Webコラム

日々の雑感 325:
「表現の自由」に名を借りた“暴力”
(フランス「シャルリー・エブド」襲撃事件)

2015年1月9日(金)


(写真:テレビ報道・報道ステーション 2015年1月8日)

 「またか……」と暗澹とした気分に襲われた。1月7日の夜、テレビが、フランスで新聞社「シャルリー・エブド」を自動小銃を持った2人組の男たちが襲撃し編集長ら10人(後に12人と修正)を射殺して逃亡中と速報を流した。男たちは「(イスラム教の)預言者(ムハンマド)の復讐だ」「神は偉大なり」と叫んでいたと伝え、犯人たちが「イスラム過激派」である可能性が高いという。昨年4月、ナイジェリアで学生寮を襲撃し女子生徒240人を拉致した「ボコ・ハラム」、12月にはパキスタン北部で学校を襲撃し百数十人の生徒たちを殺害した「パキスタン・タリバン運動」、そして、シリア、イラクの「イスラム国」……。これら「イスラム過激派」による残忍なテロ行為の被害は直接の犠牲者たちに留まらない。最も深刻な被害を受けるのは、世界全体の4分の1弱を占める15.7億人の一般のイスラム教徒たちである。世界各地で次々と起こる「イスラム過激派」による事件によって、世界中に「イスラモフォビア(イスラム恐怖症)」「反イスラム感情」が広がり、イスラム教徒への偏見と差別、憎悪が世界中でいっそう増幅されていくからだ。


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(同記事ネット版:パリの新聞社襲撃、12人死亡 イスラム教風刺で物議

 今回の事件直後、12人の犠牲者の追悼のためにフランス全土で10万人が集まり、「私はシャルリー」というプラカードを掲げ、「事件は表現の自由への挑戦」などと怒りの声を上げたとメディアは伝えた。その声はフランスに留まらず、世界各地で広がっている。一方、各国の首脳たちも、追悼と非難の声を上げた。英国のキャメロン首相は「我が国はフランス国民と連帯し、あらゆるテロに反対し、言論の自由と民主主義を全面的に支持する」と演説し、ドイツのメルケル首相も「このおぞましい行為は言論と報道の自由への攻撃でもある」との声明を出した。日本の安倍首相も「言論、報道の自由に対するテロだ。いかなる理由であれ、卑劣なテロは決して許すことができない」と語っている(「特定秘密保護法」の強行で、国内の「言論、報道の自由」を脅かしている当事者のこの発言はパロディーのようにも聞こえるのだが)。
 しかしこの事件に関する世界中のメディア、為政者たち、そして「識者」たちの「言論の自由を守れ!」論調の嵐に、私は事件当初からずっと違和感を抱き続けている。それは今回の事件の発端となった新聞社「シャルリー・エブド」の「表現」への疑問である。事件を糾弾する声が世界中で高まる一方、「なぜその『表現』は攻撃されたのか」という疑問を深く分析し考察する報道がほとんど見当たらないからだ。いやあるのかも知れないが、「言論の自由を守れ!」の声にかき消されてしまって聞こえないのだ。「もしかしたら、欧米や日本の報道の中で、それは意図的に避けられているのでは……」といぶかってしまうほどだ。

 言うまでもなく、襲撃犯たちの残忍な殺害は、許せないし糾弾されなければならない。それは大前提だ。その上で、私には、どうしても消せない疑問が残るのだ。そして世界中に「言論の自由を守れ!」の声が大きくなるにつれ、私の疑問は次第に増幅していく。それはあの「シャルリー・エブド」の「表現」は、ほんとうに「守れ!」と叫ぶべき「言論」だったのかという疑問である。私は、「朝鮮人を殺せ!」と公然と叫ぶ「在特会」(在日特権を許さない市民の会)が、それを非難する声に「表現の自由だ」と反論する姿を思い起こしてしまうのである。その疑問をコラムに書かなければと準備している時に、私が言いたかったことを、すでに見事に表現している文章をみつけた。高林敏之氏(西サハラ問題研究室主宰・早稲田大学理工学術院非常勤講師)のブログである。
 高林氏は、「シャルリー・エブド」の「表現」についてこう書いている。

