裁判所に訴えニコン側に写真展の開催を認めさせた。その後も、表現の自由を奪おうとしたニコン側を提訴し、その裁判は今も続いている。
 2003年11月には、安さんは韓国、中国、日本の有志たちに、貧困と孤独に苦しむ朝鮮人の元日本軍「慰安婦」たちの貧弱な家を修理する活動を呼びかけた。その動機を報告書の中に安さんはこう書いている。

「いつも写真を撮りながらどうすればハルモニたちの力になる事ができるか悩んできた。写真家として他国の地に捨てられたその存在を多くの人に知ってもらう道が最善だと思った。しかし時間が経つにつれて、ハルモニたちに実質的な助けが必要だと気付いた。昨年3人の方に会い、次第にひどくなっていく生活を見ながら、写真家としての役割の限界を再び考えるようになったのだ」

「どんなことをしてもハルモニたちの痛み、傷はいやされることはない。問題解決に力を注ぐと同時に、ハルモニたちが残された余生を良い環境にて元気で暮らし、家族を思う寂しさから解放されること。他国に残された被害者たちに対してできることはそれだけだ」

 安さんが呼びかけたこのプロジェクトに日本、韓国、中国から25人の参加者が集まり、70人のスポンサーが支援した。

 昨夏には安さんは新たなに東南アジアへの取材の旅に出た。インドネシア、フィリピン、東ティモールに今も生存する元日本軍「慰安婦」たちを訪ね歩き、記録を残すためである。大晦日の名古屋で、私はその老女たちのポートレートを見せてもらった。もう80歳を超えた彼女たちの顔には深い皺が刻まれるが、憂いに満ちた、突き刺すような鋭い眼が私の心を射抜いた。日本の加害歴史の被害者たちの記録を残す作業は本来、加害国の日本のジャーナリストがやるべき仕事である。それを、被害国の1つ・韓国の写真家が多くの時間と私費を投じて、各国を歩き回って当事者たちを探し出し、写真に記録し続けている。
 今回、安さんは写真だけではなく、映像でも彼女たちの証言を記録した。だが、それぞれの地域の言葉を翻訳する作業は長い時間と多くの費用を必要とし、安さん独りの力ではなかなか進まない。それでも彼女たちの存在を1日も早く日本人に知らせたいと、昨年秋、十分な説明パネル作成も間に合わないまま、安さんは私費を投じて地元の名古屋市内の小さなギャラリーを借り、写真展を開いた。2週間の週末6日間だけの開催だったが約300人が訪れた。しかし中には「招かざる客」もいた。写真展を妨害するために、右翼グループ20人ほどが会場に押しかけ、他の客が入れないように狭いギャラリーを埋め尽くしたのだ。そんな妨害にも安さんと妻の史織さんが2人で立ち向かった。
 この安さんの、ほとんど見返りのない、ただ信念に支えられた仕事に、私たち日本人は他人事のようにただ看過しているだけでいいのか。
 せめて、安さんのこれら貴重な仕事を日本社会に広めていくためにサポートすることは我われ日本人の責務ではないのか。
 まず、安さんが収録したインタビューを日本語と英語に翻訳するための人材(各国からの留学生か研究者、プロの翻訳家など)を探し翻訳費用を集めること、また発表の場(メディアや写真展会場など)を探すこと、さらに安さんの今後の取材活動を支える資金集めをすること、などである。

 単に「取材し、発表する」だけではなく、取材させてもらった人たちの「痛み、傷」を癒すために何をすべきかと悩み、考え、行動を起こす。安世鴻という写真家の生き方に、私自身が“表現者”“伝え手”としての基本的な姿勢を問われている気がする。

【関連サイト】
重重プロジェクト
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