「エジプトの殺戮:クルアーン、それは糞」と表題に掲げ、敬虔なイスラーム教徒の姿の男性がクルアーンを盾にするも銃弾で打ち抜かれる絵に「それは銃弾を食い止めない」と記している。(編注:「クルアーン」=「コーラン」)
 この絵を表紙にした号は2013年7月に発行されている。つまりエジプトでシーシー将軍らがクーデタを起こしてムスリム同胞団系のモルシー政権を打倒、これに対するムスリム同胞団系の抗議運動が武力により一掃された時期に発行されたものだ。この絵はイスラーム教の聖典を最悪の表現で侮辱するとともに、弾圧の犠牲となったムスリム同胞団支持者の死を悼むどころか、その信仰・信念を揶揄するものとしか受け取れない、極めて挑発的な内容である。
 この諷刺画をめぐって、在仏ムスリム団体が昨年、裁判所に告発するなど物議を醸したものである。
 (International Business Times: France Satirical Mag Charlie Hebdo Sued by Islamists for 'Blasphemy'
 右は2012年9月の号に掲載され、やはり物議を醸したもの。「マホメット:星が生まれる」とあるが、これまたムスリムが信奉する預言者に対する下品極まりない侮辱である。
 (Eurobeats: CHARLIE HEBDO: OOPS I DID IT AGAIN!
 朝日新聞の記事によると「これまでも、ムハンマドを女性に見立てた半裸のイラストを掲載するなどし、イスラム団体などに激しく批判されてきた」らしい。
 (朝日新聞: パリの新聞社襲撃、12人死亡 イスラム教風刺で物議
 charlie hebdoを検索すると多数の諷刺画の画像を見ることができるのだが、諷刺対象は幅広く、必ずしもムスリムだけをターゲットにしているわけではない。
 しかし、それにしてもこれは酷すぎる。ムスリムにとって精神的拠り所であり身命にも等しい聖典と預言者に対する最大級の侮辱であり、ヘイトスピーチ、イスラーモフォビアそのものだ。しかも、何度批判されても繰り返し同種の絵を掲載するのだから、明らかに確信的に挑発しているのだ。騒ぎになるたびに「表現の自由」だと擁護してくれる者たちが多く、新聞自体も注目を集めると踏んでいるから、こういう挑発を平然とできるわけである。

 これは酷すぎる。いかなる理由があれテロ殺人自体は許されないとはいえ、この新聞社を「表現の自由のために闘った犠牲者」のように持ち上げることには全く賛成できない。遺憾な事件だが、とても追悼する気にはなれない。

 高林氏はさらにこう続けている。

 オランド仏大統領は事件を「表現の自由への攻撃」「野蛮なテロ行為」であると非難し、「フランスは団結した国だと示さねばならない」と呼びかけたのだそうだ。
 この事件は例えるなら、「朝鮮人を殺せ」「汚鮮」「慰安婦は売春婦」などというヘイトスピーチを繰り返す在特会に対し、警察や司法が何らの措置もとらない(日本など京都朝鮮学校襲撃事件の有罪判決が出たのがまだ救いだが)ことに絶望した在日コリアンの誰かが、思い余って在特会の事務所を襲撃し幹部らを殺すようなものだ。
 もし本当にこんな事件が起こったなら、殺人を起こしたこと自体はしかるべき裁きを受けねばなるまいが、その心情は充分に理解可能だし、ましてや在特のヘイトスピーチと差別主義が免罪されるわけはない。それを「表現の自由」「集会・結社の自由」に対する「野蛮なテロ攻撃」だから、これに反対して「日本は団結した国だと示さねばならない」などと首相が言い出すようなら、在特のようなレイシスト集団はやりたい放題だ。
 オランドの発言はまさにそれと同じである。彼はフランス国民にいかなる「団結」を呼びかけているのか? イスラーム教を侮辱し、ムスリムを傷つけ、それに対するムスリムの抗議を排斥するための「団結」なのだろうか?
 かつて物議を醸した、ムハンマド(マホメット)をテロリストに例えたデンマークの諷刺画事件もそうだったが、欧州ではイスラーモフォビアが「表現の自由」「言論の自由」の名のもとに擁護され野放しにされる傾向が日増しに強まっているばかりか、イスラーモフォビアを公然と掲げる右翼政党が議会で大きく躍進する例すら増えている。
 キリスト教国が「神の福音」の名のもとにアメリカ大陸、アフリカ、アジアへの侵略・植民地化を進めた歴史があるからといって、例えばイラク戦争やアフガニスタン戦争の諷刺としてイエス・キリストを殺人者に例える諷刺画が作られたとしたら(実際、イエスが殺人者なのではない)、あるいはイエスが全裸で尻を突きだしている絵が描かれたとしたら、はたまた「聖書は糞」などと呼ばれたとしたら、キリスト教徒はそれを「表現の自由」だといって擁護できるのだろうか?
 自らの問題に置き換えて想像することが必要ではないのだろうか(われら日本人も然り)。
 「言論へのテロの問題」として単純化せず、欧州にはびこる(そして日本にも影響を与えつつある)「イスラーモフォビアの問題」として、この事件を真摯にとらえるべきだ。

(*)断っておくが、一般的なムスリムはかかるテロを正当化しない。実際、エジプトのイスラーム教学の権威アズハルのように、今回のテロを批判する声明も出ているし、大半のイスラーム法学者は同様の立場をとるだろう。
 (47ニュース: イスラム権威が銃撃事件非難 「いかなる暴力も拒絶」
 イスラーム協力機構(OIC)事務局も、今回のテロ事件を非難し、遺族に弔意を示す声明を発した。「暴力と急進主義はイスラームの最大の敵である」と、この声明は述べている。
 (OICウェブサイト: OIC Strongly Condemns the Terrorist Attack on Charlie Hebdo, France
 「イスラーム教を攻撃したらムスリムはテロに走る」という悪しき思い込みが広がることが心配だし、そういう危険をもたらしたことが、今回の襲撃者の最も非難されるべき点だと思う。
 ただし、そのことはムスリムが侮辱的な諷刺画を容認しているということを意味するものではない。ムスリムの忍耐に甘えてイスラーモフォビアを野放しにしてはいけない。在日コリアンが実際にテロに走ることがないからといって、在特のようなヘイトクライムを野放しにする甘えが許されないのと同じだ。
(以上、https://www.facebook.com/takabayashi.toshiyuki/posts/10205718303861457?pnref=story

 死者に鞭打つのも何だとは思うが、あんなイスラーモフォビアに満ちた諷刺画を繰り返し掲載してきた人物を「タブーに果敢に挑もうとする姿勢」だと評価するのなら、在特会前会長の桜井誠だって「在日特権」なる「タブーに果敢に挑んだ」と賞賛されてしまうことになる。敵意を煽る悪質な煽動者だというのが公平な見方だろう。
 フランスでは10万人もの人々が「表現の自由を」と抗議デモをしたという。非道なテロの帰結とはいえ、イスラームに対するヘイトスピーチの自由を10万人もの人々が公然と要求したと思うと、目眩がしそうだ。
 板挟みの立場に置かれたフランス在住ムスリムらの恐怖はいかばかりだろうか?
 「拉致」「核実験」「ミサイル発射」を行う「北朝鮮」は許せないとの世論に乗っかって、在日朝鮮人や朝鮮学校に向けられた激しいバッシングと、まさしく相似形というべき現象だ。
(以上、https://www.facebook.com/takabayashi.toshiyuki/posts/10205730441404888

 事件発生以来、これに関する報道を国内の新聞、テレビニュース、そしてBBCなど海外のメディアで注視してきたが、高林氏のように「シャルリー・エブド」の「表現」に疑問を投げかけたのは、私が見た限り、1月8日の「報道ステーション」などほんの一部のメディアだけだった。

 私は長い中東取材の中で、たくさんのパレスチナ人やイラク人の敬虔なイスラム教徒を見てきた。彼らにとって、イスラム教とは生活、人生そのものだ。その聖典である「コーラン(クルアーン)」や預言者モハマド(ムハンマド)が彼らにとって「精神的拠り所であり身命にも等しい」(高林氏)存在なのである。さらにアラブ人は、名誉・尊厳を最も大切にする文化をもった人たちで、そのためなら命さえ投げ出す。そんな彼らが生きる指針とするイスラム教を冒涜することは、彼らの人間としての尊厳と存在そのものを踏みにじることである。それを許すことが「表現の自由」なのか。
 「朝日新聞」の冨永格・特別編集員は1月9日朝刊に「フランスのカリカチュール(風刺)は、17世紀の喜劇作家モリエール以来の伝統といえる。19世紀以降は活字メディアを中心に、常に文化の一角を占めてきた」と書き、パリ大学の教授に「風刺はフランス大衆に受け入れられてきた。あらゆる権力や不寛容と闘い、表現の自由の限界に挑み続けてきたジャーナリズムなのだ」と語らせている。では、イスラム教徒の尊厳・人間の尊厳を踏みにじるような行為は、フランスの「伝統」であり「ジャーナリズム」として許されるのか。欧米の文化や価値観に染まりきり、非欧米世界の文化や視点、価値観にこれほど無神経な「エリート記者」の記事より、「東京新聞」(1月9日版)で紹介している日本人イスラム教徒の下山茂氏の「風刺というのは弱い立場の人が権力者をからかうもの。そうでない人を傷つけたり、おとしめたりするのは、パロディと言えないのでは」という言葉の方がよほど核心をついている。

 今回の事件もまた、世界に、イスラム教とそのイスラム教徒たちへの差別意識や恐怖心、憎悪の感情を増幅させるだろうし、その「イスラモフォビア」を世界に広げるために利用しようとする個人や組織を活気づかせるだろう。実際、事件直後からフランス内外でイスラム教徒やモスクへの襲撃が頻発している。
 また政治指導者たちの中には、己の政策推進のために、欧米社会で起こったこの事件(アフリカやパキスタンでの事件より、欧米で起こったこの事件は比較にならないほどその衝撃度が大きい)を利用する者も出てくることは間違いない。
 イスラエルのネタニヤフ首相はその典型だ。この事件直後にネタニヤフ氏は「急進的なイスラム教徒による攻撃には国境などない。テロリストは私たちの自由と文明を破壊したがっている」と語った。氏は暗に、今回の事件を起こした「イスラム過激派」とガザ地区のハマスをダブらせて、改めて「(このイスラム過激派のように)ハマスが私たちの自由と文明を破壊したがっている」と世界に訴えようとしていることは明らかだ。国際社会でハマスを「危険なイスラム過激派」と同一視させる手法はイスラエルの政治指導者たちの常套手段だ。
 実際、ネタニヤフ氏は昨年9月、国連総会でこう発言している。
 「ISIS(イスラム国)とハマスは同じ狂信者たちだ。ハマスはISIS(イスラム国)。ISIS(イスラム国)はハマス。(ハマスを擁護する)国連人権理事会はテロリスト理事会となった」
 氏は、ハマスがISISと違い、住民の抵抗運動の中から生まれ、住民の強い支持があり、民主的な選挙で選ばれた組織であることは無視する。また2009年8月にアルカイダ系の組織「神の兵士」がラファで「イスラム国」を宣言したとき、ハマスがこれを武装制圧し、自分たちとアルカイダ系の組織とは全く異質であることを内外に示したことも見ようとはしない。皮肉なことに、もしハマスの存在がなければ、ガザ地区はシリアやイラクのようにアルカイダ系の過激なイスラム組織が群雄割拠しかねず、イスラエルにとってさらに危険な状態になり、ハマスがそういう状況を食い止める“重し”になっている。その現実も見ないふりをするのだ。
 このように突出した一部の「イスラム過激派」を他のイスラム組織や一般のイスラム教徒全体と同一視させるやり方で、「イスラモフォビア」が世界に喧伝され増幅されていく。それは今回のような事件を目の当たりにした私たち日本人の中にも無意識に浸透していきつつある。大半のメディア報道の中にそれは象徴的に表れている。しかも「表現の自由を守る」という大義名分があれば、それは正当化され、私たちは後ろめたさも罪の意識も感じずにすむ。しかし十数億人のイスラム教徒にとっては、それは紛れもなく、自分たちの尊厳と存在を脅かす“暴力”なのである。

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